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紫苑
著者:紫苑(しおん)
日々の出来事を、ふと書き留めておきたい時がある。何の変哲もない風景に、こよなく愛着を感じる時がある。思わず涙ぐんだり、手を合わせてしまうほど感動を覚える時がある。そんな時は目を閉じて、心のキャンバスに、一枚、また一枚と、自分の生きた証に描いてきた。現在は、二人の成人した娘達と、姉妹のように共同生活を楽しんでいる。なにはともあれ、今が幸せならすべてよし、と充実した日々を送っている。
小説/現代

断片

[読切]
いつからだろう、研二とこんな風に軽口が叩けるようになったのは……。家庭のある女性が罪悪感を覚えながらも取引先の男性に会いにゆく。私小説風に人生のひとこまを記す。
第1章 心模様(1996年6月21日)

 そのラウンジはすべてソファが外に向かっていた。
 先ほどからドライマティーニのグラス越しに夜景を眺めている。
 ホテルの最上階から見下ろす夜景は、東京の街ほどではないけれどそれなりに煌(きらめ)いていて、子供の頃好きだった万華鏡を覗いているみたいだった。
 すきっ腹に効いたのか、少しだけ意識が朦朧(もうろう)とし始めた。
 グラスをテーブルに戻しながら、ふぅーと大きく息を吐いた。今日も仕事が忙しかった。どうしてこんなに頑張ってしまうのだろう、我ながらおかしくもあった。

 夫は中小企業の管理職だった。仕事が生き甲斐で、自分が思い切り仕事が出来る環境であれば、文句は言わない人だった。長男が小学校へ上がったのをきっかけに、元の職場へ復帰することを快く承諾してくれた。女が仕事を持つことに特に反対はしなかった。わたしが職場に復帰してもう五年の歳月が過ぎていた。

「あ、ごめん、ごめん」
 背後で男の声がした。振り向くと、取引先の角田研二が汗を拭きながら立っていた。
「先にやってるわよ」
 マティーニのグラスを右手に持って目の位置に上げた。
「いいよ、遅れた俺が悪いんだから」
 傍らのソファに彼がどかっと座ると、わたしも一緒にバウンドした。少しマティーニがこぼれた。慌てておしぼりでそれを拭う。
「お久しぶりじゃない?」
「そうだね、二ヶ月振りの上京かな?」
「仕事はどう?」
「なかなか難しいけど、なんとか生きてるってとこかな?」
「それは何より」
 研二はウェーターに生ビールを注文した。
「暑かったからなー今日は」
 まだ汗が引かないのか、おしぼりでしきりに顔を拭いた。

 研二はなかなか好男子だった。俳優になりそこなったような甘いマスクと、浅黒くて精悍な面立ちは、世の女性を泣かせたことだろう。時々見せる眼光の鋭さは気になったけれど、わたしにとって大した問題ではなかった。根っからの営業マンで、誰に対しても如才なく彼は振る舞っていた。

「最終の新幹線で大阪へ戻るから後1時間くらいは大丈夫かな?」
「もう、急に電話だもの、こっちにだって都合ってものがあるのよ」
「分かってますよ。なんせお忙しい方なんだから」

 いつからだろう、研二とこんな風に軽口が叩けるようになったのは。
 彼は住宅販売会社の営業担当者で、わたしは彼が担当した物件のインテリアに関わった。最初は、生意気で抵抗があったけれど、仕事に対するスタンスはわたしのものと合致していて、何時の間にかその仕事ぶりにわたしも一目置くようになっていた。
 実際、仕事に関わったのは、数年前の一度きりだったけれど、大阪から上京してくるたびに、ちょっとやりませんか? と手で杯を作っては飲む所作をした。
「良いですねー」
 元々飲むことは嫌いじゃないし、彼は飲んでも崩れないし、それ以上の目論見もありそうになかった。そんな訳でわたしは無防備に彼とどこへでも飲みに行った。


「そう言えば、奥様とのことはどうなったの?」
「うん、なかなかねぇ」
「なかなかねぇって言ってもさぁ、もっとちゃんと話し合わなきゃ駄目よ」
「分かっているんだけどねぇ」
 会うと彼は家庭が上手く行かないとぼやいてばかりいた。二ヶ月前に会った時も、そのことを溢(こぼ)していた。
「そちらはどうなの?」
「我が家? 我が家は円満この上ないわよ。あたしはさ、夫一筋で尊敬してるもの。あんな上等な人間はそんじょそこらに居ないわよ」
「惚れてるんだ?」
「当然でしょ。円満じゃなきゃあたしが外で仕事なんかできないじゃない」
「羨ましいな」
「うらやむ前に努力よ。努力してる?」
「もうそういう気持ちすら萎えたなー」
「かなり深刻ね」
「もう時間の問題かもしんないねぇ」
 研二は伏し目がちに水割りグラスを指でピンと弾いた。そして一気にそのまま水割りを煽り、ウェイターに手招きしておかわりを告げた。

「あなたは明るいから飲んでいると気が紛れるんだ。仕事はバリバリこなすし、それでいて家庭はきちんと守ってる、言うなれば女の鑑だね。良いオンナだ」
「あら、それはどうも。嘘だと分かっていても嬉しいわよ。その辺があなたの上手いとこなんでしょうね。それで何人のオンナを泣かしてきたんだか」
「俺は真面目だよ。あなたが思っているような悪いオトコじゃないからね」
 真剣に弁解する顔が妙に男っぽかった。悪いオトコではないかもしれない。こうしてもう何回も飲みに誘われたけれど、彼は何もしかけて来なかった。楽しく酒を飲んで、それじゃまたーって去って行った。なかなかやり方がスマートである。

 他人の離婚話に首を突っ込むつもりは毛頭ない。他人がとやかく言うべきことではないからである。それでも耐え切れなくて、ぽっと吐き出したい衝動に駆られるのか、わたしに話しやすいのかその何れかの理由だろうとわたしは思っていた。

 宝石のように煌く夜景の下にもいろんなドラマがあるのだろう。
 今まさに死のうとしている人も居れば、この世に生を受けたばかりの赤ん坊から、様々な人間模様が繰り広げられているはずである。
 わたしはぼんやりと、窓ガラスに映ったわたしを眺めた。わたしの隣に研二の顔があった。微笑もうとして、わたしはそのまま固まった。研二の射すような視線を感じた。さり気なく視線を外したけれど、もう一度窓ガラスに視線を戻す勇気はなかった。それは二人が出会って初めてのことだった。

「あら、そろそろ時間ね。改札まで送って行くから」
 わたしはバッグに手をかけて立ち上がった。
「ああ、そうだね。もうそんな時間だ。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうなー。今日は急に誘って悪かったね」
「いえいえ、これくらいのお相手ならお安い御用よ。今日はおごりでしょ?」

 わたしは先に出て、トイレに向かった。今どんな顔をしているのか心配になった。トイレの鏡に映ったわたしは、ほんの少し華やいで見えた。それを研二に悟られることがとても恥ずかしいと思った。慌ててコンパクトを開けて、顔をパフで叩いた。そして大きくひとつ深呼吸をした。


第2章 新幹線(1996年10月15日)

 まだドキドキしている。
 平静を装うとすればするほど、指先が震えた。
 とうとう、乗ってしまった、後悔とも期待ともつかない複雑な気持ちが、後から後から湧いて来た。今ならまだ間に合うよ、心のどこかでオレンジ色のシグナルがチカチカと点滅した。

 それでも会いたい気持ちの方が勝っていた。
 会ってそれからどうするの? 何の進展も後退もないだろう。それらすべてを分かっていて、最終の新幹線に飛び乗ったのだから。

「会いに行こうか?」
「来れば?」
 きっと冗談で返した言葉だったろう。それなのに、なぜか突然、今から本当に会いに行ってみようかしらと言う思いが頭をもたげた。まさか、彼だって本当にやって来るなんて思ってもいないのだ。
「本当に行くよ」
「本当に来れば?」
「本当の本当に行くからね」
「本当の本当に来れば?」

 慌てて電話を切って、行動に移した。

 新幹線の窓に映る自分の顔をじっと見る。
 細部がはっきりと見える訳ではないけれど、頬の紅潮は隠せなかった。誰かが覗いているような気がして、ガラスに映ってはいないのに振り向いた。
 心に疾(やま)しいことがある証拠だろう。

 さっきの電話で、自分の気持ちには正直でありたいと思った。その上で起こったことはすべて受け止める覚悟ができていた。谷底を恐々と眺めながら、丸太の一本橋を渡っている。後戻りは出来ない。前だけをじっと見据えて、両手でバランスを取りながらそろり、そろりと歩を進めた。

 新幹線の自由席は、疎(まば)らだった。
 殆どの乗客が眠っている。疲れを露に寝息が聞こえた。寝息がいつしか鼾(いびき)に変わった。誰も他人に構ってはいられない。自分の生活が大切で、それをひたすら守っているようだった。
 わたしにも守るべき生活があった。優しい夫が居て、中学生の多感な息子と娘がいた。家族の誰もがわたしを信じて疑わなかった。だから、わたしのこの嘘を見破らなかった。


「ああ、また客からのクレーム。厭んなっちゃうわ。明日朝一で現場に入るから、これから最終の新幹線で出掛けてくるわね」
 書斎のドアをバタンと開けて、リビングでテレビを見ていた長女の久美に言った。
 頬が火照るのがわかった。気合を入れなくちゃー、と大仰に手でパンパンと頬を叩く。
「あら、またなの? 母さんも大変ね。ご苦労様」
 中学生になったばかりの娘が労った。
「朝ご飯は、大丈夫よね? 久美ちゃん。いつものようにお願いね」
「いいわよ、分かってるって。父さんもお兄ちゃんもちゃんと起こすから母さんは心配しないでお仕事に専念してね。久美ね、母さんってカッコイイと思ってるんだよ。まるでキャリアウーマンって感じだもの。尊敬してるんだよ」
 何も知らない久美はすこぶる協力的だった。簡単な料理ならなんでも出来たし、下拵えさえしておけば、後は彼女の腕任せでちゃんとした料理が出来上がった。わたしは彼女が料理に興味を持った時点で、すべてを仕込んでいた。料理のセンスもなかなか良い。食事に関しては、わたしが心配することは殆どなくなった。


 わたしは仕事を持っている。
 長男が小学校へ上がったのを機に、元の職場に復帰した。
 小規模な建築会社のインテリア部門を担当している。以前から、急な出張は余儀なくされていて、その為に家族はいつも協力的だった。

 研二は取引先の営業マンだった。
 長身で色は浅黒く、精悍な面持ちの同い年のバツ一男だった。初めて会った時、まるで豹のようなオトコだと思った。狙った獲物は必ず仕留め、それをいたぶる傲慢さのようなものを持ち合わせていたからだ。彼と出会った瞬間にわたしはそれ嗅ぎ分けていた。だから、出来るだけ関わらないように、気持ちを遠ざけていた。なのにその現場が終っても、彼とはどこかで気持ちが繋がっていた。時折、上京しては誘ってくる。それでもせいぜいホテルのバーで軽く飲んで別れるだけの、それ以上でもそれ以下でもない極普通の仕事上の付き合いだった。
 気がつくと、わたしの心の隙間にいつしか研二が住み着いていた。
 仕事の手を休めると、ふと彼の顔が浮かんでくる。自分でもよく分からない感情が胸を妖しく支配してドギマギすることもあった。あんなオトコは趣味じゃないのに、と慌ててそれを打ち消した。それでも、研二の浅黒い顔と真っ白な歯の映像が、後から後から脳裏に浮かんでは消えていった。

 彼は飲んでいた。
 何か辛いことでもあったのだろうか。珍しく酔って携帯に電話をかけてきた。わたしは不覚にも彼の電話に華やいでいた。彼には近づかないと自分に言い聞かせていたのに、図らずも電話の声には無防備だった。
「ちょっと声が聞きたくなった」
「それって何?」
「何だろうねぇ、自分でもよう分からなんけど」
 あははと笑った。乾いた笑い声が受話器に響いた。わたしはその笑い声に彼の寂しさを感じ取った。やるせない気持ちがビンビン伝わってきた。
「酔ってるの?」
「酔ってなんかいないさ」
 わたしも缶ビールを飲んでいた。パソコンのモニターを見ながら明日の仕事の段取りを考えていた。効率よく動けば、明日は少し時間が取れる。このところの多忙さがちょっと緩む気がして、少しだけハイになっていた。その時、突然、猛烈に研二に会いたいと思った。それは今まで無理に押さえつけていたモノが、すごい力を持って起き上がるような、そんな感じだった。誰も見ていない書斎の机の上で、胸の動揺をどうやって抑えようかとうろたえて、彼に返す言葉を失った。わたしの気持ちを悟られてたまるかと、直に冷静になった。ここは茶化すしかない。研二を軽口で誘っていた。


「母さん、行ってらっしゃい」
 二階の自室に篭っていた長男の真樹が気配で降りてきた。
「あら、起きてたの? 寝てるのかと思っていたわ。あとは久美ちゃんに任せたから、お兄ちゃんも協力してやってね。じゃぁね」
 わたしは真樹の顔を見ないようにして、慌ただしく玄関を出た。足早に通りに出てタクシーを拾った。
「お客さん、どちらです?」
「新横浜、最終の新幹線に乗りたいから急いでね」

 タクシーの中から夫の携帯を鳴らした。急な用で最終新幹線に乗ることを告げると彼は気をつけて行って来いと優しく言った。彼はまだ会社に残って仕事をしていた。わたしは初めて夫に嘘をついた。


第3章 春の嵐(1999年3月21日)

 鳥羽の海は荒れていた。
 大きく海に向かって広がった窓ガラスに、幾筋もの雨が伝っている。
 約束の時間はとうに過ぎていた。けれども彼からの連絡はなかった。もしかしたら来ないのかもしれない。ぼんやりと灰色の海を眺めていた。

 窓辺のソファーに凭(もた)れて少しまどろんだ。
 夢か現か定かではない。ここに辿り着くまでを丁寧に反芻してみた。
 霙(みぞれ)交じりの雨の中を、鳥羽駅からタクシーに乗った。タクシーは勾配のきつい坂道をゆっくりと登った。ワイパーが左右に忙しなく動いている。運転手が「生憎の天気になりましたなー」とバックミラー越しに気の毒そうに言った。「雨女ですから慣れてます」可笑しくもないのに、わたしは愛想笑いを浮べて答えた。それから間もなく庇(ひさし)のないエントランスで降ろされて、慌ててホテルに駈込んだ。激しい雨に衣服が濡れて気持ち悪かったけれど、意外と明るくてモダンなロビーにほっとした。フロントを探してチェックインし、ボーイの案内で迷路のような廊下を通ってエレベーターに乗った。そうして七階で降りてこの部屋に辿り着いたのである。その証拠に、出掛けにきちんと整えた毛髪が雨で縮れて先ほどから頬で踊って煩わしい。
 彼はきっと来るという確信はあった。今まで一度だって約束を破ったことがなかったから。そう確信しながらも、約束の時間は一時間以上も過ぎていた。
 窓の外は相変らず雨だった。ますます激しくなった。眼下に繋がれていた水上レストランの船は波のうねりに任せて大きく揺れていた。

 チャイムが鳴った。
 彼だと確信してドアを開けると、研二が笑顔で立っていた。
「ごめん、遅れて。道路がすごく混んでいたんだ。待った?」
「うん、でもほんの少しね」
 わたしは待ちくたびれていたのに、そう答えた。
 そのまま、彼は窓辺に進んで外の景色を眺めながら
「見晴らしが良いね。こんな高級ホテル泊まったことがないよ」
 そんなはずはないだろうに、笑顔を崩さないで茶目っ気たっぷりに言った。
「ほかにホテルが取れなかったの。きっと高いと思うんだけど」
「まぁ、取れただけおんの字じゃない? で、これからどうする? ホテルで食べても良いけれど、外へ出てみようか、どっか美味しい魚でも食べさせる店があるかもしれないからさ」

 どっぷりと暮れてしまった街へとクルマを走らせる。
 ガイドブックを片手に、評判の店を探した。折からの連休で店はどこも混んでいた。美味しい料理にありつけたらと、更に鳥羽の街を探った。


「久しぶりだね」
「本当!」
 お互いの顔を正視するのが面映ゆい。半年振りの逢瀬だった。
 研二の仕事は不景気で上京する頻度が減っていた。わたしも関西への仕事が殆どなくなった。互いが時間を作らない限り、仕事上で交じるという情況は今では皆無となった。いつしか距離や時間が二人の間を、より遠いものへと導いていた。研二は離婚し、わたしは相変らず穏やかな日常を過ごせる関係で、家族とはバラ
ンスが取れていた。だから彼の離婚が、わたしに少し距離を置かせていたのも否めない事実であった。

 海の幸がテーブルに並んだ。
 伊勢海老づくしだった。お刺し身に始まって、焼き物、揚げ物、ありとあらゆる調理法で伊勢海老を堪能できた。地酒もなかなか美味しい。久しぶりの楽しいひとときだった。明日の朝目覚めて、人生が一転していようが、わたしは目の前の現実だけを信じて生きていけそうな気がしていた。残りの人生は、今夜のお釣で生きて行かれるわ……。そんな幸せなひとときは瞬く間に過ぎて行った。

 翌日は晴天だった。
 鳥羽の海は煌いていた。
 わたしは目の前の景色をしっかりと脳裏に刻み付けた。
 もう二度と、研二と同じ景色を見ることはないだろうとどこかで覚悟していた。


最終章 背中(2000年7月7日)

 窓の外は真暗で何も見えなかった。
 見えないけれど目を凝らして、闇を見詰めていた。
 ふと近くに視線を戻すと、自分の顔が窓ガラスに映っていた。
 なんて顔をしているんだろう、こんな悲しい顔は嫌いだわ、心の中で呟いた。

 背後で動く人影に神経を研ぎ澄ます。
 彼はまるで関心がないかのように、黙々と自分のスーツケースを片づけてバスルームへ消えて行った。

 もう、この辺でいいだろう、彼を解放してあげよう、わたしは心に決めていた。
「シャワーしてくれば?」
 振り向くと、濡れた髪をタオルで拭きながら、バスローブをまとった彼がそこに立っていた。
「そうね」
 わたしはスーツケースを開けてシャワーの支度にかかった。今日は来ない方が良かったのかもしれないと深い溜息を吐いた。バスルームの鏡は湯気で曇っていて、ぼんやりとわたしが映っていた。鏡を手で拭った。ひどく疲れたわたしがはっきりと見えた。化粧が落ちかかって顔が粉を吹いている。ああ、もう若くはないわ、なんだか無性に腹立たしくなって、このまま闇に消えてしまいたいと思った。

 バスタブには彼の浴びたシャワーの飛沫で、シャワーカーテンがへばり付いている。シャワーの取っ手を左手に持った。熱目のお湯を足元にかけて、下からゆっくりと全身に浴びせた。それから高い位置にシャワーを留めて、顔を仰向けた。顔を打つ熱いお湯が痛かった。どうしてここにわたしはいるの? なんだか急に泣き出したくなった。涙がお湯に紛れて止めど無く流れ落ちた。何もかもが怠惰で許せなかった。わたしの心を弄(もてあそ)んだ彼を初めて憎いと思った。


「長かったね。どうかしたの?」
 窓辺のソファーに腰を下ろして、煙草を燻(くゆ)らせている彼が言った。
「ううん、なんでもないわ」
「泣いていたのかい?」
 目が少し赤くなっていた。
「シャンプーが目に入ったみたい。ちょっと沁みるけどもう平気」
 濡れた髪をタオルでターバンのように手早く包み込んだ。
「後悔してるんじゃないの? いいんだよ、ダンナの所へ帰りなよ」
 やっと会えたのに、冷たい言葉がチクリと胸を突き刺した。
「うん」
 バスローブの紐をもう一度結わえ直して、向かいのソファーに座った。
「飲む?」
「そうね」

 冷蔵庫から彼がビールを取ってきてグラスにゆっくりと注いだ。泡がこぼれそうでこぼれない。彼は上手にグラスにビールを満たした。片方をわたしに渡して「じゃあ、乾杯」と儀礼的にグラスをカチンと鳴らした。
 わたしは一気に飲み干した。体の真ん中を冷たい液体が下がっ行くのが分かった。それとともに、胸に不気味な雲が広がって急に不安になった。彼の態度から、今夜は何かを切り出そうとしているのが読み取れた。多分、別れ話。薄々気付いてはいたけれど、わたしは彼と本当は別れたくなかった。だけど、待ちきれなくて、傷つきたくなくて、わたしの方から口火を切った。

「結婚するの?」
「うん、するよ」
 一番恐れていたことだった。
「そう、いつ?」
「いつって決まってないけど、そのうちにするさ」
「そうだよねぇ、一生独身だなんて気の毒だよねぇ」

 やはり、予感はあたった。
 そうだろうとは思っていた。胸が熱くなって掻き毟りたい衝動に駆られた。
 本当は恥じも外聞もかなぐり捨ててすがり付きたかった。厭だって泣き叫びたかった。わたしの胸を断ち割って、わたしがどんなに彼に惚れているのかを見せたいと思った。それほど好きだったのに、わたしは物分かりの良い振りをした。

「良かったじゃない」
「うん、あんたもダンナの元にお帰りよ」
 余計なお世話だと思った
 わたしはあなたが好きだからこれまで付き合ってきたのに……。泣きたい気持ちを無理に抑えて「そうね、潮時かもね」分かった振りをした。足を組んで、腕組みをして、物分かりの良いオンナを演じていた。

 わたしはどうしても彼の愛人にはなれなかった。
 彼の前でだけは、オンナになれなかった。地下に眠っているマグマのような気持ちを表に晒す勇気がなかった。それをしたら、多分もっと早く終焉を迎えていただろう。彼に嫌われるのが恐かった。彼が抱きたい時だけ声をかける便利でお手軽なオンナでも、会えないよりはずっとましだった。

 窓の外は相変らず漆黒の闇だった。
 何も見えないのに、遠くを眺める目をして、じっと窓外を見据えていた。時間だけがジリジリとぎこちなく過ぎて行く。

「寝ようか」
「うん」
 傍らのベッドに二人で滑り込んだ。
 いつもと何も変わらなかった。熱いキスも乳房を舐める仕種も、何一つ変わらなかった。相変らず隙のないセックスだった。それなのに、どこかで互いが冷めていた。二人とも身体を脱け出して、上の方から抜け殻を眺めているようだった。ああ、これで終るのだろう。わたしはとても冷静に受け止めていた。濡れた髪が顔に貼り付いて少し気持ち悪い。ターバンのように巻いていたタオルはベッドの脇をバスローブと一緒に滑り落ちていた。

 彼は、背中をくるりと向けてそのまま深い眠りに入っていった。
 何もかもがいつもと同じだったけれど、わたしの胸には大きな穴が空いていた。
 手を伸ばせば届くのに、彼の背中はわたしを全く寄せ付けなかった。わたしはその背中に永久の別れを察知して、いつまでも涙が溢れて止まらなかった。
(了)
(初出:2000年07月)
登録日:2010年06月22日 16時10分
タグ : 不倫

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