君塚正太
著者:君塚正太(きみづかまさた)
昭和六十年五月二十三日生まれ。日本大学第三中学校卒、中央高等学院卒、クラーク国際専門学校ボディガード科卒。十九歳後半、この頃より執筆活動を始める。イタリア国家警察、フランス国家憲兵隊に少尉として赴任。
コラム/生活・暮らし

ポー

[読切]
エドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」。この小説は何を提示しているのかをつまびらかにし、哲学的な劣等感を批判する。
 この奇怪なる小説は、私たちに何を提示しているのだろうか。では、まずこの小説のいかなる部分が奇怪で、奇妙な変容を我々に見せ示しているのかを述べたいと思う。ポーの作品群を見る限りこの小説は、彼独特の持ち味を活かした短編小説になっている。この小説は、まるで一匹の猫が異次元に迷い込み、恐怖に慄いているような観を抱かせる。それが、この小説の頂上から麓までを貫いている。そこで、私はポーのこの作品に畏怖の念と、誰かの思想的背景を感じずにはいられない。しかし、仮にその思想的背景を研究したところで、結局のところ、彼のこの作品の根底を鮮やかに象徴することにはならないだろう。なぜなら、小説家にとって、特にヨーロッパ人に多いが、彼等は誰かしらの哲学者に傾倒し、心酔し、そしてそこから、新たなる発見、要するにその思想的背景を乗り越えて、様々な作品を創出するからである。

 それでは、本題に入ろう。粗暴で、飲みすぎで、短気な主人公がある日、ふとある青年とすれ違うが、ウィリアム・ウィルソンが振り返った時には、すでにその青年の姿はなかった。だが、その前に自分自身との葛藤がある。これは、最後の段階にいたって、自己に還ってくる自己への悔恨と繋がってくる。まあ、その話は最後にしよう。そして、ウィリアム・ウイルソンは、最初は自己の過去を顧みる。まるで、常に死に続けている、我々が刹那の瞬間に回想する少年時代のことを彼は懐かしむ。それは、これから起こる物語の序章に過ぎないが、しかし、この過去の彼もしっかりと、現在の彼の楔に縛られているのは、言うまでもない。それから、物語は気性の激しい主人公の放蕩話へと移り、滔々と彼の放蕩振りを、物語の中で繰り広げる、という話になる。

 そこで、安直に記憶を探ってみたところ、私は、ウィリアム・ウィルソンの行動を見ていて、ドストエフスキーとモーパッサンの二名を想起した。二人とも放蕩癖があり、殊にドストエフスキーは、「妻への手紙」の大量の手紙の中で、頻繁に出てくる妻への自分の下への送金の催促。こんな大量の手紙は、ドストエフスキーでなければ、ギャンブル好きの唯の飲んだくれの親父が妻に宛てた大量の手紙であり、到底、ドストエフスキーでなければ、残らなかったくだらない手紙のやり取りである。モーパッサンも同格である。唯、違う点は、モーパッサンの場合は、女遊びに呆けていただけの違いである。ここで、少し話しが脱線してしまったが、本筋に戻すと、ウィリアム・ウィルソンも、彼等と一緒のことをやっていただけである。けれども、違うところがある。それは、何の才覚も主人公が持ち合わせていないということである。この性質は、余計に放蕩癖のある人物にとっては有害に働く。自分の劣等感を克服できず、そのため、他人を蔑んで、悦に入る。

 だから、天稟の才がない人たち――それはほとんどの人であるが、彼等は自らの自尊心を傷つけられることを、とてつもなく嫌い、自らではどうしようもない劣等感を克服できず、本当の意味での自立、精神的な自立が出来ないのである。この私が述べてきた哲学的な劣等感の批判は、ウィリアム・ウィルソンにも、当然、当てはまる。したがって、ここでようやく、彼の放蕩癖の心意が捉えられたと言えよう。しかし、まだ、話は続く。彼の劣等感の克服できない性質の裏に隠された、本当の真意をドッペルゲンガーとなって現れる、先ほどの青年がその謎を解明してくれるのである。次の段落で、この短編小説の全貌を明らかにする。それは、まさしく、ウィリアム・ウィルソンの心境でもある。

 私は、あえて真実を述べよう。世の中の人は、とかく物事を安易に考えすぎる。確かに楽観的に物事を解釈するのも大事だが、そうすると他の大事なものがどこかへ行ってしまう。その大事なものとは簡単だ。それは未来への憂慮である。おおかた楽観主義とは物事をなおざりにしてしまう。計画性が無く、口から出るのは単純な事ばかりである。まず頭の良い人に楽観主義はいない。彼らの見る全ての事象は厭世観に覆われている。したがって頭の良い人は考えすぎや、雑念にいつも追われている事になる。これが厭世主義の正体である。未来への憂慮が激しいために、いつも悩む。それこそが彼らを厭世的と呼ばせる根拠なのである。しかしそれでも世から楽観主義が消え去る事はないであろう。ほとんどの人々は人生を怠惰に過ごしている。まるで機械のように仕事をし、自宅に帰る。これが楽観主義者の生活である。怠惰で自分自身をはっきりと認識していない愚か者たち、それが楽観主義者である。大抵の人々は享楽を追い求めて生きている。彼らは知らないのだ。自分たちのいる場所を。いや、彼らは迷っているのだ。その暗闇の中を手探りで確かめながら、慎重に進んでいるのである。

 これが、先ほど述べたドストエフスキーとモーパッサンにも、連関してくる問題であるのは言うまでもない。暗闇の中を手探りで確かめながら……。これが、ウィリアム・ウィルソンの心境ではなかろうか。
 人はなぜ、ウィリアム・ウィルソンに対して恐怖や底知れぬ不安を感じるのだろうか。私は、彼の行なう行為が、小説を介して、周りの人に伝播して、それが独り歩きをして人々を怖がらせようとしているだけなのではないかと思う。その行為や言動に人々は何を感じるのだろうか。死に対してか、それとも自分にその厄災が降り注ぐであろうと勝手に予測してしまう自分の考えに対してだろうか。

 人は必死にウィリアム・ウィルソンは悪いものと決め付け自分の中にある漠然とした“恐怖”というものに対して立ち向かおうとするのではないのか。それは、あたかも実体のないものに対して立ち向かおうとするのと同じである。ウィリアム・ウィルソンというものが自分の身近にいると信じ込み、それにおびえ、さらにそれも自分の作り出した心の幻影にほかならないものであるから立ち向かうすべを人は知らないであろう。それは自分に対して立ち向かうことを意味するからである。

 さあ、これで実体のなかったものを実在するものにでき、自分の不安を実体のあるものに向けることができると人は思うであろう。これによって自分の中にある漠然とした不安感を解消できる淡い期待感によって物事がはっきりわかったような気になれるのである。だが、これは一時的な安心感を得るにとどまり、人はまたすぐに恐怖感に襲われる。なんにしても、私が、今、読んでいる短編小説に対しての不安感はこういうものであろう。

 そして、物語は最後の言葉で、自分自身の分身を殺した主人公は、はっきりと自分の鏡が照らし出した言葉を受け取る。
「お前は勝ったのだ。己は降参する。だが、これからさきは、お前も死んだのだ−この世にたいして、また希望にたいして死んだんだぞ! 己のなかにお前は生きていたのだ。−そして、己の死で、お前がどんなにまったく自分を殺してしまったかということを、お前自身のものであるこの姿でよく見ろ」
 まさに、この最後の文章は、私の考察と一致する結果になる訳である。
(了)
(初出:2015年01月20日)
登録日:2015年01月20日 14時47分

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