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寺尾豊
著者:寺尾豊(てらおゆたか)
1958年東京生まれ。千葉大学工学部画像工学科卒。子供の時からの夢は作家だったが、文学部に進学することを父親に反対され理系の道へ。卒業後、結局エンジニアにはならず、文章を書く仕事につくため日経マグロウヒル社(現・日経BP社)に入社。日経パソコン、日経デザインなどの雑誌で記者や副編集長を務める。映像部に異動後も、日経ビジネスアソシエでエッセーを連載していた。2009年末に退社してからはフリーの映像制作者。
小説/現代

ドーブブルーに街は暮れて(3)

[連載 | 連載中 | 全6話] 目次へ
直樹とのきっかけは友達に誘われて出かけた食事会だった。飲み過ぎて眠ってしまった恵利はホテルの一室で元カレとの別れを夢に見ていたのだった……。
 恵利は夢を見ていた。冷たい雨が降る夜の街。駅まで向かう途中で急に男が口を開いた。
「俺たち、別れたほうがいいと思うんだ」
「どういうこと? 意味が分からないよ」
 先ほどまで行きつけのバーで、仲良く飲んでいたはずの恋人からの話は、納得がいかなくて当然だった。男の形がシルエットになっている。2年も暮らしたのだから覚えているはずの顔がない。元カレのことを忘れたつもりで、いつもどこかで引きずっている。
 雨の音が激しさを増す。バーに引き返して、ちゃんと話し合おうと提案するが男は首を横に振る。不意に涙がこぼれる。なぜ、このタイミングなのか。今晩は寄り添って寝てくれないのか。
 目が覚める。どこにいるのかすぐには分からない。見慣れない天井。シャワーの音が聞こえる。恵利はゆっくりと起き上がる。ホテルの一室にいるらしい。なぜか浴室の扉が開いていて、そこから音と一緒に湯気が流れてきている。音が止まる。バスタオルを巻いた男が出てくる。
 バーに入ってグラスホッパーを注文したところまでは覚えている。必死になってその先を思い出そうとする。

「何になさいますか?」
 思わず口をついて出たのは、元カレがいつも最後に頼んでいたカクテルの名前だった。その日に知り合った直樹が少し驚いたような顔をしている。
「酒が好きなのは分かっていたけれど、グラスホッパーとはね。なんだか、昔の男の影が見える気がするから、初対面で飲むのは避けた方がいいんじゃない」
 直樹は低い声で、ぼっそりと言った。まだ親しくもなっていない男から、指摘されて恵利の頭に血が上った。余計なお世話には違いないが、いつまでも昔の男を引きずっている女のイメージで見られるのはうれしくない。目の前に運ばれてきた淡いグリーンのカクテルを、3口で飲み干した。
「おいおい、大丈夫なの? 変なことを言って悪かったよ」
 きっと不機嫌な顔をしていたのだろう。左横に座る直樹の顔を見ることもなく、空になったショートグラスを見つめていた。そこから記憶は途絶える。誰とバーに行ったかもあいまいになって、昔付き合っていた男の夢を見て、シャワーの音が雨音のように聞こえて、気がつけばタオル一枚になった直樹が目の前に立っている。
「大丈夫? 気持ち悪くはない?」
 直樹は大丈夫という言葉を何度も投げかける。気を遣ってくれているのだろうか。自分の隣に直樹が座る。どうしたらいいかと考える間もなく、唇を奪われる。温かい舌が自分の口の中を探っている。いつの間にか歯を磨いていたらしい。ミントの香りが広がる。自分もシャワーを浴びたいと言いたかったが、その前に押し倒されてしまう。再び酔いが回ったような感覚。直樹を素直に受け入れるしかなかった。
 翌朝、恵利が目覚める。夢は見なかった。いや本当は見たのだが、覚えていなかった。腕時計はしたままだった。時刻を確かめると9時を少し回っている。自分の横で直樹はうつ伏せになって、静かな寝息を立てている。時計以外は何も身に付けていない自分に気付く。そっとベッドを抜け出し浴室へ向かう。
 思い出した。なぜ昨晩、男は浴室のドアを開けたままシャワーを浴びていたのだろう。洗面所の前まで水浸しになっていて、思わず滑りそうになる。フェイスタオル一枚を取って拭き取る。出会ったその日に体を重ねたのは初めての経験だった。昨晩の感触を思い出して、体の奥がかっと熱くなる。直樹の触り方はソフトだった。果てた後も自分をやさしく抱きしめてくれた。
 シャワーの栓をひねる。髪も顔も洗いたかったが我慢することにした。昨晩の感触を洗い流し、このまま部屋を出て行ってしまえばいいと考えた。物欲しそうな女に思われたくなかった。やはり顔は洗おう。マスクをして眉毛だけ描いて帰ればなんとかなる。今日は土曜日だ。
 そのとき、扉が開いて男が浴室に入ってきた。後ろから抱きすくめられる。
「おはよう」と低い声で耳元に囁やかれる。恵利は逃げ場を失った。男は左手をボディソープに伸ばし、恵利の前で合わせた両手で泡立てると、ためらいもなく恵利の胸を洗い始めた。強い快感が走り、思わず声が出てしまう。結局、全身をていねいに洗われ、自分も一緒になって体を洗い、ようやく解放される。無言でバスタオルを使っていると、直樹に腕をつかまれ、再びベッドの上に誘われる。少し乱暴なキス。だが、嫌な気はしない。
 結局、ホテルを出たのは夕方近くになってからだった。
「恵利ちゃん、昼も食べていないし、何か食べて行こうよ」
「お化粧していないし、このまま家に帰りたいな」
「全然、問題ないよ。スッピンでも美人だよ」
「お世辞がうまいな、えーと……」
 男の名前が出て来ない。直樹はそのことに気付いたようだ。
「ひどいなあ、一晩過ごした相手の名前を覚えていないなんてさ。俺は直樹。こっちは恵利ちゃんって、しっかり覚えているのにね」
 まるで自分のことを軽い女だと指摘されたような気がして恵利は顔を赤らめる。
「まあ、仕方ないか。結構、酔っていたからね。グラスホッパーを2杯、立て続けに飲んでいたからね」
「えっ」 
 一杯だけだと思っていた。直樹によれば、2杯目のグラスホッパーが、モスグリーン色をしていたのを、バーテンダーに問いつめていたそうだ。ホワイトのカカオ・リキュールを最初の1杯で使い切ってしまい、褐色のカカオ・リキュールで作ったと説明されて、大声で笑っていたらしい。
「トノサマバッタにも緑食型と褐色型があるから、正しいのよ」と言いながら、直樹の肩を強く叩いていたと聞き、間違いなく自分のことだと分かる。理学部生物学科出身であることも、直樹に自慢していたらしい。元カレの話をしたかどうかまでは、確かめられなかった。
「よく、そんな女とやる気になったわね」
「ははは、お互いに40歳近いし、清純な女なんて嘘くさいしさ」
 恵利は直樹に好感を持った。
「ねえ、飲食店に入るのが嫌だったら、俺のうちで食べようよ」
 少し間を置いて恵利は返事をした。
「いいね、私が何か作ろうか?」
「いや、俺が用意するよ。鍵を渡すから恵利は先にテレビでも見て待っていて。俺はスーパーで買い物してから戻る」
 いつのまにか恵利と呼ばれている。一夜の関係で終わってしまうと思っていたら、意外にも長い付き合いになりそうだ。私鉄を乗り継いで直樹の住むマンションの前に着く。約束通り鍵を渡され、直樹は通りの向かいにあるスーパーへと走って行った。
 顔に冷たい感触があり、空を見上げる。冬なのに少し暖かい。まるで夏の日のような大粒の雨が降り出した。季節外れの香りが心地よい。

 あれから2年。あっという間だった。自分のマンションに戻るのは平日だけ。週末は直樹のところで過ごすのがパターンになっていた。一晩で終わるはずの物語が、ここまで続いている。それとも単に引きずっているだけなのか。恵利は意識していなかったが、どこかで新しい扉を探していた。
(つづく)
(初出:2019年12月)
登録日:2019年12月25日 12時00分
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