かたやま伸枝
著者:かたやま伸枝(かたやまのぶえ)
1963年生まれ。NHK教育テレビ「おはなしのくに」原作でデビュー。現在「マイナビウーマン」などWebを中心に作家活動中。また占い師(中野占い館「ランプ」で「碧」名で所属)としても暗躍中。物書きとしても占い師としても、人の心の中にあるイワクイイガタイキモチを掘り出して言葉にすることがライフワークです(占い師としては個人の秘密は厳守します)。2013年 第二回空想科學小説コンテスト、巽孝之賞受賞。
エッセイ/エッセイ

告白

[読切]
もう十年以上も前。すでに結婚していた彼と、つきあっていたとはいえ、ふたりですごしているときも、まだ肌寒さと心細さがぬけなかったころ。彼と仕事がらみで住宅を見て回り、へとへとになって、ようやく夕食のためデパートの立体駐車場に車を止め――うんと体を伸ばすと、突然、彼が声をあげた。
 もう十年以上も前のことになる。わたしはまだ二十三歳で、その人はもう三十八歳だった。相手の人は結婚していた。
 そのときは、まだちょっと微妙な間柄だった。
 いくら好きだといい合っても肉体関係があっても、いささか何となく、おたがいがおたがいの心の中で明確な形を持っていないころ。
 いきおいでスタートはしたものの、気持ちの上では寄り添っているとはいえず「だいじょぶかな、だいじょぶかな」と、ひとりで思っているときも、ふたりですごしているときも、肌寒さと心細さがぬけなかったころ。
 そのくせ、毎日会社で机をとなりにならべて仕事をしているくせに、休みの日でも会う約束をしてしまうほど、ふたりして自分の気持ちをどうにもできないでいた。
 外で会うときはいつでも車だった。人に見つかると面倒だから……というのでもなく、デートはいつも仕事がらみで、住宅地へ物件を見に行くためだ。
 その人は不動産屋なのにめずらしくペーパードライバーで、移動にはいつも電車やタクシーを利用していたが、鎌倉や三浦半島の奥の住宅地を見てまわるのには、やはり都合が悪かったらしい。
「今日は多いですよ。鎌倉で八件見て回りますから」
 助手席に乗ってドアを閉めると、開口一番がこれだった。
「はあ……夕方まで、命があるといいですね」
 おそろしく運転のヘタな、赤いスカーレットが海辺の町の小さな駅を後にする。


 季節は、梅雨の終わりのころだった。空は低く雲がたれこめていて、時折さあっと小雨が降った。ワイパーのスイッチを切ったり入れたり。湘南の曇った水銀色の海が広がる道を走ったかと思うと、鎌倉の濃い緑の木々が空を閉ざす丘の細道を抜けていったり。
 車の中では、ふたりしてずっとしゃべり続けた。今となってはまったくおぼえていないような、飲んだ上での悪ふざけやTVコマーシャルの話、会社の人や自分たちの失敗話など、たわいもない話題で笑い転げた。
 だがそのうち鎌倉の高台の高級住宅地に入ると、わたしは口数が少なくなっていった。ともかく道が細く、坂道とカーブが急で十字路も多く、思わぬところが行き止まりだったりしたのだ。
「うわっ、また対向車だ」
 慎重に車を戻してすれ違えるところまでバックして、相手の車が通り過ぎるのを待つ。これを何度繰り返したろう。
 通り雨のつけた水滴で、車のうしろは見えづらい。窓をあけて首を出すと、むせかえるほど強い木々の香りと、粒が見えそうなほどびっしりとたちこめた霧が、肺の中に流れ込んでくる。
 そして風向きによっての突然の海のにおい。暑さと冷たさ、土と水と植物と海の濃厚な気配。ここから西へずっと続く海岸線の土地は、どこも天然の刺激がたえず五感をゆさぶる豊かさを備えているが、鎌倉はそのコントラストが極めて激しい場所のひとつである。
 幻惑した。いや、普通の人ならなんということはないのだろう。だがわたしの運転の腕前では、明細地図のコピーに赤鉛筆で印のついた場所をめざしていく細道の運転は、ひじょうに苦しかった。
 しかし苦労して行き着いた先の物件は、どれも不思議で特別な場所だった。
 ある物件はまったくの更地で、道路に向いてぽっかりと、石がごろごろした空き地が広がっているだけだった。
 ある物件は「これが鎌倉?」と疑いたくなるような、板壁をトタン板で葺いただけのおそろしく貧しげな家が建っていた。
 またある物件は、高級そうなコンクリート造りの家に、蔦が一面びっしりとからみついていたりした。
 その人とわたしは赤鉛筆の印のあった場所につくと、それらの家や土地のまわりをぐるぐる回って隣地との境界を確認したり、外にあった水道の蛇口をひねってみたりした。
「このへんは、蛇口があるからって上水道が通っているとは限らないんですよ。土地の井戸から電気ポンプで汲み上げていたりするんです。ちゃんと見ておかないと」
 そんな言葉にふんふんとうなずきながら、でも新たな土地や家を見るたび、わたしは小さな衝撃を受けた。
 どの場所にも、以前に暮らしていた人のにおいというか、エネルギーの余韻というべきものが、きちんと残されていたのだ。
 まったくの更地になっても、それは消えることがない。土の中から、小石の下から、目に見えない陽炎のように立ち上って、ゆらゆらとそのあたりを漂っていた。
 なぜだろうか、と思った。
 そうだ。その場所には人が住んでいないからだ。まわりの家には人の気配がしっかりとするが、空っぽの家や土地に残ったのはその余韻だけだ。だからよけいにしんみりと心を打つのだろうと、わたしは運転でぼんやりした頭で考えていた。
 そんな風にして、朝の十時から夕方の六時まで、途中のファミリーレストランでのあわただしい昼食をはさんで、わたしとその人は鎌倉の不動産物件を見て回った。
 正直いってへとへとだった。帰りには、信号待ちでうっかり停車しなくてはいけないラインを超えて、たいへんな目にあった。前方の信号だけに気をとられていたら、突然真横から「ファンッ!」と大きな警笛が聞こえてきたのだ。
 右を向くと、江ノ電が二メートルほどすぐ横で止まっていた。江ノ島鎌倉電鉄は、線路と道路が交わる場所がいくつかある。赤のスターレットは、江ノ電の線路の真上で停車していた。電車の正面というのは、間近で見るととんでもなく迫力がある。極彩色の真四角な鉄の壁が、うしろに続くものの密度と重さをともなって、みっしりと迫ってくるのだ。
 心臓が止まるかと思った。
「うわあっ」
 ウィンドウ越しに運転手さんにペコペコと頭を下げながら、信号が青になったら猛スピードでその場を後にした。
 今日が終わったら、半年ぐらい車の運転はしたくないと思った。特に湘南海岸と鎌倉はたくさんだ。
 その人は助手席で「あなたって、すごいなあ。なんたって江ノ電を止めちゃうんだもの」と、それから三十分ぐらいずっとわたしをからかい続けた。


 夜も七時になって、ようやく運転手のお勤めから解放されて夕食をとることになった。デパートの立体駐車場に車をとめると、よろけながら運転席から外に出た。
「ああ、体を伸ばすって気持ちいい」
 わたしは立体駐車場のうす暗い中で、開放感いっぱいに歩きながら伸びをした。すると急にその人が、大声をだした。
「のぶちゃん、スカートのうしろ!」
 わたしは「へっ?」と思って、いわれた通りに振り返ってスカートのうしろを見た。
「あっ!」
 お気に入りの白地に紺のチェックのスカートには、手のひらほどの赤黒いシミがべっとりとついていた。
 そうだ。今日は生理だった。
 この赤いシミは、生理の血液がスカートに染みてできたのだ。
 とたんにわたしはマネキン人形のように突っ立ったまま、動けなくなった。
 なんで気がつかなかったのだろう。いや、お昼にかえてそのまんまだったからだ。その後は運転に夢中で、自分の体のことはきれいさっぱり忘れていたのだ。
 女なのに。
 もう、何もかも終わりだと思った。わたしは二度とこの人に会えない。
 たしかに毎日会社で顔を合わせるかもしれないが、たとえ会っているとしても、もう今までとは「会う」という意味がまったく別のものになるのは、まちがいがなかった。
 どういうわけか、ちょっとだけ笑い出しそうになった。
 だがそれから二秒もしないうちに、その人はうしろから抱きしめるようにしてわたしの腰に自分の着ていたジャケットを巻きつけると、そのままぐいぐいと手を引っ張って、デパートの中へと歩き出した。
「どれにしますか。早く決めてください」
 連れてこられた婦人服売場は、一面スカートだらけだった。わたしは血液で汚れていないスカートなら何でもありがたかったので、三秒で決めて「じゃあこれに……」といおうとした。
 いい終わらないうちにその人はスカートをひったくって、レジへ向かった。
 その後は、下着売場へ連れて行かれた。
「ここはわたし入れませんから、自分で買ってきてください」
 わたしはこれ以上はできないほどの早歩きで、下着を買って戻ってきた。
「はい、トイレ行って、すぐトイレ」
 その人はぐいぐいとわたしの手を引いて、婦人用トイレの前まで連れていった。
 今までの服を捨てて着替えて出ていくと、その人はニコニコ笑って立っていた。
「だいじょぶですか」
「ええ、まあ……」
 曖昧な返事をすると、いきなり後頭部を平手でたたかれた。
「痛いっ」
 頭に手をやる間もなく、それから三連発でパコパコパコとまた後頭部をたたかれた。かなり思いっきりだ。
「痛いですってばっ!」
「だいじょうぶですね。元気そうじゃない」
 その人は笑っていた。だからわたしも笑った。
「そう。のぶちゃんは笑って。笑っていなくっちゃ」
 それから何十回となく聞くこととなるその人の口ぐせを、わたしはその時、はじめて聞かされたのだった。


 そういうわけで、わたしの前では何をしても恥ずかしがることはない。
 何をいおうと何をしようと、気にしなくていい。
 たとえあなたが、ゲロを吐こうがウンコやおしっこをもらそうが、ぜんぜん平気だ。
 あれから十年以上の歳月がたってしまい、もうすっかり面影も薄れて消えかかり、顔も思い出せなくなった亡きその人から、もらったものはこれだけでない。
 あまりにもたくさんすぎて重すぎて、今もいろいろ持てあましている。もしできるなら、少し手伝ってほしいくらいなのだ。
 だからあなたはわたしの前では、決して恥ずかしがらないでいてほしい。
 そして笑って。
(了)
(初出:2001年05月)
登録日:2010年06月15日 17時24分
タグ : 不倫 告白

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