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君塚正太
著者:君塚正太(きみづかまさた)
昭和六十年五月二十三日生まれ。日本大学第三中学校卒、中央高等学院卒、クラーク国際専門学校ボディガード科卒。十九歳後半、この頃より執筆活動を始める。イタリア国家警察、フランス国家憲兵隊に少尉として赴任。
コラム/生活・暮らし

殺人鬼の発生とその欲動構造について(5)

[連載 | 連載中 | 全5話] 目次へ
殺人者における主観と客観の乖離はどこでおきるのか。多くの心理学者や作家の言葉を借り、数式化して問題に迫る。
第5部 主観と客観的妥当性

 私がここで述べたいのは、主観と客観との乖離である。まず、連続殺人鬼はその挙動から、不自然さが見られる。白昼夢や一人での空笑にふける人々。それだけで、早発性痴呆の分類に入りそうだが、それは有名なシェイクスピアの言葉にもあるのである。

「ホラーティオ、なぜ、君は笑っているのだい?」
 すると、彼はこう答える。
「それは、一人だからさ」

 これは、白昼夢と豊富な小説家独特の空想力を、冗談を交えながら、述べたものである。ここに、普遍的妥当性があるのは、言うまでもない。しかし、主観と客観の特異なる変容とは、ここから起きるのである。昔の医学者、ヒポクラテスの言葉に神聖病というものがある。これは現代精神医学の見地から見れば、分裂病とヒステリーが混じりあった奇妙なものだが、ことさら彼の意見を非難できるものでもない。クレッチュマーが日本のアイヌ民族の神聖病と類似する「イム」という現象をその著書「ヒステリーの心理学」で述べているのは、注目に値する。イムとは、通俗的な見方をすれば、原初的な反応でしかない。しかし、太古的な反応が我々文化人にいたっても、なお存続することを考慮すれば、なんらの疑問もわかない。例えば、我々は夢分析の過程において、その原初的な反応に出くわす。ある一個人の夢とは、その個人の過去と象徴のすべてを包み込んでいる。いみじくも、ユングが述べたとおりに、「我々は、一人の人間を診断する時には、その個人の全歴史を知らなければならない。」のである。ここで、我々はまたもや、振り出しに戻られなければならない。フロイトの述べるリビドーの意味を真に理解し、それを再構築する必要がある。なぜなら、たとえ犯罪者といえども、それは一人の人間に過ぎないからである。

 私はここに、一つの例を提示する。それは、一人の患者の物語である。彼は、再三妄想性殺人衝動に悩まされていた。一つここで断っておくが、彼の知能指数は常人よりはるかに高い。したがって、ここに提示する案件もより有意義で、価値のあるものになるであろう。
 ある日、彼は私に夢の断片を話してくれた。それはこういう内容であった。彼は、肉体的にも優れていた。そして、彼は夢の中で、一人の戦士となって姿を現す。それから、彼は激しい戦闘に身を投じる。最初の頃は、持ち前の腕力で、敵をなぎ倒すが、次第に、死んだはずの敵が体中にまとわりついてきた。その時になって、彼はやっと動かなくなっている自分の体に気がつく。そして、彼は目を覚ました。

 ここから、見て取れるのは、殺人衝動と殉教精神にとんだ両面価値である。いつのことを、彼は私に話してくれた。それはニーチェの箴言であった。「最善の人間は、最悪の人間である」と。ここから汲み取れる答えとして、殉教の魂が挙げられる。人とは、サディズムが激しく高まると、倒錯を起こす。その反対もまたしかりである。この倒錯とは、サディズムが極度に高まった状態の過度期を越えると、一挙にマゾヒズムに陥るという意味である。さて、この論説から、いくばくかの答えが得られるのであろうか? それは、多数の仮説を提示する、としかいえない。

 一つ、言えることは、彼の場合は、夢の中で、欲望の発散と内面に秘められた社会的に許されない行為、それも極度に昂揚された殺人欲――それはまさしく反社会的なものである――を垣間見させてくれる。私は、なにもここで反社会的なものを擁護しようとは思わない。しかし、それがすこぶる社会的に有意義なものに昇華されるのも、事実なのである。
 ヘルマン・ヘッセは「荒野のおおかみ」で、当時の時代風潮から、手厳しく非難されたが、後の世になって、その作品の有用性が認められた。我々は、ここで当面の問題に直面する。いかなるものが、価値を持ちうるものか? という問題である。私は、ここで犯罪心理学の議論をしているわけである。読者は、ことさらこんな質面倒くさい問題を提示する必要はないと、言われるかもしれない。だが、殺人鬼の中にも、服役中に極度のサディズムが転化し、敬虔に子供たちに読み書きを教えるものがいるではないか。我々は、その事実を目の当たりにして、盲目の徒になりさがる必要はないのである。

 さて、主観と客観の問題に戻ろう。私は、殺人鬼の主観をRと定義する。そして、外界をと定義する。ここに見られる方程式は、さほど深い意味は持たないであろう。しかし、これは殺人鬼の動向を数式化することによって、よりよい理解をもたれるために書くものである。
 ⁿ=Σ₁…Σn は閉じた系列。これを総括して、Σⁿと呼ぶ。外界の力は、作用因子として働く。∫Σⁿ=∫ⁿ≠∫Rⁿとなる。この公式の意味は、無限に続く因子Σを外界の因子と主観Rによって、示したものである。ただし、とRは決して、同一のものになりえない。なぜなら、主観と客観とは相容れないものだからである。
 常に、客観は主観によって、規定されている。∫の意味は、不確定要素を意味する。次に、ここから分かる結論を引き出してみよう。殺人鬼の思考は、閉じた系列を示す。すなわち、妄想体系が循環を繰り返す、という意味である。この循環とは、本性上の性格に根ざしたもので、ひたすら同じ妄想体系、例えば殺人衝動によって作られた妄想、などによって構築される。
 主観と客観の乖離とは、まさにここで起こる。循環した輪の中で、白昼夢などが繰り返される中で、その容貌は次第に変化し、それが事件の引き金につながるのである。したがって、ここで先ほど述べた不確定要素が絡んでくることになる。その不確定要素とは、まさに、犯罪者独特の心理と、一般人の持つ心理との隔たりである。
(つづく)
(初出:2014年12月16日)
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登録日:2014年12月16日 18時52分
タグ : 殺人 論文 心理学

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