
著者:城本朔夜(しろもとさくや)
自称「心のカメラマン」。被写体は、見えなくて、水のようにいつも動いているもの。究極に目指すのは、世にも美しい芸術作品。でも好きなのは、なんの変哲もない「スナップ写真」。撮ったあと、ちょっと変わっているのが撮れていたりすると、嬉しくなって、誰かとシェアしてみたくなります。
小説/ファンタジー

【電子書籍】イペタムの刀鞘
蛇の痣(あざ)がある孤児、カカミ。村中の人間から「悪魔」と忌み嫌われる彼は、妖刀イペタムに魅入られ、寝食を忘れてイペタムの鞘作りに没頭する。そんな彼をそっと見守るのは、皆殺しにあった村で姉と二人だけ生き残った美しい娘、ミナ。やがて数年の研鑽が実を結び、ついに鞘が完成するが……。
価格:350円
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立ち読み
イペタムの刀鞘
プロローグ
「帰ってきたぞ!」
甲高い子供の声が上がった。
木立の向こうに、十数人からなる大人たちの一団が見え隠れしていた。数日間、コタン(村)を留守にしていたと、それに付き従っていた者たちだった。
二十軒あまりのチセに囲まれた広場の中、団子のように固まり、頭を並べ、何かの遊びに夢中になっていた子供たちは、声につられて頭を上げる。
「お帰りなさぁい!」「サケ、いっぱいとれた?」
皆、自分の父親を見つけたらしい。子供たちは、嬉々とした表情をその顔に浮かべると、思い思いの言葉を口に駆け出していく。
カカミは、はしゃぐ皆の様子を黙って見ていた。もともと他の子供たちとは一線を画すように別の場所、丸太の上にひとり腰掛けていたのだ。右手にマキリ(小刀)を握り締め、ずっと木片を削っている。手を休め、立ち上がってはみるものの、その場所を一歩も動かない。
一団の中には、カカミの養父がいることを知っている。けれどカカミにとっては、はしゃぎ、駆け寄っていくような相手ではない。その場に取り残されたように棒立ちになったまま、大人たちの行方を見守る。
コタンは、川から林を隔てた岸辺にあった。歌うように流れる早瀬の音がいつも聞こえる。コタンのそばを流れる川は、下っていくと、はるか海へと注ぐ大きな川、石狩川に合流している。夏の終わり。今年もサケが遡る季節だ。数日間も留守にする必要がどこにあるのかはわからないが、大人たちは、そのかなり下流域にまで足を延ばしたのだろう。当然、そのための狩であるのだと、カカミは思っていた。
歩いてくる大人たちは、夕日を背中に背負っている。遠目には、その身なりや顔の表情は、影になってよく見えなかった。
大人たちが近づいてくる。その姿が薄暗がりの中にも明らかになったとき、カカミの心は、はっと止まった。
この雰囲気はなんだろう? 我が子を目の前にしたのに、大人たちの表情は固くしまっている。それに……血だ。全身が血に汚れている。サケをとりに行っていたのではなかったのか? では、鹿を? いや違う。ただの狩ではないのだ。だって、もし獲物をしとめたのだったら、大人たちがこんな表情をするわけがない。第一、肝心な獲物が一匹もいないじゃないか……
カカミがそう思った矢先に、大人たちは表情を崩した。けれどそれは、子供たちを目の前にして自然にほころんだものとは違い、明らかに子供たちの不安そうな顔に気づいての作り笑いだ。
カカミと同じ事に気づいたのか、自分の父親に抱きついていくのをためらい、一瞬立ち止まった子供たちが、父親の笑顔に気づくや、再び動き出した。今度はまっすぐに父親の懐へ飛び込んでいく。
けれどカカミは、相変わらずその場所で固まったままだ。まなざしだけは大人たちを追う。そんなカカミの横を大人たちが通り過ぎていく。
「どうした? カカミ。そんな所につっ立って?」
養父が近寄ってきて、カカミの肩をぽんと叩いた。この夏、十二歳を迎えたカカミは、養父の肩先を越えるほどの背丈がある。カカミは、大柄の養父に背中を押されるようにして歩き始めた。歩きながら、周りの大人たちの様子をしきりにうかがう。
前を向いて歩く養父の表情から再び笑みは消えている。カカミの背後、他の者に周囲を囲まれるようにして歩いていた村長の表情も険しい。
もう一度はっとして、カカミは気づいた。期待していたサケではなく、大人たちの衣服を血に染めたのであろう鹿でもなく、村長の傍らに、見慣れない二人の少女の姿があることを。
一人は、カカミよりもかなり年長らしい。少女と言うよりは、もう立派な大人の表情を宿している。そしてもう一人は、カカミと背格好は変わらない。
――誰だろう?
カカミは、年少の方の少女に目を奪われていた。衣服がかなり汚れている。手も、足も、顔も泥だらけだ。それに、たいしたことはないが、顔にまだ新しそうな傷がある。不自然な歩き方をしているところから見て、足にもケガをしているみたいだ。年齢は、自分と同じくらいだろうか。目鼻立ちがはっきりとしたきれいな少女だ。
だけど、どうしてなのだろう? 少女は、まるで人形のようだった。ひとりでに歩いているのが不思議に思えるほど、表情というものがない。引きずる足に見合うほどの苦痛すら見てとれないのだ。
カカミは、大人たちがなにかやんごとない事態に遭遇してきたのだということを、ふいに悟った。
「ねえ、あの子、誰?」
きいてみたいが言葉を飲み込む。なぜだかわからないが、軽々しくきいてはいけないことのような、そんな気がした。
大人たちは、コタンのほぼ中心部、村長のチセ(家)の前まで歩いてくると、子供たちからいったん離れて集まった。村長の傍らの少女たちは、大人たちの中でぼんやりと立ち尽くしている。大人たちは、顔を突き合わせ、聞き取れないほどの低い声で何か、言葉を交し合う。
大人たちの話が終わるのを待たされる格好になった子供たちは、再びてんでにちょっかいをかけ合いながら、遊び始めた。その中にあってカカミだけは、憂いの宿った村長の顔、不安そうな年長の少女の顔、それに、相変わらず人形みたいな少女の姿を順番に見つめていた。
姉の名をフミ、妹の名をミナといった。
その姉妹が、石狩川のはるか下流域にあるコタン――村長の遠い親戚筋に当たる人物が治めていた村――から連れて来られたこと。そしてそのコタンに住む民が、和人によって皆殺しにされたことを知ったのは、それから、数日経ってからのことだった。
第一章
カカミは、何日もかけてやっと彫りあげたエムシの鞘を手に持って、村長のチセへ向かった。エムシとは、日常に使う刀とは違い、カムイをまつる儀式に使われる特別な刀だ。カカミの肩幅ほどのわたりがある。今、持っているのは、ある刀のために作った鞘だ。
村長の住むチセは、周りのものより一回り以上大きかった。
「こんにちは」
ソユナパ(外の入り口)の前に立ち、大きな声を張り上げる。声の調子はそっけない。けれど、それはいつものことだ。
ほどなくして、村長の妻であるレラが、表に顔を出す。
「あら、カカミ。どうぞ上がって」
レラの顔はいつも柔和だ。快くカカミを奥へ通してくれる。けれど、カカミに同情するような、恐縮しているような、複雑な笑みを浮かべているのもいつものことだ。
中へ入ってすぐのセムと呼ばれる物置には、いつものようにミナがいた。
ミナは、二年前にこのコタンへ姿を現してからずっと、姉のフミと共にこのチセで暮らしている。
カカミは、ミナが外で何かをしている、というところをほとんど見たことがない。村長の家へは何度となく来ているが、ミナは、まるで尻に根が生えて動けないのではないのかと思うくらい、いつもそこに座っていた。座って、無心に木彫りをしている。
村の衆から聞いた話によれば、ミナは、ずっとチセにこもっているというわけでもないらしい。村長の奥さんのレラ、または姉のフミと連れだって、水を汲んだり森へ入ったりしているのだという。
けれど、二年前からずっと、ミナは同じ年代の少年はおろか、少女たちと進んで交流を持つことはなかった。友達と呼べる者は皆無。はじめの数ヶ月はかなりひどくて、ミナがこのコタンに連れてこられた現場を直接見た者と、見なかった者との意見が別れ、ミナという少女が本当に存在するのかをめぐって、幽霊説までが飛び出していたほどだ。
ミナは今、かなり大きな木を切り出したものだろう、少女の腕に一抱えもある丸く大きな板に、独特な文様を彫り出していた。
どれほどの技量を持っているのか、カカミはそこを通る度、いつも気になっているのだが、通りすがりであからさまにミナを見つめるわけにもいかない。何度となくこのチセに来ているくせに、そしていつも気になるくせに、どうしてか、いや、だからこそ話しかけることができない。
ところが、ちょうど目をそらし、その奥へ向かおうとしたときだ。思いがけず、ミナが顔をふりあげた。視線が交わる。吸い込まれそうなほどの黒い瞳だ。カカミは、とっさに顔を背けて視線をそらした。相手にそれとわかるほど、あからさまな反応だ。
気まずさと気恥ずかしさがない交ぜになって、どぎまぎしていた。
ミナの方はどうなのだろう? 自分と目が合って、何かを思っただろうか? 自分が通りかかったと知って、だからこそ面を上げたのではないのか? だが、ミナの表情を確かめるほどの勇気はない。
カカミは、気まずさから逃げるように、アウナパ(内側の戸)に下がっている暖簾をくぐった。
「失礼します」
言いながら息を整える。村長のツキノエは、どうやら母屋の一番奥、宝物棚の前で、祈りを捧げていた様子だった。カカミの声に反応し、ゆっくりと向き直る。
「なんじゃ、カカミか。今日はどうした?」
「……また、彫ってみたんです。見てくれませんか?」
まあ、座れ、と村長は言った。カカミは、素直に言葉に従う。部屋に入って炉をはさんだ右側の、村長と向き合う場所に腰を下ろした。
この老人は、いつも瞳にきらきらとした、子供のもののような輝きを宿している。その無邪気とも思える瞳は笑っていた。
「なんじゃ、また刀なのか。ずいぶん長いな」
瞳に宿す光とは反対に、言葉の響きがそっけない。
「はい。おれが作るのは、エムシと決めていますから」
カカミは、横目で右肩の向こう、一番奥の神窓の下に吊り下がっているエムシにちらりと視線を走らせた。
村長は、カカミの言葉を聞いたとたん、ほっほと笑う。
「なんじゃ、エムシとな? わしは、おまえがマキリを作ってくることを期待していたのじゃがな?」
「どうして、おれがマキリなんか……」
カカミの鼻が、ふいに生まれた憤りに少し膨らむ。
「年はいくつになった?」
「……十四です」
「そうじゃろう。おまえももうそんな年じゃ。想いを寄せるメノコのひとり、いてもおかしくはない、そうじゃな?」
マキリを話の中に持ち出したのは、そういうことか。コタンの古い習慣。つまり、男は年頃になると、「メノコマキリ」という小刀の鞘に美しい装飾を施したものを、想いを寄せる女に贈って求愛をする。女がそのマキリを腰に下げてくれれば、求愛を受け入れてもらえたことになるというしきたりだ。
だけど、そんなこと今は全く関係がない。おれは、自分が彫ったこの儀式用のエムシの鞘を村長に見定めてほしいだけだ。そして一言、素晴らしいと誉めてほしい、認めてほしいだけだ。それなのに、村長はどうしてはぐらかすのだろう。
カカミは無言のまま、村長の顔をぐっと見返した。
「おまえのことは、これでも気にしておるのじゃぞ。おまえが危うく飢え死にするところを、おまえの養父、メヌカが見つけて、かれこれ七年が経つ。本当の親と死に別れた寂しい身の上じゃ。幸せに暮らせることを祈っておる。このコタンへ来たときに、すぐにでもいいなづけを決めておくべきだったかのう……」
「おれ、まだ結婚なんて考えませんから……それに、マキリを作ったとして、エカシ(年老いた男性に対し尊敬を込めて呼ぶ)に持ってくるなんて、気持ち悪いだけでしょう?……おれ、そんな趣味ないし」
カカミは、憤然とした面持ちでつぶやいた。それを聞いた村長は、豪快に笑う。
「面白いことを言うのう。これは一本とられた」
「冗談にしないでください。マキリでも、盆でもない。おれはこのエムシを彫ったんだ。それを村長であるあんたに見て欲しい。それだけなんです」
なおも笑い続けていた村長が、唐突に笑うのをやめた。表情が引き締まる。
「だめじゃな」
言葉が、孤立したように空中に放たれた。カカミは、言葉をすぐに飲み込めない。沈黙が流れる。そして、やっと理解したかのように性急な調子で聞き返す。
「だめって、なにが」
「おまえが何を思ってこれを作り続けるのか、わしにはわからぬが、このエムシを見て思うのは、だめだということだけじゃ。何べんも言っておろう。今のおまえには、とても無理じゃと。何本作ったところで同じことじゃと、わしは思うとる」
「どうしてですか」
「どうしてと言われてもな」
村長は、困り果てた顔で長いあごひげをなでている。カカミは、唇をきっとかみしめる。
いつもそうだ。村長は、自分が作ってきたものをだめだと言うだけで、何も教えてはくれない。それでも自分なりに技を磨き、より丁寧に作り直して見せに来るのだ。努力している。一言くらい何か言ってくれてもいいではないか。
険しい表情を貼り付けたまま、カカミは立ち上がった。東側の窓を見やる。窓は広く開け放たれ、青い空がのぞいている。そのまま、つかつかと窓へ向かって歩いていく。
「これと、どう違うって言うんだよ」
開け放ってある窓の上枠にぶら下がったエムシに手を伸ばす。その瞬間、
「触れるでない!」
村長の鋭い声が飛んできた。
「そのエムシに触れてはならん! 言われなくともおまえにはわかっておろう」
村長のチセに限らず、どのチセにあってもチセの一番奥、東側の窓は、カムイ(神様)が出入りをするための神窓だ。その場所にあるものをカムイの断りなしに、不用意に触ってはならないことは、幼いときから習慣としてたたきこまれている。
さすがに、村長の一言はきいた。カカミは、伸ばした腕を下におろした。だが、その場所からは一歩も退かない。目の前にある刀を凝視している。
瓜二つだ。自分が作ってきたものは、窓にかかっているものと瓜二つだ。そう思う。大胆に彫り込まれた二つの渦。まるで二匹の蛇が抱きあいからまっているかのような紋様はもちろん、柄や鞘の隅々に渡って彫り込まれた、細かいうろこ状の装飾。これは、一番難易度の高いところだ。うろこの一つ一つを、気を抜くことなく丹念に彫った。完璧に近いはずだ。
――それなのに。
ここへ来てまもなく木彫りを始めたカカミに「おまえには、見込みがある。将来、この近隣のコタン一の彫り師になれるぞ」と誉めてくれたのは、村長じゃないか。
当時、その言葉に励まされたことも確かだ。どうして、今は誉めてくれないのだ。こんなにうまく彫れているのに。
カカミは、まめができてつぶれた右の手のひらを握り締めた。このところ無心に彫り続けたためにできてつぶれたそのまめが、手のひらの中でじくじくと痛む。
「……これと、どこが違うんですか……」
村長は、大きなため息をついた。少し間をおいて、おもむろに切り出す。
「カカミよ、わしこそおまえにききたい。どうして、このエムシにこだわるのじゃ。
……わしは、そのたびにおまえに助言を与えておるつもりじゃ。このエムシはやめろ、と。
なのに、おまえときたら彫る文様はいつも同じじゃ。これ以外なら何でも良い。盆でも、マキリでも、たとえ、エムシじゃったって文様を異にして彫ればよいじゃろう。そのことが、どうしてわからぬ」
カカミが、このエムシにこだわる理由。それは、カカミ自身にもうまく答えられない質問だった。
三年前。今、目の前に下がっているこのエムシは、村長のチセへ養父からの頼まれごとのためにお使いに訪れたあの日にも、同じようにこの窓に吊り下がっていた。いや、このエムシは三年前どころか、ずっと前からこの場所に下がっていたのだ。けれど、そのときまでカカミは、そのことに気づかなかった。存在を知りながら、気をひくものではありえなかった。
だけど、今でも覚えている。突然、それは、身体の内側に稲妻が走るかのようにやってきたのだ。
言葉でなんてとても説明できるものではない。たとえば、それまで何でもないただのメノコと思っていた村娘に突然、恋心を抱いてしまうときのような――カカミには、そんな経験はないので、外から聞いた体験談に照らして思うだけだが――もしかしたら、そんな気持ちに似ているのかもしれない。
とにかく、しばらくの間、ほかの風景が見えなくなってしまったのは確かだ。気づいたときには、このエムシの不可思議で美しい紋様に痛いほどの衝撃を受けていた。
自分が、あの紋様を作り出した彫り師だったなら、どんなに誇らしく、満たされた気持ちになるだろうか。
木彫りをはじめてから、数年。その刀鞘に凝らされている技術と、自分のいかにもつたない技術との落差に愕然とした。
どれだけ努力したらあんな紋様が、そしてしなやかに伸びるあの刀の形が再現できるだろう。いや、今までにあんな精緻な彫り物を見たことがない。あの技は非凡なる者のなせる業だ。だとしたら、自分に才能がなければ、永遠にあんなエムシを生み出せないかもしれないのだ。
うまく作りたい。早く作りたい。作者への嫉妬。焦燥。あの日から、カカミの狂おしい日々はずっと続いている。一日たりとも休むことを知らない。
そうやって思い焦がれながら、カカミがこのエムシを、この文様だけを彫り続けるようになって三年が経つ。
自分にも説明不能な思いを、うまく口で表せるわけがない。
思いを伝えたくて言葉を探すが、結局見つからない。
「好きなんだ」
カカミは、一言つぶやいたきり、そのままうつむいた。自身が彫ってきた刀鞘を見つめる。
村長は、なおもしばらくカカミの返答を待っていたが、らちが明かないとでも思ったのだろうか、話題を変えた。
「ところでカカミ、おまえにちょっと頼みがあるのじゃがな」
「頼み、ですか?」
「ミナのことじゃ」
カカミは、先ほど入り口のセムでミナと目が合い、気まずく視線をそらしてしまったことを思い出す。
「……ミナが、どうかしたんですか?」
「いや、そんな仰々しいことでもないんじゃ。相変わらずあいつは、内にこもってばかりでな。おまえとは同い年でもあることだ。良かったら友達と言うかの、たまに誘って外に連れ出してほしいんじゃがの」
村長は、あごひげをなでながら、カカミをうかがい見た。
「……ほかに、同い年だったら、ホテネも、シコサンケもいるじゃないか。あいつら、同じメノコだし。どうして異性のおれなんかに」
「もちろん、他のメノコにも頼んで幾度となく誘うてもらっとる。じゃが、あまり……な」
村長は、ため息をついて首を横に振った。きっとミナは、誘われても遊びに出かけないのだろう。
「木彫りをな」
「え?」
「いや、ミナは木彫りをするのでな。おまえとなら気が合うかもしれん、と思うたのじゃ……無理にとは言わん。気が向いたら、でいい。少し気にかけてはくれんか?」
「……わかりました」
カカミが返事を返すと、村長はほっとしたのか、口元をゆるませた。
「そうか、それはありがたい」
「だけど、条件があります」
「条件?」
カカミは、さも言いにくそうに言葉をよどませた。
「あいつ……ミナと友達になる代わりに、あのエムシを……三日、いや一日でいいです、おれに貸してはもらえませんか?」
村長は、表情を緩めたのもつかの間、一変、表情を険しく曇らせた。自分でもとんでもないことを言ってしまったと思っている。怒鳴られることを覚悟する。
意外なことに村長は、長らく黙した後、うめくようにつぶやいた。
「カカミ……おまえというやつは……」
言いながら首を横に振る。
「もう良い。おまえに頼んだわしが間違いじゃった。ミナのことはもう頼まん。ミナのことは、孫のアムルイにも頼んでみるつもりじゃったからな。エムシのことも好きにすればよい。ただし、もう二度とわしのところへ彫った駄作を持ち込んでくれるな」
「エカシ!」
村長の声は静かだった。けれど、それだけに思った以上に怒りをかってしまったことも確かだった。村長はそれっきり口をつぐんだ。目先の利益にとらわれて、考えもなしに思わず、怒らせるようなことをしてしまった。もはや、取り返しがつかない。けれど、すぐにそれを謝ってしまえるような素直さも持ち合わせていない。
そもそも、村長が自分を認めてくれないのがいけないのだ。
「こっちだって、いいさ。もう頼まないよ」
それだけ吐き捨てるように言葉をぶつけると、カカミは東の窓に背中を向けて、暖簾をくぐった。
暖簾をつきぬけ、まっすぐにその先の出口へ向かう。
薄暗いセムの中に、そこいらに置かれている数々の道具同様、ひっそりと座っている少女が、視界に入った。そのまま突っ切ろうと目をそらしたが、打算に走った自分に多少の後悔が生まれてきていた。
たかが友達になるのに、代価を払わせようとするなんてどうかしている。
カカミは、出口の前で踏みとどまった。
「よお……」
おずおずと声を発した。けれど、さっきとは違ってミナは、顔を上げることもしない。
聞こえなかったのか?
カカミは、もう一段声を高くして呼びかけてみる。
「何を彫ってるんだ?」
こんなに目立つ大きな盆だ。何を彫っているかなんて、きくまでもなく誰にもわかる。
我ながら間抜けな質問をしたものだと思いつつ、近寄っていく。
ミナは依然、何も答えない。代わりにきっとした鋭い瞳でカカミを見返す。
本当に愛想のないやつだ。
以前、ミナが暮らしていたコタンは、和人によって壊滅させられた。そこの村長であったミナの両親ともども、村の民が皆殺しにあったのだという。
カカミは、自分がこのコタンへ引き取られてきた日のことを思った。
父親がどうして突然消えてしまったのか、わからない。
元々、どのコタンにも属することをしない変わり者の父だったらしい。カカミは、父親と二人だけで、このコタンからは離れた場所にチセを設けて暮らしていた。母親はカカミが赤ん坊の頃に亡くなってしまっていた。
その父親が、ある日突然、カカミの前から姿を消した。今から七年前。七歳の時のことだ。狩の術も知らず、ひもじさのあまり動けなくなっていたのを、今の養父メヌカに発見された。
同情。そのときの気持ちは、それに一番近いのだと思う。鋭く睨み返してきた瞳は、手負いのキツネを連想させた。
「彫るの、好きなのか?……おれも、彫るんだ」
するとミナは、薄く形の良い唇のきざはしを少しゆがめ、言葉を発した。
「知ってるわ。性懲りもなく、毎回おんなじ。ツキノエさんが駄目だって言ってるのに、結構しつこいよね」
「――なっ……!」
思わず耳を疑った。せっかく人が歩み寄る言い方をしているというのに、やっと発した初めての言葉がこれなのか。この言葉には、さすがのカカミも沸騰してしまう。
「何だよ! 下手に出てればいい気になりやがって。大体、女のくせに彫り物をすること自体、どうかしてるぜ。女は刺繍。決まってんだろ、この変人!」
「神窓に吊るされてる刀」
「え?」
カカミの心を捉えて離さないそのものの言葉がミナの口から飛び出した。どうして、カカミがあれに心を奪われていることを、知っているのだろうか?
「もしかして、同じ?」
「……何のことだよ?」
沈黙。ミナは不可解な言葉を発したきり、しばらくの間しゃべらなかった。彫ることを途中にしていた盆に向かい、右手を動かす。シャリッシャリッという軽快な音だけがセムの中に響く。カカミはミナの言葉が気になって、その場を離れる気にはなれない。
「あの刀鞘に彫られた文様」
ミナは、手仕事を続けながらぽつんと言葉を落とした。カカミは思わず真顔を作って、その先の言葉を待つ。
「もしも、自分にあれが彫れたら、自分が取り戻せる、そんな気がする」
なんだ、とカカミは失望をした。同じではない。自分の何かを取り戻すためにあれを彫っているわけではない。けれど、ミナが抱えている心の傷のことを思えば、そんな気持ちを理解できなくはない。何かをやり遂げることで心の自信を取り戻す。もしかして男の業である木彫りをあえて選ぶことで、ミナは心の中に強いものを手に入れたいのかもしれない。
「へえ? だけど、あいにくだな。おれはおまえと同じじゃない。自分の傷をなめることなんかのために、あれを彫りたいわけじゃない。勝手に同類なんかに分類するなよ」
「――痛っ」
ミナの握っていたマキリが板の上を滑った。カタンとマキリが投げ出され、ミナが自分の左人差し指を口にくわえた。
「へたくそ。指を切るなんて、初心者のやることだ」
ミナは、指を唇からそっと離して、上目遣いにカカミを見上げた。黒い瞳が怒っている。その黒い瞳にみるみるうちに涙の粒が盛り上がってくる。
「そうよ、初心者よ! 仕方ないでしょう! 何よこんなもの! 本当は嫌い。難しくて、難しくて絶対に届かない。こんなこと、あたし本当は!……こんなじゃないの。こんなんじゃない。ミナって言う名前は笑うっていう意味で、本当は……!」
まるで張り詰めていた糸が、ぷつんと音を立てて切れたみたいだった。突然、ミナは泣き出した。幼女ではあるまいし、年頃の少女が声を張り上げて泣くのをカカミは初めて見た。
「あたしを返して! お母さんを返して! お父さんを、村のみんなをあたしに返してよう!」
泣き声を聞きつけて、表で仕事をしていたレラと、チセの奥にいたツキノエがセムの中に入ってきた。心底驚いたようにミナを見つめた。
両親やコタンの人々を殺されて以来、一切、泣くことをしなかったミナが、初めて涙を流した瞬間だった。
「帰ってきたぞ!」
甲高い子供の声が上がった。
木立の向こうに、十数人からなる大人たちの一団が見え隠れしていた。数日間、コタン(村)を留守にしていたと、それに付き従っていた者たちだった。
二十軒あまりのチセに囲まれた広場の中、団子のように固まり、頭を並べ、何かの遊びに夢中になっていた子供たちは、声につられて頭を上げる。
「お帰りなさぁい!」「サケ、いっぱいとれた?」
皆、自分の父親を見つけたらしい。子供たちは、嬉々とした表情をその顔に浮かべると、思い思いの言葉を口に駆け出していく。
カカミは、はしゃぐ皆の様子を黙って見ていた。もともと他の子供たちとは一線を画すように別の場所、丸太の上にひとり腰掛けていたのだ。右手にマキリ(小刀)を握り締め、ずっと木片を削っている。手を休め、立ち上がってはみるものの、その場所を一歩も動かない。
一団の中には、カカミの養父がいることを知っている。けれどカカミにとっては、はしゃぎ、駆け寄っていくような相手ではない。その場に取り残されたように棒立ちになったまま、大人たちの行方を見守る。
コタンは、川から林を隔てた岸辺にあった。歌うように流れる早瀬の音がいつも聞こえる。コタンのそばを流れる川は、下っていくと、はるか海へと注ぐ大きな川、石狩川に合流している。夏の終わり。今年もサケが遡る季節だ。数日間も留守にする必要がどこにあるのかはわからないが、大人たちは、そのかなり下流域にまで足を延ばしたのだろう。当然、そのための狩であるのだと、カカミは思っていた。
歩いてくる大人たちは、夕日を背中に背負っている。遠目には、その身なりや顔の表情は、影になってよく見えなかった。
大人たちが近づいてくる。その姿が薄暗がりの中にも明らかになったとき、カカミの心は、はっと止まった。
この雰囲気はなんだろう? 我が子を目の前にしたのに、大人たちの表情は固くしまっている。それに……血だ。全身が血に汚れている。サケをとりに行っていたのではなかったのか? では、鹿を? いや違う。ただの狩ではないのだ。だって、もし獲物をしとめたのだったら、大人たちがこんな表情をするわけがない。第一、肝心な獲物が一匹もいないじゃないか……
カカミがそう思った矢先に、大人たちは表情を崩した。けれどそれは、子供たちを目の前にして自然にほころんだものとは違い、明らかに子供たちの不安そうな顔に気づいての作り笑いだ。
カカミと同じ事に気づいたのか、自分の父親に抱きついていくのをためらい、一瞬立ち止まった子供たちが、父親の笑顔に気づくや、再び動き出した。今度はまっすぐに父親の懐へ飛び込んでいく。
けれどカカミは、相変わらずその場所で固まったままだ。まなざしだけは大人たちを追う。そんなカカミの横を大人たちが通り過ぎていく。
「どうした? カカミ。そんな所につっ立って?」
養父が近寄ってきて、カカミの肩をぽんと叩いた。この夏、十二歳を迎えたカカミは、養父の肩先を越えるほどの背丈がある。カカミは、大柄の養父に背中を押されるようにして歩き始めた。歩きながら、周りの大人たちの様子をしきりにうかがう。
前を向いて歩く養父の表情から再び笑みは消えている。カカミの背後、他の者に周囲を囲まれるようにして歩いていた村長の表情も険しい。
もう一度はっとして、カカミは気づいた。期待していたサケではなく、大人たちの衣服を血に染めたのであろう鹿でもなく、村長の傍らに、見慣れない二人の少女の姿があることを。
一人は、カカミよりもかなり年長らしい。少女と言うよりは、もう立派な大人の表情を宿している。そしてもう一人は、カカミと背格好は変わらない。
――誰だろう?
カカミは、年少の方の少女に目を奪われていた。衣服がかなり汚れている。手も、足も、顔も泥だらけだ。それに、たいしたことはないが、顔にまだ新しそうな傷がある。不自然な歩き方をしているところから見て、足にもケガをしているみたいだ。年齢は、自分と同じくらいだろうか。目鼻立ちがはっきりとしたきれいな少女だ。
だけど、どうしてなのだろう? 少女は、まるで人形のようだった。ひとりでに歩いているのが不思議に思えるほど、表情というものがない。引きずる足に見合うほどの苦痛すら見てとれないのだ。
カカミは、大人たちがなにかやんごとない事態に遭遇してきたのだということを、ふいに悟った。
「ねえ、あの子、誰?」
きいてみたいが言葉を飲み込む。なぜだかわからないが、軽々しくきいてはいけないことのような、そんな気がした。
大人たちは、コタンのほぼ中心部、村長のチセ(家)の前まで歩いてくると、子供たちからいったん離れて集まった。村長の傍らの少女たちは、大人たちの中でぼんやりと立ち尽くしている。大人たちは、顔を突き合わせ、聞き取れないほどの低い声で何か、言葉を交し合う。
大人たちの話が終わるのを待たされる格好になった子供たちは、再びてんでにちょっかいをかけ合いながら、遊び始めた。その中にあってカカミだけは、憂いの宿った村長の顔、不安そうな年長の少女の顔、それに、相変わらず人形みたいな少女の姿を順番に見つめていた。
姉の名をフミ、妹の名をミナといった。
その姉妹が、石狩川のはるか下流域にあるコタン――村長の遠い親戚筋に当たる人物が治めていた村――から連れて来られたこと。そしてそのコタンに住む民が、和人によって皆殺しにされたことを知ったのは、それから、数日経ってからのことだった。
第一章
カカミは、何日もかけてやっと彫りあげたエムシの鞘を手に持って、村長のチセへ向かった。エムシとは、日常に使う刀とは違い、カムイをまつる儀式に使われる特別な刀だ。カカミの肩幅ほどのわたりがある。今、持っているのは、ある刀のために作った鞘だ。
村長の住むチセは、周りのものより一回り以上大きかった。
「こんにちは」
ソユナパ(外の入り口)の前に立ち、大きな声を張り上げる。声の調子はそっけない。けれど、それはいつものことだ。
ほどなくして、村長の妻であるレラが、表に顔を出す。
「あら、カカミ。どうぞ上がって」
レラの顔はいつも柔和だ。快くカカミを奥へ通してくれる。けれど、カカミに同情するような、恐縮しているような、複雑な笑みを浮かべているのもいつものことだ。
中へ入ってすぐのセムと呼ばれる物置には、いつものようにミナがいた。
ミナは、二年前にこのコタンへ姿を現してからずっと、姉のフミと共にこのチセで暮らしている。
カカミは、ミナが外で何かをしている、というところをほとんど見たことがない。村長の家へは何度となく来ているが、ミナは、まるで尻に根が生えて動けないのではないのかと思うくらい、いつもそこに座っていた。座って、無心に木彫りをしている。
村の衆から聞いた話によれば、ミナは、ずっとチセにこもっているというわけでもないらしい。村長の奥さんのレラ、または姉のフミと連れだって、水を汲んだり森へ入ったりしているのだという。
けれど、二年前からずっと、ミナは同じ年代の少年はおろか、少女たちと進んで交流を持つことはなかった。友達と呼べる者は皆無。はじめの数ヶ月はかなりひどくて、ミナがこのコタンに連れてこられた現場を直接見た者と、見なかった者との意見が別れ、ミナという少女が本当に存在するのかをめぐって、幽霊説までが飛び出していたほどだ。
ミナは今、かなり大きな木を切り出したものだろう、少女の腕に一抱えもある丸く大きな板に、独特な文様を彫り出していた。
どれほどの技量を持っているのか、カカミはそこを通る度、いつも気になっているのだが、通りすがりであからさまにミナを見つめるわけにもいかない。何度となくこのチセに来ているくせに、そしていつも気になるくせに、どうしてか、いや、だからこそ話しかけることができない。
ところが、ちょうど目をそらし、その奥へ向かおうとしたときだ。思いがけず、ミナが顔をふりあげた。視線が交わる。吸い込まれそうなほどの黒い瞳だ。カカミは、とっさに顔を背けて視線をそらした。相手にそれとわかるほど、あからさまな反応だ。
気まずさと気恥ずかしさがない交ぜになって、どぎまぎしていた。
ミナの方はどうなのだろう? 自分と目が合って、何かを思っただろうか? 自分が通りかかったと知って、だからこそ面を上げたのではないのか? だが、ミナの表情を確かめるほどの勇気はない。
カカミは、気まずさから逃げるように、アウナパ(内側の戸)に下がっている暖簾をくぐった。
「失礼します」
言いながら息を整える。村長のツキノエは、どうやら母屋の一番奥、宝物棚の前で、祈りを捧げていた様子だった。カカミの声に反応し、ゆっくりと向き直る。
「なんじゃ、カカミか。今日はどうした?」
「……また、彫ってみたんです。見てくれませんか?」
まあ、座れ、と村長は言った。カカミは、素直に言葉に従う。部屋に入って炉をはさんだ右側の、村長と向き合う場所に腰を下ろした。
この老人は、いつも瞳にきらきらとした、子供のもののような輝きを宿している。その無邪気とも思える瞳は笑っていた。
「なんじゃ、また刀なのか。ずいぶん長いな」
瞳に宿す光とは反対に、言葉の響きがそっけない。
「はい。おれが作るのは、エムシと決めていますから」
カカミは、横目で右肩の向こう、一番奥の神窓の下に吊り下がっているエムシにちらりと視線を走らせた。
村長は、カカミの言葉を聞いたとたん、ほっほと笑う。
「なんじゃ、エムシとな? わしは、おまえがマキリを作ってくることを期待していたのじゃがな?」
「どうして、おれがマキリなんか……」
カカミの鼻が、ふいに生まれた憤りに少し膨らむ。
「年はいくつになった?」
「……十四です」
「そうじゃろう。おまえももうそんな年じゃ。想いを寄せるメノコのひとり、いてもおかしくはない、そうじゃな?」
マキリを話の中に持ち出したのは、そういうことか。コタンの古い習慣。つまり、男は年頃になると、「メノコマキリ」という小刀の鞘に美しい装飾を施したものを、想いを寄せる女に贈って求愛をする。女がそのマキリを腰に下げてくれれば、求愛を受け入れてもらえたことになるというしきたりだ。
だけど、そんなこと今は全く関係がない。おれは、自分が彫ったこの儀式用のエムシの鞘を村長に見定めてほしいだけだ。そして一言、素晴らしいと誉めてほしい、認めてほしいだけだ。それなのに、村長はどうしてはぐらかすのだろう。
カカミは無言のまま、村長の顔をぐっと見返した。
「おまえのことは、これでも気にしておるのじゃぞ。おまえが危うく飢え死にするところを、おまえの養父、メヌカが見つけて、かれこれ七年が経つ。本当の親と死に別れた寂しい身の上じゃ。幸せに暮らせることを祈っておる。このコタンへ来たときに、すぐにでもいいなづけを決めておくべきだったかのう……」
「おれ、まだ結婚なんて考えませんから……それに、マキリを作ったとして、エカシ(年老いた男性に対し尊敬を込めて呼ぶ)に持ってくるなんて、気持ち悪いだけでしょう?……おれ、そんな趣味ないし」
カカミは、憤然とした面持ちでつぶやいた。それを聞いた村長は、豪快に笑う。
「面白いことを言うのう。これは一本とられた」
「冗談にしないでください。マキリでも、盆でもない。おれはこのエムシを彫ったんだ。それを村長であるあんたに見て欲しい。それだけなんです」
なおも笑い続けていた村長が、唐突に笑うのをやめた。表情が引き締まる。
「だめじゃな」
言葉が、孤立したように空中に放たれた。カカミは、言葉をすぐに飲み込めない。沈黙が流れる。そして、やっと理解したかのように性急な調子で聞き返す。
「だめって、なにが」
「おまえが何を思ってこれを作り続けるのか、わしにはわからぬが、このエムシを見て思うのは、だめだということだけじゃ。何べんも言っておろう。今のおまえには、とても無理じゃと。何本作ったところで同じことじゃと、わしは思うとる」
「どうしてですか」
「どうしてと言われてもな」
村長は、困り果てた顔で長いあごひげをなでている。カカミは、唇をきっとかみしめる。
いつもそうだ。村長は、自分が作ってきたものをだめだと言うだけで、何も教えてはくれない。それでも自分なりに技を磨き、より丁寧に作り直して見せに来るのだ。努力している。一言くらい何か言ってくれてもいいではないか。
険しい表情を貼り付けたまま、カカミは立ち上がった。東側の窓を見やる。窓は広く開け放たれ、青い空がのぞいている。そのまま、つかつかと窓へ向かって歩いていく。
「これと、どう違うって言うんだよ」
開け放ってある窓の上枠にぶら下がったエムシに手を伸ばす。その瞬間、
「触れるでない!」
村長の鋭い声が飛んできた。
「そのエムシに触れてはならん! 言われなくともおまえにはわかっておろう」
村長のチセに限らず、どのチセにあってもチセの一番奥、東側の窓は、カムイ(神様)が出入りをするための神窓だ。その場所にあるものをカムイの断りなしに、不用意に触ってはならないことは、幼いときから習慣としてたたきこまれている。
さすがに、村長の一言はきいた。カカミは、伸ばした腕を下におろした。だが、その場所からは一歩も退かない。目の前にある刀を凝視している。
瓜二つだ。自分が作ってきたものは、窓にかかっているものと瓜二つだ。そう思う。大胆に彫り込まれた二つの渦。まるで二匹の蛇が抱きあいからまっているかのような紋様はもちろん、柄や鞘の隅々に渡って彫り込まれた、細かいうろこ状の装飾。これは、一番難易度の高いところだ。うろこの一つ一つを、気を抜くことなく丹念に彫った。完璧に近いはずだ。
――それなのに。
ここへ来てまもなく木彫りを始めたカカミに「おまえには、見込みがある。将来、この近隣のコタン一の彫り師になれるぞ」と誉めてくれたのは、村長じゃないか。
当時、その言葉に励まされたことも確かだ。どうして、今は誉めてくれないのだ。こんなにうまく彫れているのに。
カカミは、まめができてつぶれた右の手のひらを握り締めた。このところ無心に彫り続けたためにできてつぶれたそのまめが、手のひらの中でじくじくと痛む。
「……これと、どこが違うんですか……」
村長は、大きなため息をついた。少し間をおいて、おもむろに切り出す。
「カカミよ、わしこそおまえにききたい。どうして、このエムシにこだわるのじゃ。
……わしは、そのたびにおまえに助言を与えておるつもりじゃ。このエムシはやめろ、と。
なのに、おまえときたら彫る文様はいつも同じじゃ。これ以外なら何でも良い。盆でも、マキリでも、たとえ、エムシじゃったって文様を異にして彫ればよいじゃろう。そのことが、どうしてわからぬ」
カカミが、このエムシにこだわる理由。それは、カカミ自身にもうまく答えられない質問だった。
三年前。今、目の前に下がっているこのエムシは、村長のチセへ養父からの頼まれごとのためにお使いに訪れたあの日にも、同じようにこの窓に吊り下がっていた。いや、このエムシは三年前どころか、ずっと前からこの場所に下がっていたのだ。けれど、そのときまでカカミは、そのことに気づかなかった。存在を知りながら、気をひくものではありえなかった。
だけど、今でも覚えている。突然、それは、身体の内側に稲妻が走るかのようにやってきたのだ。
言葉でなんてとても説明できるものではない。たとえば、それまで何でもないただのメノコと思っていた村娘に突然、恋心を抱いてしまうときのような――カカミには、そんな経験はないので、外から聞いた体験談に照らして思うだけだが――もしかしたら、そんな気持ちに似ているのかもしれない。
とにかく、しばらくの間、ほかの風景が見えなくなってしまったのは確かだ。気づいたときには、このエムシの不可思議で美しい紋様に痛いほどの衝撃を受けていた。
自分が、あの紋様を作り出した彫り師だったなら、どんなに誇らしく、満たされた気持ちになるだろうか。
木彫りをはじめてから、数年。その刀鞘に凝らされている技術と、自分のいかにもつたない技術との落差に愕然とした。
どれだけ努力したらあんな紋様が、そしてしなやかに伸びるあの刀の形が再現できるだろう。いや、今までにあんな精緻な彫り物を見たことがない。あの技は非凡なる者のなせる業だ。だとしたら、自分に才能がなければ、永遠にあんなエムシを生み出せないかもしれないのだ。
うまく作りたい。早く作りたい。作者への嫉妬。焦燥。あの日から、カカミの狂おしい日々はずっと続いている。一日たりとも休むことを知らない。
そうやって思い焦がれながら、カカミがこのエムシを、この文様だけを彫り続けるようになって三年が経つ。
自分にも説明不能な思いを、うまく口で表せるわけがない。
思いを伝えたくて言葉を探すが、結局見つからない。
「好きなんだ」
カカミは、一言つぶやいたきり、そのままうつむいた。自身が彫ってきた刀鞘を見つめる。
村長は、なおもしばらくカカミの返答を待っていたが、らちが明かないとでも思ったのだろうか、話題を変えた。
「ところでカカミ、おまえにちょっと頼みがあるのじゃがな」
「頼み、ですか?」
「ミナのことじゃ」
カカミは、先ほど入り口のセムでミナと目が合い、気まずく視線をそらしてしまったことを思い出す。
「……ミナが、どうかしたんですか?」
「いや、そんな仰々しいことでもないんじゃ。相変わらずあいつは、内にこもってばかりでな。おまえとは同い年でもあることだ。良かったら友達と言うかの、たまに誘って外に連れ出してほしいんじゃがの」
村長は、あごひげをなでながら、カカミをうかがい見た。
「……ほかに、同い年だったら、ホテネも、シコサンケもいるじゃないか。あいつら、同じメノコだし。どうして異性のおれなんかに」
「もちろん、他のメノコにも頼んで幾度となく誘うてもらっとる。じゃが、あまり……な」
村長は、ため息をついて首を横に振った。きっとミナは、誘われても遊びに出かけないのだろう。
「木彫りをな」
「え?」
「いや、ミナは木彫りをするのでな。おまえとなら気が合うかもしれん、と思うたのじゃ……無理にとは言わん。気が向いたら、でいい。少し気にかけてはくれんか?」
「……わかりました」
カカミが返事を返すと、村長はほっとしたのか、口元をゆるませた。
「そうか、それはありがたい」
「だけど、条件があります」
「条件?」
カカミは、さも言いにくそうに言葉をよどませた。
「あいつ……ミナと友達になる代わりに、あのエムシを……三日、いや一日でいいです、おれに貸してはもらえませんか?」
村長は、表情を緩めたのもつかの間、一変、表情を険しく曇らせた。自分でもとんでもないことを言ってしまったと思っている。怒鳴られることを覚悟する。
意外なことに村長は、長らく黙した後、うめくようにつぶやいた。
「カカミ……おまえというやつは……」
言いながら首を横に振る。
「もう良い。おまえに頼んだわしが間違いじゃった。ミナのことはもう頼まん。ミナのことは、孫のアムルイにも頼んでみるつもりじゃったからな。エムシのことも好きにすればよい。ただし、もう二度とわしのところへ彫った駄作を持ち込んでくれるな」
「エカシ!」
村長の声は静かだった。けれど、それだけに思った以上に怒りをかってしまったことも確かだった。村長はそれっきり口をつぐんだ。目先の利益にとらわれて、考えもなしに思わず、怒らせるようなことをしてしまった。もはや、取り返しがつかない。けれど、すぐにそれを謝ってしまえるような素直さも持ち合わせていない。
そもそも、村長が自分を認めてくれないのがいけないのだ。
「こっちだって、いいさ。もう頼まないよ」
それだけ吐き捨てるように言葉をぶつけると、カカミは東の窓に背中を向けて、暖簾をくぐった。
暖簾をつきぬけ、まっすぐにその先の出口へ向かう。
薄暗いセムの中に、そこいらに置かれている数々の道具同様、ひっそりと座っている少女が、視界に入った。そのまま突っ切ろうと目をそらしたが、打算に走った自分に多少の後悔が生まれてきていた。
たかが友達になるのに、代価を払わせようとするなんてどうかしている。
カカミは、出口の前で踏みとどまった。
「よお……」
おずおずと声を発した。けれど、さっきとは違ってミナは、顔を上げることもしない。
聞こえなかったのか?
カカミは、もう一段声を高くして呼びかけてみる。
「何を彫ってるんだ?」
こんなに目立つ大きな盆だ。何を彫っているかなんて、きくまでもなく誰にもわかる。
我ながら間抜けな質問をしたものだと思いつつ、近寄っていく。
ミナは依然、何も答えない。代わりにきっとした鋭い瞳でカカミを見返す。
本当に愛想のないやつだ。
以前、ミナが暮らしていたコタンは、和人によって壊滅させられた。そこの村長であったミナの両親ともども、村の民が皆殺しにあったのだという。
カカミは、自分がこのコタンへ引き取られてきた日のことを思った。
父親がどうして突然消えてしまったのか、わからない。
元々、どのコタンにも属することをしない変わり者の父だったらしい。カカミは、父親と二人だけで、このコタンからは離れた場所にチセを設けて暮らしていた。母親はカカミが赤ん坊の頃に亡くなってしまっていた。
その父親が、ある日突然、カカミの前から姿を消した。今から七年前。七歳の時のことだ。狩の術も知らず、ひもじさのあまり動けなくなっていたのを、今の養父メヌカに発見された。
同情。そのときの気持ちは、それに一番近いのだと思う。鋭く睨み返してきた瞳は、手負いのキツネを連想させた。
「彫るの、好きなのか?……おれも、彫るんだ」
するとミナは、薄く形の良い唇のきざはしを少しゆがめ、言葉を発した。
「知ってるわ。性懲りもなく、毎回おんなじ。ツキノエさんが駄目だって言ってるのに、結構しつこいよね」
「――なっ……!」
思わず耳を疑った。せっかく人が歩み寄る言い方をしているというのに、やっと発した初めての言葉がこれなのか。この言葉には、さすがのカカミも沸騰してしまう。
「何だよ! 下手に出てればいい気になりやがって。大体、女のくせに彫り物をすること自体、どうかしてるぜ。女は刺繍。決まってんだろ、この変人!」
「神窓に吊るされてる刀」
「え?」
カカミの心を捉えて離さないそのものの言葉がミナの口から飛び出した。どうして、カカミがあれに心を奪われていることを、知っているのだろうか?
「もしかして、同じ?」
「……何のことだよ?」
沈黙。ミナは不可解な言葉を発したきり、しばらくの間しゃべらなかった。彫ることを途中にしていた盆に向かい、右手を動かす。シャリッシャリッという軽快な音だけがセムの中に響く。カカミはミナの言葉が気になって、その場を離れる気にはなれない。
「あの刀鞘に彫られた文様」
ミナは、手仕事を続けながらぽつんと言葉を落とした。カカミは思わず真顔を作って、その先の言葉を待つ。
「もしも、自分にあれが彫れたら、自分が取り戻せる、そんな気がする」
なんだ、とカカミは失望をした。同じではない。自分の何かを取り戻すためにあれを彫っているわけではない。けれど、ミナが抱えている心の傷のことを思えば、そんな気持ちを理解できなくはない。何かをやり遂げることで心の自信を取り戻す。もしかして男の業である木彫りをあえて選ぶことで、ミナは心の中に強いものを手に入れたいのかもしれない。
「へえ? だけど、あいにくだな。おれはおまえと同じじゃない。自分の傷をなめることなんかのために、あれを彫りたいわけじゃない。勝手に同類なんかに分類するなよ」
「――痛っ」
ミナの握っていたマキリが板の上を滑った。カタンとマキリが投げ出され、ミナが自分の左人差し指を口にくわえた。
「へたくそ。指を切るなんて、初心者のやることだ」
ミナは、指を唇からそっと離して、上目遣いにカカミを見上げた。黒い瞳が怒っている。その黒い瞳にみるみるうちに涙の粒が盛り上がってくる。
「そうよ、初心者よ! 仕方ないでしょう! 何よこんなもの! 本当は嫌い。難しくて、難しくて絶対に届かない。こんなこと、あたし本当は!……こんなじゃないの。こんなんじゃない。ミナって言う名前は笑うっていう意味で、本当は……!」
まるで張り詰めていた糸が、ぷつんと音を立てて切れたみたいだった。突然、ミナは泣き出した。幼女ではあるまいし、年頃の少女が声を張り上げて泣くのをカカミは初めて見た。
「あたしを返して! お母さんを返して! お父さんを、村のみんなをあたしに返してよう!」
泣き声を聞きつけて、表で仕事をしていたレラと、チセの奥にいたツキノエがセムの中に入ってきた。心底驚いたようにミナを見つめた。
両親やコタンの人々を殺されて以来、一切、泣くことをしなかったミナが、初めて涙を流した瞬間だった。
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登録日:2010年11月20日 15時42分