紫苑
著者:紫苑(しおん)
日々の出来事を、ふと書き留めておきたい時がある。何の変哲もない風景に、こよなく愛着を感じる時がある。思わず涙ぐんだり、手を合わせてしまうほど感動を覚える時がある。そんな時は目を閉じて、心のキャンバスに、一枚、また一枚と、自分の生きた証に描いてきた。現在は、二人の成人した娘達と、姉妹のように共同生活を楽しんでいる。なにはともあれ、今が幸せならすべてよし、と充実した日々を送っている。
エッセイ/エッセイ

伝説の人

[読切]
突然非常ベルが鳴り響いた。「そうか、押しが足らなかったのか」 筆者は、今度は思い切りボタンを押してみたがベルはおさまらない。間違えて、インターホンの隣にあった非常用ベルを押してしまったのだ。その他、恥ずかしいお話三本。
 突然、非常ベルが鳴り響いた。
 訳がわからない。一体何が起きたのだろう。
 こういう場合は慌ててはいけないのだ。わたしは目を凝らしてもう一度、文字を目でなぞった。「強く押す」そうか、押しが足らなかったのか。更に力を加えて思い切りそのボタンを押した。

 相変わらずけたたましいベルがマンション中に鳴り響いている。
 慌てて部屋の外へ飛び出した。廊下の天井に備え付けのランプが点滅しながらクルクルと回っていた。

 ああ、どうしよう。わたしはやっと気がついた。ボタンを押し間違えたのだ。インターホンの脇に、非常用ベルとマンションの入り口の鍵を解錠するボタンがセットになっていて、思い切り押したのは、明らかに非常用ベルの方だったのだ。


 母の法事で帰郷した際に、姉のマンションに泊めてもらった。
 わたしはマンションに住んだことがない。
 姉のマンションは、外部からの侵入を防ぐために、マンションの入り口でパスワードを入力するか、部屋の中からボタンを押して解錠するしくみになっていた。近くのコンビニに買い物に出た長女が、インターホーンで戻ったことを告げてきた。受話器を置くや、ボタンを押した。しかし、わたしはいきなり非常用ボタンを、しかも思い切り押してしまったようなのである。

 管理人室へ向かった。がたがたと身体が震えて止まらない。何かとてつもないことをしでかしたことは分かっているのに、思考回路は止まったままだった。

 幸いなことに誰も廊下に飛び出してはいなかった。この騒ぎに気づいてないのだろうか。それにしても非常ベルはけたたましかった。エレベーターを待つ時間がもどかしい。階段を4階から転げるように駆け降りた。

「すみません。間違えて非常ベルを押してしまったんです。どうしたら良いでしょうか?」
「あら、どうしましょう!私、今日は留守番なの。だから分からないのよ」
 五十歳半ばの女性も慌てふためいた。檻の中の熊のようにその場をただ行ったり来たりするばかりである。

 完全にパニクった。もう一度4階まで駆け上がった。けたたましいベルの音も天井のクルクルも止まらない。消防自動車が、パトカーがやって来たらどうしよう!もう泣きたい気分だった。

 姉の部屋のドアを開けて中に入った。
 ピタリと音が鳴り止んだ。
 ああ、助かった。
 一体誰が何をしたのだろう。こわごわと部屋を覗くと、やはり法事でやってきた妹の長男がすまして立っていた。彼は小学三年生である。

「あなたが止めてくれたの?」
「うん」
「どうやって?」
「押したボタンを引き上げた」
「それだけ?」
「ただそれだけ」

 わたしはその場にヘナヘナとしゃがみこんだ。
 汗と疲れがどっと出た。
 そうそう、娘のことがそのままになっていた。
 今度はエレベーターで1階まで降りた。
 管理人室へ謝罪に行き、娘をやっと迎え入れた。

「遅いよ、母さん」
 思い切り頬を膨らませている。
「実は色々大変なことがあったのよ」
「何があったの?」
「秘密、ひ・み・つ」

 マンションの住人である姉の家族が出かけていた留守の出来事だった。
 その夜、爆笑の渦と化したのは言うまでもない。

 *

「君の母さんは我が親戚の伝説の人だよ」
「ドジなことは知っているよ。しょっちゅうだもん。でも、どんな?」
「マンション非常ベル事件」
「それは憶えてる。おばあちゃんの三回忌の時の出来事でしょ? その他にもある?」
「あるある」
 母の十三回忌で帰郷したこの春、すっかり大人になった甥の運転する車に乗ってお墓に向かう途中のことである。

「温泉タオル事件」
「温泉タオル事件?」
「そう、聞きたい?」
「聞きたいよ」
 娘たちが従兄弟の勇太にせがんだ。

 *

 母の葬儀が終わった。
 気温が急に緩んだ夜のことだった。
「お風呂の順番を待つのも大変だから温泉でも行く?」ということになり、車で三十分足らずの露天風呂に行くことになった。

 ダムの下に広がる露天風呂はまだ日暮れ前の薄もやの中で湯気を上げていた。
 もちろん、混浴である。温泉の中に入る条件は、スッポンポン。仕方なくもう少し暗くなるのを待つことにした。それにしてもどこかの宿の団体客なのだろうか。芋の子を洗うほどいるではないか。

 一向に人が減らない。意を決して入ることにした。こっちだって車2台に分乗してやってきた団体8名である。少しは恥ずかしいけれど、コント赤信号のギャグの心境で「みんなで入れば恐くない」のであった。

 脱衣所で洋服を脱いだ。手には小さな浴用タオルだけを持ち、みんなスッポンポンになった。それでも恥じらいはあった。わたしだってまだまだ花の三十代なのだから。タオルで前を隠し、湯船の中にそっと足を下ろした。入ってしまえばこっちのもの、なるべく目立たない場所でひっそりと肩まで浸かった。温泉は良いなー、ほっとする。

 湯船は三つあった。湯の温度もまちまちである。姉は全部を制覇したいのか、大移動を促した。仕方なくわたしも子豚たちも姉の後に続く羽目になった。

「どこから来たの?」
 酔客が尋ねてきた。
「遠く。ジャカルタから」
「へぇ、ジャカルタってどこ?」
「インドネシア。そこの日本人学校の一年生なのあたし」
 聞かれももしないのに、長女はベラベラと話し出した。酔客も話しが面白いのかその場を離れない。そのうち、わたしや姉達にまで矛先を向けてくる。まぁ、もう二度と会うこともない観光客同士なのだから、旅の恥は掻き捨てていいのかもしれない。辺りはどっぷりと暮れてきた。それでも灯かりはついている。湯船を出る時はさすがに緊張の瞬間である。早く、このおっさん達上がれば良いのにね、姉達と顔を見合わせた。

「おーい、上がるぞ」
 仲間が声をかけた。
「よっしゃー、俺も上がるよー」
 しつこかったインタビュアーの酔客は上がるらしい。
「あれぇ、俺のタオルがない」
 彼は辺りをキョロキョロと見回した。
「すいません、タオル知りませんか?」
 その慌てようが可笑しかった。
「知りませんねぇ。流れちゃったのかしら?」
 それでも袖擦りあった縁である。わたしは一緒にその辺りを探してみた。
「ないみたいですよ」

「早く来いよー」
 仲間が一層急かしている。
「だってぇ、タオルがないんだよー」
 急にモゾモゾと落ち着かなくなった。
 再三の仲間の呼ぶ声に、彼はタオルを諦めた。
 
 湯船を立った。
 両手で前を大事そうに隠して、風呂の縁を歩き始めた。湯船の縁は危険がないようにライトで照らされていた。まるで花道である。バツ悪そうに歩く姿が可笑しくて、わたしは声を立てて笑ってしまった。

「ねぇ、もしかしたらわたしが犯人みたい」
 わたしはふと気がついた。
 タオルがどういう訳か頭の上に一枚乗っかっていた。
 その上、手にもちゃんと持っているではないか。
「だって、さっき一緒に探してあげてたじゃない?」

 姉がぷーっと吹き出した。
 それを合図に、団体8名は一斉に笑いだした。
 腹をよじって涙を流しながらいつまでもその場で笑い転げるのだった。

 *

「憶えてる、憶えてる。他には?」
「他にほかにってコメディアンじゃないんだからさー」
 わたしは娘を軽く睨んだ。
「それじゃ、母さんが自分で告白しましょうか?」

 *

 免許を取ったのは21の時だった。
 ちょうど妹が高校三年生で、そのクラスメートが数人同じ教習所に通っていた。どういう訳か高校生たちと仲良くなった。わたしはすでに働いていたから、免許を取得するや父に車を買ってもらった。白のカローラだった。本当は乗りたいと思う車があった。ブルーバード・スリーエス・クーペである。買ってもらう立場で車種のおねだりまでは出来なかった。恨めしそうに横目で睨みながら、それでも白のカローラは嬉しかった。早速、試運転に夜の道を走らせた。途中でやはり一緒に免許を取ったばかりの妹の友人である川野君を誘った。

「ケイコ姉ちゃん、運転させてくれる?」
「良いわよ」
 妹が呼ぶので、彼らはわたしのことをみんなそう呼んでいた。それならばと一緒に取った他の同窓生も誘い、カローラはきっちり4人になった。

「ケイコ姉ちゃん、そろそろ代わってよ」
 川野君が痺れを切らして言った。
「オーケー、ちょっと待ってね」
 田舎道に外灯はない。サイドブレーキを引いた。川野君は運転を交代するために助手席から外へ出た。わたしは運転席からコンソールボックスを跨いで助手席に体をずらした。でも、川野君は運転席のドアを開けなかった。

「川野君、川野君」
 車の中から彼の名を呼んだ。
「おーい、ケイコ姉ちゃーん」
 うんと下の方から声がした。
 助手席の窓を開けてみた。
 川野君はいなかった。
「僕は落ちたんだよー」
 暗闇の中から声がした。後部座席の仲間が外に出ようとして叫んだ。
「ケイコ姉ちゃん、道がないよ」
 わたしはどうやら路肩ぎりぎりに車を止めたらしい。

 反対側から降りて、みんなで川野君を引き上げた。
 川野君は道路下の畑に落ちていた。それでも何もないただの畑だったから怪我もしなかった。不幸中の幸いである。何より車ごと落とさなかっただけましであった。翌日妹のクラスではこの話題でもちきりになったらしい。

 *

 車がその場所にさしかかった。
「ここ、さっきの話しの現場だよ」
 娘達は窓を開けて身を乗り出した。
「その川野君って人、どうしてるんだろうね」
「ここを通りかかってはクスクス笑っているんじゃないの? 彼の家はこの近くだもの」
 そう言いながら、わたしがクスクス笑ってしまった。
 実は、わたしはあの時、お腹のそこから可笑しかったのだ。大事にならなかったから笑えたのだけど、だって、川野君ったら突然消えたんだもの。
(了)
(初出:2001年05月)
登録日:2010年06月22日 15時43分

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