
著者:阿川大樹(あがわたいじゅ)
小説家。1954年、東京生まれ。東大在学中に野田秀樹らと劇団「夢の遊眠社」を設立。1999年「天使の漂流」で第16回サントリーミステリー大賞優秀作品賞。2005年『覇権の標的』で第2回ダイヤモンド経済小説大賞優秀賞を受賞。(同年、ダイヤモンド社から刊行)著書に、『D列車でいこう』(徳間文庫)、『インバウンド』(小学館)など。
エッセイ/エッセイ

【電子書籍】ワールドカップは終わらない
熱狂と興奮の中で幕を閉じた2002FIFAワールドカップ。日韓同時開催のワールドカップとして記憶にも新しい。ジャーナリスト/エッセイストの阿川大樹が1年半の取材と20日間のボランティア、5試合のスタジアム観戦を通じ、舞台裏、客席、オフィスや街…、多角的な視点で「事件」としてのワールドカップを描く。
価格:315円
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ワールドカップは終わらない
九十三万円のチケットの価値
二〇〇二年六月三十日、横浜国際競技場での決勝戦の日。
僕はバックスタンドのほぼ中央、前から十四列目のプレステージシルバー席にいた。いったいどこの国が決勝まで勝ち上がってくるのか、ソウルの初戦でフランスがセネガルによもやの敗退を喫したときから、全期間を通じてハラハラドキドキしながら一ヶ月を過ごしてきた。
さんざん苦労した末にやっと手に入れたグループリーグの二試合に飽きたらず、どうしても超一流とされるプレーヤーを自分の目で観たくて、一大決心をしてプレステージチケットを購入した。
準々決勝、準決勝、決勝の三試合のセットでひとり九十三万円、夫婦二人で百八十六万円。いうまでもなく一家の家計にとっては大きな支出だ。もし決勝だけを取りだして考えれば、前後半九十分の試合一分あたりおよそ五千円という時間単価になる。
高額なチケットの購入を決心するための自然な逡巡と同時に、僕は強烈な期待をもった。
その期待とは、まず第一に世界の頂点にいる天才たちのプレーであり、そして、ワールドカップという、世界でも希有な、特別な価値を多くの人から認められているものの正体を、生きている家に全身で理解したいという欲望だった。
大仰にいえば、ワールドカップを通して「世界」を感じて見たかった。
ワールドカップには世界中の国々からサポーターが集まってくるはずだ。彼らの多くは日本よりも遙かに貧し国の貧しい人々であり、彼らはワールドカップを観るために四年間お金を貯めて、あるいは、後の四年でやっと返せるような借金をして、地球の裏側にある日本までやってくる。昔の日本人にとっての「お伊勢さま」であり、イスラム教徒にとっての「メッカ」のようなところといってもいいかもしれない。
彼らのワールドカップに比べれば、とりわけ裕福ではないが日本で普通に暮らしている自分にとって、たとえ自動車一台分以上の金銭を払ったところで、まだまだ安いはずだ。未だ観たことのないワールドカップだったけれど、世界の少なからず数の人々が、それほどまでの代償を払って追いかけているものが、いったいどんなものであるのか、なんとしてもそれを確かめずにはいられなくなっていた。
実は、最初にワールドカップの話がもちあがったとき、なんだか嫌だなあと思った。オリンピック招致運動もそうだけれど、ワールドカップのような国際的大イベントの開催が叫ばれるとき、いつも、経済効果がその大義名分に使われるし、それはすなわち、ハコモノ行政といわれる税金の無駄遣いと一体になっていたからだ。スポーツの祭典は精神的で純粋なものであるべきなどというつもりはまったくない。けれど、世界の人たちが自分のチームを応援するために支払う対価と同じ金銭であっても、ワールドカップ開催を叫ぶ人々の思惑とは、あまりにもその性格が違うような気がしたのだ。
ほんとうにやりたいのなら、儲からなくたってやればいい。
僕自身はまだよくわからないでいたけれど、どうやらワールドカップは相当な犠牲を払ってでも観る価値があるものらしい。それだけは確かなことらしかった。
そもそもサッカーは遊びだ。
遊びはもともとお金を「使って」するものだし、日本全体がたくさんのお金を使ってお大尽遊びをするというなら、それはとても素敵なことだ。
「また借金が増えるけど、ここはぜひ国を挙げてサッカーを観て遊びましょう」なんて政治家が提案しても、もちろんこの不景気な時代に国民の大多数が賛成するわけはない。
けれど、少なくともほとんど車が走らないような道路や、まるで高級マンションのようなタイル張りのやけに立派な市役所を建てるための借金よりは、よっぽど有効なお金の使い道なんじゃないかと思う。
遊びとは詰まり、役に立たないことをすることに他ならない。
対価に見合った楽しみがあれば、たとえ大きな対価を支払ったとしてもそれは無駄ではない。経済破綻に喘ぎ、明日をも知れぬ困窮にあるような国から、自国のチームを応援するために大勢の人がやってくるのがワールドカップというものであるなら、必ずしも豊かな暮らしをしてはいない人々が仕事を抛ってでも観たいと思うものなら、そこにまちがいなく底知れぬ価値が潜んでいるに違いないのだ。
すでに百万円の迷いはどこかに吹き飛んでいた。
まず対価を先に支払って、全身でワールドカップを感じてみよう。
僕が知識として知っているラテンアメリカやヨーロッパの人々の歓喜と落胆を、自分自身で感じて見よう。
そう思いはじめたとき、僕は政治家や建設業者がどう考えていようと、ワールドカップを自分のための自分のイベントとして楽しもうと決心していた。
二〇〇二年六月三十日、横浜国際競技場での決勝戦の日。
僕はバックスタンドのほぼ中央、前から十四列目のプレステージシルバー席にいた。いったいどこの国が決勝まで勝ち上がってくるのか、ソウルの初戦でフランスがセネガルによもやの敗退を喫したときから、全期間を通じてハラハラドキドキしながら一ヶ月を過ごしてきた。
さんざん苦労した末にやっと手に入れたグループリーグの二試合に飽きたらず、どうしても超一流とされるプレーヤーを自分の目で観たくて、一大決心をしてプレステージチケットを購入した。
準々決勝、準決勝、決勝の三試合のセットでひとり九十三万円、夫婦二人で百八十六万円。いうまでもなく一家の家計にとっては大きな支出だ。もし決勝だけを取りだして考えれば、前後半九十分の試合一分あたりおよそ五千円という時間単価になる。
高額なチケットの購入を決心するための自然な逡巡と同時に、僕は強烈な期待をもった。
その期待とは、まず第一に世界の頂点にいる天才たちのプレーであり、そして、ワールドカップという、世界でも希有な、特別な価値を多くの人から認められているものの正体を、生きている家に全身で理解したいという欲望だった。
大仰にいえば、ワールドカップを通して「世界」を感じて見たかった。
ワールドカップには世界中の国々からサポーターが集まってくるはずだ。彼らの多くは日本よりも遙かに貧し国の貧しい人々であり、彼らはワールドカップを観るために四年間お金を貯めて、あるいは、後の四年でやっと返せるような借金をして、地球の裏側にある日本までやってくる。昔の日本人にとっての「お伊勢さま」であり、イスラム教徒にとっての「メッカ」のようなところといってもいいかもしれない。
彼らのワールドカップに比べれば、とりわけ裕福ではないが日本で普通に暮らしている自分にとって、たとえ自動車一台分以上の金銭を払ったところで、まだまだ安いはずだ。未だ観たことのないワールドカップだったけれど、世界の少なからず数の人々が、それほどまでの代償を払って追いかけているものが、いったいどんなものであるのか、なんとしてもそれを確かめずにはいられなくなっていた。
実は、最初にワールドカップの話がもちあがったとき、なんだか嫌だなあと思った。オリンピック招致運動もそうだけれど、ワールドカップのような国際的大イベントの開催が叫ばれるとき、いつも、経済効果がその大義名分に使われるし、それはすなわち、ハコモノ行政といわれる税金の無駄遣いと一体になっていたからだ。スポーツの祭典は精神的で純粋なものであるべきなどというつもりはまったくない。けれど、世界の人たちが自分のチームを応援するために支払う対価と同じ金銭であっても、ワールドカップ開催を叫ぶ人々の思惑とは、あまりにもその性格が違うような気がしたのだ。
ほんとうにやりたいのなら、儲からなくたってやればいい。
僕自身はまだよくわからないでいたけれど、どうやらワールドカップは相当な犠牲を払ってでも観る価値があるものらしい。それだけは確かなことらしかった。
そもそもサッカーは遊びだ。
遊びはもともとお金を「使って」するものだし、日本全体がたくさんのお金を使ってお大尽遊びをするというなら、それはとても素敵なことだ。
「また借金が増えるけど、ここはぜひ国を挙げてサッカーを観て遊びましょう」なんて政治家が提案しても、もちろんこの不景気な時代に国民の大多数が賛成するわけはない。
けれど、少なくともほとんど車が走らないような道路や、まるで高級マンションのようなタイル張りのやけに立派な市役所を建てるための借金よりは、よっぽど有効なお金の使い道なんじゃないかと思う。
遊びとは詰まり、役に立たないことをすることに他ならない。
対価に見合った楽しみがあれば、たとえ大きな対価を支払ったとしてもそれは無駄ではない。経済破綻に喘ぎ、明日をも知れぬ困窮にあるような国から、自国のチームを応援するために大勢の人がやってくるのがワールドカップというものであるなら、必ずしも豊かな暮らしをしてはいない人々が仕事を抛ってでも観たいと思うものなら、そこにまちがいなく底知れぬ価値が潜んでいるに違いないのだ。
すでに百万円の迷いはどこかに吹き飛んでいた。
まず対価を先に支払って、全身でワールドカップを感じてみよう。
僕が知識として知っているラテンアメリカやヨーロッパの人々の歓喜と落胆を、自分自身で感じて見よう。
そう思いはじめたとき、僕は政治家や建設業者がどう考えていようと、ワールドカップを自分のための自分のイベントとして楽しもうと決心していた。
(続きは電子書籍で!)
登録日:2010年06月13日 17時23分
タグ :
ワールドカップ
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