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浅川こうすけ
著者:浅川こうすけ(あさかわこうすけ)
猫が好き。毛がつやつやの黒猫が特に好き。自分で飼ってるわけではなくて人様の猫相手に猫じゃらしを振ったりしています。でも本心では、自分自身が猫じゃらしにじゃれつきたいのです。時間やしがらみを忘れて一心不乱にじゃれつきたいのです。猫じゃらしを振っているのが美しい奥方ならなお嬉しい。――と、こんなことを真顔でいう30代の未婚男子でございます。
小説/ファンタジー

月のさやけき夜のこと

[読切]
大学の卒業単位取得のためには、この村に訪れなくてはならなかった。美しい湖と奇麗な月と、……彼女。雄貴と美咲の出会いは、いったいどこからが運命で、どこまでが偶然だったのか。二人の選んだ未来は?
 初日にして、黒島雄貴の胸は後悔でいっぱいになった。
 額に浮きでた汗が粒となり、糸目のなかに落ちるてくる。雄貴は足を止め、左の腕でふきとった。
 しかし、腕も汗まみれだ。汗の粒どうしが潰しあうジュブジュブという音が不快感をましてくれる。木々の間からふりそそぐ月光がいくら涼し気でも、肌にはりつくTシャツを乾かしてはくれない。
 どんな真夏日でも夜は冷えこむ、と村の老人たちがいっていたところみると、どうやら今年は異常気象らしい。そうなると、エアコンのついた家が一台もないこの村は、まさに灼熱地獄であった。
 こんな辺ぴな場所になど来るんじゃなかったと、雄貴が胸のうちでつぶやいても無理ないことだ。
 しかし、グチはけして声にはしなかった。この村で一週間生活をすると決めた以上、最後まで成し遂げなければならない。
 前触れなしに、風が真っ正面から吹きよせてきた。いくら生暖かい風でも、汗をいくぶんかは乾かしてくれる。雄貴はやや両手を広げて、風を全身で受け止めた。
 気持ちいい、と思う間もあらいでか。真冬のような冷風に、肌の表面を削られた。
「え?」
 と目をむいたころには、吐く息が白くなっていた。風が体温を奪う、などというレベルはとうにすぎ、凍るような冷気が体の芯へむかって浸透してきている。
「は、はははは」
 雄貴は乾いた笑いで空気をふるわせた。
 急激に温度が変化した。それはわかる。しかし、なぜ?
 答えを推理するよりも、雄貴はまず笑った。
 小学生のころ、宿題を忘れた理由を問い詰められ、とりあえず笑ってごまかそうとしたことが、現実逃避的に頭の隅をかすめた。
 先ほどまでふりそそいでいた月光が、急速に一個所に収束していき、やがてスポットライトのようになってしまった。
 そのなかに、ふいに人の姿があらわれた。白いワンピースを着ているのを見なくとも、腰までのびた黒髪で女性とわかる。
 すう、と。まるで滑るように、その女性は近づいてきた。
 月光が彼女の動きにあわせるようにいっしょにシフトしてきたのは、まるで女神にでも仕えているかのようであった。
 雄貴はその間、まるで金縛りにあっているように動けなかった。いや、ほんとうに金縛りかもしれない。
 距離が縮んでくると、彼女の肌が透きとおるほど白いとわかる。体がほっそりしているわりに、顔の輪郭は女性らしい丸みをおびていた。
 女性が、ついに、息が顔にあたるほど接近してきた。
「ようこそ、羅郷村へ」
 まさに、天上音楽のような声であった。


 黒島雄貴が羅郷村へくることになった経緯は、レポートの作成が目的ということになっていた。
 卒業に必要な単位は取得していると思っていたのだが、単純な計算違いをしていた。卒業にはあと四単位、必要であったのだ。
 雄貴に幸いしたのは、名簿に名前だけはのせていた講義がひとつあったことだ。一度も出席はしていないが、試験でそれ相応の点数をとれば、と思った。
 しかし、世の中はそんなに甘くなく、雄貴は教授に泣きついた。
 教授が単位とひきかえに要求したことは、過疎の進む村で生活し、それをレポートとして提出しろ、というものであった。
 雄貴は一も二もなく、その過疎の村へとおもむいた。
 木々の茂る山々に、四方を二重三重に囲まれた村は羅郷村といった。畑と畑の間に家がまぎれこんでいる。そんな静かな村だった。
「実はな、この村には出るんじゃわ」
 顔中に染みの浮かんだ老人が、この地方独特の方言でいった。
 バス停で待ってくれていたこの老人は、村での世話を引き受けてくれるという。なんでも教授の知りあいらしいが、そんなことはどうでもよかった。単位さえ取得できればいい。
 入学するとき、まっとうに卒業すると決めたのだ。必ず、成し遂げなければならない。
「出るとはなにがですか?」
 荷物が肩にくいこむのをガマンしながら、雄貴は訊ねた。
 バス停から村まで十キロも歩かされ、おまけに、老人の家を目指して歩いている最中ときた。
「いや、出るんじゃよ」
 老人がヤニ臭い息をついて、
「村の東の端に、羅郷湖ちゅう湖があっての、そこに幽霊が出るんじゃわ」
「だれか見たんですか?」
「ああ、ロクさんが見たいうとった。じゃけんど、村人にさんざんふれまわった翌日に、ポックリ亡くなったがの。あんたもちょっと見学に行ったらどうかの」
 老人は冗談だといわんばかりに、ヤニで黄色くなった歯を見せて笑った。
 そんな話を聞いて、なんで幽霊見物に来たのか、雄貴自身はわからなかった。ただ、幽霊が女だと聞いて、心の琴線にふれるものがあったのだ。
「奇麗な月ね」
 そういってから、美咲が膝の上にあごをのせた。
 湖面を舐めるようにはりだす太い枝があり、雄貴はそこに彼女といっしょに座っているのだった。
 林のなかで出会った後、彼女に優しく手をひかれて、この羅郷湖までやってきたのは五分ほど前であった。その間、疑問も疑念も警戒心すら抱かなかった。美女の尻を追いかけたわけでもなく、そうすることが、自然のように思えた。もしかしたら、月の光に酔っていたのかもしれない。
 いま改めて羅郷湖を見回すと、なるほど、いかにも出そうな、幻想的な光景であった。波ひとつたたない、まさに鏡のような水。それを囲うように、草木が生い茂っている。冴えた月光がふりそそぎ、暗紫の影を落とす木々たちは、それ自体が妖しい物怪ででもあるようだ。
「奇麗な月だね」
 雄貴はやや緊張した声で、美咲にこたえた。
 座っている太い枝が、はたして自分たちの体重に耐えられるのか、と不安だったためだ。そもそも、どうしてこんなところに座りこんでいるのだろうか。
 凍えるような寒さは、すっかりなりを潜めていた。蒸し暑くもなく、過ごしやすい。これが本来の気温なのであろう。
 してみると、あの異常な気温の変化は、あるいは美咲の登場のために、自然が用意した演出であったのだろうか?
 おそらく彼女――美咲は、村の老人のいっていた羅郷湖の幽霊だろう。
 ――なのに、なんで、こんなに自然におしゃべりができてるんだ?
「わたしね、生まれ変わったら月になりたいの」
 美咲が首をかしげるようにして、雄貴の顔をのぞきこんできた。
「ねえ、雄貴くんは生まれ変わるとしたらなにになりたい」
「美咲さんが月になりたいのなら」
 雄貴の心臓が、ひとつ大きく脈打った。
「ぼくは太陽になろう」
 その答えに、美咲が満足そうに微笑んだ。可憐で美しく、ドキリとするほど艶やかで、雄貴は思わず視線をそらせてしまった。
 その先に、羅郷湖があった。
 自然の奏でる美しさと同時に、懐かしさに似たものを感じた。
 いや、懐かしいというよりも見覚えがあるといったほうが近い。いったいいつ見たのか。
 神経を湖に集中させ、記憶層を深く探っていく。浮上してきた記憶は、額縁にはまった湖であった。
 ――そうか!
 雄貴は心のうちで快哉を叫んだ。
 ――どこかでこの湖の絵を見たんだ!
 心のうちの言葉は、あらたな疑問を生み出した。
 なら、いったいどこで見たのか?
 どこかの喫茶店だろうか?
 真智子とよく待ち合わせする喫茶<慧>には、こんな絵は飾られてなかった。
 ――真智子。
 忘れようとした名が、ふいに表層意識に浮かんできた。
「ねえ、雄貴くん」
 美咲の声に、ハッと雄貴は顔をあげた。助かった、と思った。苦い思考を巡らせなくてよくなったことに感謝した。
 しかし、その安堵も美咲の次の言葉で瓦解した。
「つきあってる女の人とかいるの?」
 即座には答えられなかったが、二秒後には、
「ああ、いるよ」
 とだけ答えられた。
「そう」
 美咲が宙ぶらりんの足をプラプラさせた。彼女は湖のほうをむいたまま、
「あしたもまた、ここで会わない?」
「ああ、いいよ。じゃあ、同じ時間に」
 首だけをふりむかせた美咲が、子供のようににっこりと笑った。
 次の刹那、かき消えた。
 幽霊だ。それぐらいの芸当はするだろう。驚くには値しない。
「さて、と」
 あえて言葉にだしてくぎりをつけ、雄貴も帰ろうとした。
 頭に引っかかっていることがある。その疑問も、やはり、あえて口にだした。
「ぼくは、なぜ彼女の名前を知ってるんだ?」
 幽霊の美咲は、名前を名乗らなかったのだ。


 娯楽のない村での生活は、拷問に近かった。単位をとると決めたのだからしかたないと、だれもいない所でため息をつくしかない。
 そう思った次の瞬間、雄貴の頬がゆるんだ。あれから毎夜、美咲と湖で語らっている。とりとめのない会話ばかりだが、彼女の一挙一動は心を弾ませてくれた。
 毎日出現するところを見ると、美咲も同じ気持ちであると思う――いや、思いたい。
 どうして、彼女が名乗ってもいないのに、名前が美咲だとわかったのか?
 また、彼女はは幽霊だ。常識で考えてみると、やはりもっと怖がってもよさそうなものなのに……。
 それらの謎はすでにとけていた。美咲が幽霊だからだ。存在自体が不思議の範疇にはいっている美咲なのだから、彼女にまつわるすべての事象は不思議であるべきだ。
 そんなふうに自分を納得させながら、雄貴はノートパソコンのキーを連打した。
 この村には、美咲とおしゃべりするために来たのではない。あくまでも、レポートの作成が主目的であるのだ。過疎の村の現状を記し、その問題点を浮き彫りにする。また、解決策を同時に示しておけば、一応は可をとれる計算だ。
 主眼は特に病気やケガについてだ。当然、こんな村には病院はなく、救急車といえど来るまでに二時間はかかってしまう。往復四時間だ。それなら、こちらから行ったほうが早いのだが、時間がかかるのは同じである。
「ちょっと休憩せえや」
 そういって老人がコップをさしだしてきた。いまのいままで、高校野球を見ていたはずなのに、いつの間にか飲み物をくんできてくれたようだ。
「いただきます」
 雄貴はコップに手をのばした。なかには透明な液体がはいっている。水のようだが、飲んでみるとはたして水であった。
 ただし、うまさが違う。カルキ臭さがまったくないのは当然として、生臭くもない。蒸留水にありがちな無味乾燥とした味でもない。まろやかでいて、しかし水であるというたしかな自己主張もしていた。鼻にぬけるかすかな香は典雅でさえある。
 雄貴はコップの水を嚥下すると、ほっと息をついた。
「羅郷湖の水じゃけん、うまかろう」
 老人のなにげない一言に、雄貴は目をむいた。
「この水があの羅郷湖で?」
「今朝くんできたんじゃ」
「たたられるんじゃなかったんですか?」
「なあに、太陽が出とるけん大丈夫じゃ」
 この老人は、幽霊などはなから信じていないのだろう。
 しかし、こんなにうまい水が羅郷湖にあるとは、これはレポートに使えるのではないだろうか? この水を売り出して、この過疎の村を賑わせることができる可能性を考えて……。
「おもしろい話を聞かせてやろうかの」
 老人がヤニだらけの歯をのぞかせた。
「昔はの。羅郷湖にはかなりの数の釣り人がやってきよったんじゃよ。ほなけんどいまはの、魚は一匹もおらんのじゃわ。十年前くらいからか、パタリといなくなってしもうた」
 雄貴は計算してみた。自分が十二、三才くらいのころだろうと。
「ちょうどそのころくらいかの。湖に美咲が出るようになったのは」
「そうなんですか?」
「そうじゃよ」
「ふうん」
 と、いいかげんに答えた雄貴は、しかし次の刹那に瞠目した。
「美咲ですって?」
 雄貴の驚愕も知らぬ気に、老人がうんうんと二回うなずいた。
「幽霊の名前じゃよ。この羅郷湖で、不幸な事故にあって亡くなったんじゃ。それから出てくるようになった」
「事故?」
「祖母のところに遊びに来て、それで事故にあったんじゃ。ほれ、湖にはりだした太い枝があるじゃろ? あの先端に座っていたんじゃが、枝が折れて湖に落ちたんじゃ」
 ――折れた枝?
 雄貴は心のなかで首をかしげた。湖にはりだした枝はひとつしかないが、あれは折れていない。ずっとあそこに座って美咲と話をしているのだから。
 してみると、他に枝があるのだろう。きっと折れてしまって自己主張がたりなくなっているのだ。
「それからなんじゃわ、湖に魚がいなくなったのは。ほなけんかどうかわからんが、水の味が格別になったのもそのころじゃったわ」
 美咲の話は抜きにして、このエピソードもレポートに書いたほうがいいだろう。本筋から離れるが、枚数をかせぐにはちょうどいい。
 入学するとき、まっとうに卒業すると決めたのだ。必ず、成し遂げなければならない。
 真智子に負けないためには、是が非でも。
 ――真智子、彼女はとっくに卒業が決まっていた。
 ――真智子。
 羅郷村へ来ることになった経緯は、レポート作成が目的ということになっていた。
 だが、真実は別のところにあった。
 真智子。
 あの日。夕方でも月がよく見えたあの日、真智子のマンションを訪れた。特に約束はしていなかった。電話でもいれれば、あるいはまだ幻想を見ていられたかもしれない。
 エレベーターを降り、廊下を彼女の部屋へと歩いていくと、かすかに耳をくすぐられた。リズムを刻むこれは、CDの音だろうか。
 音源は真智子の部屋からのようだ。
 インターホンへ手をのばしかけて、雄貴はふとうしろをふりかえった。廊下の窓から、月がよく見えた。それだけのことだった。
 雄貴はノブに手をかけた。
 真智子はいつも鍵をかけている。
 ノブがまわった。
 真智子はいつもチェーンをかけていた。
 ドアがひらいた。
 コンポが叫ぶ音が奔流となって押しよせてきたが、雄貴はまるで聞こえていなかった。土間に置かれた男物の靴と、騒音にまぎれたかすかな嬌声、そして音では隠しようもない男と女の匂い。
 雄貴は怒るでも泣くでもなく、そっとドアを閉めた。
 とにかく逃げたかった。だれも知らない土地へといきたかった。青空に、月がとても奇麗な日だった。
「そう。そんなことがあったの」
 いつものように、張り出した枝に座った美咲がいった。
 並んで座っている雄貴は、眉根に深い溝をつくった。真智子とのカッコ悪い顛末を告白したのを、ほんのちょっと後悔したのだ。
 美咲のほうがむけず、現実逃避気味に湖のぐるりを眺めてみる。昼間、老人のいっていた折れた枝を探してみたが、やはりそんなものは存在していなかった。日が落ちてはいるが、今日も月は輝いていて、あたりの様子がよくわかるのだ。
「そう。あなたがこんな辺ぴなところに来たのか不思議だったの。これでわかったわ。あなたは真智子さんから逃げてきたのね」
 ギクリとした。
 レポートを書くという理由でこの村に来た、という隠れみのの下には、たしかに真智子からの逃避が隠されていた。
「あなた、雄貴くんは、真智子さんと顔をあわせられないのね」
「うん、そうだよ」
 雄貴はすなおに首肯した。いままで、これほど素直になったことはなかったのに。
 いや、これだけ月が奇麗な夜だ。素直になるのも道理であった。
「いい方法があるわよ」
「いい方法?」
「そう。いい方法」
 美咲が最上の微笑みを浮かべてくれた。
「死ねばいいのよ。わたしみたいに」
 次の刹那、雄貴の脳内に羅郷湖の姿が思い浮かんだ。眼前にひろがる湖ではなく、太陽の下で輝く羅郷湖だ。
 その羅郷湖は額縁にはまった絵――いや、これは違う。絵ではなかった。額縁だと思っていたのは、窓枠であった。そこから雄貴は湖を眺めていた。
 この窓は、心の窓であった。
 窓の中の羅郷湖のほとりに、白いワンピースを着た十二、三才くらいのおかっぱの女の子がたっていた。
 窓枠が急速に接近してきた。
「ようこそ、羅郷村へ」
 眼前の美咲と、窓のなかにいる少女が、同時にいった。
 次の瞬間、雄貴は窓枠の内側へとふみこんだ。
 窓枠を通して湖が見えていたので、てっきりどこかで絵画を見たのだとばかり思っていたが、どうやらそれは錯覚のようであった。
 窓枠の外、それは過去の映像なのだ。自分で記憶を閉ざしたが、しかし忘れきることができずに小さな入り口を残していた。それがこの窓枠であった。
 そして、この窓を越えたいま、過去の雄貴の記憶は、現在の雄貴の記憶と融合した。ここ羅郷湖でおこった事故について、すべてを思い出した。
 あれは、いまから十年前のことだった。十二歳の雄貴は釣り竿をたずさえ、父親に連れられてきたのであった。
 ここ、羅郷湖へ。
 やって来たのは、現在がはじめてではなかったのだ。この村に、なにやら懐かしさに似たものを感じていたのは、このためだったのだ。
 そして、会ったのだ。
 あのときも、美咲に。
 ここ羅郷湖のほとりで。
『はじめまして、わたしは美咲。あなたは?』
 過去の言葉は、鈴を転がしたような声だった。いまの美咲の声よりもずっと幼いのは当然だった。
 一週間前、ここで美咲に会ったとき、名乗りあってもいないのに彼女の名前が自然と口をついてでてきたのは、実はこのためだったのだ。
 幼い雄貴と美咲は、湖水をなめるようにのびている太い枝に座った。
 雄貴の父親は、まるでふたりが眼中にないかのように、釣りを楽しんでいた。
『ねえ、ゆうきくん。ゆうきくんは、生まれ変わったらなにになりたい?』
 いくつかの他愛のない会話をしたあとで、美咲が真剣な顔をしていった。
『わたしは、生まれ変わったら月になりたいの』
『月? お月様?』
『うん、そう』
『じゃあ、ぼくは……』
 雄貴はちょっと考えてから、
『じゃあ、ぼくは太陽だ』


「黒島さん、黒島さん」
 肩をゆるられ、雄貴はハッとばかりに目を見開いた。
「疲れとるんじゃろう。ちゃんと横になって寝とかないかん」
 老人の言葉が、寝ぼけた耳にはいってきた。
「ぼくは、どうしてたんですか?」
「どうしたもこうしたも、わしと話しとって、突然船をこぎだしじゃろが」
「話?」
「ほれ、折れた枝の話じゃわい」
 雄貴はキツネにつままれたような表情をしていたが、突如立ち上がると、老人の驚く顔も見ず、湖へと駆けだしていった。
 細いあぜ道を飛ぶようにすぎ、木々が生い茂る林のなかにふみこむ。
 暗い。肩で息をしながら頭上を見上げると、何重にもおおいかぶさった枝葉が、青空を覆い隠していた。
 いまのいままで、湖にいたる道がこんなに暗いことは知らなかった。
 そも、いままではどういう経路で湖まで行っていたのだろう?
 暗いアーチを百メートルも走ると、行く手がひらけていき、突如、林を抜けた。
 羅郷湖が青空の下、ひろがっていた。
 波ひとつたたない、まさに鏡のような水。それを囲うように、草木が生い茂っている。燦燦と太陽がふりそそぎ、木々たちに黒い影を落とさせている。
 いまが夜ではないということをのぞけば、いつもとおなじ羅郷湖がそこにはあった。
 否、ひとつだけ違っていた。
「枝が折れてる」
 美咲と並んで座って語らっていたあの枝は、中途から先が、なにものかにかじられたように存在していなかった。
「気づいたのね」
 その声にふりかえると、十二、三歳くらいの、おかっぱの女の子がいた。白いワンピースがかわいらしかった。
「美咲さん」
 それはまさに、十年前の美咲の姿であった。彼女が死んだときの姿だ。幽霊は外見面では、死んだときの状態のままなのだろう。
「あなたは」
 美咲が口をひらいた。
「無意識にこの湖にはこなかった。だから、わたしは精神をあなたの心のなかに送って、あなたと話をしていたっていうわけよ」
「いま思うと、きみと話していたときはまるで夢見ごこちだった」
「同時に、やっと思い出してくれたようね。わたしのことを」
「ああ、思い出したよ。十年前、ぼくはきみといっしょにそこの枝に座ってた。でも、折れたんだ。いや、ぼくが折ったんだ」
 先端にのって、体を上下に動かすと枝が揺れ動いた。その振動に、美咲がきゃきゃと手をたたいて喜んでくれた。それが嬉しくて、何度もゆすった。エスカレートさせながら。
「そして、あの枝は折れた」
 雄貴ははりだした枝を指差した。
「ぼくが折ったんだ。そして、ぼくの父親は、ぼくだけを助けた」
「あなたに悪気はなかったわ。あなたのお父さんも、自分の息子と他人の娘、どちらが自分にとって大切かを、よくわかってらっしゃった」
「そうだ。でも、きみは――成仏できなかったんだね?」
「だってまだ十二歳だったのよ。やりたいこともあったし、それにわたし、学校の先生になりたかったのよ。それなのに……」
「ごめん」
「いいわ、べつに。ただ、わたしひとりじゃ、寂しくて成仏できないわよ。あのロクさんていう人じゃだめだった」
「――なんだって?」
 雄貴の眉間に、汗が流れた。嫌な予感という成分がふくまれていた。
「だから、あなたがこの村にきたときは、ほんとうにうれしかった」
「……」
「わたし、毎日お月様に祈ってたのよ。ゆうきくんが来てくれますようにって」
 十二歳の美咲が、可憐に微笑んだ。
 凄惨な微笑みであった。
 しかし、次の刹那。
 二十二歳の美咲が、艶然と微笑んだ。
 愕然と雄貴は空をあおいだ。
 暗い。
 夜であった。
「いいえ、いまはまだ昼よ。ただ、あなたのなかの世界は、たったいま夜にしたわ」
 雄貴はもう驚かなかった。ただ、慙愧の念がふくらんでいくのを感じた。ぼんやりと、それは美咲の仕業のように思えた。
「ぼくが道連れになるよ」
 雄貴は心の底からいった。
「それで、きみが成仏できるのなら」
 雄貴はおおきく深呼吸した。そんな小さな動きでも、枝が上下に動く。いつのまにか、枝の上を先端にむかって歩いていたのだ。
「ぼくは悪いと思っている。償いもしなくちゃいけないと思ってる。なにより、ここで死ねば楽になる」
 村から戻りたくはなかった。
 海鳴市へは帰りたくはなかった。
 真智子にどんな顔して会えばいいんだ?
 わからない。
 わからないから、逃げるしかない。
 ほんとうにそうなのか、と頭のすみでぼんやりと思った。
 途端、あたりが光に占領された。
 白々しいほど白んでいる光は、太陽の光であった。
 精神世界ではなく、現実世界であるのだ、ここは。
 精神世界では、枝は健在だ。
 だが、現実世界では?
 雄貴はいっしゅん宙に浮いている自分を認識した。
 いままではなにもない空間に立っていたのかと疑問に思っていたくらいだ。
 ついで、バシャンときた。
 プクプクとやがてブクブクと、水中から気泡が宙に逃げていく。
 死へと逃げる男への、それは葬送曲であろうか。
 否。
 太陽光がふりそそぐ音こそが、雄貴への葬送曲であった。
 もしこの曲を作曲家が聞けば、随喜の涙を流して楽譜に筆を走らせるだろうか。
 否。
 絶望に身を震わせるだろう。再現する楽器が世界に存在しないことに、絶望の叫びをはりあげて。
 太陽光がふりそそぐなか、少女の美咲だけがまるで水上に立つかのように、湖底を見下ろしていた。
 やがて、彼女も、ゆっくりと、湖に身を沈めていった。
 小波ひとつおきなかった。
「やっぱり、あなたとなら、いっしょに成仏できそう」
 しかし、声は小波をおこした。


 小さな小波が消えようとした刹那。
 湖から腕が一本突き出して、騒がしくかきまわした。
 腕はそれが目的だったのか、湖上に突き出した枝をつかむと、ぐいと本体を引き上げさせた。
「雄貴くん?」
 復活した雄貴は、答える余裕がなかった。肺にたまった水を吐き出すと、かわりにはいってきた空気に、おおきくせき込んだ。
「あぶなかった」
 ようやっと声がだせたのは、たっぷり五分たってからだった。
「きみにまんまとやられるところだった。精神世界ではきみの思う通りになる。そこで、ぼくをその気にさせて、いきなり現実に戻されるとはね。正直、ぼくはほんとに死んでもいいと思ってたよ。そして、実はいまもそうだ」
「なら、なぜ戻ってきたの?」
「あやうく、忘れたままでいるところだったのさ」
「なにを?」
「十年前のあの日、ぼくは太陽に生まれ変わると決めたんだった」
 ため息といっしょに、美咲が肩を落とした。
 この期に及んでなにを? と思ったのだろうか。
「だから、ぼくは是が非でも太陽に生まれ変わるんだ。そして、きみは月に。決めたんだ。決めている。わかってる。太陽や月に生まれ変わるなんてできないことは。でも、人間になら生まれ変われるんじゃないか?」
「なにをいってるの?」
「真智子のマンションのドアだ」
 美咲の顔面が蒼白になった。後遺症で狂ったとでも思ったのだろうか。
「そんな顔するなよ。たしかに、頭はまだ混乱してるけどね。だから、話の筋がうまく運べない」
「なにがいいたいのいったい?」
「真智子のマンションのドアさ。どうしてあの日に限って、ドアの鍵が開いてたのさ。いつもは絶対に開いてないのに。かけわすれたとしても、チェーンはどうなるんだ? そして、なにより、どうしてぼくはあの日にかぎって、インターホンを押さなかったんだろう? いままでは必ず押していたのに」
「だから、それがどうしたのよ?」
「あの日、月がとても奇麗だった。きみがぼくの精神世界につくった月のように」
 雄貴は美咲へと視線を流した。
「月の魔力だ、すべては。なら、これからも月の魔力でことが運ぶ。ぼくは必ずこの湖で死ぬよ。月の奇麗な夜を選んで。そして、きみといっしょに生まれ変わるんだ」
「生まれ変わる?」
「そう、月と太陽に。そう決めたんだから」


 三年後。
「ゆうくん、ハンカチはちゃんと持った?」
「ちゃんと持ってるよ」
 雄貴は靴をはく途中で、苦笑いといっしょにふりむいた。
「そのゆうくんというの、やめてくれないか。ご近所に聞かれるとはずかしい。それに子供も産まれるんだ。いつまでもゆうくんじゃあ……」
「それじゃあ、お父さんって呼べばいいのかな? それともパパ」
「パパはやめてくれよ、頼むから」
「じゃあ、わたしのことはなんて呼んでくれるの? いまみたいに真智子って呼ぶの?」
 と、真智子がいった。
「そうだな、お母さんとでも呼ぼうか」
 雄貴は微笑を浮かべた。
 あの日の浮気は、羅郷湖の底に沈めたまま忘れることにした。プロポーズしたのは、就職が決まってすぐだ。彼女は絶対に断らないという自信があった。月光が燦然とふりそそぐ夜に求婚したのだから。
「じゃあ、行ってくるよ」
 そういって玄関をくぐる寸前、雄貴はふりむいた。
「あまり無理をするなよ」
「うん、わかってる。お腹にはふたりもいるんだしね」
 最近の医学は発達している。お腹のなかの子が双子で、男の子と女の子だとわかるくらいには。
 名前もすでに決めていた。
「陽太と月子。いい名前、ね」
 微笑む真智子に微笑みかえし、雄貴はドアをくぐった。
 数メートル歩いて、
「もう決めたんだ。決めた以上は実行しなければな」
 と、もう一度微笑んだ。
 自分の命日が、自分の誕生日になるだろうことが、すこぶるおもしろかったのだ。
(了)
(初出:1998年08月)
登録日:2010年06月15日 14時41分

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    『桜花の大乱』より、一年半後――。解脱してしまいそうな平和な春、第三王女であるウズメ姫に呼ばれた侍女コノハは、密書を託される。オアシスとも称される砂漠の国、ブランク王国に赴いたコノハが、大乱の英雄ユキムラに渡した密書は、世界大戦の引き金になりかねないものだった!
    価格:315円(小説ファンタジー
  • イペタムの刀鞘 城本朔夜 (2010年11月20日 15時42分)
    蛇の痣(あざ)がある孤児、カカミ。村中の人間から「悪魔」と忌み嫌われる彼は、妖刀イペタムに魅入られ、寝食を忘れてイペタムの鞘作りに没頭する。そんな彼をそっと見守るのは、皆殺しにあった村で姉と二人だけ生き残った美しい娘、ミナ。やがて数年の研鑽が実を結び、ついに鞘が完成するが……。
    価格:350円(小説ファンタジー