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井上真花
著者:井上真花(いのうえみか)
有限会社マイカ代表取締役。日本冒険作家クラブ会員。長崎県に生まれ、大阪、東京、三重を転々とし、現在は東京都文京区に在住。1995年にHP100LXと出会ったのをきかっけに、フリーライターとして雑誌、書籍などで執筆するようになり、1997年に上京して技術評論社に入社。その後再び独立し、2001年に「オフィスマイカ」を設立。
エッセイ/エッセイ

人妻日記(7)

[連載 | 完結済 | 全7話] 目次へ
海を見に行く。苦しみも、焦りも、悲しみもなにもかもが、霧が晴れるようにどこかへ散っていくような気がする――。人妻日記、最後のエッセイ。
■6月20日(木) 晴れ

 とにかく海が見たかった。夫の会社へ電話をする。
「海、見に行くから」
「そうか」
 静かな夫の声。
「ゆっくり見てこいや」
 受話器を置いた。時計を見ると、ちょうど正午だった。
 今からいくとなると、2時は過ぎる。

 海ならどこでもいいという訳ではなかった。
 静岡の海。そこに決めていた。
 ちっともきれいじゃない。どちらかといえば荒々しい海だ。
 きれいである必要は、なかった。

「静岡まで」
 名古屋のホームで切符を買う。
 四日市まで、というのと変わらない調子でいったのに、値段は格段に違う。
 ホームから、ベルの音が響いてくる。
「東京行きひかり、まもなく発車します」
 階段をかけあがる。あいているドアに飛び込む。駅員にとがめられる。
「かけこみ乗車は大変危険です!」
 ドアがしまる。乗ってしまえばこっちのものだ。
 新幹線は静かに動き出した。
 と、にわかに不安になる。ひかりって……静岡止まるんだろうか。
 車掌さんを発見し、聞いて見る。
「ああ、止まりますよ」
 ほっ。胸をなでおろす。東京まで行って、東京湾見るのも悪かないとは思うけど、やっぱり今日は静岡でなければだめだ。

 平日の新幹線は空いているかと思いきや、そうでもなかった。スーツ姿が目立つ。出張だろうか。ご苦労な話だ。主婦が「ちょっと海を見に」なんてぶらっと新幹線に乗ったなんて知ったら、彼ら暴動を起こすだろうか。
 スーツとスーツの間に空いた席に座る。スーツが、ちょっと驚いた顔をするが気にしない。
 100LXで遊んでいると、何度か視線を感じる。隣の男、ずっとわたしを気にかけているらしい。トンネルに入った時、さりげなく窓に映った彼の目を確認した。彼の視線は、わたしの胸元に注がれていた。窓に映ったわたしの胸元は、かなり大きくはだけていた。もう少しでブラまで見えそうなほどだ。慌ててブラウスの前をあわせる。今さらのように赤面。

「もうすぐ静岡です」
 アナウンスがはいる。名古屋から1時間か。思ったより近い。相変わらずこちらを気にしている彼に軽く会釈をし、席を立つ。ドアのそばにたって、一刻も早く静岡を見たい。
 ドアの前に立つと、いきなりトンネルにはいる。窓の外はまっくらだ。興がそがれた。トンネルなら、どこだって同じだ。
 やがて、トンネルを抜ける。と、いきなり目の前がブルーになった。海だ。海と空だ。真っ青に晴れ渡った……。
 笑ってしまう。海だ。唐突に、当たり前のように、静岡だ。
 笑いながら、泣く。こんなムズカシイことをやってのけてしまう自分に驚く。泣いている。海を見ただけで、忙しくも笑いながら泣こうとしている自分。こんなにも、わたしはここに来たかったのだ。

 新幹線がホームにすべりこむ。ドアが開き、ホームに降り立つ。暑い。夏みたいだ。
 駅のそばに、海はない。捜しに行かなくてはならない。バスに乗って、できるだけ海のそばに。おかしなくらい、気持ちがせいていた。

 バスに乗って、終点まで。なんでもない風景の中、ひとりバスを降りる。小学生が、ランドセルを背負って帰るのに出くわす。我が家の小学生も、帰ってくるころだ。わたしがいないので、心配するだろうか。いつもの気まぐれだと、気にせずにいてくれればいいけど。胸の奥が痛い。子供をおいて、夫をおいて、それでもここに来たいという強いわたしの気持ちは、いったいどこからやってくるのだろう。

 バス停から歩き出す。道は続く。なんでもない家、なんでもない洗濯物。子供が自転車で走りぬける。

 なだらかな坂を登り、大きな道のむこう。そこに、海があった。
 地平線でなく、水平線が見える。船と、波が見える。風が強いせいか、荒々しい波だ。
 急いで砂浜を駆けおりる。足が砂にめりこんで走りにくい。こんなことさえ、やたらとうれしい。
 波の音。潮の香り。見渡す限りの青、グリーン、紺。
 からだが全部海に刺激されていく。飲み込まれるような、包まれるような、熱く抱擁されるような錯覚。

 砂浜のテトラポットに腰かけ、思う存分海をながめる。
 なにもしなくていい。海をながめていれば、それだけで気持ちは凪いでいく。
 苦しみも、焦りも、悲しみもなにもかもが、霧が晴れるようにどこかへ散っていくような気がする。
 それを知っているから、
「海を見にいけばいいよ」
 彼は、毎日眉間にしわをよせているわたしにそういったのだ。
 もう一度目を閉じる。
 目を閉じると、もっと大きく聞こえる波の音。
 何度も何度もうちよせる音……。
(了)
(初出:1996年07月)
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登録日:2010年05月30日 15時53分
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