北見遼
著者:北見遼(きたみりょう)
夢と現をさまよいながら、文章を連ねるさすらいの文字使い。信州産、現在は神奈川で培養中のもやしっ子。活字と美術と歴史をこよなく愛する。治したいのは積読本をためる癖。
小説/ファンタジー

花霞(16)

[連載 | 連載中 | 全20話] 目次へ
激怒する子羽。炎狼を逃がしたことが知られれば反太子派に口実を与えてしまう。一方で、鄭老は重大な決意をする。せまる包囲網に紅耀は……!?
  四


 彼はそっと扉を開けた。雨空のため、昼だというのに建物の中は幾分暗い。
 誰もいないことを確認すると、彼は軽く吐息する。慣れたこととはいえ、できれば人に見咎められたくはない。特に今日のような場合は。
「――伯飛」
 彼の安堵は長くは続かなかった。仕方なく、わかりすぎている声の主を振り返ると、顔めがけて何か柔らかいものが飛んできた。
「さっさと着替えろ。その濡れ鼠じゃあ、どうやったって微行(しのび)をごまかせないだろ」
 投げつけられたのは、替えの袍だった。顔からそれを引き剥がし、見上げると、不機嫌なことこの上ない仏頂面があった。
「そうだね。子羽も、髪が乾くまでは皇城に戻らないほうが賢明だろうね」
「……本当に、余計なことにばかり気が回る」
 子羽は思わずうなった。舜水は、子羽もまた彼と同じように外出し、雨に打たれたのだろうと婉曲的に指摘したのだ。
 そして、
「ああ、さっきはどうもありがとう。君の弓のお蔭で助かったよ」
 とどめを刺すことも忘れない。
「………気づいていたのか」
「尾行というのはもっと巧くやるものだよ。まあ、でも責めるつもりはないけどね。命拾いもしたことだし」
 実際、あの場面で折よく矢が射放されなければ、覆面を撒くことは難しかっただろう。たとえ二人に逃げられたところで、負傷さえしていなければ、あの男はしつこく追ってきたに違いない。
 子羽は文官であり、武芸などほとんど必要ないのだが、弓術の腕前はずば抜けていた。それだけの技倆があれば、官吏登用試験も文科第ではなく武科第でも合格していたかもしれない。ただし、文治国である華で、武官として活躍できる場は滅多にないのだが。
 そんな類稀な特技を持つ朋友に、太子は感謝の念を露にした――とは、子羽にはとうてい思えなかった。どうせこいつは自分が命を落としかけたという実感など皆無なんだ、と心の中で毒づく。
 そうして一つ息をつき、彼は別のことを口にした。
「それで、あの娘はどうした」
「あの娘?」
 子羽の眉が跳ね上がる。
「とぼけるな! おまえと一緒に逃げた後、花紅耀はどこへ行ったと訊いているんだ!」
 結局、子羽は覆面同様、二人の姿を見失ってしまっていた。だからこそ先に城に戻り、太子の帰りを待っていたのだ。
「帰ったよ」
「な……んだと!?」
 愕然とする子羽の視線を、舜水は軽く受け止める。
「やっぱり、ちょっと急だったかな。餞の言葉でもかけたかったのなら、もう少し引き留めておけばよかったね」
「何を悠長なことをぬかしてやがる!」
 子羽の忍耐も、もはや底をついた。――もともと浅底ではあるが。
 噛みつかんばかりの勢いで、この国で二番目に偉いはずの人間を怒鳴りつける。
「この、ど阿呆め! どこまで抜けてるんだ、おまえは!」
「し、子羽……?」
 さすがに困惑する舜水を、子羽は横目で睨みつけた。
「知るか!」
 吐き捨て、子羽はくるりと背を向ける。舜水が困っているとしても、それは自業自得というものだ。
 ――炎狼が逃げた。
 事態はどうやら最悪の方向に進みつつあるようだった。それが子羽の怒りを掻き立てた。
 太子が名高い刺客である炎狼と関わった。それどころか匿ったなどと知れた日には、反太子派に廃立のよい口実を与えてしまう。諸手を挙げて父帝を弑さんとする叛逆者の烙印を押すことだろう。そうなる前に処分するなり、何らかの手段を講じるべきだったのだ。それを。
 ――あいつが、逃がしたんだ。
 慈悲深いのも結構。だが、その結果自らの首を締めるのは、莫迦としか言いようがない。
 こんな都城のただ中で、炎狼を放すなど愚劣の極みである。敵の手中にあの娘が落ち、太子と関わったと証言でもされたら対抗する手立てはこちらにはない。奴らのことだ、太子の謀叛の罪を捏造するぐらい、わけもない。
 そして、もはや父帝にそれを見抜くだけの力はないというのに。
「なぜ、わからないんだ……」
 自分がどれだけ危うい立場にあるのか。知っていても、自覚していなければ意味がない。たかが一人の小娘に翻弄されているようで、奴らに勝てるとでも思っているのか――
 それが舜水とは性格を異とする思いであることを、子羽は知る由もなかった。
 ただ一人の少女を救うこともできずに、国を治め、民に安寧をもたらすことなどできまいという彼の思いとは……。

  ※

「殿下の身を脅かす者は、一人残らず排除する」
 城の一角で、老人はそう断言した。
 鄭孝倬――周囲の人々からは敬意を込めて鄭老と呼ばれる彼が、太子派の筆頭であることを知らぬ者は城内にいない。彼は太子の幼馴染みにさえ、悪癖が伝染ると言って憚らない人間である。だが、表立って「排除する」などという由々しき言葉を口にすることは、これまで一度もなかった。だからこそ、断言された衛士たちは困惑したのだった。
 しかも、その相手は一人の少女だという。
「本当によろしいのですか」
 言外に再考を促すように、衛士の一人がおずおずと問う。しかし老人は頑なだった。
「これも御身を思うてのこと。恐れることは何もない」
「ですが……」
 なおも首肯しかねる衛士を、孝倬は見据えた。その双眸がかっと見開き、衛士たちはそれ以上口がきけなくなった。
「時には荒療治も必要じゃ。特に、病が重い場合にはな」
 それだけ言うと、後は持ち場で待機するよう命じ、衛士たちを退らせた。戸の閉まる音が響き、一人になったことを確認すると、孝倬は深く溜息をついた。
 彼のもとに芳しくない報告がもたらされたのは、つい先刻のことだった。
 太子を護ることを唯一無二の使命と自負する彼にとって、突如として現れた素性の知れない娘は危険以外の何ものでもなかった。よって、彼はその身元不明の少女に幾人かの監視をつけさせていた。少女はしばらくは城内でおとなしくしていたものの、やがて飽いたのかふらりと城外へ出た。
 当然、監視者たちは後を尾行た。そして、途中で撒かれはしたものの、彼らは孝倬に驚くべき事実を告げたのだ。
 ――少女が滅びたはずの、忌むべき名で呼ばれていたことを。
「……殿下はわしを許さぬだろう」
 孝倬は白髭に埋まった唇からひび割れた声を押し出した。見る者があれば苦悩していると思うだろう。子供、しかも少女を処断することに、少なからず痛痒を感じているのだろうと。
 だが、彼は迷っているわけではなかった。太子を護ることを最優先とする以上、どのような犠牲を伴おうとも彼はためらったりはしないのだ。
 強いて言えば、手塩に掛けて育てた太子を悲しませるのが忍びがたいだけ。人の好すぎる太子が誰よりも心を痛めるだろうと思うと、わずかながらも胸が疼く。それでも、いまさら引き下がるわけにはいかない。
 残酷すぎることは承知の上。しかし、目を背けてばかりでは決して帝王にはなれない。運命を背負う者は、運命と戦わねばならないのだ。
 至尊の身を守るため、孝倬は自らに鬼となることを命じた。何と罵られようと構わない。
 それで、主の目が覚めるのなら。
(つづく)
(初出:2001年09月)
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登録日:2010年08月31日 15時50分

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