北見遼
著者:北見遼(きたみりょう)
夢と現をさまよいながら、文章を連ねるさすらいの文字使い。信州産、現在は神奈川で培養中のもやしっ子。活字と美術と歴史をこよなく愛する。治したいのは積読本をためる癖。
小説/ファンタジー

花霞(19)

[連載 | 連載中 | 全20話] 目次へ
政務に忙殺されていた天子に妃の体調を思いやる暇はなかった。「天華の治」最後の年となる二十四年、皇后崩御――それを信じられなかった天子は炎狼のせいとした。紅耀の父、朱叡の哀しき最期が語られる。
 三


 天華二十四年。「天華の治」の最後ともなるこの年は、様々な意味で節目だった。
 その筆頭に挙げられるのが皇后崩御という凶事だろう。蕭妃はもともと体の弱い人ではあったが、いつも穏やかで温かな笑みを絶やさずにいたため、そのような細事にまで気にかける者は稀だった。また、周囲に余計な心配をかけさせまいと振る舞っていた節もある。当時、今とは別人のように政務に忙殺されていた天子には、妃の体調のことなど念頭になかった。
 だが、外面に表れずとも、体の内で病は次第に篤くなっていた。最期を看取った皇医に遺した言葉は、
「陛下にお伝えするのは朝議を終えてからにしてください」
 であったという。最後まで他人に気を配る女性だったといえよう。
 しかし、度を過ぎた気兼ねは時に害ともなりうる。彼女の場合、周りに病を知られまいと隠し続けていたことが仇になった。李昭は、妃の病死という事実をにわかには信じることができなかったのだ。
 まさか蕭妃(あれ)が死ぬはずがない。病の気配など微塵にも感じさせなかったというのに。まさかそんなはずは――
 不信が妄執に姿を変えた時、李昭は己の創り上げた「真実」に取り憑かれていた。
 ――蕭妃は病死ではない。暗殺されたのだ。
 そして、堂々と後宮にまで入り込み、そのような難事を為し遂げる者は限られる。
「蕭妃を殺めたのは炎狼だ」
 天子の意思は国の意思。
 李昭が断言したその瞬間、炎狼は万人の敵となったのである。


 ※


 焔。それは安都の郊外に位置する冀水(きすい)流域の小さな邑。
 そこに建つ一軒の茶屋の戸が、力なく開かれた。二代目の跡継ぎの少女は慌てて入り口のほうへ駆けつけた。
「阿爺(とうさん)!?」
「……紅耀」
 低く声を押し出して、朱叡は土間に片膝をついた。そして地に紅い液体がしたたり落ちる。
 ――血。
 紅耀は凍りついた。朱叡は左手で押さえたままの胸から腹にかけて、相当な深手を負っていたのだった。
「どうしたんだ、この怪我は!? 早く手当てしないと……」
 だらりと力なく垂れ下がったままの父の右腕を肩に乗せ、奥の部屋へと歩き出した紅耀を、重傷者は引き止めた。
「いい。それより……冀水まで行ってくれ」
「何で冀水なんか……!」
 異論を唱えかけた娘を、父は視線だけで従わせた。どのみち、この父に気迫で勝つことなど不可能なのだ。
「……わかった」
 渋々頷き、紅耀は父に肩を貸したまま、ゆっくりと冀水に向かって一歩を踏み出した。



 このところ、朱叡を付け狙う不穏な影が多数見られるようになっていた。どうやら隠密裡にことを済ませるらしいと覚った朱叡は、向こうの罠に嵌まったふりをして、焔の邑から離れた人気のない場所で対峙した。案の定、敵は束になってかかってきたが、小枝を一本ずつ打ち払うように、朱叡は鮮やかに、容易く次々と薙ぎ倒していった。
 最後の一人だけ手加減し、胸倉を掴んで問い質した。すると、天子が皇后の死を信じられず、炎狼の手にかかったと盲信したこと。逆賊たる炎狼は死罪に値するが、公には病死と発表されているため、闇の中に始末せねばならないことなどを語り始めた。
「要するに、天子のご機嫌取りのために俺たちが槍玉に上げられたということなのだろう。そんなくだらん理由で死んでやる義理はないな」
 朱叡は太刀を突きつけたまま笑った。だが、次の瞬間その笑顔は凍りついた。
 重傷を負っていたはずの虜囚が、朱叡の太刀を素手で掴み取り、刃を逆さに体ごとぶつかってきたのだ。
 これには朱叡も対応のしようがなかった。傷つき、揉み合った末、力尽きた敵の手から血まみれの太刀をもぎ取り、振り下ろした。
「忠義を貫くのも……いい加減にしろ……」
 その声を聞くべき対象は、すでにこの世にいなかった。



 肩で息をしながら朱叡は話し続けていた。その間、胸の赤い染みがじわじわと広がっていくのが気がかりで、紅耀は落ち着いて聞くどころではなかった。
 彼女には、父を除いて親しいと言える人間はいなかった。誰にもその正体を気取られることのないように、密やかに暮らしていたのだ。それだけ人との触れ合いが希薄な彼女でも、父ほどに腕の立つ人間は滅多にいないと知っていた。――そのはずが、この深手はいったいどういうことか。あまりのことに動揺し、彼女は気を散じていた。いま少し落ち着いていれば、その時朱叡が何を望んでいたか、とうに察していただろう。炎狼という名を負ってきた彼が、ここで求めるはずのものを。
 河の音は次第に鮮明になってくる。半ば引きずるようにして父を連れてきた紅耀が顔を上げると、急速に視界が開けた。
 遠景は濁流に呑まれるように霞み、向こう岸は地平の彼方に消えている。見渡す限り続く水の情景。それは華国の象徴とも言える冀水の悠久の流れだった。
「着いたぞ。いったいどうする気だ?」
 その問いに答えるように、朱叡はゆっくりと娘の小さな肩から右腕を外した。
「紅耀」
 その声は水流の音に掻き消されることなく、凛と響いた。深手を負っているとはとても思えぬ勁さを備えていた。
「おまえに炎狼の座を引き渡す。だが、おまえの代で終わらせろ」
「そんなこと……」
 わかっている。以前にも一度言われた言葉だ。しかし、言いかけた紅耀を制すように、朱叡は左の掌を差し出した。
「見ろ、この血に染まった手を。これは俺たちの一族が、人を殺めて流してきた血だ。俺たちに流れるのは汚れた獣の血潮なんだ」
 朱叡の手は自身の鮮血で紅く染まっていた。しかし彼は、それを一族の犯してきた罪の刻印なのだと感じていた。誰よりも重く受け止めていたのだ。
「――忘れるな、紅耀。おまえは……最後の炎狼だけは正気を失ってはいけない。獣の名を抱えたまま人に交わり、己が何者であるかを忘れずに生きるんだ」
「……阿爺(とうさん)?」
 朱叡は、己の脚で冀水の間近まで歩み寄る。それを見咎めた娘に、穏やかな笑みを向けた。今まで見せたことのない柔らかな、安らかな笑顔を。
 その刹那、彼女は覚った。だが、すべては遅すぎたのだ。
「炎狼は醜い屍を残さない」
 言うと同時に、朱叡は冀水に飛び込んだ。止める間もなかった。
「阿爺(とうさん)!!」
 紅耀の叫びは河流の水音に呑まれ、掻き消えた。



 少女は幼い胸に誓った。
 人として生きよう。そして、そのために獣の名を捨てよう、と――
(つづく)
(初出:2001年09月)
前へ1 ...... 14 15 16 17 18 19 20
登録日:2011年02月02日 12時31分

Facebook Comments

北見遼の記事 - 新着情報

  • 園生に咲く花(7) 北見遼 (2016年08月13日 12時42分)
    事件が一段落つき、夜も明けようというころで気が付いた。「今日は受験日だった!」 焦る小紅をよそに姉の小百合は涼しい顔で飛ばしていた高速を降りる。そんなときが来た小紅の晴れやかな笑顔がまぶしい。園生に咲く花、最終章!(小説現代
  • 園生に咲く花(6) 北見遼 (2016年05月31日 14時28分)
    「見つけたわ!」深夜の高速道路を爆走するピンク色のワゴン車。誘拐犯の車を見つけた一行はカーチェイスの末、ついに犯人を追い詰める。重苦しい現場で露わになるそれぞれの想い。(小説現代
  • 園生に咲く花(5) 北見遼 (2016年05月12日 14時06分)
    誘拐犯と思わしき晴美――姉の旦那がかつてつき合っていた女性のアパートに雪崩れ込むがすでに空っぽだった。取り乱す姉に愕然とする小紅だったが、事態はそれどころではない。(小説現代

小説/ファンタジーの記事 - 新着情報

  • よろめくるまほろば(2) 石川月洛 (2015年09月19日 13時58分)
    診察室にやってきたサトヤくんはしゃべらない。彼がもってきたケースにはカラーモールで作られた蜘蛛の人形――ターチがいた。ターチと話すサトヤに僕は……。(小説ファンタジー
  • いらない王様 新美健 (2015年07月21日 14時26分)
    あるとき、あるところにひとりの王様がいました。とても体が大きく、頭のいい人でしたが、気が短くて乱暴であったため、家来たちに自分の国から追い出されてしまいます。ついてきたのは道化師ひとりだけ…。番組化もした童話原作。(小説ファンタジー
  • 約束の夏(4) 天野雅 (2014年09月23日 15時35分)
    玲子に取り憑いたとおぼしき霊の目的とは? かつてのこの場所であった出来事が生者を巻き込み展開する。約束の夏、最終章。(小説ファンタジー

小説/ファンタジーの電子書籍 - 新着情報

  • 瞳の奥に眠る森 城本朔夜 (2011年09月29日 15時47分)
    エリートたちが集うネスト本校に通うサナイに、リゴフィールド行きが告げられた。就職と出世の貴重なカードとなるチャンスにも、サナイの心は浮かばない。ひとり分け入った森林で見たオーグルの意外な姿。兄の死の真相、ヒビキの出生、カスガの怪しい行動。次々と明らかになる大人たちの欺瞞と葬り去られた過去に立ち向かう感動の大作! (小説ファンタジー
  • 麗人軍師とオアシスの魔法使い 新美健 (2011年04月20日 14時58分)
    『桜花の大乱』より、一年半後――。解脱してしまいそうな平和な春、第三王女であるウズメ姫に呼ばれた侍女コノハは、密書を託される。オアシスとも称される砂漠の国、ブランク王国に赴いたコノハが、大乱の英雄ユキムラに渡した密書は、世界大戦の引き金になりかねないものだった!
    価格:315円(小説ファンタジー
  • イペタムの刀鞘 城本朔夜 (2010年11月20日 15時42分)
    蛇の痣(あざ)がある孤児、カカミ。村中の人間から「悪魔」と忌み嫌われる彼は、妖刀イペタムに魅入られ、寝食を忘れてイペタムの鞘作りに没頭する。そんな彼をそっと見守るのは、皆殺しにあった村で姉と二人だけ生き残った美しい娘、ミナ。やがて数年の研鑽が実を結び、ついに鞘が完成するが……。
    価格:350円(小説ファンタジー

あなたへのオススメ

  • 花霞(20) 北見遼 (2011年05月14日 11時50分)
    大公との契約を果たすため、紅耀は太子の居室に忍び込んだ。炎狼としての初仕事は命の恩人の命をとること――。「その首もらいうける!」紅耀は叫び、白刃を振り下ろしす!(小説ファンタジー
  • 花霞(18) 北見遼 (2010年11月24日 15時11分)
    大公、李季英。長く願ってきた想いと玉座への野心が炎狼を呼び寄せる。彼の居城にとらわれた紅耀に思いも寄らぬ仕事の依頼が。断れば殺される――だが、これは自分が決めたことなのだと言い聞かせる紅耀だった。(小説ファンタジー
  • 花霞(17) 北見遼 (2010年09月21日 14時24分)
    いまを去ること十数年前――。紅耀の父、朱叡は「天華の治」にあって、炎狼は時代遅れと断じた。それに不満だった弟もまた邑を出てゆき、孤独を癒すように息子と娘を見やる朱叡だったが……。紅耀が紅耀となった哀しきエピソードが明かされる。(小説ファンタジー