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紫苑
著者:紫苑(しおん)
日々の出来事を、ふと書き留めておきたい時がある。何の変哲もない風景に、こよなく愛着を感じる時がある。思わず涙ぐんだり、手を合わせてしまうほど感動を覚える時がある。そんな時は目を閉じて、心のキャンバスに、一枚、また一枚と、自分の生きた証に描いてきた。現在は、二人の成人した娘達と、姉妹のように共同生活を楽しんでいる。なにはともあれ、今が幸せならすべてよし、と充実した日々を送っている。
エッセイ/エッセイ

バーチャルな罪

[読切]
子どもたちが、はりきって歌っている。気分の沈んでいた著者は、スポンサーとなって、ひっそりとカラオケボックスの隅に座っていた。携帯に出ると、シモヤマの家内と名乗る女性からであった。「わたし全部知ってしまいました。主人とあなたの関係を」
 カラオケの音量に辟易しながら読みかけの小説に目を落とした。
 照明が絞られた薄暗い小部屋で、先ほどから子供たちが熱唱している。知っている曲もあれば、耳慣れない歌もあった。わたしは気分が沈み、一緒に歌う気をそがれていた。今夜はスポンサーと化して、ひっそりと邪魔にならない場所に座っていた。かたわらに置いたヴィトンのバッグから振動が伝わった。誰かから携帯に電話が入ったらしい。

「もしもし」
 カラオケの音量に負けて、何も聞き取れない。
「もしもし」
 相手の声が判別できない。
「悪いけど音量下げてよ」
 子供に向かって怒鳴った。
「無理だよ、母さんが外へ出れば?」
 そうだ、わたしが外へ出れば良いのだ。
 慌てて外へ飛び出した。けれど、国道を走る車の騒音で相変わらず、電話の声は聞き取れない。一瞬、赤信号で車の流れが途切れた。

「もしもし、どなた?」
「シモヤマの家内です」
「シモヤマ?どちらのシモヤマさんかしら?」
「わたし全部知ってしまいました。主人とあなたの関係を」
「え?どういう事?」
「わたし、あなたと主人のメール、すべて読んでしまいました。だからあなたと主人の関係を知っているんです」
「もしかして、シモヤマさんって健さんのこと?」
「そうです。霜山健の家内です」
「で、健さんの奥さんがわたしに何の用なの?」
「だから、あなたと主人が出来てるってことを全部知ったんです。それでわたしと主人は別れることになりました」
 わたしは事の成り行きに慌てて言葉を探した。
「ねぇ、ちょっと待ってよ。わたしが原因で別れるってどういう事?現に健さんとわたしは何でもないわよ。それでいきなり別れるって言われても、わたしには何をどうすれば良いのか分からない……。大体この電話番号だって、健さんに
聞いたのでしょう?」
「ええ」
「わたしと健さんはメールの交換はしてたわ。でも手を繋いだこともないのに、出来てるってどういうこと?メールの交換が原因で、それで離婚するっていうの? ああそうですか?って聞き逃して良いこと?わたしに何をしてもらいたいの? わたしには奥さんの気持ちが皆目見当がつかないわ」
 彼女が何かを言いかけたとき、再び国道の車が流れ出した。
 六月の梅雨入りしたばかりの肌寒い夜の出来事だった。


 理由の分からない鬱陶しさが体にまとわりついた。
 わたしは思わず顔をしかめた。眉間に縦じわを作った。
 霜山 健とメールの交換を始めて、一年が過ぎていた。初めの頃は未知との遭遇的な好奇心から、それなりに楽しんだ。寂しさ紛れに過激なことも書いたけれど、それは所詮、絵に描いた餅のようなもので、本心からではなかった。

 モニターの向こう側には確か健が居て、一時の憂さ晴らしにはなったけれど、ただそれだけのことで「会いたい」と書いたことが、リアルに会いたい訳ではない。そう書くことで自分自身を思い切り解放することができる。パソコン通信はそういう気軽さでわたしの中に存在していた。
 霜山 健との出会いは、パソコン通信のとあるフォーラムだった。会議室の書き込みにレスがつくようになって、それとなくメールを交換するようになった。
 彼は、人の気持ちの奥の方で眠ってしまっている感情を、優しく揺り起こすような不思議な人だった。


 わたしは山ほど恋をした。最初のちょっとしたときめきは好きだけど、いつも直に冷めてしまう。相手が興味を持った瞬間、急に色褪せてつまらないものに摩り替わる。やはり、霜山 健とも特別な恋にはなり得なかった。メールを書く気力も萎えてしまって、わたしはいつしか彼から遠ざかった。かれこれもう四ヶ月も音信不通の状態だった。
 そこへ、彼の妻から電話が入り、お前の罪だと言わんばかりに訴えられている。
 これをどう説明すれば、彼の妻は理解できるというのだろうか?

 ますます眉間のしわは深くなった。煙草の臭いが染み付いた小部屋に戻り、座り心地の悪い変形した安物のソファーに身を沈めた。相変らず高音でシャウトする子供たちの歌は、カラオケの大音量と共に耳元でキンキンとわずらわしかった。
 でも今は、そのわずらわしさに救われている。訳の分からない苛立ちを包みかくしてくれていた。


「わたしは通信をする主人が許せないんです。わたしの知らない場所で、わたしの知らないことを知った人がたくさんいて、わたしだけが何も知らない。主人は何も話してくれません。だからこれ以上夫婦の関係を継続することには、耐えられないんです」
「それでわたしが原因で別れると訴えられても、一体どうすれば良いの?」
 彼女は沈黙した。意図が分からない。
 一年前のメールを読んだのであれば、いつそのメールが途切れたのか分かるだろうに。素早く頭の中で彼女の気持ちを読もうとしたけれど、真意が少しも分からなかった。霜山 健は確かに、わたしを好きだったのだろう。いや今でも好きなのかもしれない。だけど、わたしははっきりとその気持ちには、ケリをつけていた。あなたには好意を持っていたけれど、それ以上の感情はないと伝えてあった。彼はわたしに告げられてから、改めて気持ちに火が点いたのかもしれない。
 人と言うのは、何かを失いかけて始めて気付かされることが、多々あるものだから。

「いえ、もう良いんです。ただ、あなたにだけはちゃんと事実をお伝えしたかったから」
 そう言って、霜山 健の妻は一方的に電話を切った。
 後味の悪い感情がオリのように胸の中に深く沈んでいった。
 何かわたしがすべきことがあるのだろうか?
 両手を後頭部で組んで天井をじっと見あげた。薄汚れた天井で、ミラーボールが回り始めた。子供たちはますます叫声を上げている。
 部屋に染み込んだ煙草の臭いが、苛立たしさに拍車をかける。その部屋から飛び出したくなった。
「不愉快だから帰る!」
 急に立ち上がると、子供等も慌ててついて来た。
「何かあったの?」
「別に、何もないけど」
「何もないけど、何?」
「あの部屋の煙草の臭いがたまらなく苛立つからよ」
「それだけ?」
「そう、それだけ」
 納得の行かない顔で、それでもわたしに従った。


 一年前のログならまだ残っている。特に大切に溜め込んでいた訳でもない。わたしは過去を手繰り寄せるように、メールの過去ログを読み返した。フォルダの中には、霜山 健以外にも、たくさんの男の名前が連なっていた。一時は彼とのメールが連日のように交わされていて、その頃の単純な楽しさが文章に表れていた。
 でも、いつしかその単純さに飽きてしまった。絵に描いた餅は、バーチャルであり、リアルではなかった。
 霜山 健の名前を反転させては、削除した。大切な人の名前以外は、ついでに全部削除した。削除し続けた。これが原因だと言うのなら、これが罪だと言うのなら、すべて消してしまおうと思った。

 所詮、バーチャルである。
 削除してしまえば、それですべてがお終いである。
 最後のログをカチっとクリックした。
 これで、霜山 健とは完全に無関係になった。
(了)
(初出:2001年01月)
登録日:2010年06月22日 16時22分

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