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坂本義教
著者:坂本義教(さかもとよしのり)
長年、医学、薬学関係の論文や科学史を専門に翻訳業を営んでいます。仕事柄、医学史に名を残す人物の経歴を目にします。そこには「えっ!」と思わせる意外な事実やエピソードが隠されています。自分一人の胸にしまっておくのももったいないと、あまり取り上げられることのない医師達の素顔を紹介しようと思い立ちました。収録しきれなかった興味深い事実がまだ多数あります。これからも掘り起こしていきたいと思っています。
コラム/健康・医療

Dr.医師 医学のトリビア大全(10)

[連載 | 完結済 | 全17話] 目次へ
毒殺に耐えうるカラダを目指した王の最後、メニエール病で知られる医師、メニエールの多才ぶり、バーガー病と煙草について、産褥熱と手洗いの効果の4編。
36.耐えるのも……
 人体は、長期に渡り薬物を服用し続けると、薬(毒)に対する耐性が出来上がる可能性がある。アナトリア(現在の小アジア)北部の王であったミトリダテス王は、毒物を定期的に服用し、毒殺に耐えられる身体、いわば擬似不死身の肉体を目指していた。
 一方で、解毒薬の研究にもいそしみ、万能解毒剤「ミトリダチオン」を紀元前60年頃に完成させた。
 しかし紀元前63年、王はボンベイウス指揮下のローマ帝国の軍門に下り、服毒自殺を図るが皮肉なことに毒が効かず、部下に命じ剣で自らを殺させた。


37.多才人メニエール
 耳の平衡装置内にある液体が過剰になると、耳性めまいが起きると考えられている。発作は突然に、かつ劇的に生じる。患者は、しばしば、あらゆるものが回転していると感じ、床に倒れ、嘔吐する場合もある。
 フランス人医師プロスパー・メニエール(1799〜1862)がこの疾患を記したのは、最晩年の1861年のことであった(翌1862年、インフルエンザによる肺炎で亡くなった)。もっともこの先駆的な業績は、当時のパリでは十分な評価を受けなかったのであるが……。
 メニエールは、メニエール病に名前を残しているが、きらびやかな経歴の持ち主である。

  • 1835年、南フランスでコレラが流行した。メニエールは、政府より、対コレラキャンペーンを展開するよう命を受け、南部のオード及びオートガロンヌへ出かけた。そこで成果を上げ、レジオンドヌール勲位を授けられた。・メニエールの友人には、学術サークルを通じて知り合った文豪ビクトル・ユゴーやバルザックがいる。
  • 1838年、マドモアゼル・ベクレルと結婚する。彼女はウランの硫酸塩から放射線が出ていることを発見し、ノーベル賞に輝いたアントン・ベクレルの縁者にあたる。
  • メニエールは、ある論文で、聴覚に障害を持つ判事について記している。治療に当たり、メニエールは、金製の針で鼓膜に圧力を加えたところ、判事の聴力は改善した。これは、おそらく、耳硬化症においてあぶみ骨を可動化させた史上初の症例であろう。
  • 考古学者や植物学者としても認められており、特に植物学に関する関心は高く、ランの目利きでもあった。


38.煙草怖い
 バーガー病は、脚の血管を遅う疾患である。血栓症が起こり、その後に組織が瘢痕化する。筋肉への血流が著しく低下し、短距離を歩いただけでもふくらはぎに激痛が生じる。この疾患は、ウィーンに生まれ米国へ移住したレオ・バーガー(1879〜1943)に因んで命名された。原因は不明だが、その発症・増悪には喫煙が強く関与していることが知られている。
 もっともバーガー自身は放射線医学に関心があり、膀胱の悪性腫瘍に対するラジウム療法を開発した。またティルダー・ブラウンと共同で膀胱鏡も開発している。

[コラム]
タバコはナス科の一年草であり、薬用植物の一種と見なすこともできる。フランシスコ・フェルナンデスというスペイン人医師がメキシコからヨーロッパに持ち帰り、最初は観賞用として、遂には万能薬!という謳い文句で栽培され始めた。これには訳がある。1560年頃、駐ポルトガル大使を務めるジャン・ニコ(タバコに含まれる主アルカロイドの『ニコチン』は彼に因む)が任地でタバコを入手し、本国フランスの王妃カトリーヌ・ド・メディチに贈った。王妃は薬草園で栽培し、その粉を吸ったところ、長年悩まされていた頭痛が治ったというのである。その後セビリアの医師兼植物学者であるニコラス・モナルデスが「西インドからもたらされた医薬に有用な植物」を発刊。これがあたり、万能薬と見なされるに至った。確かにタバコは喫煙すると身体に有害であるが、生で食すれば栄養となる。


39.手洗い
 かつて出産直後の母親達は、産褥熱を恐れていた。この病は、産道の創傷に連鎖球菌などが侵入して起こる敗血症の一種である。出産後、38℃以上の高熱が続き、重篤の場合は死に至る。
 1847年、ウィーン大学において、イグナーツ・ゼンメルヴァイス(1818〜1865)が死亡率を激減できる方法があることを証明した。それは「手」や「器具」を洗うという至極簡単ながら、効果抜群の予防法だった。
 彼は、職員が産科の病室に入る前には、必ず塩素水(その頃、主に漂白剤として使われていたが、同時に殺菌作用があることも知られていた)で手を洗うことを義務づけた。その結果、産褥熱による死亡率は、

  • 1847年:3%
  • 患者ごとに手洗いをした場合:1.3%

 と激減したのである。
 後にゼンメルヴァイスはブタペスト大学で産科の教授となるが、自説に固執する余り見解を異にする人との摩擦が絶えず、遂に解職処分を受けてしまう。晩年は精神病院で錯乱状態となり、亡くなった。享年47。
(つづく)
(初出:2013年05月02日)
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登録日:2013年05月02日 17時05分
タグ : 医学史 トリビア

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