おおみち礼治
著者:おおみち礼治(おおみちれいじ)
1968年生まれ。16歳のとき、尿検査でたんぱく尿が出ていると言われ検査入院。小康状態を保っていたが、25歳で人工透析を導入。現在は、フリーランスとしてホームページを作成したり、PHPやDBをいじっている。ほとんど趣味かも。
エッセイ/エッセイ

宣う躰(7)

[連載 | 連載中 | 全8話] 目次へ
先天性尿管逆流の手術を終え、回復を待つ著者。長い入院生活で高校の出席日数が足りなくなり留年が確定する。術後の経過について。
■術後 - 1985.10

 手術から一週間ほどして、やっと自分で食事をし、ベッドから下りて歩くことが出来るようになった。歩くといっても補助器具を使いながらであって、すぐに自力で歩けるようになったわけではない。補助器具は、上から見てUの字になった鉄の棒に体をあずけ(わきを乗せて)、下には車輪が付いているので、足を動かすだけで移動できるものだ。
 手術跡が痛んで力が入らないので、だらーっとしたなさけない格好になるが、少しでも体を動かさないと回復しないので、痛かろうが何だろうが、強制的に歩かされる。洗顔もトイレも食事の受け取りもそれで行く。まあ、一六歳であったから、何日もしないで自立できるようになり、膀胱の横とペニスの先から入れられていたカテーテルも抜かれて元気になったのだが、補助器具を手放さず、片足をかけてスケーターのように病棟内を走り回っていた。だって面白かったんだもーん。
 看護師に見つかったらきっと叱られるだろうと思ったので、なるだけ昼間のナースセンターに人が少ない時間帯を見て爆走した。すれ違った人は驚いたに違いない。

 それからさらに数日が過ぎ、看護師に見つかって補助器具を取り上げられると暇である。本屋に行ったときのことだ。病棟の一階には、喫茶店やレストランのほか、いまでいうコンビニのような雑貨店と本屋があった。六階の病室からエレベーターで降り、病衣のまま雑誌を手に取って立ち読みしていると、足が震えてくるのである。体力が落ちすぎて立っていられないのだ。
 これはなかなか衝撃的なことで、その場で動けなくなってもいけないのですぐに戻ろうと――少しでも体力を取り戻さなくてはならぬと階段でいつものように一段飛ばしで駆け上がろうとし、最初の一段でつまづいた。足に力が入らず、ガクッとその場でしりもちをついてしまったのである。手術は体力を必要とする。このときの体重はハッキリと覚えていないが、30キロくらいだったと思う。なんとなく気落ちし、おとなしくエレベーターを使って病室に戻った。

 入院したのが夏休みに入った初日、七月だった。
 すでに一〇月を過ぎていた。
 特段、あせる気持ちはなかったが、朝、食堂に食事を片付けに行くと、窓から病院近くの高校に通う生徒が、自転車でえっちらおっちらと坂道を上がっていくのが見えた。入院していた泌尿器科病棟に子どもは自分ひとりだけだ。孤独感にさいなまれたりしていたところ、学校の担任から「出席日数が足りない」と通告を受けた。
 留年である。
 入院したてのころは、上げ膳据え膳の上、冷暖房完備で、若い女の人(看護師)と話しも出来て、悪くないやんと思っていたが、手術を経験し、さすがに三ヶ月もたつと、そろそろどうにかならないかと思う。学校の友達が見舞いに来ることもなくなり、看護師に「暇なんだから、いつまででもここにいたら?」などと明るく言われ、むっとしたりしていたが、結局、退院したのは一一月の半ばであった。四ヶ月ほどの間、入院していたことになる。

 退院したからといって学校に通うわけでもなく、次の年の四月まで何もすることがない。いや、今後どうするのか――もういちど一年生から高校をやり直すのか、それとも退学して別の道を模索するのか問われていたが、無知な一六歳に選択肢は少なかった。
 最初は、高校を辞めて中卒でも可能な自動車の専門学校に入って、整備士の免許を取ろうと考えたが、同い年の親戚に、本当かどうかはともかく「そんな学校は不良が行くところだ」などと言われて断念した。実際は体力的に無理だったろうと思う。留年はいやだったが、親父に「高校くらいは卒業したほうがいい」と言われ、覚悟を決めた。

 四月。
 二回目の高校入学式を終え、教室に向かうと、なんと中学の後輩が同じクラスにいるではないか。知り合いがいて安心する気持ちもあったが、複雑な気持ちだ。いまの時代、そんなことをしたら問題になるかもしれないが、中学生当時、部活動が一緒で、後輩を鍛えるために板切れを持ってぶっ叩いていた。体育会系と思われるかもしれないが、部活は吹奏楽だった。いま考えると、いったいなにをしていたのかと思いますけどね。

 先輩扱いされたのは最初の一学期だけだった。そのうち、それぞれ仲間ができ、自分も「こいつら全員、年下」という意識も消えて、ごく普通の、毎日代わり映えのしない学生生活を送った。ただ、このころ、輸血のせいか、あるいは環境のせいなのか、そういう年齢だからなのか、性格が変わり、ひどく虚無的になっていた。何事もなく、普通に進学し、就職して、結婚していたなら、このような文章を書くことはなかったろう。
 どうも自分は五のつく年齢の前後に、いろいろあるらしい。次回は二五歳。透析導入となる。
(つづく)
(初出:2014年06月12日)
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登録日:2014年06月12日 19時15分
タグ : 手術 留年

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