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井上真花
著者:井上真花(いのうえみか)
有限会社マイカ代表取締役。日本冒険作家クラブ会員。長崎県に生まれ、大阪、東京、三重を転々とし、現在は東京都文京区に在住。1995年にHP100LXと出会ったのをきかっけに、フリーライターとして雑誌、書籍などで執筆するようになり、1997年に上京して技術評論社に入社。その後再び独立し、2001年に「オフィスマイカ」を設立。
エッセイ/エッセイ

人妻日記(3)

[連載 | 完結済 | 全7話] 目次へ
ついに、この日がやってきた。学校で性の授業を受けてきた息子さんは母に言う。子を持つ親に、必ず訪れるその日の出来事。著者はどう説明したのだろう。人妻日記俊逸のエッセイ。
■1996/01/31(Wed)

 ついに、この日がやってきた。
 私は、つとめて平静を装い、何気なさそうに聞き返した。
 本当は、心臓がバクバクいっていた。
「な、なに。よく聞こえなかったから、もう一度言ってみて」
「だからぁ。今日ね、精子と卵子のお話を聞いてきたよって言ったの」
「ふ、ふーん」
 平常心、平常心。誰でも通る道なのだ。
「で、どんな話だったの」
「あのねー。すごいんだよー!」
 海広は、ランドセルから何かを取り出した。小さな紙きれのように見えた。
「これね、卵子だよ」
 その紙を、私に差し出す。ら、卵子……。
 卵子なんて、私だって見たことないぞ〜。どうやって入手したんだろうか。
 産婦人科に斡旋して、患者の卵子を採取しておいてもらって、それを冷凍保存しておくんだろうか。堕胎したあとの胎盤を、なにかの薬の材料に使うってのは聞いたことあるけど……それにしてもえぐい。学習のためだとはいえ、そこまでする必要はあるんだろうか。そのあたり、ちょっと今度の懇談会でちゃんと聞いておいたほうがいいな。
 なんてことを考えつつ、その紙をひらいた。
 が、そこには銀色に光るジンタンのような小さい玉が、セロハンテープで貼りつけてあるだけだった。
「なに、これ」
 呆ける私に、息子は元気よく答えた。
「それ、卵子だよ。卵子って知ってる? 人間の始まりなんだって。ぼくはそんなに小さかったんだね」
 これは卵子じゃねーぞ。これは、まさしくじいさまたちの愛用アイテム、ジンタンじゃありませんか。うそはいけない、うそは。
「あ、これ卵子じゃないよ。これ、ジンタンでしょ」
「んー。ジンタンってなに。これは、卵子だよ」
 ……困った。ジンタンを知らないやつに、ジンタンの説明をしろったって、そうできるものではない。
「とにかく、これは卵子じゃありません。多分、先生は卵子の大きさを教えたかったんでしょ。確かに、卵子ってのはとっても小さくて、んー、よく知らないけど、きっとこのくらいなんじゃないの」
「えー違うの。なーんだ。じゃ、これ人間にはならないの」
「ならない、ならない」
 なったら恐いぞ。恐怖のジンタン魔人。すんげーくさいの。
「そか。ねえ、じゃあ卵子って何色? 」
 んげ。何色? ……見たことないしなー。わかんないよな、色なんて。
「見たことないから、知らない」
「知らないの?」
 ちょっとさげずんだ顔。くそー。姿はしらないけど、毎月ちゃんと産んでるんだぞ、卵子。そんで、いつも大変な思いをしてるんだ、私は(泣)。これがやってくると、おなかは壊すわ、腰はたたなくなるわ、食欲はなくなるわ、ほーんとすごいんだから。
「んじゃ、精子は見たことある?」
 うわ。絶句。
 告白します。精子は、よく見ます。いえ、正しくは、精液ですね。あれには、よくお世話になってまして……なんてこと、息子に言えるかいっ!
「……ないわね」
 笑顔。だって、私の目は顕微鏡じゃないもん。精子が見えるわけないじゃん、と心でいい訳をする。
「ん。目に見えないくらい、小さいんだってね。卵子より、ずっとずっと小さいんだ。んで、たっくさんいるんだよ。3億だっけ」
 ほーほーほー。3億もいるのか。すごいな。でも、それって年齢差とかはないのかな。若い子は、たくさん出すとか。年寄りは、あんまり出さないとか。
 なんてことは、質問しない。
「3億の精子の中には、みひろ君と、みきろ君と、みほろ君と、みげろ君と、それからそれから、とにかくたっくさんいて」
 両手を広げる息子。
「で、その中のみひろ君が優勝したってことなんだ」
 突然、胸を張る。
「すごいだろー。ぼくは、3億の選手の中で一番速く泳げた精子なんだぞ」
 なんだか、自慢らしい。どうも、これが彼の一番言いたかったことのようだ。ほっとする私。
「はいはい。すごいね。そのわりに、運動会ではなんですが」
 一言多い母親だが、息子も負けちゃいない。なんたって、都合の悪いことは聞こえない耳をもっている。
「んでね、ぼく初めて知ったよ。女にも金玉があるんだね」
 おおおおおおおーーーーーーー!? なになになにっ?
「ないぞ」
 ないもん。だって、ないんだもん。どこにあるっていうのよ。
「あるんだってば。先生、言ってたもん」
 せんせ〜(泣)。頼むよ。それ、先生の勘違いじゃない?
 あ、あれかもしれない。ほら、今よくあるじゃん。ニューハーフってやつ。
 センセ、ニューハーフとつきあってんじゃないの? んで、女にもタマがあるなんて思い込んじゃって。……いや、まてよ。オナベってやつかも。女性が男性になるやつね。医学が進歩して、女にタマをつけることができるようになったとか。で、センセの女ともだちと、なんかの時に一緒にお風呂に入って、タマがありことを発見したとか。
 ブツブツ言ってると、息子がまたランドセルからなにかを引っ張り出す。
「ほら、ここに書いてあるじゃん。”女にもタマがある”」
 そのパンキーなタイトルは、ひとりの女性の裸体の上に書かれていた。裸体といっても、写真ではない。ごくシンプルな、線でシェイプされただけのイラストだ(当たり前だ)。
 イラストの女性は、「30代後半、経産婦、夫は帰りが遅いので、セックスは月1程度」と見た。下垂気味のバストとヒップが、全てを物語っている。
 んなことは、どうでもいい。
 それより、タマだ。タマはどこだ。
「ほら、ここ」
 女性の腰のあたりに、なにやら黒々と円が塗りつぶされてある。矢印があり、その先には「女性のタマ」と書かれてあった。これ、もしかして卵巣じゃない?
「ほら、あったでしょ。おかあさんにも、タマあるの? 」
 ……なるほど。男の精子を作る場所が睾丸、つまりタマだ。だから、女の卵子を作る場所は卵巣で、役割としては睾丸に匹敵するから、これもタマと呼んでしまおうという発想か。最近は、そんな風に教えているのか。
「タマだとは知らなかったけど、これはおかあさんにもあるよ」
「でしょ。ほんで、おかあさんのタマから卵子が出て、おとうさんのタマから精子が出て、精子が卵子の中に入って、ぼくになったんでしょ」
 あってる、あってる。
「そこまでは、わかったんだけど……」
 どき。
「おとうさんの精子は、どうやっておかあさんの卵子のそばに行けるんだろ」
 …… …… ……。
「ねーねーねー。どうやったら精子を卵子んとこに送れるの?」
 …… …… ……。
「ただいまー!」
 妹が、帰ってきた!
「おかえり、瑞穂〜!」
 大歓迎してしまう、母。瑞穂はすっかり面食らっている。
「おなかすいてない? おやつにしよっか」
 いそいそと、台所に消える。と、海広の声。
「瑞穂。おまえもな、3億の精子の中から勝ちぬいた、最強の戦士だったんだぞ」
 また始めからやりなおすようだ。ま、ごまかせてよかった。
「ふーん。精子ちゃん、たくさん死んじゃうのね。かわいそうね。でも、精子ちゃんが来てくれて、卵子ちゃんはきっとすごく喜んだね」
 瑞穂の反応は、この程度だ。まあ、おいおいわかっていくことでしょう。これでいい。 なんでもかんでも、ちゃんと教えようという親がいる。教えておかなくては、なにか悪いことが起こるんじゃないかと心配している。うそのような、ほんとの話で、学校でオナニーのやり方まで指導してしまうところがあるそうだ。私は、そこまでやる必要など、ないと思う。
 人の愛し方や、自分の性欲コントロールなんて、なんとなくわかっていけばいいのだ。悪いことが起きるとしたら、その原因は、きっと別のところにある。女性を大切にする気持ちを育てない環境だったり、やみくもに性欲を否定する家庭だったり。まあ、人を人として、まっとうに接することができる人間だったら、そう無茶な結果にはならないだろうと思うのだ。
「ねーねーねー。どうやって精子を卵子のとこに送るの」
 突然、耳元で二重奏が聞こえてきた。
 今度は、兄と妹の二人がかりだ。
「おかあさんに、妹産んでほしいんだもん。おとうさんの精子、どうやって送ればいいの」
 妹は、真剣なまなざし。ごまかすことはできないようだ。でもでもでも、私は絶対教えたくないぞー!
「べたべた、ひっついてればいいの。うんと仲良くべたべたしていれば、精子は卵子のとこに行くの」
 うそは言ってないぞ。セックスとは、とどのつまり、究極のいちゃいちゃにすぎない。「えー、どんなふうにべたべたすればいいの」
 そこまでつっこむか、おまえは。もう、これ以上はよ〜言わんぞ。
「と、といれ〜」
 私はトイレに逃げ込んだ。しかし、これも一時しのぎだとわかっている。
 トイレの外では、二人の知りたがり屋さんが、興味深々で待っている。絶対絶命!
 そこに、また救いのチャイムが。
「はーい。あ、お父さん!」
 なんて間の悪い男だ。私はトイレからしばらく出ないぞ。あとは頼む。
 静かに息を殺し、ドアの向こうのやりとりに耳をすました。
「おとうさん、おかえり〜」
「ねえねえ、お願い。おとうさんの精子を、おかあさんの卵子に送って」
「な、なに〜っ!」
 どたどたどた。右往左往している夫の足音。どうやら、とっさに逃げだそうとしているらしい。逃げてどうなるもんでもないだろ、ったく。
「待って〜」
 追いかける子供の声。
「みか〜!」
 悲鳴のような、夫の声。
 私は、トイレの便器に腰をかけたまま、声を殺して死ぬほど笑いこけていた。
(つづく)
(初出:1996年02月)
登録日:2010年05月30日 15時46分
タグ : 精子と卵子

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