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阿川大樹
著者:阿川大樹(あがわたいじゅ)
小説家。1954年、東京生まれ。東大在学中に野田秀樹らと劇団「夢の遊眠社」を設立。1999年「天使の漂流」で第16回サントリーミステリー大賞優秀作品賞。2005年『覇権の標的』で第2回ダイヤモンド経済小説大賞優秀賞を受賞。(同年、ダイヤモンド社から刊行)著書に、『D列車でいこう』(徳間文庫)、『インバウンド』(小学館)など。
小説/現代

境界水域

[読切]
平日の午前、誰も注意を向けることのない掘でボートを漕ぐ純一郎は、水面に映る高層ビルの窓から黒いものが落ちてゆくように見えることがあるのに気が付いた――。坦々と語られる男の不可解な行動は、ショッキングなラストシーンに結実する。
 また落ちたか。
 これで今週になってもう三人目だ。あの相関に気づいてから十三人目。
 もうかなり桜の少なくなった葉桜の並木。そこから水面に落ちた花びらも、二日前に吹いた風で散った古いものが多く、ほとんどはもうピンク色ではなく茶色になっている。そこへ、また今日の風で萼(がく)からひき千切られた真新しいものが混じる。
 純一郎は桜の浮いた水面をオールでかき混ぜながら、時折、空を見上げていた。
 高速道路の高架と高層ホテルに囲まれた一角に、小さな裂け目のようにある水。赤坂見附の交差点から紀尾井町へ向かう弁慶橋から見下ろす堀。平日の午前中にそこでボートを漕いでいる人間。だれひとり自分に注意を向けるものなどない。
 そもそも商売がなりたっているのか。この場所で人の乗ったボートを見るのは希だった。
 交差点を忙しく行き交う人波のすぐ脇で、のんびりとボートを漕ぐ。高層ホテルのスイートルームからそれを見下ろすよりも、そんな猫の額のような水面からホテルを見上げるほうが、ずっと贅沢な時間のように思われた。
 純一郎が漕ぐオールでかき混ぜられた桜の花びらは渦を巻くように動き、さざ波に不規則に揺れる。青空に浮かぶ雲と、最上階が麦わら帽子の形をしたホテルがそこに映る。
 ふとオールを止めるとそこに花びらが逆流するように集まる。
 その中心に、きょうもまた黒いものが吸い込まれたのだ。

 純一郎が毎日ボートに乗る習慣をもつようになって、ほぼ二ヶ月が過ぎようとしていた。
 ボートを漕ぐせいなのだろう。冬物のスーツのお尻のあたりがささくれだっているのを妻に指摘されたこともあって、桜の咲く前から早々と夏物のスーツにした。
 はじめのうち事件は週に一度、たいていは月曜日だった。それが水曜日にも起きるようになり、たまに木曜日や金曜日にもあり、ここしばらくは週末をのぞいてほぼ一日おきだ。いつのまにか、それを見つけるのが楽しみにまでなっていた。
 見えた次の日の新聞に何も記事がないときには、自分で駅に電話を入れた。大事件があればそれが記事にならないこともあるからだ。駅員に声を覚えられ不審がられた。それでとっさに新聞社の名を名乗った。
「すみません。一度ご挨拶にあがらなくてはと思っていたんですが、この春に入社した駆け出し記者なもんで」
 そういったとたん駅員の応対は掌をかえすように慇懃になった。

 水面に映るホテル。その窓からいまのように何かが落ちるように見えることがある。
 だがホテルの窓は開かないはずだ。
 昨日、純一郎はわざわざそのホテルに部屋をとって確かめた。
 部屋へ案内されると、ボーイとの会話も上の空で、まっさきに窓辺に寄って窓が開かないことを確認した。
「どの部屋の窓も開かないのですね」
「は、はい」
「屋上へは上がれますか?」
「屋上ですか?」
 はじめボーイは質問の意味を解せないようだった。
「当ホテルには屋上はございませんが」
「あ、そう」
 安心したような、あるいは、いくらか残念なような。
「最上階はラウンジになっております。営業時間は午前零時まででございます」
 立ち去ったボーイの言葉を反芻しているうちに、ラウンジに行ってみたくなった。
 リモコンのボタンを押した。ホテルの案内ビデオが『スターライト・ラウンジ』の営業は午後五時からだといっている。まだ時刻は四時少し前だ。
 チャンネルを変える。アダルト番組はなかった。二万六千円も払っているのに。理不尽な不満だということはわかっている。サラリーマンが出張に使う六千五百円のビジネスホテルだからこそアダルト番組があるのだ。不況下の割引料金であっても、ここは高級な部類に属するシティホテルだ。
 街角で受けとったティッシュと数枚の紙きれを取り出した。
 彩度の高いピンクやブルーが使われている小さな紙片。
 さっきホテルへ予約の電話を入れたときに電話ボックスに貼ってあったものだ。
 公衆電話を使うのは何年ぶりだったろう。携帯電話をもつようになってからは、直ぐ近くに電話ボックスがあっても手元の携帯電話を使うようになっていた。だが、携帯電話はもう会社に返した。
 ベッドサイドの電話器から自分の携帯へかけてみては、呼出がはじまるまえに切る。こんどはピンク色の紙片の一枚にかかれた電話番号にかけた。
 ノックの音がする。
 時計を見ると五時を少し回っている。ドアの覗き穴から見る女は丸顔にしか見えない。ドアを開けてみると、女はむしろ細面(ほそおもて)だった。
 純一郎は女をラウンジへ誘った。女は一瞬だけ意外な顔をしたが、そのまま廊下を黙ってついてきた。
 エレベータに乗ったとき、またあの事件のことを思い出した。エレベーターは鬼門だ。
 目の前の女は、自宅の風呂場のものと同じシャンプーの匂いがした。レザーのミニスカートから出ている黒いストッキングの足は、そばから見下ろすと太く見える。離れて見ればそれほど太くはないのかもしれない。
 まだ早いラウンジに客の姿はなく、当然のように窓際のテーブルへ案内された。女は子供のように勢いよく腰を降ろし、ソファの上で少し弾んだ。純一郎は立ったまま窓に歩み寄り、それを手で押した。もちろん動くはずはない。外はまだ明るく、膝の高さから天井まであるガラス窓からは、交差点をわたる歩行者が蟻のように見える。その場で何かにつまずいて宙に躍りだせば、きっとアスファルトにぐしゃりと潰れてあの蟻の餌食になるにちがいない。交差点のわきに小さな水面が光っているのが見え、それが純一郎の心に小さな安らぎを与えた。
 女はバイオレットフィズを飲んでいる。妙にはずんだ声で当たり障りのないことを話しかけてくる。純一郎が生返事ばかりを返すと、やがて女も黙り、自分の枝毛を探しはじめた。
 グラスの氷が溶けるころ、席を立った。
 無人のエレベーターに乗りこんで十七階のボタンを押す。ごくりと唾を飲む女の喉が動いた。
 おぞましい記憶が甦ってきた。あの匂いだ。免税店で売っているニナ・リッチ。女がトイレに立ったときにつけてきたのにちがいない。
 嵌められたんだ。指一本触れていない。あらためて純一郎は心のなかで叫ぶ。
 だが、エレベーターの中は密室で、被害者と容疑者以外に証人はだれもいなかったのだ。
 首筋に視線を感じたのか、女がこちらを向いた。純一郎は上の階数表示に目をやった。
 部屋にキーカードを挿しこむ。
 部屋の明かりが点いたとき、目の前にあった女の頬にニキビの跡があるのが気になったが、首の後ろに手を回して唇を奪った。一瞬、女の身体に力が入りすぐにそれが抜ける。
 唇が離れる瞬間、大きな溜息が純一郎の耳を擽(くすぐ)った。
 ズボンの中は勃起していた。だがすぐに萎えた。
 内ポケットから財布を取りだして、五万円を女にわたした。
 女は紙幣をそのままショルダーバッグに入れ、そのバッグをベッドの上において黒い銀糸(ラメ)入りのカーディガンを脱ごうとした。
「いや、もうきょうは帰っていいんだ」
 抑し留めようと、純一郎はベッドからバッグを取り上げて女にわたそうとした。女は脱ぎかけのままそれを受けとろうとした。袖が通ったままのカーディガンが肩から外れたせいで、キャミソールから出た両肩をすくめるようにしたまま、女はちょうど両腕の自由がきかなくなっていた。
 突きだした顎の線があの女に似ていると思った。
 無意識に身体をくねらせた女の肩が純一郎の胸にあたった。
 香水とは別の動物の匂いがした。
 女の手で揺れたバッグが傍らに立つ純一郎のふくらはぎを打つ。
 女は後ろ手のままベッドに倒れこみ、そこで、二度、三度、弾むあいだに、開いた膝をあわてて閉じようとした。黒いパンプスが片方だけ脱げて床に転がり、踝(くるぶし)のところで色の薄くなったストッキングの中で、白い指が動くのが見えた。

「まいどどうもありがとうございます」
 ボート屋のオヤジは愛想笑いをしたあとに千円札を受けとった。笑顔の奥に蔑むような影があるのはわかっている。
 ホテルの部屋はそのままにして、昨夜遅く家に帰り、今朝、またいつものように家を出てきた。
 午前十一時二十分。チェックアウト時間は過ぎている。
 もう少ししたら部屋に電話が入るだろうか。少なくともルームメイドが部屋の掃除にやってくる。マスターキーであの部屋の扉が開けられるのは何時頃になるだろうか。
 純一郎はもういちどホテルを見上げた。
 下から順番に窓を数えていく。
 十七階。あの部屋はどのあたりだろうか。昨夜、女がガラスに手を突いて叫び声をあげた窓は──。
 純一郎は揚げていたオールをゆっくりと水面に降ろした。あいかわらず水面には空とホテルが映っている。ゆっくりと漕いで、オールの先がホテルに重なったところで止めた。またオールのまわりに渦ができていた。
 立ち上がるとボートが大きく揺れた。遠くでサイレンが聞こえている。
 ぐんぐん近づいている。
 なのに駅のアナウンスがうるさくてパトカーの音が聞こえなくなる。
「電車が参ります。後ろに下がってお待ちください」
 純一郎は水面に映るホテルの窓をめがけて飛び込んだ。

       *  *  *

《 増えつづける飛び込み自殺
   ── また朝の中央線マヒ 》
 六日午前七時五十分頃、中央線武蔵境駅上り線ホームから元会社員の男性が線路に飛び込んで即死した。男性は二ヶ月前に勤務先の商社をセクハラを理由に解雇されていたが、家族にはそれを伝えておらず、この日もいつもどおり「会社へ行く」といって家を出たという。警察では失業を苦にした自殺とみているが、前日、都心のホテルで起きた女性殺人事件の容疑者と風貌が似ているとの情報もあり、ひきつづき確認を急いでいる。
 なお、中央線はこの事故によって四十分以上にわたって運休したが、最近、人身事故が頻発することからJR東日本では、なんらかの対策を急いでいるところだという。
(了)
(初出:2000年05月)
登録日:2010年11月06日 12時50分

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