
著者:おおみち礼治(おおみちれいじ)
1968年生まれ。16歳のとき、尿検査でたんぱく尿が出ていると言われ検査入院。小康状態を保っていたが、25歳で人工透析を導入。現在は、フリーランスとしてホームページを作成したり、PHPやDBをいじっている。ほとんど趣味かも。
エッセイ/エッセイ
宣う躰(6)
[連載 | 連載中 | 全8話] 目次へ
患者達に密かに付けられたあだ名は“キンニク”。ボディービルで鍛えられた肉体に支えられた元気な医師だったが、患者側から見ると必ずしも頼りがいがあると云えるわけではないようだ。
元気な人たち
これから手術で、いったいどうなってしまうのか、不安と恐怖で顔を青くし、吐きそうなくらいドキドキしながらストレッチャーに載せられようとしている人に、「なにやってんの、とっととしなさい!」と、まるでベルトコンベアに載せられて処理される物に言うかのような看護師がいた。
こわいひとだなあ、と思ったものだが、いま考えれば、この女性はからだにメスを入れられる人の気持ちがわからなかったのだな。そういう人が看護師をしてはいけない。というか、患者としてはしてほしくない。
医師にも言える。
ボディービルで鍛えている医者がいた。もちろん、元気はつらつ、病気など一度もしたことがない。患者たちのあいだで、ひそかにつけられたあだ名は“キンニク”であった。彼はよく、「なんと言われようと、オレはすることをするだけだ」と口にしていた。
患者になにを言われようが、医療者として必要なことをする、という意味らしい。いっけん立派だが、こういう人に、病気をして自由に体が動かない人間のいらだちや、これからどうなってしまうのかといった不安は想像できない。技術的に優れていたとしても、心がない。それではロボットみたいなものだ。
“キンニク”は、それが重要なことだとは考えていないようだったが、本当は逆に、患者の気持ちがわからないことで大変な間違いを犯しているのかもしれないという不安を押し殺すために、そう自分に言い聞かせていたのかもしれない。
病気をするとはどういうことかわからないと、患者と対峙したとき、その気持ちをくみとって安心させることができないため、とにかくそれが必要なのだと教科書的な医学知識で押し通そうとする。そのような態度の医師が「こうだ」というものに反論できる余力は患者にはないので、嫌でもなんでも受け入れるしかなく、気持ち的に翻弄されてしまう。
シャント手術の直後、痛みと不安と、片腕が不自由で思ったことができなくていらいらしているとき、“キンニク”に「それくらいのことでダメじゃん」と言われたことがある。
それはそうかもしれないが、納得はできなかった。元気のいい医師なので、その様子を見て励まされることもあるにはあったが、患者の気持ちをわかって話しができるタイプの医師でなかったのはたしかで、言っても無駄かなとあきらめることも多かった。
患者の気持ちがわかる医療を、といったスローガンをときどき聞くが、本当にわかるためには経験してもらうしかない。医療者として何十年と関わっていれば、そのうちわかるように――ならない。透析専門30年の看護師さんも、「患者さんはこう言う」「こうであるらしい」と、よく知っているが、では、わかっているのかというとそうでもない。
ともかく、医師であれ誰であれ、わかってもらえはしない。せいぜい、同じ病気症状を体験した人に、そうですねと言ってもらえるくらいなものだ。わかってもらおうと努力しても、けっきょくわかってもらえはしないのだ、とわかるだけだ。
だから、するならその逆をすべきだ。外ではなく内にベクトルを向けるのである。みな、懸命に治そうとするが、「自分の原因」には見向きもしない。他人や環境ではない。そのように見えたとしても表層にすぎず、まず、それを招いた原因が自分の中にあるものだ。悪いといっているのではない。善悪ではない。
原因なく、何の脈絡もなく、突然、結果(病気)だけが現れることは絶対にない。偶然を認めるというなら、世の中はデタラメだということになる。いや、確かにデタラメかもしれないが、少なくとも食べて出して寝ているでしょう。それすらままならぬほど滅茶苦茶だということだ。手術で腫瘍を取り省けたとしても、そうなった――自分の中から現れた腫瘍を作り出した原因がそのままでは、また同じ事になるのは目に見えている。
話がそれた。
ともかく、医師にそこまで期待してはいけない。彼らは病気の専門家なのであって、人間はもちろん、生命についても語れない。カラダの痛みも、心の痛みも知らぬ。診てもらうなら、よく勉強している人なのはもちろんだが、できることなら病気がちな医師の方がいい。
これから手術で、いったいどうなってしまうのか、不安と恐怖で顔を青くし、吐きそうなくらいドキドキしながらストレッチャーに載せられようとしている人に、「なにやってんの、とっととしなさい!」と、まるでベルトコンベアに載せられて処理される物に言うかのような看護師がいた。
こわいひとだなあ、と思ったものだが、いま考えれば、この女性はからだにメスを入れられる人の気持ちがわからなかったのだな。そういう人が看護師をしてはいけない。というか、患者としてはしてほしくない。
医師にも言える。
ボディービルで鍛えている医者がいた。もちろん、元気はつらつ、病気など一度もしたことがない。患者たちのあいだで、ひそかにつけられたあだ名は“キンニク”であった。彼はよく、「なんと言われようと、オレはすることをするだけだ」と口にしていた。
患者になにを言われようが、医療者として必要なことをする、という意味らしい。いっけん立派だが、こういう人に、病気をして自由に体が動かない人間のいらだちや、これからどうなってしまうのかといった不安は想像できない。技術的に優れていたとしても、心がない。それではロボットみたいなものだ。
“キンニク”は、それが重要なことだとは考えていないようだったが、本当は逆に、患者の気持ちがわからないことで大変な間違いを犯しているのかもしれないという不安を押し殺すために、そう自分に言い聞かせていたのかもしれない。
病気をするとはどういうことかわからないと、患者と対峙したとき、その気持ちをくみとって安心させることができないため、とにかくそれが必要なのだと教科書的な医学知識で押し通そうとする。そのような態度の医師が「こうだ」というものに反論できる余力は患者にはないので、嫌でもなんでも受け入れるしかなく、気持ち的に翻弄されてしまう。
シャント手術の直後、痛みと不安と、片腕が不自由で思ったことができなくていらいらしているとき、“キンニク”に「それくらいのことでダメじゃん」と言われたことがある。
それはそうかもしれないが、納得はできなかった。元気のいい医師なので、その様子を見て励まされることもあるにはあったが、患者の気持ちをわかって話しができるタイプの医師でなかったのはたしかで、言っても無駄かなとあきらめることも多かった。
患者の気持ちがわかる医療を、といったスローガンをときどき聞くが、本当にわかるためには経験してもらうしかない。医療者として何十年と関わっていれば、そのうちわかるように――ならない。透析専門30年の看護師さんも、「患者さんはこう言う」「こうであるらしい」と、よく知っているが、では、わかっているのかというとそうでもない。
ともかく、医師であれ誰であれ、わかってもらえはしない。せいぜい、同じ病気症状を体験した人に、そうですねと言ってもらえるくらいなものだ。わかってもらおうと努力しても、けっきょくわかってもらえはしないのだ、とわかるだけだ。
だから、するならその逆をすべきだ。外ではなく内にベクトルを向けるのである。みな、懸命に治そうとするが、「自分の原因」には見向きもしない。他人や環境ではない。そのように見えたとしても表層にすぎず、まず、それを招いた原因が自分の中にあるものだ。悪いといっているのではない。善悪ではない。
原因なく、何の脈絡もなく、突然、結果(病気)だけが現れることは絶対にない。偶然を認めるというなら、世の中はデタラメだということになる。いや、確かにデタラメかもしれないが、少なくとも食べて出して寝ているでしょう。それすらままならぬほど滅茶苦茶だということだ。手術で腫瘍を取り省けたとしても、そうなった――自分の中から現れた腫瘍を作り出した原因がそのままでは、また同じ事になるのは目に見えている。
話がそれた。
ともかく、医師にそこまで期待してはいけない。彼らは病気の専門家なのであって、人間はもちろん、生命についても語れない。カラダの痛みも、心の痛みも知らぬ。診てもらうなら、よく勉強している人なのはもちろんだが、できることなら病気がちな医師の方がいい。
(つづく)
(初出:2014年05月28日)
(初出:2014年05月28日)
登録日:2014年05月28日 18時23分
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