
著者:西巻裕(にしまきひろし)
小学校1年の時東京オリンピックの旗を振り、6年生の修学旅行の宿でアポロの月着陸を知る。写真を撮ったり文章を書いたり雑誌を作ったりの稼業で、今は福島の山奥に住みながらトライアルというマイナーモータースポーツの情報誌「自然山通信」を作っている。昔は機敏だったが、今は寝ることがなにより好きなぐうたらのおっさん。
エッセイ/エッセイ
川内村ざんねん譚(8)
[連載 | 連載中 | 全13話] 目次へ
川内村の萬屋、そしてお百姓さん。食と土地と生、あらゆることを仕事にするお百姓さんの万能さについて。
百姓という職業
我が村の基幹産業はなにか。ちょっと思いつかない。地元の長老に聞くと、怒ったように口をとがらせて、農業だという。そうか、農業か。昔は食事をするときに「お百姓さんに感謝をしなさい」といわれたものだ。百なんとかというコトバには、万能みたいな響きがある。デパートは百貨店という(イナカのばーちゃんたちはデパートのことをデバートと呼んだりすることがあるけど、うちの村にはそもそもデパートがない)。百貨店も、いわば万能ショップだ。
なんでもある百貨店に対するのが専門店だ。専門店、という言葉の響きに、わくわくするものを感じるようになったのはいつ頃からだろう。わくわくするのは、なんでもござれのお店にはわくわくしないことの裏返しである。今や死語になっているかもしれないけれど、イナカには萬屋というお店がある。いろんなものを扱うお店という意味で、百貨店の先祖みたいなもんだ。百に対して万だから、まさに万能だ。
ぼくんちには、歩いていけるところに商店が二軒ある。一軒は魚屋で、もう一軒は酒屋だ。昔は魚屋があと二軒と、雑貨屋が一軒あったらしい。震災のあとは商売あがったりでお店の存続も危ういらしいのだけど、それでもまだお店は続いている。ありがたい限り。このお店があるから、ぼくたちは生きていける。
魚屋と酒屋があれば、飲んで食うには困らない。けれど、ときにはカップラーメンが食べたくなることもあるし、お菓子もほしい。香典袋が必要なこともある。そんなものも、ここで売っている。酒屋で田植え用の長靴を買い、ワンカップを買って柿の種をごちそうになる。魚屋では焼き鳥の串を手に入れる(三本ちょうだいといったら売ってくれなくて、もらってしまった)、そういうおつきあいをさせていただいている。萬屋さんの定義はよくわかんないけど、万能ショップ(そのままだ)ということなんだろう。
専門店には専門店の価値があり、萬屋には萬屋の意義がある。最近、萬屋の存在が薄れがちなのは残念なことだ。
そして百姓。百姓は農家とイコールだという人もいるし、差別用語だという人もいる。百姓と呼ぶな、お百姓さんと呼べと注意してくれる人もいる。
このへんの人たちも、いまやあんまり百姓という言葉は使わない。いい印象のないことばなのかもしれない。
「おれたちは農大出てるからな」
と、自分の学歴を解説してくれる人もいる。ほんとに農大出てるのかと思ったら、我らが学校は農業だったと、そういうことだった。何人かに出身学校を聞けば見えてくる。このへんの人の出身高は、農大と山学校だ。オヤジに連れられて炭焼きにでかけていたようなおっさんたちは、山学校出身だ。
彼らが自分たちの出身校を農大だ、山学校だ、というときには、言外に「おれたち学がないから」というエクスキューズがある。別にこちとらだってまともに学校を出ているわけじゃないのだけれど、パソコンが使えてインターネットが使えるというのは学がないとできない技術なのらしい。
なんでそんなに謙遜しているのかなと、最初は不思議だった。世の中は学歴で決まるわけじゃないし、まして人の価値を決めるもんじゃない。そんなあたりまえのことをぶつぶつつぶやきながら、いっしょに酒を飲んでいたものだった。
でも、都会人はついつい勘違いをしてしまう。おれたちは農大出ちゃってるからとへりくだられると、自分の方がえらい気持ちになっちまう。ハワイとか台湾だけじゃなくて、いろんな国にも行ったし、外国の友だちもいるし、キーボードだってちゃっちゃっと使えるし、なんていい気になっちゃった都会人を、農大出の彼らはにこにこと受け入れて、楽しい時間を過ごさせてくれる。
自分が恥ずかしくなるのは、もうちょっとおつきあいが深くなって、外の仕事を手伝ったりしたときだ。都会のヘッポコは、大地や植物や生き物を相手にする仕事は、おおよそ使い物にならない。敵は、ダテに農大だの山学校を出ているわけじゃないのだ。
百姓ということばの語源や解釈にはいろいろあるみたいだけど「百姓」とは、百の仕事を持つ人々、だと思っている。ぼくの定義では百姓とは、食と土地と生、あらゆることを仕事にする職業だ。
まず米を作る。田を耕すには、大きな力が必要なので、かつては牛にお願いした。牛は、収穫したワラを食べ、稲の実の部分は人間が食べる。作物を牛と人間が分けあうのだ。牛がうんちすれば肥やしとなり、また作物を育ててくれる。
野菜も作る。主な野菜の収穫は夏から秋にかけてだが、ダイコンは寒い冬の時期に作る。ダイコンは凍らないように地面に埋めたりして、漬物にもなる。お米とたくわんと、みそ汁は一年中食うに困らない。
暖房は炭と薪だ。部屋の中では火鉢に炭、風呂とご飯を炊くのにも薪を使う。茅葺き屋根は煙でいぶされて長持ちする。墨を作ったり木を切り出して薪を割るのも、もちろん百姓の大事な仕事だ。
会社員でいえば、こっちの事業部もあっちの事業部も、すべて一人で仕切っているようなものだ。だからして、そのお仕事を百姓と呼ぶのだと、ぼくは思っている。
TPPで推し進めようとしている近未来の大規模農業に従事する人たちは百姓とは呼ばない。株式会社「農業」の一事業部の一従業員だ。そういう仕事形態が、この先には一般的かつ重要になるんだろう。
でも日本の強さは百姓にある。日本は高度成長の延長線でがんばろうとしているけれど、高度成長時代に食料を生産していたのは、イナカで学んだお百姓さんたちではないか。
しかし、いまだに、お百姓さんたちは控えめに、声を上げることなく生きている。もったいない。彼らをおろそかにしていたしっぺ返しは、いつかきっとやってくる。日本が本当に戦争をするようになったら、おっかないのは戦争に出て戦って死ぬよりも、輸入が途絶えて餓死することじゃないかと思う。そのときお百姓さんを頼っても、もう遅い。
お百姓さんを大事にしない残念、自分たちをあんまり過小評価しているお百姓さんも残念。その残念に気がつくまで、ぼくは山学校や農大出のすてきな先輩たちと、すてきな時間を過ごしていこうと思っている。
我が村の基幹産業はなにか。ちょっと思いつかない。地元の長老に聞くと、怒ったように口をとがらせて、農業だという。そうか、農業か。昔は食事をするときに「お百姓さんに感謝をしなさい」といわれたものだ。百なんとかというコトバには、万能みたいな響きがある。デパートは百貨店という(イナカのばーちゃんたちはデパートのことをデバートと呼んだりすることがあるけど、うちの村にはそもそもデパートがない)。百貨店も、いわば万能ショップだ。
なんでもある百貨店に対するのが専門店だ。専門店、という言葉の響きに、わくわくするものを感じるようになったのはいつ頃からだろう。わくわくするのは、なんでもござれのお店にはわくわくしないことの裏返しである。今や死語になっているかもしれないけれど、イナカには萬屋というお店がある。いろんなものを扱うお店という意味で、百貨店の先祖みたいなもんだ。百に対して万だから、まさに万能だ。

魚屋と酒屋があれば、飲んで食うには困らない。けれど、ときにはカップラーメンが食べたくなることもあるし、お菓子もほしい。香典袋が必要なこともある。そんなものも、ここで売っている。酒屋で田植え用の長靴を買い、ワンカップを買って柿の種をごちそうになる。魚屋では焼き鳥の串を手に入れる(三本ちょうだいといったら売ってくれなくて、もらってしまった)、そういうおつきあいをさせていただいている。萬屋さんの定義はよくわかんないけど、万能ショップ(そのままだ)ということなんだろう。
専門店には専門店の価値があり、萬屋には萬屋の意義がある。最近、萬屋の存在が薄れがちなのは残念なことだ。
そして百姓。百姓は農家とイコールだという人もいるし、差別用語だという人もいる。百姓と呼ぶな、お百姓さんと呼べと注意してくれる人もいる。
このへんの人たちも、いまやあんまり百姓という言葉は使わない。いい印象のないことばなのかもしれない。
「おれたちは農大出てるからな」
と、自分の学歴を解説してくれる人もいる。ほんとに農大出てるのかと思ったら、我らが学校は農業だったと、そういうことだった。何人かに出身学校を聞けば見えてくる。このへんの人の出身高は、農大と山学校だ。オヤジに連れられて炭焼きにでかけていたようなおっさんたちは、山学校出身だ。
彼らが自分たちの出身校を農大だ、山学校だ、というときには、言外に「おれたち学がないから」というエクスキューズがある。別にこちとらだってまともに学校を出ているわけじゃないのだけれど、パソコンが使えてインターネットが使えるというのは学がないとできない技術なのらしい。
なんでそんなに謙遜しているのかなと、最初は不思議だった。世の中は学歴で決まるわけじゃないし、まして人の価値を決めるもんじゃない。そんなあたりまえのことをぶつぶつつぶやきながら、いっしょに酒を飲んでいたものだった。
でも、都会人はついつい勘違いをしてしまう。おれたちは農大出ちゃってるからとへりくだられると、自分の方がえらい気持ちになっちまう。ハワイとか台湾だけじゃなくて、いろんな国にも行ったし、外国の友だちもいるし、キーボードだってちゃっちゃっと使えるし、なんていい気になっちゃった都会人を、農大出の彼らはにこにこと受け入れて、楽しい時間を過ごさせてくれる。
自分が恥ずかしくなるのは、もうちょっとおつきあいが深くなって、外の仕事を手伝ったりしたときだ。都会のヘッポコは、大地や植物や生き物を相手にする仕事は、おおよそ使い物にならない。敵は、ダテに農大だの山学校を出ているわけじゃないのだ。
百姓ということばの語源や解釈にはいろいろあるみたいだけど「百姓」とは、百の仕事を持つ人々、だと思っている。ぼくの定義では百姓とは、食と土地と生、あらゆることを仕事にする職業だ。

野菜も作る。主な野菜の収穫は夏から秋にかけてだが、ダイコンは寒い冬の時期に作る。ダイコンは凍らないように地面に埋めたりして、漬物にもなる。お米とたくわんと、みそ汁は一年中食うに困らない。
暖房は炭と薪だ。部屋の中では火鉢に炭、風呂とご飯を炊くのにも薪を使う。茅葺き屋根は煙でいぶされて長持ちする。墨を作ったり木を切り出して薪を割るのも、もちろん百姓の大事な仕事だ。
会社員でいえば、こっちの事業部もあっちの事業部も、すべて一人で仕切っているようなものだ。だからして、そのお仕事を百姓と呼ぶのだと、ぼくは思っている。
TPPで推し進めようとしている近未来の大規模農業に従事する人たちは百姓とは呼ばない。株式会社「農業」の一事業部の一従業員だ。そういう仕事形態が、この先には一般的かつ重要になるんだろう。
でも日本の強さは百姓にある。日本は高度成長の延長線でがんばろうとしているけれど、高度成長時代に食料を生産していたのは、イナカで学んだお百姓さんたちではないか。
しかし、いまだに、お百姓さんたちは控えめに、声を上げることなく生きている。もったいない。彼らをおろそかにしていたしっぺ返しは、いつかきっとやってくる。日本が本当に戦争をするようになったら、おっかないのは戦争に出て戦って死ぬよりも、輸入が途絶えて餓死することじゃないかと思う。そのときお百姓さんを頼っても、もう遅い。
お百姓さんを大事にしない残念、自分たちをあんまり過小評価しているお百姓さんも残念。その残念に気がつくまで、ぼくは山学校や農大出のすてきな先輩たちと、すてきな時間を過ごしていこうと思っている。
(つづく)
(初出:2016年02月21日)
(初出:2016年02月21日)
登録日:2016年02月21日 12時34分
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