
著者:北岡万季(きたおかまき)
猫科ホモサピエンス。富士山の麓で生まれ、瀬戸内海沿岸に生息中。頼まれると嫌と言えない外面の良さがありながら、好きじゃない相手に一歩踏み込まれると、一見さんお断りの冷たい眼差しを、身長165センチの高さから見下ろす冷酷な一面も持ち合わせる。これまで就いた職業は多種多様。現在は娘の通う私立小学校の役員をしつつ、静かに猫をかぶって専業主婦として生活している。
エッセイ/エッセイ
びば! 同居
長男の嫁である著者が、とうとうその親と同居を始めることになった。脳天気な夫と、送り出す実家の両親の涙。その狭間で揺れながら知らない土地へ運ばれて行く嫁。その先に待ち受けている姑との関係はいかに?
「オヤジ、俺、今年で仕事辞めて、こっち帰って来ることにしたよ。そのつもりでいてくれよな」
「ほお! ほんまか、そうしてくれるんか。ああ、よかったな 母さん」
「はい、よかったですねお父さん、……あ、万季さん、あなたも、もちろん一緒にきてくれるわね、ね。あーこれで安心だわぁ。ほほほ」
199×年正月、私に何の相談もなく、勝手に1年がスタートした。
結婚する前から「いずれは同居」といわれて承知はしていたものの、まだまだ先のことさと、のん気に構えていた。しかし、なんの前置きのない夫のUターン宣言が、私の心に時限爆弾装置をセットし、スタートボタンを押した。
チッチッチと音をたてて[あと365日]と表示されたのである。
夫は長男として意気揚々。夫の両親も、最愛の長男と、その息子のお見事なまでの縮小コピー版の顔を持つ孫娘と暮らせる幸せをかみしめているようだ。
考えてみて欲しい。自分のお腹の中に10ヵ月と10日、それはそれは大事に育てて、やーっと出てきた子供は、まんま夫の顔……。
自分の腹から他人の顔。こりゃ人生最大のホラーですわ。
かわいい初孫の娘は、当時生後8ヵ月。お座りがしっかりとできてよく笑い、人見知りもまだなく、かわいい盛りだ。
正月の帰省中、娘はじじばばの目の中にすっぽり入って可愛がってもらっていた。しかし、嫁は眼中にいない。ぽつーん。
「お母さんの顔を見ちゃうと、気が散るけぇね、ほほほ」
ピシャ!
目の前で襖を閉められた。姑は可愛い孫娘と2人っきりの、こってりと甘いおたふくソースの世界を満喫している。
――泣くもんか。その可愛い娘は私が産んだんだい。
さ、お片付け。嫁は進んで家事をこなす。ポイントは稼いでおかねば。
台所で洗い物をしていると、姑が無言で私の背後に立つ。
こういうとき……よいことはない。
「万季さん、ね、今年は引越しが年末に控えとるじゃろ……ね。ほほほ」
「は? なんでしょうか?」
「ほら、ね、子供は……ほほほ」
私は、泡だらけの手をわざわざ洗って拭き、くるりと姑の方に振返って、姑の顔を真顔でしっかと見つめてやった。
――ほれ、いうてみぃ、いいにくいだろ、じぃぃぃぃぃっ。
私の方が背は高い。冷たく見下ろしてやる。しかし姑の方が上手であった。
「今年は忙しいけぇね、赤ちゃんは作らんほうがええわね。控えんさい。ほほほ」
「……」
あまりにサラっといわれて反撃するチャンスを逃した。
――控えろだとぉ? 何を控えろっていうんだ。主語がないぞ!
「はい。お母様、今年はエッチするの控えます。でもそれじゃ息子さんが可哀相でしょ? コンドーさん買って送ってくださいね、ほほほぉーだ」
にっこり微笑んで、そう切り返せたらスッとするんだろうなぁ。
負け。
お正月もお終いになろうとした私の実家。そこでも夫は時限爆弾を設置した。
「お父さん、お母さん、僕、今年で仕事を辞めて広島に帰りますので」
新年の挨拶から、間髪入れずのいきなりの宣言で、両親ともに絶句。1人明るい夫は、うちの両親の顔色なんてぜんぜん気にしない。
「いやー、両親も年とったし、ほっとけないっスからねぇ、うはははは」
「そ、そうきゃ、とうとういっちまうのかぁ」
そう父が一言いっただけであった。
「ささ、飲もう飲もう。万季、もう1本ビールだ。ビール!」
ビールを夫に勧める父。つぐのも飲むのもピッチがぐんぐん早くなる。飲む飲む、更に飲む。そして酒の勢いで父は寝る。夫も敢え無く撃沈さて仰向けに倒れた。キツネさんとヤギさんが熊のようにびきをかき、コタツでヨダレを垂らして寝ている。
――母は?
振り向くと台所にいた。
アルプスの少女ハイジを見ても、フランダースの犬を見ても、娘が彼氏にフラれたときも、ティッシュ片手に、おいおいと泣く母である。
隣りまで行くとやはり鼻まで垂らして泣いていた。ティッシュを箱ごと渡す。ささ、どうぞ……。
「びるんじゃ だいばよ」(訳:見るんじゃないわよ)
その後、チッチッチッと音を立てて、月日は飛び散り、あっという間に時限爆弾バクハツの日を迎えた。
引越し荷物を見送った後、私たちは、同じ市内に住む私の実家に1泊して、翌日の朝、車で夫の郷里に旅立つ予定だ。
実家は、ついこの前新しい土地に家を新築し、兄夫婦と同居を始めたばかりである。私の匂いのする場所はもうどこにもないのだ。生まれ育った懐かしい家は、こっぱみじんに破壊されて消えた。
そのおかげかどうか、私は引越しに際してあまり悲しいとは思わなかった。
実家に帰ると、両親は水あげ2〜3日後の魚のような活きの悪い目をして、不自然に明るく努め、肩でため息を吐いていた。
母は1週間前から、夜な夜な泣き崩れ、ティッシュはおろかトイレットペーパーまで使って鼻を拭いていたという。
「おかげで、俺も眠れねぇ」
と父はこぼしていた。
しかし、両親は兄家族と同居である。私が遠くに行ったとしても、幼い孫2人がきっとすぐに両親の気持ちを癒すだろうと思うと、それが救いだった。
翌日朝10時、快晴。
旅立ちの朝である。富士山がいつもよりも大きく見えた。
「……だから俺は結婚に反対したんだ」
一刻な大工職人の父が小声で言ったのを、私以外に誰が聞いただろうか。
そもそも父は結婚に反対だった。
夫が「今日こそお嬢さんをボクにくださいッって言うぞぉッ」と意気込んできた日も、「えーっと、そうだそうだ」と言いつつ、ふらりを家を出て行方をくらました。日を改めて夫が参上しても、夫の実家が広島と聞くや、「遠いな、ダメ」とそっぽをむき、長男と聞くと、また言い訳を作って行方不明になった。
いつも父にそっぽ向かれた夫は、がっくりと肩を落とした。
それを見ていた母が、夫を不憫に思い「これを逃したら万季は一生独身だ」とかなんとか、半ば父を脅してむりやり首を立てに振らせ、ようやく結婚にこぎつけたのだ。
結果、結婚してわずか3年で娘を広島に連れてかれちゃうのである。淋しさもひとしおであろう。
「おい、万季、俺の臨終にゃあ間にあわねぇな、達者でくらせよ」
「お父さんたら、なにいってんの? 万季! お姑さんの言うことちゃんと聞いてね、だめよ威張っちゃ、それから、ま、負けちゃだめよお!」
ドラえもんにエプロンをさせたような母は、そう支離滅裂なセリフをいいきって、庭に干してあるシーツの向こうに隠れた。洗濯したてのシーツで顔を拭いている。
「じゃ、お兄ちゃん、お父さんが死にそうになったら早めに連絡してね、えへへ」
と冗談イッパツ食らわした……つもりが、見事にかすった。さぶい。
私は、この地を離れて暮らしたことがない。そりゃ先々のことを思えば、不安はてんこもりである。私の親もさぞ心配であろう。しかし私は、ずっと前から送り出してくれる両親の心を思って、「今日は絶対泣かない!」と固く心に誓っていたのだ。
母はもう真っ赤になって泣いていた。思わずこちらもウル目になる。
――泣くもんか。父譲りの一刻な性格なんだ。こうと決めたら曲げねぇよ。
「じゃ、お世話になりましたぁ、また来ますから、お元気で」
1人異様に明るい夫はカンペキに浮いていた。その妙に明るい声に押されるように車に乗り込んだ。
――さらばだ故郷よ。さらば富士山。
母は、シーツを目に当ててうわんうわん泣いていた。そこまで泣かなくても、と少し恥ずかしかった。
その真っ赤に泣きじゃくるドラえもんを横目に、父は淋しそうに笑っていた。兄はいつものように能面顔で右手を上げていた。義姉は、私の行く末を知ったかのように意味深げに微笑んでいた。
走り出した車の窓から、手のひとつでも振ってやろうと思ったが、とうとう後ろは振返れずに、景色は飛んで、家は瞬く間に後ろに消えていった。
その消え行く景色の中で、父だけが懸命に手を振っている。そして父の右手が目を押さえていたのだ。
――うわぁ、とうちゃんが泣いている。
その瞬間、私の顔は、母に負けないくらい真っ赤になって、滝のように涙があふれていた。
――泣くもんか。
泣いているのにそれを認めない自分は、やはり父と性格が似ている。きっと父も今頃「目にゴミが入りやがった」なんて聞かれもしない言い訳をつぶやいているに違いない。
そんなことには気づかない夫は、異様に明るい。るんるん状態なのだ。私はバックミラー越しに泣き顔を見られないよう、死角に入って泣いた。
「ま、なんかCDでも聞いてさぁ……あ、忘れ物ないよなぁ?」
能天気な夫はオーディオのスイッチを入れる。かかった曲はユーミンの『春よ来い』だった。超ウルトラ選曲ミス。これじゃ余計に泣けちまう。
「おでがい、べづど ぎょぐに ぢて」(訳:お願い別の曲にして)
「あ、あれぇ? オマエ、なに、泣いてんの? うそ? どうしたの?」
バレバレになってしまった。
――どうした、はないだろうが。うそ、はないだろう。だいたいねぇ、アンタは家に帰る気分だろうけど、あたしゃ連れてかれる気分なんだよッ!
夫は軽快に「同居」に向けてアクセルを踏み込む。
その後部座席で、少々腰が引けてる私なのだった。
「ほお! ほんまか、そうしてくれるんか。ああ、よかったな 母さん」
「はい、よかったですねお父さん、……あ、万季さん、あなたも、もちろん一緒にきてくれるわね、ね。あーこれで安心だわぁ。ほほほ」
199×年正月、私に何の相談もなく、勝手に1年がスタートした。
結婚する前から「いずれは同居」といわれて承知はしていたものの、まだまだ先のことさと、のん気に構えていた。しかし、なんの前置きのない夫のUターン宣言が、私の心に時限爆弾装置をセットし、スタートボタンを押した。
チッチッチと音をたてて[あと365日]と表示されたのである。
夫は長男として意気揚々。夫の両親も、最愛の長男と、その息子のお見事なまでの縮小コピー版の顔を持つ孫娘と暮らせる幸せをかみしめているようだ。
考えてみて欲しい。自分のお腹の中に10ヵ月と10日、それはそれは大事に育てて、やーっと出てきた子供は、まんま夫の顔……。
自分の腹から他人の顔。こりゃ人生最大のホラーですわ。
かわいい初孫の娘は、当時生後8ヵ月。お座りがしっかりとできてよく笑い、人見知りもまだなく、かわいい盛りだ。
正月の帰省中、娘はじじばばの目の中にすっぽり入って可愛がってもらっていた。しかし、嫁は眼中にいない。ぽつーん。
「お母さんの顔を見ちゃうと、気が散るけぇね、ほほほ」
ピシャ!
目の前で襖を閉められた。姑は可愛い孫娘と2人っきりの、こってりと甘いおたふくソースの世界を満喫している。
――泣くもんか。その可愛い娘は私が産んだんだい。
さ、お片付け。嫁は進んで家事をこなす。ポイントは稼いでおかねば。
台所で洗い物をしていると、姑が無言で私の背後に立つ。
こういうとき……よいことはない。
「万季さん、ね、今年は引越しが年末に控えとるじゃろ……ね。ほほほ」
「は? なんでしょうか?」
「ほら、ね、子供は……ほほほ」
私は、泡だらけの手をわざわざ洗って拭き、くるりと姑の方に振返って、姑の顔を真顔でしっかと見つめてやった。
――ほれ、いうてみぃ、いいにくいだろ、じぃぃぃぃぃっ。
私の方が背は高い。冷たく見下ろしてやる。しかし姑の方が上手であった。
「今年は忙しいけぇね、赤ちゃんは作らんほうがええわね。控えんさい。ほほほ」
「……」
あまりにサラっといわれて反撃するチャンスを逃した。
――控えろだとぉ? 何を控えろっていうんだ。主語がないぞ!
「はい。お母様、今年はエッチするの控えます。でもそれじゃ息子さんが可哀相でしょ? コンドーさん買って送ってくださいね、ほほほぉーだ」
にっこり微笑んで、そう切り返せたらスッとするんだろうなぁ。
負け。
お正月もお終いになろうとした私の実家。そこでも夫は時限爆弾を設置した。
「お父さん、お母さん、僕、今年で仕事を辞めて広島に帰りますので」
新年の挨拶から、間髪入れずのいきなりの宣言で、両親ともに絶句。1人明るい夫は、うちの両親の顔色なんてぜんぜん気にしない。
「いやー、両親も年とったし、ほっとけないっスからねぇ、うはははは」
「そ、そうきゃ、とうとういっちまうのかぁ」
そう父が一言いっただけであった。
「ささ、飲もう飲もう。万季、もう1本ビールだ。ビール!」
ビールを夫に勧める父。つぐのも飲むのもピッチがぐんぐん早くなる。飲む飲む、更に飲む。そして酒の勢いで父は寝る。夫も敢え無く撃沈さて仰向けに倒れた。キツネさんとヤギさんが熊のようにびきをかき、コタツでヨダレを垂らして寝ている。
――母は?
振り向くと台所にいた。
アルプスの少女ハイジを見ても、フランダースの犬を見ても、娘が彼氏にフラれたときも、ティッシュ片手に、おいおいと泣く母である。
隣りまで行くとやはり鼻まで垂らして泣いていた。ティッシュを箱ごと渡す。ささ、どうぞ……。
「びるんじゃ だいばよ」(訳:見るんじゃないわよ)
その後、チッチッチッと音を立てて、月日は飛び散り、あっという間に時限爆弾バクハツの日を迎えた。
引越し荷物を見送った後、私たちは、同じ市内に住む私の実家に1泊して、翌日の朝、車で夫の郷里に旅立つ予定だ。
実家は、ついこの前新しい土地に家を新築し、兄夫婦と同居を始めたばかりである。私の匂いのする場所はもうどこにもないのだ。生まれ育った懐かしい家は、こっぱみじんに破壊されて消えた。
そのおかげかどうか、私は引越しに際してあまり悲しいとは思わなかった。
実家に帰ると、両親は水あげ2〜3日後の魚のような活きの悪い目をして、不自然に明るく努め、肩でため息を吐いていた。
母は1週間前から、夜な夜な泣き崩れ、ティッシュはおろかトイレットペーパーまで使って鼻を拭いていたという。
「おかげで、俺も眠れねぇ」
と父はこぼしていた。
しかし、両親は兄家族と同居である。私が遠くに行ったとしても、幼い孫2人がきっとすぐに両親の気持ちを癒すだろうと思うと、それが救いだった。
翌日朝10時、快晴。
旅立ちの朝である。富士山がいつもよりも大きく見えた。
「……だから俺は結婚に反対したんだ」
一刻な大工職人の父が小声で言ったのを、私以外に誰が聞いただろうか。
そもそも父は結婚に反対だった。
夫が「今日こそお嬢さんをボクにくださいッって言うぞぉッ」と意気込んできた日も、「えーっと、そうだそうだ」と言いつつ、ふらりを家を出て行方をくらました。日を改めて夫が参上しても、夫の実家が広島と聞くや、「遠いな、ダメ」とそっぽをむき、長男と聞くと、また言い訳を作って行方不明になった。
いつも父にそっぽ向かれた夫は、がっくりと肩を落とした。
それを見ていた母が、夫を不憫に思い「これを逃したら万季は一生独身だ」とかなんとか、半ば父を脅してむりやり首を立てに振らせ、ようやく結婚にこぎつけたのだ。
結果、結婚してわずか3年で娘を広島に連れてかれちゃうのである。淋しさもひとしおであろう。
「おい、万季、俺の臨終にゃあ間にあわねぇな、達者でくらせよ」
「お父さんたら、なにいってんの? 万季! お姑さんの言うことちゃんと聞いてね、だめよ威張っちゃ、それから、ま、負けちゃだめよお!」
ドラえもんにエプロンをさせたような母は、そう支離滅裂なセリフをいいきって、庭に干してあるシーツの向こうに隠れた。洗濯したてのシーツで顔を拭いている。
「じゃ、お兄ちゃん、お父さんが死にそうになったら早めに連絡してね、えへへ」
と冗談イッパツ食らわした……つもりが、見事にかすった。さぶい。
私は、この地を離れて暮らしたことがない。そりゃ先々のことを思えば、不安はてんこもりである。私の親もさぞ心配であろう。しかし私は、ずっと前から送り出してくれる両親の心を思って、「今日は絶対泣かない!」と固く心に誓っていたのだ。
母はもう真っ赤になって泣いていた。思わずこちらもウル目になる。
――泣くもんか。父譲りの一刻な性格なんだ。こうと決めたら曲げねぇよ。
「じゃ、お世話になりましたぁ、また来ますから、お元気で」
1人異様に明るい夫はカンペキに浮いていた。その妙に明るい声に押されるように車に乗り込んだ。
――さらばだ故郷よ。さらば富士山。
母は、シーツを目に当ててうわんうわん泣いていた。そこまで泣かなくても、と少し恥ずかしかった。
その真っ赤に泣きじゃくるドラえもんを横目に、父は淋しそうに笑っていた。兄はいつものように能面顔で右手を上げていた。義姉は、私の行く末を知ったかのように意味深げに微笑んでいた。
走り出した車の窓から、手のひとつでも振ってやろうと思ったが、とうとう後ろは振返れずに、景色は飛んで、家は瞬く間に後ろに消えていった。
その消え行く景色の中で、父だけが懸命に手を振っている。そして父の右手が目を押さえていたのだ。
――うわぁ、とうちゃんが泣いている。
その瞬間、私の顔は、母に負けないくらい真っ赤になって、滝のように涙があふれていた。
――泣くもんか。
泣いているのにそれを認めない自分は、やはり父と性格が似ている。きっと父も今頃「目にゴミが入りやがった」なんて聞かれもしない言い訳をつぶやいているに違いない。
そんなことには気づかない夫は、異様に明るい。るんるん状態なのだ。私はバックミラー越しに泣き顔を見られないよう、死角に入って泣いた。
「ま、なんかCDでも聞いてさぁ……あ、忘れ物ないよなぁ?」
能天気な夫はオーディオのスイッチを入れる。かかった曲はユーミンの『春よ来い』だった。超ウルトラ選曲ミス。これじゃ余計に泣けちまう。
「おでがい、べづど ぎょぐに ぢて」(訳:お願い別の曲にして)
「あ、あれぇ? オマエ、なに、泣いてんの? うそ? どうしたの?」
バレバレになってしまった。
――どうした、はないだろうが。うそ、はないだろう。だいたいねぇ、アンタは家に帰る気分だろうけど、あたしゃ連れてかれる気分なんだよッ!
夫は軽快に「同居」に向けてアクセルを踏み込む。
その後部座席で、少々腰が引けてる私なのだった。
(初出:1998年05月)
登録日:2010年06月21日 17時58分
タグ :
同居
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