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天野雅
著者:天野雅(あまのみやび)
埼玉県生まれ、千葉県育ちの関東人だった。結婚を機に関西の人間になる。現在は関西とも東海ともいえる近畿地方に在住。10年経って方言にも慣れた。血液型はマイペースで知られるB型。住めば都を地で行く性質。ネット作家歴20年。同人作家歴はプラス5年。趣味は映像鑑賞。写真撮影。歌唱。創作料理。好物は自然万物一般。美術芸能一般。パソコン。ゲーム。漫画。文章。
小説/現代

うちのチビいりませんか(7)

[連載 | 完結済 | 全7話] 目次へ
大量の赤字が発覚し大規模な人事異動が行われた社内。忘年会を兼ねた送別会での歓談。他人を気遣うようで自分の体面しか頭にない男。チビの尻尾が揺れるのを見ながら微笑む聡美。「うちのチビいりませんか」最終話。
 いつも捜している。
 私にとって、ここにいる理由はなんなのか。
 誰かに特別に必要とされているのか、いないのか。
 私が必要としている人は、いるけど、いない。

   ◆ ◆ ◆

 12月半ばの金曜日。
 職場最寄り駅から歩いてすぐの店の予約は午後7時からということで、定時は6時、多少残業が必要だった。
 女の子達は着替えの時間を考慮して、6時半に更衣室へ立ち、45分にタイムリコーダーの前へと向かう。40分に仕事を切り上げた男性陣と待ち合わせ。
 私はしかし、とても40分には終わりそうもない主任の机の上の書類を危惧して、営業からまわってきた得意先の電話応対を引き受けていた。適当なところで更衣室に入った時には、商品管理部の女性達はとっくに出ていったあとだった。
 いつもなら神楽坂の途中にある、イタリア料理店の2階を借り切るのだが、今回配られたプリントには初めての中華料理屋が載っていて、はぐれては辿り着けそうもない。お酒の飲めない私は周辺道路を通勤で行き来しているだけで、看板などよく見ていないのだ。
 焦り気味にショルダーバッグを掛け直し、手袋とマフラーを抱えてエレベーターホールへ行くと2機とも地下で停止していた。呼んでも動き出す気配がない。
 地下は倉庫になっていて、エンドレス用にロール状になった版下が試作も完成品も一緒になって並べられている。1階から外へ運び出すこともあるし、3階に工場との連絡通路もある。たぶん何本かを台車に積んでいる最中に違いない。
 私は諦めて、すぐ横にある非常階段の重い扉を押した。
「おっと」
 勢いつけて飛び出そうとして、男の人にぶつかりそうになる。
「ご……めんなさい」
 はずみで手袋を落としてしまった。
「いえいえ」
 私が扉を押さえているので、腰をかがめて拾ってくれる。私はその時ようやく相手をまともに見て、息をのんだ。
「元気?」
 手袋を差し出しながら言う。私の声で彼の方はとっくに判っていたのだろう。
「ありがと」
 受け取って、黙って階段を駆け降りる――普通ならそうなるところ。
 私は交換するかのように彼にマフラーを取り上げられて、首に巻かれていた。
「風邪ひきやすいんだから、気をつけなきゃ」
「うん……」
「これから忘年会?」
「そう」
「良く知ってるわね、って思った?」
 私がとまどって顔をあげると、目線で示して私の腕と位置を替わり、冷たい鉄の扉を閉めた。演技も愛想笑いも本物の笑みも、この人の場合はすべて同じだ。見分けがつかない。紺色の背広に薄いピンク色のYシャツ、斜めにネイビーブルーの入ったネクタイ。なで肩のせいで全体的に中性的な印象を受ける。声も高めだ。
「澄原さんには僕も御世話になってるからさあ。実は今日も誘われてたりしたんだよ。どうしようかなあ、とか言ったりして」
 前歯を突き出すように笑って、黒縁メガネのフレームを指で掛け直す。
「そう、だったんだ」
 知らなかった。そういえばこの人と仕事の話をした記憶はほとんどない。
「誰だっけな。そうそう岩瀬さん。辞めるんだって? あなたの世話役だったよね」
「今日、来るの? カノ――ウさんも」
 やっとそれだけ言った。加納博明。産業資材営業部の28歳、独身。
 彼は私のセリフに眉をひそめて、気に入らなかった時の仕種で肩を軽くすくめてみせた。
「残念だな。キミからそんなふうに呼ばれる時が来るなんて、思ってなかったよ」
 今更、年上でもあり先輩にもなる彼の、愛称なんか口に出せっこなかった。
 私のコトは、好きに呼んでくれていいから。ノドまで出かかって、結局黙った。
 非常階段はコンクリートに囲まれた空間で、各階踊り場鉄扉脇に窓がある。
 透明な平たい硝子から、向こう側に建つビルの窓が灰色に映っているのが見えた。
 雪でも降りそうな、寒そうな空。
 私が何も喋らないとみると彼はとんでもないことを言った。
「今度、遊園地へ行こうよ。総務のさあ、タケちゃん、あなたの同期の。アイツをうちの課の広井が気に入っちゃってね、ダブルデートならしてもいいって返事もらったって誘いが来てるんだ。物好きな男だよ。けど僕としては同僚の頼みをムゲにもできないしさ。決まったらタケちゃんが何か言ってくるだろう」
 親しくもない女の子を平気でアイツよばわりする。この人はそういう人だ。
 そして何より自分の体面を気にする。こっちの都合はどうでもいいの。
 それにしても……いくらなんでも正気なんだろうか。つきあったのは去年の冬。別れるのに一ヶ月かかり、この半年以上は他人同然なんの関わりもなく。
 私は唇を噛んだ。
「ひとつ、安心したよ。僕とのこと、約束通り誰にも言ってないんだね。ゴシップ好きな彼女が僕ら別れたこと知らないんだからな。まっ社内恋愛の噂なんてそういうもんか。もうゴメンだけど。これ以上あいつらを喜ばすなんてまっぴらだからな」
「そうだね」
 私は早くここから立ち去りたかった。彼に投げ返したいどんな言葉も我慢して、一秒でも早く離れたかった。
 彼は言葉少なな私を不審げに下から覗くように眺めて、なおも言った。
「でも災難だよなあ、澄原さん。ほとんど営業の不始末だろうに。あの人お人好しだからなあ。部長達だっていい迷惑だろうに。あれで関係者の昇進はもうないだろうな。商管も風通し良くなっちゃって」
「加納さん、今日、来るの?」
 私は重ねて聞いた。言葉を遮られて嫌そうな表情をしたが、彼は頷いた。
「どうしてあんたみたいな子とつきあったかな、俺。ま、いいや。今日は行かないし、これからもキミのいる所へは行かないよ、だからそんな顔しないでくれないか」
「じゃあ、さよなら」
 私は扉にもたれて立っていた彼と一瞬瞳を合わせ、すぐに階段へ走った。
「僕とのことは、くれぐれも黙ってた方がいいよ。キミのためだ」
 それは全部、あなたのためだろう。
 私は靴音を響かせて、聞こえないふりをした。
 すぐ後ろを追い掛けてきそうな気がして、怖かった。

 乾杯のあと、しばらく歓談が続いた。
「おれさー」
 ビール瓶を持って移動してきた佐々木さんが、空いていた私の向かいに坐って言った。カラーシャツに黒いGパン。ブルゾンの上着を邪魔そうに膝に丸めこむ。
「迷ってるんだよね」
「何を?」
 私は氷を山のように詰めて限りなく水に近く薄めたアンズのお酒しか飲めないから、最初のビールはいつも2センチくらいしか注いでもらわない。けれども瓶を傾けられれば、つきあいでコップを出すぐらいする。
 ぼんやりと私のコップの縁いっぱいまで金色の液体を満たそうとしながら、佐々木さんは眉根を寄せる。
「部長に、正社員にならないかって言われたんだけど」
「良かったじゃない」
 それは私も知っていた。佐々木さんは1年前、中途採用で端末入力に梨元さんの補佐として入ってきた唯一男性のアルバイターだ。歳は私と一緒で、以前は席も近かったため、つらつら話すことも多かった。
「かけもちでバイトでもしてるの?」
「それはないけど。皆いなくなっちゃったじゃん」
「……そうだね」
「スーツも買わなきゃだし。まあそれはどうでもいいんだけどさ。知ってる? おれらのドア来年の春で総とっかえだって。ゼロから出発するなんて、キツ過ぎるよ」
 私だって、この2年半、扱う品番のすべてを覚えてやってきた。こちらの不祥事から得意先が高圧的な態度でもって、在庫一掃の後業務内容の改善を要求してきたとはいえ、商品に関する決定権は常にその仕事と直接なんの関係もない人間が持っている。そして負担がくるのは私達一番下にいる者なのだ。
「でもバイトから正社員になったら、入力の仕事から変わるんじゃない?」
 私はビールをひとくち飲んだ。嫌いなアルコールの匂いが喉に残って、皿からキューリとキクラゲのあえものをつまむ。
「そこが問題だよねー。時給は上がるしさ。一見メリットの方が大きいんだけど」
「でも迷う?」
「だってさ、澄原さんと岩瀬さんが消えて、どうなるんだよ。それからおれさ」
 前後左右を見回して手のひらで唇の横に壁をつくる。
「なんか豊田さんとソリが合わないっていうかさ」
「へえ?」
 私は佐々木さんの斜め後ろのテーブルで、ロマンスグレイの斎藤部長……いや、元部長と、談笑している豊田さんを見つけた。澄原主任と配置替えになり、今は私達と同じ2課の人間だ。澄原さんと交代で私達の主任である。コンピュータでデータ管理をしようと熱心で、マルチプランの社内向けマニュアルまで作成してしまった。私の在庫表も見違えるように改善された。集計の負担など軽くなった面は多い。
「まだ2ヶ月じゃない。これから判ってくるわよ」
「だといいんだけどさー」
 自信なさげな伏せ目がちの表情をされると、私も困る。
 私の仕事の中身も、この冬で大きく変わろうとしていた。岩瀬さんが退職するのは正確にいうと来年の春で、引き継ぎはまだ始まっていない。ところが、大量の赤字が発覚したせいで大規模な人事異動が行われ、私は今までまったく接触のなかった小暮さんのスピーカー・こたつ部隊の伝票まで任されることになった。この調子では来春、新卒が商管に入ってくることは期待できない。当然、岩瀬さんの仕事も私にまわってくるだろう。
「ではこの辺で、花束贈呈です」
 ひときわ高く歓声があがり、拍手がわきおこった。見ると、梨元さんと1課の佐川さんがラッピングされた花束を両手に抱えて、宴会テーブルのコーナーから店内奥へと続く通路のとば口に立っていた。豊田さんが小走りに出てきて、片手で彼女達から少し花束を引き受け、手招きを始める。
「本部長! 部長! ……あっ斎藤部長だけ、それから田峯課長、澄原主任、こちらへどうぞ! プレゼンターが足りないぞ、岩瀬さん、香川さん、持って持って。あとセンセー、リコちゃん、ほら来てってば急いで」
 呼ばれていない有沢さんが立ち上がり、率先して花束を受け持ちにいく。つられたのかそばにいたらしい桜井さんも立っていった。
「アヤちゃんも行けば?」
 佐々木さんが私を振り向いた。
「……うん」
 私は酔いはじめて顔を赤くしている豊田さんから花束をひとつもらって、整列した人達に混ざった。
「こっちこっち、アヤちゃん」
 呑み会の好きな梨元さんはすっかり上機嫌である。私よりみっつ歳上でキャンディキャンディみたいな髪型がよく似合う小柄な女性。当たり前のように幹事役でコンビを組む佐川さんは対象的に大柄で、北欧風に鼻筋の通った女性だ。耳にピアスが光っている。今までに何人こうやって送ってきたんだろう。私は漠然と考えた。
「では、花束贈呈です。今まで御苦労様でした!」
 豊田さんが代表して大声で言った。拍手。岩瀬さんが澄原さんの前に、有沢さんは小谷先生に、桜井さんは大木さん。私は永井本部長に、青いリボンのかかったリンドウを差し出した。
「本部長、短い間でしたけど御世話になりました」
 私は頭をさげた。60に近いのではないかと思う。ウェーブのかかった真っ白な頭髪、並んだ人達の中で一番背が低く、一番皺の深く刻まれた肌。筋ばった冷たい手で私と握手した。
「頑張って」
 永井元本部長は目を細めて言い、涙がこぼれそうな表情をして笑った。今年の春、商品管理部に配属されたばかりだった。既に社内にこのひとの席はない。水道橋にあるシール印刷の系列会社で営業副本部長になったと名刺をいただいた。
 部長は別の事業部に異動している。課長は関西の営業部へ、バイトの小谷さんは解雇、契約社員の大木さんは今月一杯で契約切れ。更新はなされなかったそうだ。
 なぜ辞令の下りた秋からこんなに時間を置き、忘年会と兼ねた送別会となったのか……さすがに直後はヘビィでしょう、というのが小暮主任をサポートしていた津田さんの言葉だ。男性社員にしては珍しくワープロを自分から打ちたがる人で、岩手の技術専門学校を経て東京の印刷会社に選んで就職したのだが、そこでこたつを作ることになるとは思わなかったというのが口癖のようだった。私もそれは同感だ。いったい印刷会社へ家具建具を扱いたいと思って入ってくる人なんて、いるのか。
 自分の席へ戻る私の後ろから、澄原主任がついてきた。
「あれ、主任の席はあっち……」
 唐突に腰を落とす。佐々木さんを通路側から奥の椅子へねじ込むように追いやって、しっかりと片手で彼の肩をつかんでいる。
「おう、食ってっか? 若いヤツはたっぷり食え。酒はオレが引き受けてやる」
 あはは。私は綺麗なグラスをワゴンから取ってきて、主任に渡した。
「いいんですかー、あんまり飲むとまた倒れますよ」
 佐々木さんがたしなめながら、喜んで新しい瓶を持ってくる。
「ドクターストップなんざ、サンタクロースにくれてやらぁ。なぁ?」
 誰に言っているのかよく判らない。私はアンズのお酒のグラスと合わせて、改めて乾杯をした。
「佐々木ぃ、佐々木くんっ、2課を頼んだぞぉ」
 ろれつが怪しい。満面笑みをたたえて、顔色を見るかぎり大丈夫そうだ。未使用の取り皿と箸を澄原さんのコップの横に置いたが、手をつける気はないようだった。
 からまれた感じの佐々木さんは困ったように背中を丸めて、主任からの返杯を受けている。
「上が全部いなくなっちゃ、どうしようもねぇだろうがな」
 仕事なんて、そんなものだ、とささやいた。
「こういう時期がチャンスなんだぜ、現場に詳しいのはオレ達の方なんだ。好きなようにやってやれ。新しい部課長達には、さ」
 さすがに声をひそめて、
「テキトーに会議で報告しときゃいい」
「まずいっスよ」
 佐々木さんが苦笑する。正社員の件を相談しないのだろうか。私が切り出すのも変だし。気にしつつペキンダックに取り掛かっていると、主任の顔が私に向いた。
「なあ、気のおけない先輩もいることだしよ。佐々木はいくつだ? 20? 21か? そろそろネクタイの結び方ぐらい憶えとけ。ったく頼りねぇなぁ、ひょろっこい腕しちゃってよぉ。花園って知ってっか? こんなんじゃ勝てねえぞ」
「ハナゾノ。澄原さんラグビーやってたんスか」
「おうよ」
 確かに背の高さでは佐々木さんにかなわないけど、ガッチリ度なら抜群だ。重心の低さだけがウリではなかったということだ。
「鼓膜も破ったしなあ、無茶したもんよ。おまえもちっとは世間にもまれろ。たくましくなれないぞ」
 どっかのCMみたいなことを言っている。
「鼓膜って、耳の? 破っても大丈夫なんですか?」
 私は訊いた。少なくとも澄原さんが耳で不自由しているそぶりを見たことはない。
「平気平気。ふさがるんだよ。アソコの膜と一緒」
 大声で笑う。うわあ参ったな。といった感じで、佐々木さんが腰をあげた。
「えっと、ボク、本部長に挨拶してきます」
 逃げてしまった。
「あらら。下品だったかな」
 私に言う。
「スマートな今時の若い男女には、笑えない冗談でした」
 一応、すましてみせる。周囲に若い女の子がいなければ、佐々木さんだって素直に笑えていたんじゃないかと思うけど。
「そっか」
 澄原さんは頭をかいて、おもむろにもう片方の手を振り上げた。
「これ、持って帰ってくれっか」
 カーネーションと、カスミ草の花束。
「私が?」
「そうですよん。綾野さんに差し上げます」
 料理の上で頓着なく手を放そうとするので、慌てて私は受け取った。
「オレがもらってもしょうがない」
 通りかかった店員に、梅酒を頼む。胸ポケットから煙草とライターを取り出して、大事そうに火をつけた。
「千加子さんは来年もらえるしさ。アヤちゃんちの花瓶に飾ってやってくれ」
「……了解しました」
 巻かれたセロファンのきらめきに主任の顔が透けて見えた。
「もう少しだけ、頑張ってもらえるか」
 こんな仕事、とっとと辞めろって言いませんでしたっけ……。
 吐き出した白い煙の向こうで、笑みが消えていた。
 自分の去った課のOLに告げる言葉ではないような気がした。
「澄原さんが1課に移ってから、2課の空気はだいぶ綺麗になりましたけど」
 私は六分咲きのカーネーションを抱え直して、探るような目になった主任に直接視線を返した。
「1課の方もそれほど汚れてないみたいですね」
 明らかに『飛ばされた』上司達に比べて、澄原さんへの対処は恩赦を越えた優遇措置だと、噂する者もいた。体が丈夫でないことを考慮されたのか、上司がかばったのか、本当は主任から降格になっているのか、私には判らない。
 澄原さんは首を傾げて、吸いさしを灰皿に押しつけた。
「……やっぱりドアが一番厄介だよな。豊田はオレより若いが、いつまで保つか」
 白い溜め息を申し訳なさそうに吐き出して、私を見て、ゆっくり口元がほころんだ。
「こんなふうに花をいただくのは、数年に一度で充分です」
「握手もな」
 私は差し出された手を軽く握った。お元気なら、それでいいんです。
 相変わらず、ヤニで真っ黒な爪をしていた。

 佐々木さんは翌年2月、正式に社員となってネクタイをしめて出社してきた。

   ◆ ◆ ◆

 日曜日。午後10時。
 車で送るという加納さん達を振り切って、私と佐竹比呂子は渋谷から電車で帰宅した。
 広井さんには悪い気もしたけど、中途半端な好意なら与えない方がいいのだ。
「だいたいバレンタイン前に設定するっていうのが姑息よね」
 先週の夕方、誰も来ない会社のトイレで、私はタケちゃんにすべて打ち明けていた。彼女は知らなかったを連発し、気の毒そうに私を見つめた。
「判った。あたし、絶対アヤちゃんの味方だから」
 浮き気味のファンデーションをあぶら取り紙で押さえたあと、目尻に笑い皺をつくって彼女はそう請け負った。
 一日を通して私達は彼らに奢られっぱなしだったが、タケちゃんは別れ際に素早く紙袋を押しつけ、『これ、義理だけど、おふたりに感謝の印』と笑顔でダメ押しするのを忘れなかった。勿論私も半額出した。加納さんは運転席から鋭く睨んできたけれど、友人のために怒ったのではない。自分もコケにされたと気付いたのだ。
 タケちゃんはあっぱれな程ポーカーフェイスを保っていた。恋愛沙汰なら女の方が一枚うわてだ。事業部の違う人なんて平気平気、と彼女は手を振った。
 玄関を開けると、膝下に黒い塊がすり寄ってきた。ふさふさした尻尾の白い毛が闇の中で左右に揺れている。ドアに手探りで鍵をかけ、私はチビの頭を撫でた。庭で飼っていた犬は、体調の悪さに母が決断を下し座敷犬となった。もう島流しを心配しなくていいのだ。欲しいと望まれた家族の一員が手放されることはない。
「ただいま。来週から、引き継ぎが始まるんだよ。頑張らなくちゃね」
 話しかけると、突然辺りが明るくなった。
「……聡美ちゃんなの? チビが寝言言ってるのかと思ったわ」
 母だった。電気が消えていたので、すっかり眠っているのだと思っていた。微妙な時間なのだ。
「明日会社なんでしょう。夕飯は?」
「ちゃんと食べてきた」
「早くお風呂に入って暖かくして寝なさいよ」
 パジャマ姿で20キロ近くあるチビを抱えて、部屋へと向かう。
 母は知っているのだろうか。私は話していない。父か妹が話したかもしれないが、母が私にその話をすることはなかった。
「うん。おやすみなさい」
 廊下を歩く母の背中越しに、チビの尻尾が揺れるのが見えた。
 大丈夫、守ってあげるよ。
 私は微笑んだ。
(了)
(初出:2012年02月)
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登録日:2012年02月21日 17時20分

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