北見遼
著者:北見遼(きたみりょう)
夢と現をさまよいながら、文章を連ねるさすらいの文字使い。信州産、現在は神奈川で培養中のもやしっ子。活字と美術と歴史をこよなく愛する。治したいのは積読本をためる癖。
小説/ファンタジー

花霞(13)

[連載 | 連載中 | 全20話] 目次へ
孝倬に頼まれた通り、子羽は暗い冊府で書簡を開いていた。もし、上部に知られることとなった場合、降格は免れない。古い書物のひとつに封じられたはずの言葉を見つけ愕然とする子羽。誰もいないと思っていた冊府に現れたのは世衛であった。
 第三章 交錯


   一


 華国では男子が成人するにあたり、字(あざな)を持つことが風習となっている。
 まだ童子に過ぎぬ彼よりも早く、幼馴染みは字を持った。彼よりも二つ年長で、彼と最も親しい友、李翡。伯飛と称すようになった時、その童子は成人したからというだけではなく、彼から遠い存在となった。
 立太子――後に華国全土を統べる者として選ばれたのだ。
 もはや、これ以上は今まで通り接することは叶わない。その思いが、まだ幼い彼の心を締めつけた。
 だが、太子はその身分と立場にも関わらず、態度を改めるようなことはしなかった。それどころか、沈みがちの二つ年少の幼馴染みにこう言ったのである。
「僕が伯飛と名乗るからには、君にも相応の字をつけてもらわないとね」
「……どういうことだ?」
 いまいち呑み込めぬ彼に、立ったばかりの太子は微笑みかけた。
「子翼、というのはどうかな。僕が蒼天を翔ぶための翼となってほしいんだ」
 その意味を解するまでに、彼は幾度も瞬きを繰り返した。
 天翔けるのが後の天子ならば、翼となる己は――そう、その雄大な飛翔を助けるべき存在を意味するのだ。
 幼くも聡明なる少年は、毅然として答えた。
「では、俺は子羽と名乗ろう。おまえに異を唱える必要は、俺にはない」
 友に遅れること二年、少年は成人し字を称す。「翼」の字から「異」を排した羽を携えて。
 後に李伯飛の有能な片腕と称される韓子羽が、ここにおいてようやく歴史に名を顕すようになるのである。

   ※

 ――まただ。
 子羽は重くなった瞼を痛いほどこする。
「全く、あのご老人も人使いが荒いんだからな」
 ぶつぶつと呟きながら子羽は再び書簡の紐を解く。
 彼は今、燈火一つを頼りに暗い冊府に一人籠もっていた。冊府とは、古来より帝王が記録や文書をしまわせた蔵のことをいう。特に中央のものは、たやすく人が触れられないような文書も多く収められている。
 彼は鄭老から頼まれた通り、潜在的「公用」のため、夜ごと密かに戸籍を調べていた。とはいえ公然と行えない以上、本来の職務をおろそかにはできない。また、蔵書の整理を専門としているわけでもないため、膨大な書簡の中から一つの情報を得るのは、なかなか容易なことではない。
 そういうわけでここ数日、子羽は過度の睡眠不足が続いているのだった。
「何だって俺がこんな苦労をしなけりゃならないんだよ」
 再び忍び寄る睡魔を追い払おうと、子羽は悪態をつきながら頭を振る。
 今、眠るわけにはいかない。
 いつ己の所業が露見するか知れたものではない。いくら元中書令の父を持ち、自分も出世頭と目される員外郎の身とはいえ、上部の知るところとなれば、まず降格処分は避けられない。
 そうであるにも関わらず、彼はついまどろんでしまったのだ。
 ――なぜ、こんな時に。
 わずかな合間に見た夢は、幼い誓約。
 将来、四海に君臨し、蒼天を飛翔すべき人のために、子羽は懸けようと心に誓った。彼が羽ばたくための翼になるのだと。
 その思いは今も決して変わることはない。だが、それとは裏腹に今の自分がしていることは何なのだろう。
 もっと伯飛を信じてやれと、心の中でもう一人の自分が言う。彼がああまでも思い入れている相手なのだ。できれば友の意思を尊重してやりたいところ。だが、曲がりなりにも彼は後に国を背負うべき尊貴な身でもある。彼の身を脅かす者は、どのようなことをしても排除しなければならない。――たとえ、太子本人が好意を寄せる相手であろうとも。
 子羽は自らの頬を両手で叩き、眠気をできるだけ覚ましてから再び作業にかかった。
 鄭老には、あの娘の素性を暴くよう頼まれている。戸部員外郎という身分を活かし、戸籍を調べよと。
 あの娘が冀水に流されているところを拾われたという話は、すでに聞いていた。まだ息があったということは、さほど遠くから流されたわけでもないだろう。そう考えて、拾われた地点から三里以内の上流域をまずあたっていた。
 しかし、どういうわけかあの少女に該当する記述が見つからない。そもそも花氏などという家は、この付近には一軒もないのだ。
 もしかしたら偽名かもしれない。
 その可能性を考えると、子羽は頭を抱えたくなる。本名がわからなければ、戸籍をいくらあさったところで意味がない。これまでの睡眠時間を削っての労働が、まったく無駄になってしまうのだ。
 腕組みをして考え込んでいるうちに、灯が次第に暗くなってきた。高灯台に油をつぎ足すため、子羽は渋々と重い腰を上げた。
 油を足しながら、子羽は首をひねった。
 油の減り方が通常よりも早いような気がする。何しろ、ここはほとんど人の出入りしないような場所。明かり取りの窓はそれなりにあるのだから、灯台を使うということは夜中しかない。
 自分以外の誰かが、人目を忍んでここを出入りしているのだろうか。とすれば、これまで鉢合わせにならなかったほうが不思議である。もしかすると――自分の行動が誰かに知られているのではないだろうか?
 灯檠に油を差し終え、視線を転じた時、不意にそれが子羽の目に飛び込んできた。
 なぜかはわからない。まるで吸い寄せられるように目はそれを追い、手は自然と伸びていた。
 色褪せた古い書物。何気なく開いたそこに、封じられたはずのその文字を見つけ、子羽は愕然とした。

 ――天華十八年、上、炎狼を淪(ほろ)ぼしむ。

「炎狼」――それはすでに葬り去られた呼称だった。長きに渡り、人の命を奪い続けてきた忌まわしき一族。その炎狼のこれまでの業績について、ここには詳細に書き込まれていたのだ。三年前、天子李昭の命によって滅ぼされるまでを。
 せわしく紙面をめくり、文字列を追いながら、子羽は思わず呟いた。
「なぜ炎狼についての記録が……?」
 すると、にわかに背後から答えが返ってきた。
「それだけ朝廷と浅からぬ縁があるということだ」
 彼は一瞬、心臓が止まるかと思った。自分以外に誰も来ないと信じていたし、また人が入ってくる気配にまったく気づかなかったためでもある。だが、聞き覚えのある声に振り返った時、彼はこのまま心臓が止まってもよいとさえ思った。
「柳尚書……!」
 暗い冊府の中、灯火のぼんやりとした光に照らし出された白面は、彼の上官たる戸部尚書、柳世衛のものだった。こんな奴に見咎められるくらいなら、冀水にでも飛び込んだほうがましだと心底思った。
「炎狼を求めるのは常に民ではなく、官のほうだ。朝廷が奴らを必要とするからこそ、奴らもまた生き存えることができるのだ」
 凍りついたように身動きのできなくなった子羽の手から、世衛はその古びた書物を取り上げた。
「職務熱心なのはよいが、無断で冊府を開くとは感心できんな」
「――申し訳ありません。自分の管轄のところで不備な点があったようで……それで許可もなしに点検をしておりまして」
 なんと陳腐な弁解だろう。咄嗟のこととはいえ、あまりの情けなさに子羽は歯噛みする。
 華の奸臣と評される世衛が、こんな凡愚な言を信じるはずがない。恐らくは厳罰に処すか、それとも弱みを握ったと脅迫してくるか。
 子羽は内心を悟られぬよう表情を引きしめたまま、世衛の次の言葉を待った。
 すると、世衛はすっと右手を子羽の前に差し出した。
「ここの鍵を渡してもらおう。後の始末はこちらでする」
「え……」
 子羽は、上官の意外な対応に拍子抜けしてしまった。要するに、世衛はここでは咎めないが、二度と立ち入ってはならぬと告げたのだ。どのように処罰されても文句の言えない子羽にしてみれば、あまりに軽すぎるとしか思えなかった。
 懐から鍵を取り出し、手渡すと、世衛の表情がわずかに揺らいだように見えた。笑ったのか――ただ灯火のゆらめきを反射したに過ぎないのか。
「――柳尚書」
 今、ここで訊くようなことではないとは重々承知。だが、子羽は先程から気になっていたことを口にした。
「炎狼はすでに滅びたはずでしょう。ならば、結局のところ生き存えることはできなかったのではありませんか」
 世衛は「生き存えることができる」と言った。だが、それもすでに過去のことだ。そのはずなのに、彼はいまだに生き続けているかのような言い回しをした。――まるで生きていることを知っているかのような。それが子羽には引っかかったのだ。
 すると、灯の陰翳になった世衛の口元が、かすかに歪められた――ような気がした。
「炎狼は滅びたりなどせん。その手を欲する者がいる限り、奴らはいつまでも生き続ける。人が、その心に熱き獣を棲まわせているうちはな」
 それ以上話すことはないとばかりに、世衛は視線を逸した。その意を汲み取り、子羽は静かに冊府を後にした。
 後ろ手に戸を閉めながら、子羽は不安が胸に湧き上がってくるような感覚に襲われた。
 なぜ、ここを六部長官たる尚書ともあろう者が、わざわざ訪れたのか。夜更けにただ一人、まるで人目を忍ぶかのように。そして、灯台の油の減り具合――もしかして、柳世衛こそが冊府に出入りしていた人間だったのだろうか。そして、あの書こそが、彼の求めていたものだったのだろうか。
 ――炎狼。
 不吉な呼称が脳裏をよぎる。
 彼が目にした文字とともに。

 ――炎狼は姓を花と称し、類族を挙げて遷転するものなり。その渠魁、先代より赤き字を受くるはこれ古よりの因習なり。

 戸籍に見当たらぬ花の姓。そして、名に戴く紅き文字。
 一人の少女の顔が浮かび上がり、子羽は小さく首を振った。
「伯飛……」
 その呟きとともに吐き出したのは、小さくも重い絶望の溜息だった。
(つづく)
(初出:2001年09月)
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登録日:2010年06月27日 16時57分

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