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ヤマサキセイヤ
著者:ヤマサキセイヤ(やまさきせいや)
フリーランスの編集者・ライター・実務翻訳者。東京都在住。1968年生まれ。長崎市出身。東北大学薬学部中退。
コラム/PC・家電・IT

籠り屋ときどき実記(4)

[連載 | 連載中 | 全5話] 目次へ
「ぼくら」って誰? 今回のテーマは「一人称」。サブカル系の文章に多く見られるこのタイプの文章を読むと、鳥肌が立つ。やはりこれも陰謀が絡んでいるとしか考えられない……。
【2010年6月某日付記:初出は2000年。雑誌に雑文を書いたり、ネットで日記を曝したりで、いろんな思いを垂れ流していた時期です。
 このため妄想を熟成させる形式の記事が書けなくなってしまいました。しかし、雑誌でもネットでも書くことのできない違和感みたいものがあって、それがこの記事でした。
 当時はサブカル系雑誌もあったんですが、ややニューエイジ系の流れもあって、プロトコルの交換なしで「ぼくら」を含む見出しが並んでおりました。本屋にいくたびに、ものすごい違和感を感じていたのです。
 要は記事中にある“「ぼくたちは個性的なんだ」という付和雷同”に、彼らは気づいているんだろうかということに尽きます。
 とはいえ、この記事で傷ついちゃった人もいたようで、それはそれで困ったものでした。ごめんね。】



●秘密結社「ぼくら」

 うわー、何年ぶりだろう。前回のが1997年だったから、もう3年も前の記事だ。3年といえば、乳飲み子が言葉を喋るようになり、単なるインタラクティブな生物からコミュニケーション可能な生物への遷移が完了するくらいの期間だ。なかには公園の砂場で悟りをひらくような子供もいるから、たいした長さなのである、3年てのは。世の中もずいぶんと動いたようが、アメリカの大統領はいまだにクリントン大統領なので、ひょっとしたら実はぜんぜん動いていないのかもしれない。
 でも、私は変わった。なにが変わったかというと、エッセイとかコラムの書き方なんてのをすっかり忘れちゃったのだ。いったいどうやって書いたらいいのかわからないので、いまも思案しながら書いている。今回、『美穂の旅』でも取り上げようかと思っていたけど、真花さんに取られちゃったんだよな。バッティングすると筆力と取材力で確実に負けちゃうんで取り上げない。あ、そうそう@nifty(旧NIFTY-Serve)の人工知能を使ったチャットサービスの名前は「会話くん」だっせ、真花さん。人工無能ってのは、この人工知能「会話くん」が、あまりにも莫迦だったので「人工無能」という蔑称(別称)がついたのであった。ちなみに「会話くん」についてはコモエスタ坂本さんのオソライソマガジソ『Comoesta Online』の第3号に「無差別インタビュー『貴様に聞いてやる』第3回」(http://www.asahi-net.or.jp/~LZ3T-SKMT/COL/backno/col003.html#4)という珠玉の記事がある。おっと、閑話休題。
 ともあれ、いろいろと変化した。自分のなかで一番変化したものといえば、文章に使用する一人称だ。ずっと前は「俺」だった。1994年くらいは「私」というのを使っていた。でも、それだとパソコン通信なんかで女性と間違えられることが多かったので、「ぼく」にあらためた。これがずっと続いていたのだが(というか、一人称をできるだけ使わないようにしていたってのもあるが)、1998年の「あたし」になり1999年から「私」に戻った。5年をかけてひとめぐりしたわけだ。
 で、ここまでが実は異様に長い前フリだった。今回のテーマは、この一人称についてだ。

 ぼくらはなにげなくインターネットにアクセスし、ウェブをブラウズし、メールを読んでいる――なんて文章を読んで、どう思う? すごくひっかかりはしないだろうか? 私は虫唾がはしる。背中がゾミゾミする。「ぼくら」って誰? その文章を読んでいるひとも含むの? じゃあ、その文章に含まれない読者はどうなるの?
 こういうタイプの文章が最近すごく増えている。世代を見ていくと、ニューエイジと呼ばれたひとたち以降だろうか。この2〜3年では、サブカルチャー系の論文とかコラムみたいなものに多い。サブカル系という原因もあってか評論サイトなんかを見れば、「ぼくら」ユーザーがうようよいる(念のために書いておくが「ぼくたち」「私たち」も同じ意味だ)。私はそういう文章を読むたびに、鳥肌がたちそうになる。
 だいたい「ぼくら」ってどういう意味? 一人称複数形だよね。ニューエイジ系のひとたちが使う「ぼくら」は、「私たちの世代」って意味での「ぼくら」だったから甘受できる。でも、サブカル系の使う「ぼくら」はまったく違う意味だ。主に、その筆者のことをさしていることが多い。要するに絶対的な「個」であるはずべきものだ。「個」の存在をファジィにして(「個」の輪郭を曖昧にして)、「ぼくら」としているわけだ。そういう評論てのは信用おけるもんだろうか。そういう評論に「文責」なんてものは存在するんだろうか。
 もっとわかりやすくいうと、あるパソコンを買ってそのメーカー名を見てみたら、「たぶんアップル」とか「アップルあたり」とか「アップルかも」とか「アップル?」と書いてあったらどう思う? 気持悪いじゃないの。コラムや評論に登場する「ぼくら」ってのは、そういう性質のものだ。文責を曖昧にし、直接的な対峙を避けて言い逃れをするためだけに使っているように思えるわけだ。はなしはずれるが、『ポケモン言えるかな?』の歌をうたっている今国知章(いまくに・ともあき)さんの芸名が「イマクニ?」という曖昧な感じなのは、これはこれで素晴らしいと思う。
 もとにもどそう。このような曖昧さは、きわめて日本人らしい表現方法だ。「ぼくら」ユーザーを見きわめるには、「ぼくたちをひとくくりにするな」というキーワードを探せばいいのだが、「ぼくら」という表現で他者に壁をつくり、「ひとくくり」化の道を選択しているのは、実は「ぼくら」ユーザーのほうである。また、それと対をなすように、他者をひとくくりにしているのも事実である。つまり、「ぼくら」という言葉は、曖昧な表現を醸しだすのと同時に内へむかう強烈なベクトルの作用をもつ表現でもある。これって、思いきり「日本人の要素」じゃないか? そして、「ぼくら」ユーザーってのは、たいてい日本人的な考えかたを毛嫌いしている。「ぼくたちをひとくくりにするな」は、「ぼくたちは個性的なんだ」という付和雷同的な叫びである。これは最大の皮肉だろう。
 しかし、本当に気持悪い。この気持悪さはなんだろう? なにかしら壮絶な陰謀が隠されているのではないかという気がぎゅんぎゅんする。「ぼくら」ユーザーは何者かによって洗脳されているのではないだろうか? そうじゃないと、賢くあらせられ、センシティブな表現を好み、ビビッドな感性をもつサブカル系ライター様たちが、軽々しく「ぼくら」なんて言葉を使うはずがない。だって彼らは些事へのこだわりこそがすべてなのだ。トリヴィアルこそキモなのだ。「ぼくら」なんて表現にこだわらないのはものすごくおかしい。論理的に納得いかない。やっぱりなにかの陰謀があるに違いない。ひょっとすると「ぼくら」ってのはなにかの符丁で、どこかの国の諜報機関に謎のメッセージを送っているのかもしれない。私たち取材班は、考えられるあらゆる角度から調査した結果、驚愕の事実をつきとめた。「ぼくら」ユーザーは、『秘密結社「ぼくら」』によって洗脳されているのだ! 『秘密結社「ぼくら」』は日本人を骨抜きにし、日本社会を裏から支配しようとしているのだ! ああ、なんてこったい、スティーブ!
 ……ウソだよ。はやく気づけよ。いろんな意味で。
(つづく)
(初出:2000年02月)
登録日:2010年06月22日 17時07分
タグ : ぼくら

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