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坂本義教
著者:坂本義教(さかもとよしのり)
長年、医学、薬学関係の論文や科学史を専門に翻訳業を営んでいます。仕事柄、医学史に名を残す人物の経歴を目にします。そこには「えっ!」と思わせる意外な事実やエピソードが隠されています。自分一人の胸にしまっておくのももったいないと、あまり取り上げられることのない医師達の素顔を紹介しようと思い立ちました。収録しきれなかった興味深い事実がまだ多数あります。これからも掘り起こしていきたいと思っています。
コラム/健康・医療

Dr.医師 医学のトリビア大全(6)

[連載 | 完結済 | 全17話] 目次へ
パーキンソン病の名前の由来となったジェームズ・パーキンソンについて。歴史上初めての医師。噂をヒントに種痘法を発見した英国人医師とトルコ式接種法を母国に伝えた作家レディ・メアリー・ワートレイ・モンタギュー。初めての女医となったエリザベス・ブラックウェルの4編。
20.兼業医師
 英国の医師兼王室薬剤師ジェームズ・パーキンソン(1755〜1824)は、1817年、「An Essay on the Shaking Palsy(震顫麻痺に関する小論文)」を発表した。この疾患の最初の徴候は、親指と人差し指に現れる特有の震えであることが多いため、震顫という名称が付けられた。その後、身体の筋肉はゆっくりと硬直していき、ついには歩行すらおぼつかなくなる。ところが彼の存命中、ほとんど注目されることはなかった。半世紀以上も後にフランスの神経病学者シャルコー(1825〜1893)が彼の報告を重視し、パーキンソン病と呼ぶことを提唱。さらに1912年、アメリカのJ.G.ラウントリーは、ジョンズ・ホプキンズ・病院会報第23巻に「英国生まれで英国育ちながら、英国人と一般世界で忘れ去られた人物、それがジェームズ・パーキンソンの運命であった」というタイトルで論文を執筆し、彼の名は広く知られるようになった。

 パーキンソンは、1799〜1807年の間に多数の医学書を執筆している(この中には痛風に関する著作[1805]もある)。また虫垂の穿孔が虫垂炎による死亡の原因であることを最初に認めた人物でもある(1812)。後にパーキンソンの興味の対象は医学から自然、特に地質学と古生物学へと移ってゆき、1804年には「Organic Remains of the Former World(前世界の有機遺物)」第一巻を刊行している。
 当時の著名な古生物学者・地質学者ギデオン・マンテルは、彼の著作を、「化石を馴染みのある言葉で科学的に説明しようとした初の試み」と高く評価している。第二巻は1808年、第三巻は1811年に刊行されており、パーキンソン自身が各巻の挿し絵を入れるほど、情熱を傾けていた(時にはカラーの挿絵もあった)。

 またパーキンソンは急進的な社会改革を求め、政治活動にも積極的であった。そのため、1794年には枢密院で宣誓を行った後に尋問され、国王ジョージ3世暗殺の陰謀について証言を求められたくらいである。もっとも、一切罪を問われるなく終わったのであるが……。

[コラム1]
 第二次大戦末期、ドイツのニュース映画に登場したアドルフ・ヒトラー(1889〜1945)の左手にはパーキンソン病に特有の震えが認められるという。症状は1940年の暮れに現れ、左手の震えは1942年に観察されている。また1932年の署名と1944年の署名を比較すると、文字は小さくなっている。これもパーキンソン病の特徴である。1945年末期には中等度まで症状が進行していたそうである。
 またヒトラーは、少なくとも1911年以降は、ベジタリアンだった。咽頭癌を恐れていたので、肉食を避けたとも言われている。

[コラム2]
 象徴派の詩人薄田泣菫(1877〜1945。没年もヒトラーと同じ)もパーキンソン病患者である。泣菫は40歳頃から手の震えを訴えている。病は進行し、46歳の時には毎日新聞学芸部長の職を解任され、最後には尿毒症を併発し亡くなった。


21.最初の医師
 歴史上名前の知られている人類初の医師はイムホテプである。紀元前3,000年頃、エジプト第3王朝の第2代王ジョセルの頃に活躍した。医学的な技量だけでなく、建築家(サッカラにある階段式ピラミッドの設計・建築)、政治家・行政官、魔術師としての能力にも非凡な才能を見せた。死後は「治癒神」として神格化され、ギリシアのアスクレピウスと同一視された。


22.作家の贈り物
 英国人医師エドワード・ジェンナーは、奇妙な噂を耳にした。「搾乳の作業で牛痘に感染した女性達は天然痘に罹りにくい、罹患しても軽度ですむ」というのである。これをヒントに1796年、種痘法を発見したことはよく知られている。ジェンナー法が確立されてから約200年後の1977年、世界より天然痘は撲滅された。
 しかし彼に先駆け、18世紀初期に天然痘の予防接種法を初めて英国に紹介した女性がいる。レディ・メアリー・ワートレイ・モンタギュー(1689〜1762)である。駐コンスタンティノープル英大使の妻であり、社交界の名士であり、作家、詩人、女権拡張論者であった。彼女は夫の赴任地トルコのコンスタンティノープルで、天然痘がどのように予防されているかをつぶさに観察し、本国に伝えた。現地では、

 1. 老婦人らのグループが天然痘菌の入ったナッツの殻を持って各地を回る
 2. 施術を受ける人の腕の血管を針で切り開く
 3. その傷口に針先に乗る程度の量の菌を植え付け、空のナッツの殻で塞ぐ
 4. 上記の方法を4〜5本の血管に行う

 というものであった。 
 彼女はこのトルコ式接種法を母国へ伝えたのである。

※1715年12月、彼女自身も天然痘に罹り、睫を失い、皮膚には深い痘痕が残った。

[コラム1]
 天然痘の接種法は、17世紀、既に中国人が始めている。その方法は、天然痘患者のかさぶたを微粉状にし、この微粉末を鼻孔から吸入する、というものであった。

[コラム2]
 予防法に関するパスツールの言葉「ある病について深く考える場合、私はその治療薬を発見しようと考えるのではなく、予防手段について頭を働かす」


23.資格と女医
 西洋で資格を持った最初の女医、それはエリザベス・ブラックウェルである。エリザベス・ブラックウェルは、1821年、イギリスのブリストルに生まれた。1832年、一家は渡米。その6年後に父親が亡くなったため、彼女は教師として働き、一家を支えた。

 ある時、臨終間際の友人が彼女に「女性の医師がいたら、この苦しみにも耐えられるのに」と言った。この言葉がきっかけとなり、彼女は医師を志した。しかし当時、米国東部のフィラデルフィアやニューヨークの医学校は、女性に門戸を開放していなかったのである。ジュネーブ・メディカル・カレッジ(ニューヨーク州ジュネーブ)だけが特例措置として入学を認めた。彼女の医学に対する真摯な態度は、いつしかまわりの雑音を消し去り、同校をトップで卒業。医学博士号を授与された世界初の女医となった。1849年、1月23日火曜日のことである。1869年には母国の英国に移住、London School of Medicine for Womenの婦人科教授を長く務めた(1875〜1907)。

 エミリー・ブラックウェルはエリザベスの実の妹(1826年10月8日誕生)である。彼女はクリーブランド(オハイオ州)のウェスタン・リザーブ大学医学部に入学。1854年に学位を得て卒業すると、渡欧しエディンバラ、パリ、ベルリンで医学の研鑽に励み、1856年に米国に帰国した。1857年には姉とマリー・エリザベス・ザクシェフスカ(米国のポーランド系医師)で、ニューヨーク・インファーマリー・フォー・インジエント・ウィミン・アンド・チルドレン(New York Infirmary for Indigent Women and Children)という米国初の女性のための病院を設立した。エミリーは新世界アメリカで最初に本格的な大手術を行った女性といわれている。没年は奇しくも姉と同じ1910年(9月7日)。
(つづく)
(初出:2012年12月15日)
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登録日:2012年12月15日 12時59分
タグ : 医学史 トリビア

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