紫苑
著者:紫苑(しおん)
日々の出来事を、ふと書き留めておきたい時がある。何の変哲もない風景に、こよなく愛着を感じる時がある。思わず涙ぐんだり、手を合わせてしまうほど感動を覚える時がある。そんな時は目を閉じて、心のキャンバスに、一枚、また一枚と、自分の生きた証に描いてきた。現在は、二人の成人した娘達と、姉妹のように共同生活を楽しんでいる。なにはともあれ、今が幸せならすべてよし、と充実した日々を送っている。
エッセイ/エッセイ

喪失

「バージン」と「信頼できる男」、「大好きだった彼への思い」を一度に喪失した私。トイレで倒れ、男性便器の裏側を目のあたりにしたのがその象徴なのだろう。淡々と語る過去の重い出来事。
 尿で黄ばんだ男性便器の裏側が頭上に見えた。
 一体、ここはどこなのだろう。身体を半分起こしてみた。
 頭を振って記憶の糸を手繰り寄せる。薄闇に何かが浮かんだ。
 ああそうだ、突然の目眩にトイレで卒倒したのだ。

「何だろう」
 急に不安が押し寄せて来て、潰れてしまいそうになった。
 制服の汚れを軽く掃って、ゆっくりと立ち上がってみた。
 今度は目眩もしないで、普通に立っていられた。
 後頭部がズキンとした。便器でしこたま打ち付けたのかもしれない。
 顔を両手でパンパンと強く叩いた。訳の分からない闇から、はっきりと目が覚めた。

 S銀行の支店の従業員トイレは、一つしかなかった。入って左側に男性便器が二個並び、正面に個室が二個、右側に洗面台があった。多分、用を足した後、手を洗っているうちに卒倒したのだろう。それなら男性便器の真下に居たことに納得が行く。それにしても、こんなことは今まで一度もなかったのに、と更に不安になって、胸のうちがもやもやといつまでも晴れなかった。

 何食わぬ顔で窓口の席に戻った。
「まさか、そんなはず……」
 頭を強く振って、突然浮かんだことを払おうとした。
 隣接した商店街の若い店主が
「なんだか顔色悪いけど、どこか具合でも悪いんじゃないの?」
 顔見知りの気安さで、カウンター越しにわたしの顔を覗き込んだ。
「いいえ、どこも悪くありません。大丈夫です」
 わたしは、慌てて何でもない素振りをしたけれど、それはどこかぎこちなかった。
「そう? それならいいけど、いつもと違ってたからさ」
 店主は当座入金帳を受け取ると、忙しそうに店を出て行った。
 彼の後ろ姿を目で追いながら、不安であいた胸の綻びが、すごい勢いで大きく広がって行くのを、わたしは感じた。

「もしかして、最悪の状態が起きたかもしれない」
 二週間ほど前の悪夢を作った張本人へ逡巡した挙げ句、電話を入れた。
 彼は、二度と会わないとわたしが誓った男だった。
「それじゃ、今夜お店の前で待っているから」
 見覚えのある深緑のセリカを店の前に停め、クルマの中で男は煙草をくゆらせていた。わたしの姿を見つけて、慌てて煙草を灰皿の上で揉み消した。
「ここじゃなんだから、どこかへ行こうか」
 わたしが助手席に滑り込むのを待って、クルマをゆっくりと出した。
「大丈夫だと思うけどね」
 わたしの不安を払拭するようにそう言った。わたしは返す言葉がなく俯いていた。
 クルマに立ち込めた煙草の臭いが鼻についた。強い吐き気で喉の奥が何度もうっ、うっと鳴った。
 もしそうだったらどうしよう、厳しい父親の顔がちらついて、不安が一層募った。
一、二度入ったことがあるインターチェンジ近くの喫茶店の前に、彼はクルマを停めた。
「さあ、降りて」
 わたしは促されるままに、クルマを降りた。
 最早、頭の中は真っ白になり、胸の中には暗雲が渦巻いていた。
 店の前に立つと、ウィーンと音を立てて自動ドアが左に開いた。店はすいていて、一組の中年男女が入り口近くに座っているだけだった。それでも、咄嗟に人目につかない席を目で探した。角の観葉植物の側の席を選んで座った。入り口からは死角になっていて、わたしの姿は見えないはずだった。
「心配なら、なるべく早い方がいい。明日は無理だけど、明後日なら僕のほうは時間が取れるから、あなたはどう?」
「明日休暇願いを出すから、明後日は大丈夫だと思います」
 わたしは、俯いたままで顔を上げることができなかった。
「まさかねぇ、初めてでねぇ」
 男はそう言って、吸い込んだ煙草の煙を一気にふぅーっと吐いた。辺りに紫煙が立ち込めてもわもわと広がった。
 わたしはその煙を吸い込んでゲホゲホとむせた。むせながら身体の奥から吐き気が再びウッと込み上げて来た。それをきっかけに、堰を切ったように涙が溢れ出た。
 何の涙だろう、わたしはふと冷静に自分の内面を覗いていた。それは多分、男に対する憎悪であり、自分自身に対する悔しさのようなものだった。

「間違いありません。おめでたです」
 診察を終えた医師はわたしに事実だけを淡々と告げた。それ以上は何も聞きも言いもしなかった。わたしの様子から、すべてを察したのかもしれない。
 まるで死刑を宣告されたような衝撃が、わたしの末端へとじわじわ広がった。俯いたまま、その衝撃を全身で受け止めた。真紅のニットのスカートの上に、涙がころんと転がって弾けた。
 男が会計を済ませて、待合室の片隅に座っていたわたしの前に立った。
「困ったねぇ」
そう言いながらも、大して困った顔はしていなかった。
「どこかでご飯でも食べようか」
 近くの病院は警戒して、県境を越えてやって来た。クルマの窓を開けると磯の香りが夥しく入って来た。そうか日本海まで来ていたのか、やっとすべての情況をわたしは把握した。
「悪かったね。全部俺が悪いんだから」
「……」
「悪いようにはしないから、当座お金が必要だと思って用意して来た」
 そう言って男は、分厚い茶封筒を寄越した。わたしはそれを黙って受け取った。

 男は、店の客だった。わたしが相談相手として最も信頼していた男だった。色が黒くて精悍で、その上誠実そうな面差しを持っていた。物腰が柔らかく、支店長の信頼も厚かったし、店の上得意の経理担当者だった。
 休日に立ち寄ったレストランで偶然出会って、それから店でもよく話すようになった。わたしは身内にでも打ち明けるように、好きな相手のことをことごとく男に相談していた。男は、そういう時の男の気持ちは、こうだ、ああだとまるで男の代表者にでもなったようにわたしに話して聞かせた。
「俺には妹がいないけど、あなたはまるで妹のようだ」が男の口癖だった。だから、すっかりわたしは男の妹に成り下がっていた。

       *

 その日も、好きで仕方がない彼とうまく行かなくて落ち込んでいた。こんなに彼のことが好きなんだけど、どうしたらいいのかと男に訴えた。男はいつものように親切だったし、普段と少しも違わなかった。違っていたとしたら、別居中の妻と行き詰まっていたのかもしれない。わたしは自分の恋が辛くて、その事にまるで気付かなかった。男は突然、行こうと立ち上がって店を出た。慌てて男の後を追った。峠の頂上にあったドライブインは、すっかり日が落ちてネオンが煌いていた。真夏の夜の暑さがねっとりと身体にまとわりついた。
「あ、もう門限に間に合わなくなっちゃう。ねぇ、急いで送って。じゃないと父さんにこっぴどく叱られてしまうわ」
 男は、わたしの父親が小うるさいことを承知していたし、実際に父親とも仕事上で面識があった。わたしの言葉が聞こえなかったのか、男はそれには何も答えなかった。何か気まずいことでも言ってしまったのかと、吐いた言葉をわたしは反芻してみた。けれども、特に心当たりは何もなかった。
「ねぇ、ねぇ、急いで! もう八時になっちゃった」
 自宅から小一時間クルマで走って来た。逆算したら急がないと、門限の九時には間に合いそうもなかった。
 それでも男は答えなかった。無言のままアクセルを踏み込んで、スピードをギュンと上げた。男の横顔からは、いつもの穏やかで優しい面差しは消えていて、見たこともない形相が、外から入る明かりにチラチラ浮かび上がった。咄嗟に底知れない恐怖を感じ、これから起こりうる出来事が一瞬わたしの脳裏を掠めた。

 わたしは糊の効き過ぎたシーツの上に転がされていた。背中がごわごわして、不愉快だった。
「大丈夫。そんなつれない男のことは、俺が忘れさせてあげるから」
 男は、今まで見せたこともないほど下品な顔をしていた。
「いや、お願いだから止めて」
 わたしは男の良心へ向けて哀願をした。
「いつか誰かのものになるんだから、それだったら俺に頂戴。妻と離婚したら結婚してあげるから」
「いやよ。わたしには好きな人がいるんだから……知ってるでしょ? 彼以外の誰も好きにはなれないの。お願いだから結婚なんかしてくれなくていい。だから、それだけは勘弁して、後生だから」
 わたしはベッドの上を右に左に逃げた。逃げてるうちに、空しさが身体中を支配した。そして、この期に及んで逃げても無駄だろうと思った。好きにすればいいと思った。早く帰らないと、父さんに叱られると思った。玄関先で仁王立ちをして、わたしの帰りを待っているだろう父親の顔がちらついた。ほんの一瞬、力を抜いていた。
 その瞬間、身体を激痛が走った。痛くて悲鳴を上げたけど、どんなに泣き叫んでも、誰も助けてはくれなかった。わたしは諦めて、身体中の力を抜いた。涙がすーっと落ちて耳の中に入った。奥の方でガサッと音がした。それは苛立つほど気持ちが悪かった。もう、彼を好きでは居られない、わたしには資格がないんだ、
 そう思うと鼻の奥がツーンとした。
 大好きだった彼の笑顔が浮かんで、そして完全に消えた。

 男はわたしの身体から離れた。
「本当にバージンだったんだね。見てごらん」
 ごわごわのシーツがクシャクシャになっていた。
 乱れたシーツの上に、紛れもない印が滲んでいた。

(初出:2000年01月)
登録日:2010年06月22日 16時14分

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