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坂本義教
著者:坂本義教(さかもとよしのり)
長年、医学、薬学関係の論文や科学史を専門に翻訳業を営んでいます。仕事柄、医学史に名を残す人物の経歴を目にします。そこには「えっ!」と思わせる意外な事実やエピソードが隠されています。自分一人の胸にしまっておくのももったいないと、あまり取り上げられることのない医師達の素顔を紹介しようと思い立ちました。収録しきれなかった興味深い事実がまだ多数あります。これからも掘り起こしていきたいと思っています。
コラム/健康・医療

Dr.医師 医学のトリビア大全(1)

[連載 | 完結済 | 全17話] 目次へ
医学史に名を残す医師といえども、世間を賑わすような話題・スキャンダルには事欠きません。そうした医師達の人間臭いエピソードを寄せ集め、気軽に読むことのできる雑学本としてまとめました。凡夫としか言いようのない振る舞いに及んだ医師もいれば、崇高な理念に向かって邁進した、あるいは邁進し過ぎた医師もいます。彼らから「無用の知識を得る」ことの楽しさを知って頂ければ幸いです。
■緒言
 医学史に名を残す医師といえども、人間である以上は、マスメディアを賑わすような話題・スキャンダルには事欠かない。そうした医師達の人間臭いエピソードを寄せ集め、気軽に読むことのできる雑学本としてまとめた。凡夫としか言いようのない振る舞いに及んだ医師もいれば、崇高な理念に向かって邁進した、あるいは邁進し過ぎた医師もいる。彼らから「無用の知識を得る」ことの楽しさを知って頂ければ幸いである。お互いに無関係なように見えるが、ある一つの事績から意外な繋がりが垣間見えて興味深いのである。

1.アオカビを取り巻く人々
 人類を多くの病から救った奇跡の薬が抗生物質であり、その代表格がペニシリンである。発見者はアレキサンダー・フレミング(1881〜1955)である。ある時フレミングは、細菌(化膿菌)のプレートを培養していた。ところがその1つがアオカビの胞子に汚染され、実験は失敗。しかし彼は奇妙な事実に気づく。アオカビが成長するにつれ、周辺にある細菌のコロニーは死滅してしまったのである。彼はこのアオカビに由来する物質をペニシリンと命名。1929年6月、ペニシリンに関する最初の論文を発表した。彼の興奮とは裏腹にこの実験結果が世間の耳目を集めることはほとんどなかった。最大の理由は、おそらく、誰にも純粋なペニシリンを作ることができなかったからだろう。発見から10年後、ペニシリンは完全に過去の遺物と化した。
 ペニシリンが表舞台から姿を消してから約10年後の1938年、オックスフォード大学にいた2人の研究者ハワード・フローリー(オーストラリア系の英国人病理学者、1898〜1968)とエルンスト・チェーン(ドイツ系の英国人生化学者、1906〜1979)がフレミングのレポートを読んだことから事態は急展開を迎える(このあたりの事情は、メンデルの法則の再発見とよく似ている)。2人は苦労を重ねた結果、なんとか必要量のペニシリンを抽出。僅かスプーン一杯分の純粋なペニシリンを確保するために、2年もの歳月を費やした。患者第一号は、血液中に細菌が侵入したため、医師から見放された若者である。3時間ごとに投与したところ、翌日には好転。2日後、病院の医師から「もう1週間もペニシリン治療を受ければ大丈夫」と言われるところまで回復。ところが命綱のペニシリンは底をつき、結局この患者は亡くなってしまう。その後2人は再びペニシリンの抽出に励み、第2の患者に投与。だがまたしても、完治する前にペニシリン切れとなる。そして遂に1941年5月、第3の重病患者(48歳)にペニシリンを7日間投与したところ、患者は全快の運びとなった。ここにペニシリン実用化の道が開けたのである。1945年、ペニシリンの発見者であるフレミング、実用化への道を開いたフローリーとチェーンにノーベル生理医学賞が授与された。

[コラム1]
 フレミングはひどい風邪を引いたため、鼻汁を培養する準備をしていた。その時、培養物中に泪が落ちたことも知っていたが、放置していた。その結果、細菌の細胞膜を破壊し、生体を防御する働きがあるリゾチームを発見した。実験手技はさほど良くなかった人物だが、医学史に残る大発見をしたことは皮肉なことである。フレミングが酒好きだったかどうかは不明だが、次のような言葉を残している。「寝る前にホットウィスキーをぐっと一口、さほど科学的ではないが助かる」。

[コラム2]
 ペニシリン=アオカビという図式であるが、1973年、遠藤章らによりアオカビからコンパクチンが発見され、現在は血中コレステロールを下げるスタチンとして薬品化され、医療現場で活用されている。


2.アジソン病とアジソンと名付け親
 筋力低下、低血圧、皮膚の色素沈着(褐色化)はアジソン病の主な特徴である。ガイ病院に勤めるトーマス・アジソン(1793〜1860)が、副腎の機能不全のために生じることを初めて発見した。この疾患は彼に因みアジソン病と呼ばれるが、命名者はパリの医師アルマンド・トルソー(Armand Trousseau、1801〜1867)である。晩年、アジソンは重篤な鬱病となり、1860年6月29日、自殺した。

[コラム]
 何か尖った物で皮膚を擦ると赤色の線が生じる。これは上記のアルマンド・トルソーに因み、トルソー斑と呼ばれる。


3.頭とスプーンは使いよう
 リチャード・ブライト(1789〜1858)は、ガイ病院に勤務していたイングランドの医師、病理学者であり、「ブライト病」(蛋白尿と浮腫を伴う腎炎)にその名を残している。ブライトが登場するまで、腎炎の状態についてわかっていることはほとんどなかった。ブライトは関連する原理を詳しく説き、臨床所見と腎臓病で亡くなった患者を剖検し、腎臓の様子を関連づけたのである。
 ブライト病では、尿中に蛋白質が排泄されるが、それを検出するための道具は、ブライトの場合、スプーンであった。ブライトの言葉を借りれば、「アルブミンを検出する最も手っ取り早い手段の一つは、少量の尿をスプーンに乗せ、蝋燭の炎にかざし、加熱することである。アルブミンが存在するなら、尿は沸点に達する前に不透明となる。時にはスプーンの端で乳状の外観を呈することもある。尿は中央部で接触するまで内向きに広がり、壊れて白色の凝乳となる」というのである。
 なおガイ病院は、1721年、書籍商トマス・ガイにより着工が始まり、100床、スタッフ51名を擁する病院として1726年に完成した。スタッフには、執事やトコジラミ(=南京虫)の駆除係りもいた。
 ブライトがこのガイ病院に勤務していた時代、トーマス・アジソンやト−マス・ホジキンも在籍しており、歴史上、同病院の黄金期の一つをなしていた。

 ガイ病院のこれら三巨頭には共通点がある。

 ・彼らの名前を関した疾患がある
 ・エジンバラで「博士」に昇進した。何となれば、
  ・ホジキンはクエーカー教徒のため、オクスフォードやケンブリッジへの道を阻まれた
  ・アジソンには経済的余裕がなかったため
  ・ブライトは「伝統」より「質」を好んだため

 である。

[コラム1]
 「脚気=伝染病説」の立場を取る陸軍軍医総監こと森林太郎(ペンネーム森鴎外)は、持病の腎臓病が悪化し病の床についた。1922年6月19日に受けた尿検査では中等度の蛋白が検出されており、同年7月9日に死去した。

[コラム2]
 ランゲルハンス島に名前を残すドイツ人病理学者パウル・ランゲルハンスは尿毒症のため、若干41歳で亡くなった(1847〜1888)。

[コラム3]
 ロマン派の詩人ジョン・キーツ(1795〜1821)も、外科医の下で徒弟の年季を勤め上げた後、ガイ病院で包帯係として外科の助手を勤めた。その後は外科の世界から完全に身を引き、独学で詩作に専念した。代表作に「ハイペリオン」や「レイミア」(1820)などがある。しかし結核が進行し転地療養のためイタリアを訪れたが、25歳で夭折。学生時代のキーツは「三度の飯より喧嘩好き」であった。

(つづく)
(初出:2012年09月)
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登録日:2012年09月23日 19時59分
タグ : 医学史 トリビア

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