南川純平
著者:南川純平(みなみかわじゅんぺい)
1950年、伯耆國生まれ、現在、相模國在住。子供の頃からチャンバラが大好きで、最初に書いた小説は、小学校三年生のときの『怪傑紫頭巾』。傑作だったという記憶はありますが、残念乍ら現存しません。歴史小説を、その時代に生きた人々の感覚で書きたいと思っています。そこから、混迷した現代に逆照射できる何かがあると信じて。
小説/歴史・時代

鬼姫桜

[読切]
1333年閏2月、後醍醐帝は隠岐島から脱出し船上山で陣を構えた。対峙する幕府軍が動き出そうとしたそのとき、一陣の風と共に鬼姫が率いる軍団が現れ大勢が決する。誰にも仕えぬ鬼姫の正体とは?
「あの鮮やかな若武者は何処のだれぞ?」
 後醍醐帝は名和長年に尋ねた。
 山のからめてに植えられた満開の桜の下、勇ましくしかも踊るように優美に戦っている武者の姿は絵巻を見ているようであった。
「あ、あれは、鬼姫かと存知ます」
「鬼姫? 姫と申したか?」
「そうでございます。鬼が沢の鬼姫に間違いありません」
「なに! あれほど、勇敢で強い娘がいたとは、これまで見たこと聞いたこともない。ぜひにも逢うてみたいものだ。決して、あの娘を死なせてはならぬぞ!」
 帝の言葉に従い、陣に控えていた名和長生が数十騎を従えて駆け下りて行った。
 しかし、その援軍も不要であった。わずか数十人に過ぎない鬼姫率いる夜盗のような一団がが見る見る敵を追い詰めていく。
 一三三三年閏二月、後醍醐帝は隠岐島から脱出し、伯耆大山から東に連なる船上山で陣を構えてから、既に一と月が過ぎようとしていた。追手である隠岐伯耆の守護を中心にした幕府軍は船上山の麓にあって、千にも満たない後醍醐帝の軍を囲むように陣取ったまま、睨み合いが続いていたが、風も温み山桜が開くのを待っていたかのように、幕府軍は先ず搦め手からの攻撃を開始してきた。
 攻め上って来た幕府軍は、三千を率いる佐々木昌綱である。この大軍に船上山から迎え撃ったのは名和長重の鉄砲隊。高みからの射撃が有利とはいえ多勢に無勢、幕府軍はじりじりと斜面を登り、山頂の陣に近づいていた。
 正面では佐々木清高率いる大軍の本隊が、時期を見計らうように戦況を見つめていた。佐々木は幕府方が状況有利と見て、一気に本隊を動かそうと立ち上がったその時、春の疾風とともに、搦め手の敵の背後から鬼姫が現れたのである。鬼姫の率いる一団がどこから現れたのか、見たものはいなかった。一塵の風とともに、空の彼方から舞い下りたかのようだった。
 鬼姫の出現は劇的な効果を戦況に及ぼした。搦め手の佐々木軍は名和軍と鬼姫軍に挟まれ、色を失い逃げ惑うばかりになった。これを知った幕府本隊にも動揺が走った。
 その時である、空がにわかにかき曇り、雷鳴が山中に響きわたった。風は急に強さを増し、降り出した雨は次第に雨足が酷くなって地面を激打しはじめた。
 この突然の天変も鬼姫がもたらしたものであるという、恐怖心が、佐々木軍兵士の間に拡がった。この想像に兵士らはおののき、我先にと木陰へ向かって一斉に走りだした。
 稲光が木立に落ちるのと、名和軍の一斉射撃は同時だった。
 もはや、戦の大勢は決した。佐々木軍の多くは谷に転げ落ち、自らの太刀に貫かれて落命するものも多かった。一命を取りとめた者は一目散に小船に向かって駆けて行った。
 戦の終わりと同時に春の嵐は嘘のようにおさまり、穏やかな夕陽が名和の湊を照らしていた。
「この戦の功は、名和氏と鬼姫である。鬼姫をここへ」
 後醍醐帝を鬼姫を間近に見たくて堪らなかった。ただ一人、隠岐島から従って来た側近である千種忠顕を促した。
「鬼姫は誰にも仕えませぬ。それが鬼姫です。このまま、真っ直ぐ鬼が沢に戻って行くことでしょう」
 名和長年が忠顕を制するようにそう言った。長年も鬼姫を自分の配下に置こうとして、何度も断られた経緯があったのだ。
 帝も諦めかけたその時、また一塵の疾風が起こった。そして、帝の目の前に鬼姫が現れたのである。日焼けした顔は前髪に隠れ、長い髪を後ろで束ねていた。長刀を背負った躯は、どこからあの力が湧いてくるかと思うくらい華奢だった。
 もっと近づいて顔を見たいと思ったその時、再び風が起こって、一瞬前髪が上がった。しかし、次の瞬きする間に鬼姫の姿は既に無かった。
「見たか、千種! あ、あれは……」
「まさか!」
 帝と千種忠顕は驚きの顔を見合わせた。

  *

 ちょうど一年前の春のことである。後醍醐帝は地酒を口に運びながら伯耆大山の遥か先、おそらく京の都を厳しい顔つきで見ていた。
 粗末な漁師小屋とはいえ、瓊子{たまこ}はここが気に入っていた。春の潮風は心地よく、浜千鳥が小屋の前の渚に飛んでくる。
 帝は怒りと怨念の塊、安らぎには程遠い。瓊子は帝の気持ちを何とか和らげてあげたいと願っているが、帝の側を一時も離れない準后、安野廉子がいる限り帝の側に近づくことはできなかった。。
「千種どの、いくら流刑とはいえ、なんで先帝がこんな狭くて魚臭い漁師小屋に泊まらんといけませんのや?」
 廉子は小屋に入ってきてからずっと、あからさまに不機嫌な顔を周囲に向けている。
「そ、それは、幕府の警護責任者の千葉貞胤殿が決めたことですから」
「そこを何とかしはるのが、側近の役目と違いますか」
 後醍醐帝は皇位について以来、積極果敢な改革を実行した。民からも聖帝の声が出始め、門閥に関らず人材が帝の元に集まってくると、落ち目の鎌倉幕府にとって、恐れるに充分すぎる相手となった。しかも現天皇である。一刻も猶予はならなかった。こうして、正中の変が起こり、打倒鎌倉勢力を結集する前に後醍醐帝は敗れた。その結果、帝は後鳥羽上皇の先例に倣い、隠岐島に流されることになったのである。
 一三三二年三月七日、千葉貞胤、小山五郎左衛門、佐々木道誉ら五百騎の警護のもと、後醍醐帝配流の旅は始まった。帝に随行する側近は、一条行房、千種忠顕そして安野廉子妃のみとされていたが、実は随行する官女の中に、帝が身分の低い官女に産ませた娘が混じっていた。これが、十五歳の瓊子内親王である。
 母は瓊子を身ごもるとすぐに官女を辞し、丹波の山奥に引き籠もり、そこで娘を産んだ。瓊子が生まれると間もなく母は流行り病で死に、瓊子は叔父に育てられた。後醍醐帝には親王、内親王合わせて二十人もの子がいた。その中でも京から離れて育った瓊子を知るものは京にはいなかった。唯一、千種忠顕はどういうわけか、瓊子内親王の存在を探し当て、帝位についたばかりの後醍醐帝に引合わせたのである。
 瓊子に自分と良く似た気丈さと大らかさを見つけ、帝は一目でこの娘が気に入った。帝は内親王として御所に上がることを望んだが、瓊子は内親王として扱われるのを嫌い、やっと一官女として出仕することを承知したのである。
 その瓊子が、後醍醐帝の配流の供に加わりたいと言ったのには、千種は驚いた。
「隠岐に行けば、誰に気兼ねなく帝に甘えることが出来ますので」
 それは案外瓊子の本心かもしれないと千種は思った。考えようによっては、これまで薄かった父娘の縁を確かめ合う絶好の機会と言えた。
「危険な旅ですぞ」
「もとより覚悟の上ですわ」
 隠岐への配流ルートは後鳥羽上皇のそれに倣った。淀川を下り、福原京跡を通って、湊川(神戸)へ出る。須磨浦、明石浦と海沿いを進み、そこから山路に入た。美作国院庄(津山)を経て唐松(新見)に入ったところで、護送する武士たちの顔に緊張が走った。備後の児島高徳らの豪族がこの護送軍団を襲ってくるという情報が入ったためである。
 いくら強者を集めたとはいえ、たかだが五百騎の軍団である。数千の兵士にまともに攻められたら一たまりもないだろう。それに後鳥羽上皇ルートは誰にでも予想がつく。
 護送軍団の団長である千葉貞胤は即座にルートの変更を告げた。
「出雲国の見尾湊を避け、伯耆のどこぞの湊をめざす。かつて元寇に備えて築城した要塞があったはずじゃ」
 この決定を聞き、多くの護送武士は失望した。この過酷な行軍の中で、見尾湊近くの温泉を唯一の楽しみにしていたからである。温泉と半世紀も前に建てられた古い要塞に泊まるのとでは雲泥の差であった。
 しかし安全第一である。一行は重い足を引き摺りながら伯耆大山の裾野を横切り、末吉の要塞に到着した。
 そこで、船を調達し、隠岐に向かおうとしたが、小さな船ばかりで、隠岐へは到底無理だと知った。
 一行は古い遺構で一泊すると、直ちに弓ヶ浜半島を北上し境の湊に向かったのである。弓ヶ浜半島の海岸線は白く美しい砂浜が続いていた。が、間もなくその明るい砂浜が途切れ、行く手には暗い水を含んだ広大な沼が広がっていた。背丈を越える葦が密生し、ところどころは月見草の群生が認められる。
 日も暮れかかり、沢に入る手前の部落で一泊することになった。
「この沢は鬼が沢と言って、昔から悪さをする輩がでーですけん」
 漁師小屋の宿舎に、食事と酒を持ってきた翁がそう告げた。鬼が沢と聞いて百戦錬磨の武士たちもいささか気味悪くなったのか、
「全くとんだ旅になったのぉ。見尾湊から海路を行けばこんな薄気味の悪い地に足を踏み入れることもなかったろうに」などと囁きあった。
 こういう夜は酒もすすむ。その結果、酔いが回って眠くなった。いや、眠くなるのは酒のせいでもなかった。振る舞われた酒の中に、眠り薬が仕込まれていたのである。
 ギッギィーという小屋を開ける音に誰も気付かず眠りこけていた。小屋に入りこんだ三つの影は、手当たり次第に刀や着物を集め、大きな袋に詰め始めた。
 賊が小屋を出ようとした時、入り口付近で一人の武士が刀を抜いて立ちはだかった。佐々木道誉である。彼だけは警戒して酒を呑んでいなかったのだ。
 道誉が振り下ろした太刀で一人が倒れた。さらに後の二人を追って駆け出したとき、切られた男が投げた礫が脚に当たり、不覚にも道誉は膝を着いてしまった。
 その時、沢に向かう賊を追って、もう一人小屋から飛び出して来た者があった。瓊子内親王だった。いや、道誉にとっては一人の女官に過ぎなかった。何と勇敢で足の速い女であろうと、道誉は驚いた。
 瓊子は賊に追いつき、賊の背中から袋をもぎ取った。さらにもう一人の袋にも手をかけたその時、沢から現れた数人の屈強な男が瓊子を取り囲んだ。
 やっと立ち上がった道誉が、残りの賊を追ったがすでに遅かった。賊は瓊子を取り押さえ、沢の奥へと連れ去ってしまったのである。
「鬼が沢であろうと何であろうと、賊を皆殺しにしてでも瓊子を救い出すのや!」
 内親王が連れ去られたのを知ると、後醍醐帝は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「御身が無事だというだけでも良かったのではありませぬか。可哀相やけど、瓊子のことは諦めまひょ」
 廉子妃が言った。
「なに! 瓊子のことを諦める? それは絶対にできひんことや」
「瓊子、瓊子って、帝は何か特別な関係でもありますのんか?」
 廉子は瓊子が帝の娘であることは知らなかった。しかし、女の直感で二人の間に何かを感じていたのだ。
 廉子の問いには答えず、帝自ら沢に踏み込もうと走り出そうとした、それをやっとのことで千葉が押しとどめた。
「帝は流人ですぞ。たかが一人の女官のために、配流の途中で戦をしかけたとあっては、さらにどんな咎めをこうむるか? お分かりでしょう。連れ去られた官女に申し訳ないが、ここは自重をお願い申し上げます」
 境の湊を船出し、鬼が沢が遠くなるにつれ、帝は激しい後悔の念に駆られた。鬼の餌食になるくらいなら瓊子を連れて来るんではなかったと。
 船が美保関を回り外海に出ると、帝の悲しみは少しずつ変わってきた。これまで逆境に耐え、丹波の山奥で育った娘は、そう簡単には死なない。そうだ、きっと生きて戻って来る違いない。
 船上山で鬼神のような活躍をし、味方を勝利に導いた鬼姫は、瓊子であった。帝と千種忠顕にしか分からなかったが、間違いは無かった。
「生きていてくれたのか。しかも、我が新たな一歩に馳せ参じてくれたのだ」
 帝は嬉しくて涙が溢れてきた。
 帝の命をうけた千種忠顕は、瓊子を見つけるべく弓浜半島をくまなく探したが、瓊子の影をとらえることは遂にできなかった。
 この後の後醍醐帝は、破竹の勢いで京に上り、いわゆる建武の新政が始まった。一介の田舎武士に過ぎなかった名和長年とその一族は新政権の要職を占めた。しかし、瓊子内親王の名前はどこにも無かった。
 新政が挫折し、帝が吉野の山奥で愛染明王の画に自ら賛を書き込んでいた頃、瓊子は伯耆の地で遊行上人の弟子になっていた。
 瓊子内親王が開基されたと伝えられる福市の安養寺は、今では桜の名所になっている。今年も満開の花をつけた桜の古木は、遠い吉野の桜につながっているのかもしれない。
(了)
(初出:2012年01月)
登録日:2012年01月10日 21時43分
タグ : 後醍醐帝

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