騒人 TOP > 小説 > 現代 > バタフライ
城本朔夜
著者:城本朔夜(しろもとさくや)
自称「心のカメラマン」。被写体は、見えなくて、水のようにいつも動いているもの。究極に目指すのは、世にも美しい芸術作品。でも好きなのは、なんの変哲もない「スナップ写真」。撮ったあと、ちょっと変わっているのが撮れていたりすると、嬉しくなって、誰かとシェアしてみたくなります。
小説/現代

バタフライ

[読切]
水泳部で期待されていないシノダだったが突然バタフライの選手に大抜擢される。練習風景をひどく言われ、お母さんに愚痴るが、母親もまた自分のことで精一杯だった。大会当日、頑張るシノダは殻を破って成長していく。
 南小学校水泳部、数十人の手足が、絶え間なくプールの水をかき回している。その水音が、息継ぎの度に聞こえる。後ろを泳ぐ誰かの指が、バタ足をしている私の足にかすかに触れた。自分の泳ぐペースが、遅くなっているのに気がついて、私は慌てた。手足を速く動かそうとするけれど、掻く水はまるで粘土だ。思うように動かない。
 縦二十五メートル、横十五メートルの四角いコンクリート製のいけすの中で、私たちは、マグロのように回遊していた。通称「地獄の回遊魚」。私が一番苦手な練習メニューだ。

 夏休みに入って一週間が経った。
 今シーズンの水泳部は、なんだか熱い。相当熱く活気づいている。「地獄の回遊魚」に割かれる時間は、去年の倍に膨れていたし、タイムを計る回数だって、一日につき、なんと四回。去年に比べたら、どれもこれもが狂気の沙汰だ。夏休みに入ってからは、その練習内容はさらに苛烈なものになっていく。
 地区大会が、間近に迫っているのだから、当然と言われればそうなのだけど、私はすでにうんざりしている。熱いのは、来る日も来る日も射すほどにこの肌を焦がす太陽だけで、十分すぎて間に合っているのだ。
 いい加減、持久力が限界に近づいてきた頃のことだった。クラゲのように水をさまよう私の手が、一コースの壁に届いた瞬間、あの女みたいな声が、頭上から突然降ってきた。
「おい、篠田。ちょっと来てみろ」
 長いまつげと厚い唇。それらが下からせり出して見える。はっきりいって気持ちが悪い。水泳部顧問の亀淵先生だ。通称「カメムシ」。あだ名は、親友のミッチがつけた。
 その瞬間、先生の声が、神の救いのように聞こえた。が、そんな思いも一瞬のことだ。私の気持ちは、すぐに違和感でいっぱいになった。
 そもそも声自体が、がっしりとした体格にまるで似合わない、違和感ありありの不可思議な声なのだから仕方がない。だけど、本当に違和感を覚えた理由は、声の質がどうとか、そういうことではなかった。
 それは、私がこの水泳部では期待されていないからだ。
 南小学校水泳部という、この狭くともしれつな実力社会の中では、自由形五十メートル泳のタイムが、四十五秒前後で浮き沈みしている私なんかは、戦力外通知を暗黙の了解として受けているも同然だった。選手の発表もすでに終業日になされているけど、もちろん、私は選ばれていない。
 そんな私に先生が、いったい何の話だろう?
 プールから上がって、促されるままに先生の後に従った。プールサイドのコンクリートは、カランカランに白く乾いて、濡れた足から滴る水を、気持ちがいいほど吸い取っていく。  
 Tシャツに短パン姿の先生からは、ほのかにコロンのにおいが漂ってきた。決して好ましいにおいではない。ミッチが「カメムシ」とあだ名をつけたゆえんが、そこにはあった。
 先生は私の前を歩きながら、誰も泳いでいないコースをあごでしゃくった。
「バタフライ。おまえは、泳げるんだっけかな?」
「バタフライですか? ……泳げませんけど」
「そうか」
 まるで気にしていないような口ぶりだった。言葉の響きに、確信犯的なにおいを感じた。
「大体の感じでいい。ちょっと、ここで泳いでみてみろ」
 嫌な予感がわいてきていた。すぐに「どういうことですか?」とききたい気持ちがのぼってきたけど、私は言葉を飲み込んでしまった。
 昔からそうだ。先生というだけで、なんだか構えてしまうのだ。例えば、この水泳部でいうならば、塚原さんのようになつっこく、友達みたいに話せるわけでも、ミッチみたいに、不満に思ったことを思うそばから、いとも簡単にぶつけられるわけでも、私はなかった。
 とはいうものの、泳げないものを今すぐ泳げと言われたって、すぐに、はいそうですか、なんて泳げるはずもない。私は戸惑ったまま、先生の顔を見返した。
「男子は、長谷川がいるから全く問題はないんだが……。ほら、女子はバタフライを専門に泳ぐヤツはいないだろう?」
 先生は、私の態度を無言の反抗、とでも思ったのか、言い訳のようにこんな風に続けた。
「急なことで本当に悪いんだが、大会の決まりでな。うちの部が大会に出るためには、全部の競技、つまり、五十のバタフライと二百のメドレーリレー、このニ種目もエントリーしなくちゃ、認められないらしいんだ。総合得点で順位をつける関係でな」
 つまり、先生は私をそのバタフライの選手に大抜擢しようとしている。そういうわけだ。
 追い詰められたウサギっていうのは、こんな気持ちがするのかな、なんてことがとっさに浮かんだ。先生っていう人種はやっぱりずるい。こんな風に大会の決まりとか、出場権とか、大きなものをもっともらしく説明されたら、子供の私は、何も言えなくなってしまう。先生はそういうことも、わかっているのだろうか?
 促されるまま、プールに入った。
「一度くらいは、習ったことがあるんだろう?」
 黙ってうなずく。三年前に、スイミングスクールで。まだ三年生の頃の話だ。
 腕は二本を同時に大きく上に回し、足はお腹からうねるように動かす……。基本は確かに習った気がする。
 だけど、ちょうどバタフライを習い始めた頃になって突然、スクールをやめることになった。何回かは泳いだけれど、あれはバタフライを泳いだうちには入らない。腕をかいている間に、足は一体どうなっていればいいのか、全くチンプンカンプンなのだ。
 それにしても、先生は私がスイミングスクールに通っていたことを知っているらしい。誰に聞いたのか予想はついた。
「泳いでみてみろ」
 仕方がない。大きく息を吸い込むと、小さく縮んで壁を蹴る。けのびの姿勢。身体が浮き上がったところで、わからないままに腕を掻き、闇雲に足をドンドンッと二回、動かしてみた。息継ぎをしようと顔を上げるが、思うようには上がらない。大きく開けた口に、ガボンと水の塊が入ってくる。やっぱりだめだ。苦しくなった。十メートルにも達しないところで、私はたまらず、泳ぐのをやめた。
 わざとじゃない。正直な自分のまま泳いだのだ。それでこのざまならば、きっと先生もあきらめるだろう。そんな風に思って、水の中から先生を見上げた。
 でも、信じられないことに、カメムシはこう言い放ったのだ。
「なかなかいいじゃないか。よし、篠田。五十とメドレーリレーのバタフライ。五日の大会、おまえが出ろ」と。
 間もなく隣のコースでは、レギュラーだけが集められ、カメムシによる集中コーチが始まった。
 私はまぶしく輝く彼らを横目に、一人コースに残されて、その日はずっと、バタフライもどきの個人練習をする羽目になった。
 一時間も経っただろうか。練習時間が終わりになった。私はこっそり、みんなの後ろで整理体操に加わると、目立たないように更衣室へ引き上げた。

「シノダの格好っていったらさぁ。あれは、池に落っこちたカラスかなんかの鳥のヒナだね。おぼれかかってるから、大丈夫かなって思わず見ちゃった」
 更衣室に入るなり、絡んできたのは、ミッチだった。その声につられて、他の部員が私を見る。微妙な反応が返ってきていた。みんな、それには触れてはならないと思っているのか。私の泳ぎは、恐らくよっぽどひどかったのだろう。最悪だ。あれをみんなに見られていたのだ。
 その場の私は、薄笑いを浮かべてごまかすくらいしかすることがなかった。
「で、なんだったの? あの練習は?」
 私の微妙な表情を無視するようにお構いもなく、ミッチは、なおも質問を投げかける。私は不機嫌をあらわに、後で、と答えた。
 四時を過ぎてもまだ日は高く、暑さが和らぐのには程遠かった。辺りは蝉の合唱に包まれている。
 帰りの道を歩きながら、私はさっきプールで起こったことをミッチに話した。
「え〜? 信じられない。大会まであと三日だよ? それでシノダは話を受けたの?」
 ミッチは、同情とも驚きとも、はっきりしない声を上げた。
「だってさあ。部全体の出場権のことを言われたら、嫌ですなんて言えるわけないよ」
 私は、限りなく陰鬱な声色で言った。
「それは、まあね。だけどひどいよね。だって三日後だよ? いくらなんでも急すぎるでしょう。それって絶対、カメムシの怠慢だよね。きっと大会規定の書類とか、あんまり良く読んでなかったんだよ。昨日あたりさぁ、選手名簿の書類を書いている途中で気がついたんだよ」
 聞いた瞬間、そうか、と思った。
 言われて初めて気がついた。先生にも弱みがあったのだ。あの時、どうして気づかなかったのだろう? ミッチならすぐに気づいて切り返していたに違いない。そういうものを機転っていうのだろう。私にはそれが全く足りない。自分が自分で嫌になる。
「だけどさあ。バタフライ、泳げる人、本当に他にいなかったのかな」
「私だって思ったよ。もちろん、一人ひとり検証してみた。だけど、一人につき一種目しか出られないっていう試合の決まりがあるでしょ?」
「リレーだけは重複してもいいんだっけ?」
「そう。泳げる子はさぁ、みんな、泳ぐ種目が決まってるんだよ」
 ミッチは、ホント? とでも言いたげな表情を浮かべた。自分も検証し直してみようと思ったのか、指を折りながら、部にいる面々の名前をぶつぶつと唱え始めた。そんなミッチを眺めているうちに、ふとあることを思いついた。
「ねえ、ミッチ」
 次の言葉を発するのには、勇気が要った。
「ミッチはバタフライ、少しも泳げないの?」
 ミッチに、自分の肩代わりを全てしてほしいとは思わない。だけど、ニ種目のうちの一種目でも代わってもらえたら、こんなに心強いことはない。
「何を寝ぼけたことを」
 ミッチは、まるで他人事のように、あっさりと否定した。そういえば、聞くまでもなかった。ミッチは、今年になってようやくクラスAチームに上がったばかりだ。もちろんスイミングスクールにも通っていない。ほんの数時間前までの私と同じ。地区大会とは無関係の気安さが、どうしようもなく身体中からにじみでている。私は少し恨めしく思った。
「そうだよね」
 心の底から落胆をして、肩を落とした。
「けどさぁ、どうしてあんたに、そんな話が来たんだろうね。他にも声をかけられる人がいても、いいはずなのに」
「多分、塚原さんだと思う」
 塚原さんは、この水泳部では一番のホープだ。得意な泳ぎはもちろんクロール。五十メートルを何と三十六秒で泳ぐ。いや、昨日は記録を更新して、三十四秒ニだったんだっけ。文句なしに今度の大会の選手として抜擢されているばかりか、次の市大会にまで駒を進める可能性がある数少ない選手でもある。
「あの子ね、私が通ってたスイミングに通ってるんだ。私、がまだスイミングにいるときさぁ、あの子、同じクラスだったんだ。私がやめる頃、ちょうどバタフライを習い始めたときだったんだよね。泳げるようになる前にやめちゃったんだけど、塚原さん、きっとそのことを先生に言ったんだと思う」
「ふぅん、告げ口したってわけだ」
「そういうのとは違うよ。悪気があるとは思えないし」
「まあ、そうだけど、結果としては迷惑な話じゃない」
「うん、まあ、確かに」
「あんまり人の悪口をいうのは良くないと思うんだけどさ。あたしは、あの子あんまり好きじゃないんだよね。すっごく無神経なところがある」
「わかるかも」
「きっと小さいころから何でもできるタイプなんだよ。やってもできない子の気持ちなんか、全然わかんないんだよ。なんていうかさ、女王様? 自分以外の子なんか眼中にないって感じ」
「あれが仕切っちゃってるから、うちらの部活って雰囲気悪いんだよね」
「それからカメムシ」
「あいつ、ホント、ひいき魔だよね。特に声とかキモすぎるし」
 腹立ち紛れに次から次へ、塚原さんと先生の悪口が飛び出した。だけど、言ってしまってから何だか虚しいような気持ちになった。人の悪口っていうのは、盛り上がっているときは気持ちがいいけど、あとで必ず嫌な気がする。ミッチも多分同じ気持ちになったんだと思う。二人はなんとなく、ため息をついた。
「ミッチはどうして、水泳部なんかに入ってるの?」
「水、好きだから。あと、シノダがいるから」
「は?」
「ふふ〜ん。あたしが苦労してAクラスに上がってきたのはね、何を隠そう、シノダと同じクラスになりたかったからなのだよ。つまり、シノダは私の目標だった。驚いた? ただし、水泳部門に限ってだけどね」
 家が近くて、クラスも同じ。お姉さんみたいにしっかりしていて、頭が良くて。そんなミッチに目標だなんて言われると、くすぐったいような気持ちがした。
「そう言うシノダは? どうして水泳部に入ってんの?」
 それはもちろん、私も水が好きだから。ミッチにも、水が好きだから、と単純に答える。
 泳ぐのが好きというよりは、水の感触を全身で感じることが好きなのだ。プールの壁を蹴り、スタートをする。私の身体が水を切って進む。そのときの感触。私の前世は魚だったのではないかと思うほど、水の感触が心地いいのだ。このまま水の中にいっそ融けてしまえば幸せじゃないかと思うのだ。
 だけど、今、ミッチに言われて気がついた。今の自分が水泳部に入っているのは、水が好きなこととは関係がないと。何年もいて、水泳部には、いるのが当然。だからいるのだ。いつの間にか、タイムタイムと言われることも当然になって、心のどこかで、できるなら速く泳いで選手に選ばれ、一番になりたい。そう思うようになっている自分を見つけた。
(ああ、本当の私は、クロールで試合に出たかったんだ。できそこないのバタフライなんかじゃなくって)
 部活動では、真面目に練習に励んでいるつもりだ。だけど、スイミングにまで通っている子達には、どうしたって練習量では負けてしまう。それに素質っていう壁が加わったら、もう、悔しがってもどうしようもない。
「それはそうと、シノダ。どうするの?」
 ミッチが、決断を迫るかのように、急に声を改めた。
「どうするのって……」
「バタフライのことだよ。当日、泳ぐの?」
 もしもミッチが同じ立場だったら、ミッチは大人顔負けのその鋭い見識眼を武器に、先生にも断固抗議するんだろう。
 私は、しばらくの間、曖昧に首をかしげたり、眉間にしわを寄せたりしていたが、結局黙ってうなずいた。
 ミッチに頼んで、一緒に先生に抗議してもらいたい気持ちがわいてきていたけど、断られることはわかっていた。それは、何もミッチがケチなわけじゃない。ミッチが私のお姉さんみたいなものだからだ。最近のミッチは、私のためにならないことは、頼んでも絶対やってくれない。
 少し前にこんなことがあった。
 あれは五月のことだった。学校が終わって、私はミッチと帰ろうとしていた。
 クラスのある子が、私に掃除当番を代わってほしい、といってきた。習い事があって、どうしても早く帰りたい、というのが理由だ。私もミッチも、その日は当番からはずれていた。その代わり、翌週には理科室だったか、当番が入っていたから、彼女は、その翌週のどこかの日に私の代わりに当番をやる、ということだった。
 だけど、それが彼女の常套手段だということは、わかっていた。習い事があるというのは嘘で、単に友達と遊ぶ約束をしたからだったし、今までも頼みやすい子をつかまえては、掃除当番を代わってもらっている。それも決まってトイレ掃除の時に限って。陰では結構有名な話だ。
 ミッチは、今にも引き受けてしまいそうな私を見るに見かねたのか、はだかるように私の一歩前に出ると、突然言った。
「いい加減、嘘をつくのはやめた方がいいよ。シノダもあたしも、そういうのには、だまされないから」
 ミッチは、その子をやり込めたあとで、私に対しても怒ったのだ。
「あたし、もうこんなこと絶対にしない! 嫌だって自分で言えなきゃ、いくらその場をしのげたって、シノダのためにならないんだからねっ!」
 ミッチは、私のことをいい子ぶりっ子だっていう。嫌なことでもなんでも、引き受けてしまうからだ。
 わかっている。だけどなかなか直らない。どうしても相手の顔を見ると、怒らせたくなくて、事を荒だてたくなくて、言いたい言葉を引っ込めてしまう。
「ふうん、そっか」ミッチはあっさりとうなずいた。そして「おばさん、最近もずっと帰り、遅いの?」と、関係のない、うちのお母さんの話をしだした。小学校二年生のときから仲良しのミッチは、うちの事情にも詳しいのだ。嫌な話だけど、お父さんが交通事故で死んでしまったときのことだって良く知っている。
「じゃあね」
 家の前まで来ると、私たちは手を振って別れた。
 ミッチの顔は、笑っていなかった。

 うちのお母さんの帰りは遅い。夜はたいてい七時を過ぎる。特にこの頃は色んな仕事を任されるようになったとかで、八時を過ぎることもある。いつもの私は、特に何にも感じない。ご飯くらいは普通に炊けるし、おかずだって何でもよければ、弟と二人、野菜炒めなんかを作って食べる。こんな生活になって、もう三年以上経っているから、すでに慣れっこになっているのだ。
 だけどその日は、お母さんの帰りがひどく遅い、そんな気がした。
 ただいま、というお母さんの声を聞くなり、真っ先に玄関先に飛んでいくのは、弟の方だ。だけど、その日の私は、弟よりも早かった。自分でも驚くぐらい、お母さんに聞いてもらいたい言葉が、のどの先まで飛び出てきている。
「ねえ、聞いて。最低なんだよ」
 その言葉を皮切りに、私は今日あった出来事をしゃべりはじめた。台所に荷物を置いたり、スーツを脱いで部屋着に着替えるお母さんのおしりに、ぴったりとくっついていきながら、私はしゃべった。
「ミッチがね、私のこと、鳥のヒナがおぼれてるのかと思った、っていうんだよ。私、それくらい泳げないんだよ。なのに、あの先生ったら――」
 弟が、留守番中に受け取った回覧板をお母さんに渡しにきた。町内会の盆踊り大会のお手伝いの係が、今年は回ってきているらしい。伝言を会長さんから頼まれたらしく、説明をする。お母さんが、疲れ切ったようなため息をつく。弟が話し終わるのを見計らって私は続けた。
「そりゃ、クロールの選手になれなかったんだから、しょうがないけどさぁ。私だって――」言いかけて私はやめた。スイミングスクールにまだ通っていたら、と言おうとしたのだ。だけど、それをお母さんに言うわけにはいかない。
 スイミングスクールをやめたのは、お父さんが死んで間もなくのことだった。それまで専業主婦だったお母さんが、いきなり外へ働きに出ることになった。家の収入が減るのは当然のことで、だからこそ、お稽古事はやめざるを得なかった。
 お母さんに言うのはやめた。だけど、その理不尽に気がついてしまった私は、余計に腹が立ってきていた。かわいそうな家は、どこまでいっても、かわいそうなことばっかりだ。
「とにかく、あさってなんだよ、大会は。あさってまでに、あんな泳ぎで、一体どうしたらいいっていうのよう!」
 まるで、お母さんが悪いかのような言い方だったと思う。だけど、そのときの私はそんなことには気づきもしないで、駄々っ子のようにまくし立てた。そのときだった。
「いい加減にして!」
 お母さんが叫んだ。
「そんなこと、ごちゃごちゃごちゃごちゃ、言われたってね。お母さんに、どうしろって言うのよ。仕方ないでしょう!」
 冷たい水をかけられたみたいな気持ちがした。「仕方ない」言われた言葉を心の中で繰り返す。
(そんなことわかってるよ。そりゃそうだけど)
 私の胸がきゅっと悲しい音を立てるのがわかった。
(なによ。お父さんの事だって、お母さんが気にすると思って言わないで我慢したのに)
 そんなことを思って、唇をかむ。お母さんの顔をにらむように見た。
 とたんに私は、はっとした。三角になっているお母さんの目。まぶたの下に、黒いくまがくっきりと浮かんでいるのに気がついたからだ。
 しまった、と思った。私は、別にお母さんを困らせたかったわけじゃない。
 解決の見こみのないことを、誰かにしゃべったりするのは、やっぱりいけないことなんだろうか。そうだよね。みんな、自分のことだけでいっぱいだ。お母さんも、精一杯だ。お母さんは、お父さんの役とお母さんの役と、両方をやらなくちゃならない。ただでさえ、疲れているのだ。
(言わなきゃ良かった)
 私の心は最悪だった。「そんなに嫌なら、休めばいいでしょう」吐き捨てるように続けざまに言われたお母さんの言葉が、頭の中をめぐり、本当に休んでしまおうかと思った。だけど、休むのも嫌なら、泳ぐのも嫌だ。まして、先生に抗議するなんてことは、不可能だ。
 唇を強くかんだまま翻り、自分の部屋に飛び込んだ。後ろ手にドアをバタンと閉めたとたん、涙があふれて止まらなかった。
 なんで私が、こんな思いをしなくちゃならないのか。
 お母さんに怒鳴られる羽目になってしまうのか。
 全部、先生の責任だ。
 そこら中の物に当たった。泣いても、泣いても、心の中はすっきりなんかしてくれなかった。そればかりか、先生に対する恨みの気持ちがどんどん膨れる、そんな気がした。
 その翌日も翌々日も、私の心は、迷ったまんま。少しも解けることはなかった。

 結局のところ、私は、プールサイドに立っていた。
 来てしまったのは、勇気? 自分の弱さから逃げない克己心? それとも悔しさ? そんなものでは、恐らくなかった。私には逃げる勇気すら、なかっただけだ。
だって、考えてもみてほしい。
 もしも私が、試合を放棄したとしたら、南小学校水泳部が試合自体を棄権する。つまり、誰もプールで泳げない。塚原さんも華麗な泳ぎを誰にも披露することができない。イコール、私は水泳部メンバー全員から恨みを買う。すなわち総スカン。
 水泳部全員から嫌われるのが怖くて、私は来たのだ。
「私だったら、仮病使ったけどな」
 朝、会場で顔を合わせたミッチが、私にそんなことを言った。
「とにかく、先生にしてみれば、選手登録だけが必要だったわけだよ。その日、たった一人、選手が病気で休もうが行方不明になろうが、水泳部の出場自体がだめになるわけがないでしょう? ホント、シノダは正直者に馬鹿がつくよね」
 えー? と思った。ひどいよ、ミッチ。そんなに大事なことは、昨日の夜までに知らせてよ。
 泣きそうな気持ちになって、言い返そうとしたときだ。選手集合の合図が出された。私は、その場で逃げる、そんな機会すら失った。
 試合は程なくして始まった。
 空は、朝からこれ以上にないほどに晴れ渡っている。
 私は、熱いはずのコンクリートの上で、ひざを抱えながら、一人でぶるぶる震えていた。
 言っておくけど、これは武者震いなんかじゃ全くない! 怖かったのだ。あらゆる失態、無様な自分が、頭の中をぐるぐる回り、私を容赦なく責めさいなむ。
 チームの応援どころじゃ、まるでなかった。塚原さんが相変わらず、華麗な泳ぎを見せていようが、誰が、惜しいところで三位の座をのがそうが、そんなことは関係なかった。
 ただ、あのときの始めから終わりは、スローモーションの再生画像のように詳しく、鮮明に私の心に焼きついている。
 飛び込み台に立った瞬間、私を除く四人の選手全員が、まるで重量挙げの選手のような体つきをしていたことも、あっという間に横に並ぶ選手がいなくなって、孤独のレースが永久に続く気持ちがしたことも、水の中に河童が住んでいて、足を引っ張っているんじゃないかと思うくらい、体が前に進まなかったことも、合計四回も足が付きそうになったことも、始終聞こえる声援が、全部私への野次に聞こえたことも。
 水がやたらにごぼごぼとしていたことも、苦しい感覚と一緒に、身体が全部、いやというほど覚えている。
 本当に気持ちが最悪になったのは、試合のおおとり。二百メートルメドレーリレーの第一泳者が、一位だったことだ。せめて、五位だったなら少しはマシだった。いや、どんな状態にしろ、大差はないかも。とにかく、第二泳者の私が泳いだことで、圧倒的な大差をつけてチームは最下位に転落したのだ。その屈辱感ときたら、多分生涯忘れない。例えば、どんなにほしいものを目の前につるされたとしても、この大会のことを話す気持ちになんか、一生なれない。断じてなれない。
 この日のことは、私の生涯の汚点として、多分一生、誰にも、絶対、話さない。私は誓ってそんなことを思った。
 屈辱の時間が、やっと終わった。
 私たちの小学校は、総合第二位に入ったようだ。
 チーム二位。この結果に私は貢献していない。だって、私が二回のレースで獲得した点数は、参加賞の一点ずつの合計ニ点で、三位との差が一点だったというのならまだしも、差は大きく二十点ほども開いていたからだ。
 まったく、あああ、だ。最後まで、私が何のために泳いだのか、わからない。
 発表の瞬間、先生と他のレギュラー陣たちが、歓声を上げた。互いに肩を抱き合って喜んでいる。塚原さんは人より数倍黄色い声を上げていた。二種目とも一位に輝いた彼女が、続いて個人として市大会への切符を手にいれたのは、あえて言うまでもないことだろう。
 多分、彼女たちは、私を含めた下々の者のことなんか、眼中にない。それなのに私は、不気味な作り笑いを浮かべて、彼らの後ろから、カエルのようにピョンピョン飛び跳ねるパフォーマンスさえ、サービスをした。
 世間的に、チーム一丸になって喜んでいるように見えた方が、好ましいのかもしれないなどと、瞬時に反応してしまった自分が悲しい。
 再び、あああ、だ。

 ふと肩をたたかれて振り向くと、ミッチがにっこり笑っていた。
 「最低だった」私は、ふてくされたようにつぶやいた。「確かにね。バタフライっていうよりは、自由形かな。めちゃめちゃフリースタイルって感じだったね」
 ミッチは大いに相づちを打った。相変わらず、ミッチの言い方はひどい。
「だけどちょっと、感動したよ」
「え、だって、嘘。さっきはあんなこと言ったじゃない」
 仮病を使って休まない、馬鹿な正直者だって。
「冗談だってば。シノダは、よくやったよ。あたし、馬鹿正直って実は大好きなんだよね。真っ直ぐじゃないものは、馬鹿じゃなくても大嫌いだけど」
 ミッチは、私の首に腕を回した。ミッチとの背丈はあまり変わらない。だから、体勢的には窮屈だった。
「シノダが言いたいこと言えないのは、なんて言うかさ、仕方がないじゃん。だとしたら、逃げるシノダは、見たくはないよ。だからさ、良かった」
 そんなかっこいいものなんかではないんだけどね。何しろ私は、逃げる勇気もなかったのだから。私は思わず苦笑を浮かべた。だけど、言われて悪い気はしない。
 ミッチは、私から離れると、観覧席の方をあごでしゃくった。
「おばさん、見に来てくれたんだね」
 私は驚いて、観覧席に視線を投げた。お母さんの姿を捜す。
 今日は、思いっきり平日だ。どこの親だって専業主婦の母親以外は、応援には来ていない。観覧席は結構まばらだ。塚原母の姿を見つけた。塚原母は確か仕事をしていないはずだ。視線を移す。
 お母さん。
 見つけた。薄いグレーのスーツ姿のお母さんが、中段の一番右に座っていた。
 お母さんも私の視線に気がついた。そして、大きく口を開いたかと思うと、口の形で何かの言葉をつむぎ始めた。目を凝らしながら、言葉のひとつひとつを拾い集める。
「よ、く、がん、ばった、ね」
 私は、死にかけたひな鳥のような格好で、腕をぐるぐる回して見せた。苦笑いを浮かべてみせる。お母さんも笑顔になった。笑って大きくうなずいている。
 あれから、お母さんとは、水泳大会のことを一言もしゃべっていなかった。お母さんは相変わらず忙しそうで、話す暇もなかったからね。
 お母さんも、あれから何かを思ったのかな?
「ミッチ、私、ちょっと行ってくる」
 私は弾かれたように翻った。そして、帰り支度をしているわがチームの一団の背中を追った。先生に一言、言ってやろうと思ったのだ。
 今回の自分が、どんなに嫌な思いをしたかということを。
 来年も、もしバタフライの選手がいなかったなら、選手にする子に、せめて一ヶ月前からきちんと教えてください、と。
 心臓が、さっき飛び込み台に昇ったときと同じくらい、バクバクしていた。だけど、自分でも驚くくらいきっぱりとした声が出た。
「先生!」
 真夏の太陽が、プールの水に乱反射していた。
(了)
(初出:2013年06月25日)
登録日:2013年06月25日 14時13分
タグ : 児童文学 水泳

Facebook Comments

城本朔夜の記事 - 新着情報

  • 生態刑(5) 城本朔夜 (2012年05月31日 13時40分)
    一命をとりとめた聡だったが、おじさん――庄田博士から衝撃的な話を聞かされる。そして、じんのすけを通し、あるものを託された。雲ひとつない青空のように透明な心で決意する聡。生態刑、最終章。(小説SF
  • 生態刑(4) 城本朔夜 (2012年03月29日 14時31分)
    反乱軍に加入した聡。親玉であるマッドサイエンティスト庄田を人質にする作戦を決行するが、庄田は反乱軍に教えられた人物像と異なっていた。なぜ、このような世界が生まれたのか淡々と説明する庄田。そこに狂気の目をした柴田がナイフを持って現れる。(小説SF
  • 生態刑(3) 城本朔夜 (2011年06月23日 14時18分)
    牛顔たちに連れてこられたのはウンコの山――堆肥熟成所だった。ウンコをスコップでかき混ぜ、畑にすきこみ、作物の手入れをする。初めは刑罰のように感じられた重労働も、生き生きと輝く若い葉っぱを見ると充実するのだった。これなら宿題も自然に見えてくるだろうと気持ちが軽くなってきた矢先、同室の柴田がとんでもないことを言い始めた。(小説SF

城本朔夜の電子書籍 - 新着情報

  • 瞳の奥に眠る森 城本朔夜 (2011年09月29日 15時47分)
    エリートたちが集うネスト本校に通うサナイに、リゴフィールド行きが告げられた。就職と出世の貴重なカードとなるチャンスにも、サナイの心は浮かばない。ひとり分け入った森林で見たオーグルの意外な姿。兄の死の真相、ヒビキの出生、カスガの怪しい行動。次々と明らかになる大人たちの欺瞞と葬り去られた過去に立ち向かう感動の大作! (小説ファンタジー
  • イペタムの刀鞘 城本朔夜 (2010年11月20日 15時42分)
    蛇の痣(あざ)がある孤児、カカミ。村中の人間から「悪魔」と忌み嫌われる彼は、妖刀イペタムに魅入られ、寝食を忘れてイペタムの鞘作りに没頭する。そんな彼をそっと見守るのは、皆殺しにあった村で姉と二人だけ生き残った美しい娘、ミナ。やがて数年の研鑽が実を結び、ついに鞘が完成するが……。
    価格:350円(小説ファンタジー

小説/現代の記事 - 新着情報

  • 園生に咲く花(7) 北見遼 (2016年08月13日 12時42分)
    事件が一段落つき、夜も明けようというころで気が付いた。「今日は受験日だった!」 焦る小紅をよそに姉の小百合は涼しい顔で飛ばしていた高速を降りる。そんなときが来た小紅の晴れやかな笑顔がまぶしい。園生に咲く花、最終章!(小説現代
  • 園生に咲く花(6) 北見遼 (2016年05月31日 14時28分)
    「見つけたわ!」深夜の高速道路を爆走するピンク色のワゴン車。誘拐犯の車を見つけた一行はカーチェイスの末、ついに犯人を追い詰める。重苦しい現場で露わになるそれぞれの想い。(小説現代
  • 園生に咲く花(5) 北見遼 (2016年05月12日 14時06分)
    誘拐犯と思わしき晴美――姉の旦那がかつてつき合っていた女性のアパートに雪崩れ込むがすでに空っぽだった。取り乱す姉に愕然とする小紅だったが、事態はそれどころではない。(小説現代

小説/現代の電子書籍 - 新着情報

  • オンラインマガジン『騒人』総集編  (2015年08月20日 17時44分)
    オンラインマガジン騒人に掲載の編集者オススメ作品と書き下ろし作品をまとめて発刊した投稿Web小説『Sohzine.jp』Vol.1から10までを一冊にしました。一巻ずつ購入するよりお得。単体で電子書籍化した「作家の日常」は小説家、阿川大樹氏の日常を公開。また、宇佐美ダイ氏の「LeLeLa」は、不思議な力を手に入れ吸血鬼となった男の対決を描く伝奇小説。眠太郎懺悔録シリーズの青島龍鳴氏「ファーストキスは鉄の味」、城本朔夜氏の電子書籍「イペタムの刀鞘」外伝など、充実した内容でお送りします。コメディや児童小説の他、時代小説、ファンタジー、笑える・泣けるエッセイまで、70作品を一気に楽しめます。(小説現代
  • 投稿WEB小説『Sohzine.jp』Vol.9  (2015年08月20日 17時29分)
    騒人編集部お勧め作品を掲載! 青島龍鳴氏『ファーストキスは鉄の味(前編)』は、退治屋不足のため狐の女王と取引をする帝家。眠太郎懺悔録シリーズ。樹都氏『ヤミネコ』。猫にまつわるあらぬ話。阿川大樹氏『作家の日常』では、お金にまつわる話しを赤裸々に告白。宇佐美ダイ氏『LeLeLa』。美智子は朋子に“気”を扱うための栓を抜かれるが……。綺羅星沙々羅氏『太陽は君に輝く』はククルの森に入った一行の前に難敵が出現。南川純平氏『ポトゲラヒ』。下田にやってきた久之助は写真術を学ぶ機会を得る。いちばゆみ氏『ゆうきゃんの人生迷走案内』。電車で見たポスターに思い出したのはカオルくんのことだった。あのとき、何が出来たろうか? (小説現代
  • 投稿WEB小説『Sohzine.jp』Vol.8  (2015年08月20日 17時24分)
    騒人編集部お勧め作品を掲載! 浅川こうすけ氏『恋人ボックス』。モニターに映し出された恋人、デアルを独り占めしたい村木は作戦を練る。天野雅氏『永遠の海』。中学三年の千彩子。案内された崖の上。彼女の計画とは? 阿川大樹氏『作家の日常』は編集者との出会いについて。宇佐美ダイ氏『LeLeLa』は逃げ出した美智子の前に“新人類”を称する吸血鬼が現れる。綺羅星沙々羅氏『太陽は君に輝く』では、貴族と一般人の混合チームで試験に挑むことに。新連載、南川純平氏『ポトゲラヒ』は日本における写真の開祖、下岡蓮杖の青春を描く。おおみち礼治氏『宣う躰 キンタマチェック』は当時十六歳だった著者の入院録。今号も面白いに決まってる! (小説現代

あなたへのオススメ

  • いらない王様 新美健 (2015年07月21日 14時26分)
    あるとき、あるところにひとりの王様がいました。とても体が大きく、頭のいい人でしたが、気が短くて乱暴であったため、家来たちに自分の国から追い出されてしまいます。ついてきたのは道化師ひとりだけ…。番組化もした童話原作。(小説現代
  • 雨の帰り道 城本朔夜 (2010年10月12日 13時20分)
    野球帽では雨が防ぎきれなくなったころ、監督は引き上げの合図を出した。他の生徒らは傘を持って、あるいは車で母親が迎えに来る。ぼくは母さんの携帯に電話するもつながらない。同じ境遇の翼と一時は仲良くなるものの……。小学五年生の“ぼく”が家に帰り着くまでのさまざまな想い。(小説現代
  • 雪の中の探し物 城本朔夜 (2010年12月07日 15時47分)
    雪の中に置き忘れたお気に入りのロボット。すぐに諦めてしまうぼくが座り込むと、小さなモグラがやはり雪の中、探し物をしていた。一生懸命、根気よく探すトガリネズミのトットが探す「本当のもの」とは? 心温まる感動の児童文学。(小説現代