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坂本義教
著者:坂本義教(さかもとよしのり)
長年、医学、薬学関係の論文や科学史を専門に翻訳業を営んでいます。仕事柄、医学史に名を残す人物の経歴を目にします。そこには「えっ!」と思わせる意外な事実やエピソードが隠されています。自分一人の胸にしまっておくのももったいないと、あまり取り上げられることのない医師達の素顔を紹介しようと思い立ちました。収録しきれなかった興味深い事実がまだ多数あります。これからも掘り起こしていきたいと思っています。
コラム/健康・医療

Dr.医師 医学のトリビア大全(7)

[連載 | 完結済 | 全17話] 目次へ
ヒステリーは子宮の疾患だと考えられていたこと、小児麻痺のリハビリを根本から変えた女性、解剖学の研究用として墓場から死体を盗み、殺人を行っていたコンビ、骨相学についての4編。
24.子宮と偏見
 ヒステリーは、かつて、子宮の異常による女性特有の疾患と考えられていた。これに反論したのが、サルペトリエール病院神経病学教室の教授を務めていたジャン・マーティン・シャルコー(1825〜93)である。彼は催眠術を利用し、ヒステリーの症状を詳しく調べた。シャルコーの門下生にはフロイト、ジャネらがいる。1893年、肺浮腫のため亡くなった。息子も医師であったが、同時に南極探検で名を馳せ、シャルコー島を発見した。

  • ヒステリーの症状 No.1
    喉にかなり大きな塊があり、この塊が上下に動くと感じる医学的症状がある。これはヒステリー球と呼ばれるが、実際にそうした球は存在しない。咽頭筋の緊張が増したために生じる感覚である。
  • ヒステリーの症状 No.2
    ヒステリー性患者では、局所的に知覚が麻痺した箇所があり、ピンや針を皮膚に刺しても痛みを感じない。一部のヒステリー患者では、長い手袋やストッキング大の知覚麻痺域がある。そこは皮膚の知覚神経の分布と一致していない。


25.シスター
 小児麻痺患者のリハビリ技術を根本から変えたオーストラリア生まれの女性がいる。エリザベス・ケニー、通称シスター・ケニーである(1886〜1952)。彼女が看護師として正式の教育・訓練を受けた、あるいは登録されていたことを示す公式の記録はない。1910年頃、「自称看護師」として、各家庭を訪問し、無報酬で働き始めたようである。1911年のこと、イニーアス・マクダネルという外科医の助言を受け、小児麻痺の治療に温湿布を用いたところ、患者は回復した。この時の経験を基に、1932年、長期の小児麻痺患者や脳性麻痺患者を治療するため、診療所を設立した。治療方針は、温浴、温湿布、受動運動、装具やカリパス副木の取り外し、積極的な運動の奨励であった。現在の筋力トレーニングの先駆けである。

 小児麻痺に対する従来の正統的な治療法と言えば、麻痺した手足に副木をあてたり、ギプスで固めることであったから、医学界からは猛反対の声が上がった。しかし徐々に賛同者も現れ始め、彼女の方針は広く受け入れられるようになった。フランクリン・D・ルーズベルト大統領も小児麻痺を患っていたため、ケニーが訪米した際は大歓迎した。もっとも彼女に反感を持つ人も多かった。自説に反対の立場を取る人を決して受け入れようとしない狭量な質があったためである。

 ケニーは、オーストラリア、英国、米国の各地に診療所を開設し活躍したが、パーキンソン病を発病し、1951年、トゥウンバ(オーストラリア クイーンズ州)に退き、翌1952年、脳血管性疾患のため亡くなった。彼女の治療方針は、現在、ケニー療法として名をとどめている。

 主要著書は以下の通りである。

  • 「Sydney Infantile Paralysis and Cerebral Diplegia」(シドニー小児麻痺と脳性両側麻痺)(1937)
  • 「My Battle and Victory」(私の闘いと勝利)(1955)

[コラム]
シスター・ケニーは1927年、負傷者を移動する際にショックを和らげるよう設計した「シルヴィア救急ストレッチャー」で特許を得ている。


26.死体売ります、買います
 19世紀初期、アイルランド出身のウィリアム・バーク(1792〜1829)とウィリアム・ヘアーのコンビは、儲けになるいかがわしい商売に手を染めていた。墓場から死体を盗み出し、それを解剖用商品として、エディンバラ大学の解剖学科に納入していたのである。仕事熱心な2人はすぐにこの商売に飽きたらなくなり、さらなる商品を得ようと人殺し家業を始め、15人を殺害。結局は逮捕され裁判を受けることとなった。ヘアーが公訴の証人となり、バークに不利な証言を行った。そのためバークは絞首台へ送られた。

[コラム]
バークから死体を購入したのは、スコットランドのロバート・ノックスという著名な解剖学者であった。


27.進化論と骨相学
 チャールズ・ダーウィン(1809〜1882)は、22歳の時、大英帝国の最新鋭測量船ビーグル号に乗り込み、南半球を巡った(1831〜1836)。この間に行ったフィールドワークで生物の進化に関する考えをまとめ、帰国後「種の起源」を発表し、学会はもとより、世間を騒然とさせたことは周知の通りである。

 ダーウィンが乗船したビーグル号の艦長を勤めたのはロバート・フィッツロイという海軍中将。フィッツロイ艦長は当時流行していた骨相学に詳しく、ダーウィンの鼻を見て、航海に耐えられないと判断。一旦は乗船を拒否したほど骨相学に傾倒していた。後にフィッツロイは商務省気象局に入局し、気圧計を発明した。後年、彼の名を冠してフィッツロイ気圧計と呼ばれることになるのだが、これが今日の天気予報の土台を築くことになったのである。

 では骨相学とは何か? この学説の祖は、ドイツ生まれのフランツ・ヨセフ・ガル(1758〜1828)である。彼は頭蓋学という擬似科学を発展させ、後に骨相学として信奉者を集めた。骨相学とは、簡単に言えば、頭蓋の隆起を読み取り、その骨相から人間の性質や運命までも判断する、というもの。現在では骨相学そのものは科学的に否定されているが、ガルが骨相学を通じ、脳の解明に果たした役割は大きい。

 例えば脳には灰色質(ニューロンを含む)と白質(多くは神経繊維からなる)が存在することを最初に明らかにしており、大脳の機能局在説を唱えた人物でもある。
 ガルは、行動に関しては27の脳中枢が別個に存在すると唱えた。もっともそのうちの25個は未だ存在が確かめられていないが、残りの2個、すなわち「言語」と「言葉の記憶」に関する中枢は的中している。また研究のために頭蓋骨を収集し、石膏と蝋で模型も製作している。彼が行う骨相学の講義は人気を博していた。しかし反宗教的という理由で、1802年には禁止されてしまった。そのため活動拠点をウィーンからパリへ移し、1807年以降はパリで医師として生計を立てていた。

 1826年頃よりガルの健康は衰え始め、皮肉なことだが、研究テーマとしてきた「脳」の硬化症と冠動脈硬化症の徴候が現れ始めた。1828年には致命的な脳卒中に見舞われ、同年8月22日に死去した。ガル自身の頭部は、彼が生前収蔵していた300を超える人間の頭蓋骨、頭蓋骨模型、及び脳模型のコレクションに加えられた。
(つづく)
(初出:2013年01月10日)
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登録日:2013年01月10日 12時57分
タグ : 医学史 トリビア

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