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宇佐美ダイ
著者:宇佐美ダイ(うさみだい)
2011年夏、東京から宮崎に戻ってきました。格闘技をやってます。元カメラマンですけど、今は正義の味方の仕事をしています。いつの間にか人の心も読めるようになりました。そして趣味で浮遊しているような写真を三脚+セルフタイマーで撮ってます。林ナツミさんの写真を見て撮り始めました。反原発、反TPPです。今の殺伐とした仕事をテーマにいつか書きたいなあ、と思ってます。
エッセイ/紀行文・旅行

白カモメの翼の下で(7)

[連載 | 完結済 | 全7話] 目次へ
コンビニのカウンターの女の子は、客によって日本語と韓国語を使い分けているのだった。日本人向けに書かれた韓国製日本語がおもしろい。五百以上の商店が並ぶ総合市場「クッチェシジャン」で、男に誘われるまま、怪しげな場所から二階へ……。
■さよなら

 日本から持ってきた携帯電話のアラームが、ぼくを容赦なく叩き起こした。
 うるさいそれを掴みあげると、液晶画面には八時と表示されている。
 親指でアラームを止めて、ぼくは天井を見上げた。
 さっきまで、たっぷりの生卵を使ってすき焼きを食べている夢を見ていたのだ。まだ、最後のうどんの玉を鍋に入れていない。そんな理不尽で空しい話があるか。その夢に今すぐ素早く戻らなくてはならない、と思った。
 しかも、釜山ホテルのふかふかなベットはこの世のモノとは思われないほど快適で、お別れするのはものすごくつらい。
 でも、まだ韓国でやる事が残っているのだ。
 ぼくは観念して、横向きになった。
 およよ。
 ベットから身体が持ち上がらない。
 重力が三倍になったみたいだ。
「うう……」
 ぼくは、唸った。
 昨夜遅くまで、二人前のルームサービスを食べながら小説を書いていたので、身体がだるく重く辛いのだ。
「うう……」
 ぼくは、のろまな蛇のようにベットから、這い出した。
 ちっとも勇ましくない匍匐(ほふく)前進で部屋の隅にある冷蔵庫を目指し、中に入れておいた、スポーツドリンクをぐびりと飲みつつテレビをつけた。
 昨日の夕方にコンビニで買った、幅広のキャップをかぶったスポーツドリンクは、韓国で一番人気という事だったが、砂糖水のような味がした。


 そのコンビニは、釜山ホテルのすぐ近くにあった。
 コンビニの斜め前では、露天業のおじさんが裸電球の怪しい光の中で、これまた怪しい財布や時計をきれいな服を着た日本人に売っていた。
 ぼくは、甲高い声で日本語を操る、露天業のおじさんと目をあわさないように、こそこそと横を通りすぎ、コンビニのドアを手前に引いた。
 と、同時に、「いらっしゃいませ」と、カウンターの若い女性スタッフに声をかけられた。
 日本語だ。日本にいるみたいだ。まったく釜山という街は、あちこちで日本語を耳にする事ができる街なのだ。
 ジュースを選びながら、カウンターの女の子を見ていると、客によって韓国語と日本語を使いわけて挨拶をしていた。
 ぼくは、髪が長いのでひとめで日本人とわかるのだろうけれど、すべての客を見分けているのには驚いてしまう。いったいどんな秘密の技を使っているのだろう。
「こっちが韓国語で話しかけても、時々日本語で応えられる事があるんですよ。もう、半年もこっちで生活しているので、日本人とバレるのはかなり悔しいです」と、麻木さんが言っていたけれど、韓国の人たちは見事に日本人を見分けているのだ。
 あまり広くない店内だけど、当然のようにキムチも売られていて、それがどーんと自己主張している棚にはおかしな日本語で書かれたプレートが貼り付けられていた。

『BOXを頼む時はカウンターで問議して下さい』

 韓国といえばキムチ、キムチといえば韓国、とうすら馬鹿のひとつ覚えみたいに繰り返す、日本人が土産として大量に買って行くので、貼られているプレートなのだろうけど、『問議』という韓国製日本語が実におもしろい。
 集英社の国語辞典を捲ってみると、『問』は『わからないことをたずねる』とあり、『議』は『相談する』と記されている。
 ここの経営者か日本語担当者が辞書を引いて、目についた言葉をとりあえず並べただけかもしれない。つまり、このキムチを箱単位で買う人は、カウンターのスタッフと値段の交渉をすべし、という事なのだろう。


 時計は、十時を回っていた。
 テレビでは、韓国の芸人風若者たちが手作りで家を作っていた。
 たいへんなのよねー、と言いたげな若者たちのオーバーアクションが鼻についたので、すぐにテレビを消した。
 ベッドメイキングをしてくれる、ホテルのスタッフへの最後のチップを枕の下に置き、ぼくは部屋を出た。
 ぼくの背中で、ドアが自動的にロックされる金属音が微かに聞こえた。
 エレベーターでロビーに降り、チェックアウトをすませてからホテルを出た。
 さらば、釜山ホテル。
 さらば亀さんたち。
 灰色の空から、霧のように細かい雨が舞い落ちていた。
 傘はない。
 韓国の雨は、酸性雨という事を友人に聞いていたので、ハゲになりたくない、ぼくは「いかん、いかん」と、喚きつつ素早くタクシーをとめて乗り込むのでありました。
「どこ?」
 中年の運転手が、振り向いた。
 日本語だ。
「クッチェシジャン」
 メモを見ながら、ぼくがゆっくりしゃべっると、運転手は無表情な顔で微かに頷き、車を急発進させた。
 クッチェシジャンとは、五百以上の商店が並ぶ総合市場の事で、出航までに時間がだいぶあるので、ここで財布を探してみようと思ったのだ。
 日本の卸業者がどやどやわしもわしもと買いつけに訪れるというくらいだから、相当安いのだろう。
 国際市場(クッチェシジャン)は、ホテルから歩いてもいける距離だったのだけれど、酸性雨は天敵の蜘蛛の次に恐いのだ。


 国際市場は、「あらま、いったいどこから手をつけましょう!」と、愚痴をこぼしたくなるほどの数の店が雑然と並んでいた。
 最初に目についた、店に飛び込んでみた。
 こうゆう時は、第六感にかけるしかないのだ。
「財布ですか?」
 店内をよろよろ歩き回っていると、半ズボンのスタッフの男性から声をかけられた。
 流暢な日本語だ。
 革製品店には日本語が達者なスタッフが多い、という話を聞いていたけれど、どうやら本当らしい。
 スタッフの男性は、ぼくの質問に次々と笑顔で応えてくれた。
 考えたら、これが韓国に来て初めて受けた笑顔での接客だった。
「はい。安くていいものありませんかねえ」
「ブランドモノですか?」
「それも見たいですね。ありますか?」
「予算は?」
「本当によいものならば、高いモノでも買います」
 ぼくがこたえると、彼は少し考える仕草をした。
「ここで、ちょっと待っていてください」
 彼はそう言うと、ぼくを残して店を出て行ってしまった。はっきり言って万引きし放題の状況である。
「二階へどうぞ」
 しばらくして戻ってきた彼は、ぼくを怪しく手招きした。
 店を出て、ビルをぐるりと回ると、人目につきにくい場所にドアがあって、そこから階段がのびていた。
 怪しい! やばいかなあ……、と思ったけれど、ぼくの事を万引きなどしない男だ、と信じてくれた、彼をぼくも信じてみる事にした。
 ぼくは階段を上った。
「ゆっくり見ていってください」
 部屋の中に招き入れられると、下の階の何倍もの商品が整然と並んでいた。
「全部韓国の工場で作っていますけど、これはA級品です」
 男性スタッフは、そばにあったルイ・ヴィトンの財布を取り上げて子供のように笑った。
「へー」
 ぼくは、唸った。
 この部屋は、精巧にできたコピー商品の販売所だったのだ。
「これはB級品だから、安いでーす」
 彼は、プラダの財布をてのひらに載せて少しおどけた声を出した。
 A級、B級とは、どのくらい精巧につくられているかのランクづけのようだ。
「あ、時計もあるんですね」
 部屋の中央にある、ショーケースをぼくは指さした。
「ローレックスです。見て。これそっくりでしょう?」
 疑似ブランド財布が似ているのだかどうだか、はっきり言って、ぼくにはよくわからないのだけれど、ローレックスについてはちょっとだけ詳しいのですぐに納得できた。
 一般的にコピーのローレックスはクォーツだけれど、これはしっかり自動巻である。
「いくらなんですか?」
「これ、七万ウォン。それが二十万ウォン。こっちが三十万ウォンです」
 本物の値段の事を考えると、タダみたいなものだ。悪い事だとわかっていても、このくらいの値段だったら、つい欲しくなってしまう。
「……やっぱり、いいや。下の階の普通の財布から選びます」
 しばらく迷った後、ため息をつきながらぼくはそう言った。


 国際市場で拾った、タクシーを降りると、ひとりの小柄な女の子が白い傘を広げて駆け寄ってきた。
「宇佐美さん!」
「え? 麻木さん、どうして?」
 麻木さんが差し出した、傘の中にぼくは入った。
「帰る日は、食堂で聞いていたでしょう? ビートルは、12時15分と2時の2便しかないから、待ってみたんです」
 麻木さんは、嬉しそうにぼくを見上げた。
「……」
 ぼくは、言葉を失った。
「まったく……」
 しばらくして、ぼくが呟くと、
「まったく……」
 と、麻木さんは笑顔でまねをした。
「早く来てよかったなあ。麻木さんをもっと待たせるところでした」
「どっちの船なんですか?」
「えっと、2時だね」
「早すぎますよ」
「思ったより、買い物が早く終わったからね」
 ぼくは腕時計を見た。11時45分だった。


 麻木さんは傘を閉じ、軽く振って水気をとった。
 ぼくたちは国際旅客ターミナルの建物の中に入った。
 チケット売場で予約券を出し、施設使用料の1100ウォンを支払って、乗船券を受け取った。
「いそいで2階にあがってください」
 受付の女の子は、椅子から腰を浮かし、何故か少しあわてた声を出した。
「ちょ、ちょっと、宇佐美さん。乗船券に12時15分って書いてありますよ」
 横から乗船券を覗いていた、麻木さんが指さした。
「あれ、本当だ。受付のコ、間違ったなあ」
 別に12時15分の便に乗っても構わなかったのだけれど、もう少し麻木さんと話していたい、と思った。
 電話をしてくる、と言った麻木さんから離れると、ぼくはチケット売場に戻って、事情を説明した。
「2時の便の受付は、12時30分すぎになります」
 チケット売場の女の子は、固い表情でそう言った。
「わかりました」
 いったん施設使用料を返してもらった、ぼくは麻木さんを探した。

「ルームメイトの携帯に電話したら、『今からすぐにソウルに来い』って……」
 公衆電話の受話器を置いてぼくの側に戻ってきた、麻木さんが沈んだ声でそう言った。
「わかりました。気をつけて行ってらっしゃい」
「電話なんかしなけりゃよかった。見送りたかったのに……」
「気持ちは、ばっちり受け取りました」
「今からソウルに行かないと、あと半年、私、ここで生きていけないんです」
 麻木さんは、唇をかんだ。『生きていけない』と、いう言葉に彼女が味わっている疎外感を強く感じた。
 日本でも、つきあいを大事にしないと、仲間外れにされるっていう事はよくあるけれど、きっとここでは日本の比ではないのだろう。
「ごめんなさい」
 麻木さんは、頭を下げた。
「なぜ、あやまるんですか。また、会えるなんて思ってもみませんでした。来てくれてうれしかったです。ありがとう」
「こちらこそ。いろいろ奢ってもらっちゃった上にバックまで取りかえしてもらって感謝しています。だから、もう少しいます」
「いや、ソウルは遠いから、もう行った方がいい。待たせると友達に失礼ですし、あわてるとろくな事ないです」
 ぼくは、麻木さんの返事も待たずにタクシーが並ぶ、建物の外に出た。
 雨がほんの少しだけ強くなっていた。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
 ぼくは、言った。
「はい」
「あと半年、がんばってください。ぼくも麻木さんに負けないようにいろいろがんばりますから」
「でも、私、弱虫なんです。本当は、すぐにでも日本に帰りたい……」
「ぼくだったら、ハードな勉強とプライバシーのない生活に耐えきれず、2週間で逃げ出してしまうと思います。麻木さんはすごいです。堂々と、ぼくの言葉を通訳してくれた麻木さんをとても尊敬しています」
 ぼくが言うと、麻木さんはえーん、と声を上げて泣き出してしまった。
 目元をおさえた、麻木さんの小さな手の間から、透明な滴が次々と溢れ、落ちていく。
 客待ちのタクシーの運転手たちが、なんだ、なんだ、と注目していた。
「え、えーと。なんか日本の食べ物でほしいものありませんか? 送りますから」
 ぼくは、ハンカチを差し出した。
 冬からひとり暮らしを始めた、ぼくのハンカチはアイロンをあてていないので、しわくちゃだった。
「私、食べ物なんかで釣られません」
 麻木さんは、しゃくりあげながら言った。
「福山雅治のCDを送りますから」
「本当ですか?」
 麻木さんは、赤い目を輝かせた。
「はい。『桜坂』を送ります」
「桜坂?」
「テレビの挿入歌としてすごく有名になりました。香港人の女の子と日本人の男の子という、まるで言葉の通じあわないどうしが成田空港で出会って、デートを重ねるたびにお互いの心が揺れ動くのです。恋が芽生えたにもかかわらず、番組の残酷な仕打ちによって香港で別れさせられたふたりには、お互いの思い出の場所で再会するという、課題が与えられます。男の子は、ある場所で、朝から夜まで彼女が来てくれる事を信じて待ち続けます。しばらくたったある日、彼女がそこにあらわれ、ふたりが感動的にキスをする場所が『桜坂』なのです。演出されたドラマじゃない、二人の素直な気持ちにぼくは思いっきり泣かされました。いい曲ですよ」
「どんな曲ですか? 聞きたいなあ。ちょっと歌ってみてください」
「え? そ、そんな……」
 ぼくは、取り乱した。
「また泣きますよ」
 麻木さんは、ぼくのハンカチを握りしめた。
「まいったなあ……」
 ぼくは、まわりを気にしつつ、小声でワンフレーズだけ歌った。
 うろたえてしまうほど、まっすぐにぼくを見つめていた、麻木さんの目から新しい涙が溢れた。
「ありがとうございました」
 麻木さんは、ぺこりとお辞儀した。
「元気でましたか?」
「はい」
「それじゃあ……、お別れです」
 ぼくは、タクシーのドアを開けた。
「宇佐美さん。……もしも、その番組のように私と宇佐美さんが感動的に再会するとしたら、どこでしょうね?」
「釜山タワーでしょう」
「はい」
「でも、もう走りませんよ。くたびれました」
「はい。もうひったくられません」
「それじゃあ、タクシーに乗ってください」
「はい」
「さよなら」
 ぼくは、言った。
「さようなら……」
 麻木さんは静かに言って、白い翼を閉じるように傘を畳んだ。
 タクシーの窓は、黒いスクリーンが貼られていて、車内の麻木さんの姿を見る事はできなかった。でも、麻木さんの気持ちは伝わってきた。
 細い雨が、黒い窓にたくさんの筋をつくり、寂しい雨音が、ぼくの心の奥底を濡らした。
 ぼくは、知らないうちに『桜坂』を口づさんでいた。
 タイヤが水飛沫を上げ始めても、窓は開かなかった。
 タクシーは釜山の街中に消えて行き、ひとりになったぼくは、白カモメの翼の下で愛しい夢を見るために船に乗るのであった。
(了)
(初出:2000年11月)
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登録日:2010年06月07日 21時53分
タグ : 韓国

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