騒人 TOP > コラム > 健康・医療 > Dr.医師 医学のトリビア大全(8)
坂本義教
著者:坂本義教(さかもとよしのり)
長年、医学、薬学関係の論文や科学史を専門に翻訳業を営んでいます。仕事柄、医学史に名を残す人物の経歴を目にします。そこには「えっ!」と思わせる意外な事実やエピソードが隠されています。自分一人の胸にしまっておくのももったいないと、あまり取り上げられることのない医師達の素顔を紹介しようと思い立ちました。収録しきれなかった興味深い事実がまだ多数あります。これからも掘り起こしていきたいと思っています。
コラム/健康・医療

Dr.医師 医学のトリビア大全(8)

[連載 | 完結済 | 全17話] 目次へ
ダーウィンの従兄弟、ゴールトンの功績、ナポレオンに付き従い、数々の業績を今に残すラレー、水銀の二つの顔、ヒル・ウジ・ヘビによる製剤の4編。
28.進化論者の従兄弟の功績
 指紋はその人独自のものであり、同じ指紋を有する人物は二人といない。指紋のパターンは終生変わることがない。たとえ皮膚に傷をつけて変えようとしても、全くの徒労である。なぜなら皮膚が再生すると、指紋も全く同じパターンで再生・出現するからである。
 英国の博物学者チャールズ・ダーウィンの従兄弟、サー・フランシス・ゴールトン(1822〜1911)は、こうした指紋の特性に目を向け、分類法を考案し、その名を歴史にとどめた。ゴールトン指紋分類法である。
 もっとも最近の研究では、染色体に異常がある場合は、指紋の発現様式が異なることが判明している。

29.実地訓練
 フランスの外科医アンブロワーズ・パレー(1510〜1590)は、医学校で学ぶ講義には価値がない、と判断した。そこでイタリアの野戦に従軍し、戦場で腕を磨いた実践派の人物である。後に名著との誉れが高い「銃創の処置法」(1545)を著す。
 血管結紮法を取り入れたり、パレー縫合(創表面に細長い布を貼り付け、皮膚の代わりとして縫合する技法)に名を残す外科医である。また当時は、ヘルニア患者には去勢術を施すことが習慣化していたが、これを止めた最初の人物としても知られている。

  • 彼の言葉:「私が包帯し、神が治したまう」
  • ベンジャミン・フランクリンの言葉:「神が治したまい、医師が報酬を受け取る」

 フランスには実践派の外科医が多いようである。パレーが没してから約180年後、ナポレオンに付き従い、戦場を駈け巡った軍医ドミニク-ジーン・ラレー(1766-1842)が誕生している。ラレーはピレネー山脈の小さな村で生まれた。13歳で孤児になると叔父の外科医アレクシスに育てられた。叔父の下で6年間医学を学び、外科見習いとして働いた後、ラレーはパリへ赴いた。パリではオテルデュー外科部長のドソーの下で学んだ。不幸にしてラレーは学業を中断せざるを得なくなった。フランスが戦争に突入したためである。
 若いラレーも召集に応じ、入隊に署名した。配属先はフランス海軍のフリゲート鑑Vigilanteであった。しかしラレーは慢性的な船酔いのため、すぐに下船しなければならなかった。
 パリに戻ると、ラレーはオテルデューのドソーの診察室で働くと同時に、アンヴァリッドでは軍医として戦場にたった。1790年までにラレーは、アンヴァリッドで既に上級軍医助手となっており、軍務に就いて程なく砲兵隊の指揮官ナポレオン・ボナパルトに出会った。

 1792年、革命下にあるフランスは第1回対仏同盟と戦っており、ラレーはライン軍少佐の医師として戦場に赴いた。この時、ラレーは、戦場に優れた組織が必要であることに気付いた。なぜなら犠牲者は、医療を受けることもできずに死んでいったからである。そこでラレーはAmbulance Volante、すなわち「傷病者急送運搬車」を考え出した。
 傷病者急送運搬車とは、馬に荷馬車を引かせ、戦場で負傷者を集め、後方基地病院へ搬送するものであった。ラレーは、1797年のイタリア遠征に参加し、報告書の中でこの構想を詳細に記している。傷病者急送運搬車は、医療用品の運搬と支援要員で構成されていた。支援要員には医師、補給係将校、将校、(包帯を携えた)鼓手、および歩兵24名が含まれていた。傷病者急送運搬車が成功を収めたため、ラレーは、すぐさま全フランス軍のために病者急送運搬車を組織した。この輸送システムにより、フランス革命軍の将校の士気は高まった。のみならず負傷者が治療を受け、生存できる現実の機会も大きく高まった。その上ラレーは、戦場では敵味方の区別なく負傷者に手当を施している。負傷者の介護という考えは革命的であり、赤十字社という形で現代に引き継がれている。

 ナポレオンは、エジプト遠征(1789〜1799)を立案中、ラレーを医療部隊長に任命した。エジプトや中東では、大変な苦労があったものの、ラレーは疲れを知らないエネルギーでこれを乗り切り、エジプト、スーダン、シリア、パレスチナに陸軍病院を建設した。地勢上、砂漠という過酷な地にあってさえ、ラレーの傷病者急送運搬車は、15分以内に負傷者を収容したと伝えられている。

 ラレーは行政手腕ばかりでなく、実際的な能力の持ち主でもあった。アラク(ガーナの首都)では、自ら70例の切断術を行っている。また時間を見つけては、風土病、例えば発疹チフス、腺ペスト、ハンセン氏病、トラコーマなどについても記している。
 エジプト遠征(1799年8月)から帰国するとすぐさまナポレオンにより男爵に叙され、皇帝親衛隊の軍医長となった。ラレーは、アウステルリッツ(1805)やモスクワ(1812)を含め、すべての遠征でナポレオンに随行した。さらにナポレオンがエルバ島を脱出し「100日天下」を掴み、ワーテルロの戦い(1815年6月18日)で破れるまで付き従っている。
 ラレーは、革命戦争やナポレオン戦争の時代に、60回もの大規模な戦闘を含め、25の主だった遠征で見事に軍務を果たした。

 スペインでの戦争中(1808)、ラレーには脚の切断術を研究する十分な機会があった。というのもスペイン人は退却用の地下道を掘ったが、その結果多数の死傷病兵や下肢の負傷者がでたからである。
 ラレーはコルシカ、スペインの両方の地で、主席軍医として戦場に立ち、凍傷の治療だけでなく、脚の切断術の技能をも身につけ、さらに改善した。この時の経験が後の1812年の冬、悲惨な結果に終わったロシア遠征で役だった。凍傷で硬直した兵士の脚は、切断時にほとんど痛みを感じないことにラレーが気付いたのは、モスクワからの退却時であった。さらに切断後、断端(切断後に残る残る肢端)に氷と雪をあてると痛みは和らいだ。
 ラレーは負傷兵の苦痛を軽減するため、この知識を大いに活用した。1812年のボロディノの戦い後、24時間以内にラレーは自ら200例の切断術を行ったと伝えられている。またロシアからの退却時に起こったベレジナ川での戦いでは、300例以上もの切断術を行っている。

 ラレーは外傷を管理するにあたり、当時主に使用されていた乾燥リント(包帯用のメリヤス布)を濡れた包帯剤に代えた。樟脳を加えた熱いワインにリントを浸しておいたのである。またラレーは、弾丸が食い込み裂けてしまった傷口から弾丸を探す代わりに、対向切開を作ることで初めて創傷部から弾丸を摘出している。同時に銃剣創の近くには排膿を行うため、予防切開も行っている。
 ラレーは、ナポレオン戦争中、胸部に貫通創を受けた負傷者を3名救ったともいわれている。20世紀以前では、胸腔を貫通する外傷が負った場合、助かる見込みはほとんどなかったことを考えると、驚異的な手腕の持ち主である。
 もっとも彼の名は、同時代に生き政治的に悪名を馳せた3名のフランス人に比べると見劣りがする。

  • 化学者アントワーヌ・ラヴォアジエ
    現代化学の創始者、燃焼と代謝における酸素の役割を発見した。また度量衡に対しメートル法を提唱し、フランス革命政府に採用された。徴税請負人の過去があったため断頭台に送られたが、その時、『化学論文を仕上げる時時間が足りない』と訴えたという。
  • 医師・政治家ジョーゼフ・ギヨタン
    解剖学教授、マクロトームの考案者、フランス革命を生き延びた。
  • ジャン・ポール・マラー
    ジャコバン派指導者、元医師、1793年7月13日シャーロット・コルディという女性に入浴中に刺殺される。

 ワーテルロの戦い後、ラレーはプロイセン人により捕らえられ収監されるとすぐさま死刑判決を受けた。幸いなことに敵方の医師がラレーを知っていた。彼はヴァル−ド−グラースでラレーの教えを受けており、或る人物にラレーの助命を願い出た。その人物の息子もかつて小さな戦闘で負傷し、フランス軍に囚われの身となっていた。しかもラレーの手で命を助けられていたのである。ラレーは釈放され、プロシアの護衛兵付きでフランスへ帰国することができた。

 後年、ラレーはその時代で最も評判の良い外科医となり、晩年には歴史家のみならず後の医学研究者にとっても測り知れないほど貴重な回想録を執筆しながら、快適な生活を享受した。
 ナポレオンは流刑に処せられセントヘレナ島に送られていたが、「私が知る限りラレーは最も正直で、兵士にとっては最良の友人であった」と述べたと言われている。ナポレオンは遺言でこの勇気ある外科医に報いている。「フランス陸軍医務局長ラレー男爵に、10万フランを贈る。私が嘗てあったことのない有徳の士に」


30.水銀の2つの顔
 ほとんど過去の遺物となったが、桃色病という病がある。別名は先端疼痛症。この病気は主に幼児や小児を襲う。特徴は手足が赤く腫れ、光をいやがることである。原因は、水銀を摂取したかこれに触れたため。いわゆる水銀中毒の一種である。

 一方、水銀は医療目的で利用されることもある。例えば下剤としての「グレイパウダー」である(もっとも、今日では使用されることはほとんどないが)。グレイパウダーの構成は、水銀とチョークである。チョークのため、水銀は細かく分割された懸濁状態となり、腸内部でゆっくり溶け、筋肉壁を刺激する。その結果、収縮が増し、腸内容物が排出される、という仕組みである。
 また皮膚疾患の治療用軟膏である白降汞(はっこうこう)の成分として利用されることもある。

31.生物製剤
 人の皮膚にへばりつき、血を吸うヒルは、18〜19世紀にかけ、瀉血目的で病気の治療に利用された。例えば頭痛を治療する場合、頭の回りにぐるりと数匹のヒルを吸い付かせる、といった具合である。計算では、ヒル1匹あたり約2分の1オンス(約14ml)の血液を吸うと考えられた。

 ウジは、かつては、医療目的で使用されていた。ウジに身体の壊死組織を食べさせ除去していたのである。これは外科的ウジ療法と呼ばれるが、近代医学の発達に伴い、過去の遺物となった(はずであった)。
 ところが最近、糖尿病のため壊死に陥った足の組織を無菌状態にしたウジに食べさせ、「切断」という最悪の事態を回避できる症例が増え、再び注目を集めている。
 因みに、ウジによる治療促進効果は、ウジが分泌するアラントインという物質のためである。

 ヘビもかつては医療に利用されていた。古代ギリシアの「癒しの神殿」では、無毒のヘビが、病気の治療に訪れた人々の目やその他の痛むところを舐めていた。この神殿は、医学の神であるアスクレーピオスにとって聖なる場所であり、患者が眠っている間にアスクレーピオスが訪れ、奇跡的な回復をもたらしたという。
 アスクレーピオスにとりヘビは聖なる動物であったため、今日、医学関連品の紋章に「蛇」をあしらったものが多い。
(つづく)
(初出:2013年02月14日)
前へ1 ...... 5 6 7 8 9 10 11
登録日:2013年02月14日 17時49分
タグ : 医学史 トリビア

Facebook Comments

坂本義教の記事 - 新着情報

コラム/健康・医療の記事 - 新着情報

あなたへのオススメ