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寺尾豊
著者:寺尾豊(てらおゆたか)
1958年東京生まれ。千葉大学工学部画像工学科卒。子供の時からの夢は作家だったが、文学部に進学することを父親に反対され理系の道へ。卒業後、結局エンジニアにはならず、文章を書く仕事につくため日経マグロウヒル社(現・日経BP社)に入社。日経パソコン、日経デザインなどの雑誌で記者や副編集長を務める。映像部に異動後も、日経ビジネスアソシエでエッセーを連載していた。2009年末に退社してからはフリーの映像制作者。
小説/現代

ドーブブルーに街は暮れて(6)

[連載 | 連載中 | 全6話] 目次へ
陽介と二人となり、ほろ酔いでバーを出た恵利は、自分の想像に顔を赤らめるのだった。一方、実家に向かったはずの直樹はというと。
 突然の恋は錯覚から始まる。そもそも短時間で相手を好きになることがおかしくはないか。顔が好みであったり、声に惹かれたり、ちょっとした仕草で惚れてしまう。ステディな関係に発展して、そこから相手を知る旅が始まる。思い描いていた未来と違っていれば、それぞれが思う行き先へと進むことになる。つまり別れだ。人生を最後まで一緒に過ごす伴侶と巡り会えるかどうかはギャンブルに近い。
 恵利は酔いが回ってくるのを感じていた。陽介はと見れば、少し眠くなったのかとろんとした目をしている。恵利の周囲にいる男と比べて、イケメンという言葉が似合うほどだとは思わない。だが、落ち着いた仕草と、丸みのある低音の声がセクシーに感じる。つい、二人で体を重ねることを想像して、心臓の鼓動が高鳴るのを意識する。さて、もう一杯飲むべきか。
「いかがなさいますか?」
 優秀なバーテンダーは絶妙なタイミングでオーダーを取りにくる。しかも既に酔い始めたと分かると「何になさいますか」と押し売りせず、飲みたいかどうかを尋ねる気遣いを見せる。
「やめておこうよ」
 陽介が口を挟む。彼の目の前のグラスも空だった。レディファーストで恵利にバーテンダーが尋ねたのを、先回りして答えたわけだ。
「スミマセン、会計をお願いします」
「かしこまりました」
 バーテンダーがうやうやしく頭を下げる。直樹なら「お勘定して!」とぶっきらぼうに言うところだ。店の人に丁寧な言葉遣いをする陽介に恵利は好感を持った。しかも、ビロードのような低音が店の中に響き、奥の女性客までが声の主を探して顔を上げている。自分の連れであることが誇らしいような気分になった。
「私、払いますよ」
「いいや、今日はおごらせて。また次の機会に割り勘で飲もう」
 次の機会との言葉がうれしい。社交辞令のつもりで陽介は言ったのかもしれないが、もう一度会うことを期待している自分がいる。
 勘定を済ませて立ち上がろうとすると、ふらついて、陽介の腕にしがみつく格好になった。
「大丈夫?」
 陽介がしっかり受け止める。去って行く二人の姿を見ながらバーテンダーは、深い仲になるなと確信していた。
 バーの重い扉を開けると一気に冷たい風が二人を包んだ。
「寒い」と恵利は一言つぶやき、陽介の腕を離さなかった。彼はそっと彼女の腕を振りほどき、右手をつないで自分のコートのポケットに一緒に入れた。
「暖かい?」
「うん」
 もうどこから見ても恋人同士だ。直樹と出会った日のことを思い出す。あの日は気付けばホテルの一室にいた。今日は違う。次の一杯は頼まなかったので、酔っているとはいえ、意識がはっきりしている。
 スマホが振動する。直樹からのメッセージかもしれない。だが、確かめなくてもいい気になっている。自分の意志で、陽介との関係を進展させようとしているのだ。直樹とのことは後で考えよう。陽介の手は大きい。ポケットの中は窮屈なはずだが、密着している安心感で広く感じられる。この瞬間の気持ち良さを、恵利は捨てたくはなかった。
「冷たい手をしているね。さっきまで店にいたのに」
「そう?」
 恵利は口数が少なくなった。どこへ向かおうとしているのだろうか。この先にホテルがあって、そこへ向かおうとしているのか。桜木町の駅を目指していないのは確かだ。関内の駅方向でもない。
(これからどうするの?)と恵利は言おうとしてやめた。せっかくの二人の夜が壊れてしまいそうな気がしたからだ。彼女の様子を察したのか陽介が口を開く。
「ちょっとだけ散歩を付き合って。見せたい風景があるから」
 恵利の鼓動が落ち着く。同時に自分が期待していた夜に気付き顔を赤らめる。あくまでもほろ酔いだ。正体をなくしていない。初対面の男と一夜を共にするには、まだブレーキがかかる状況だ。おそらく、ホテルの前まで連れていかれても、素直に従えないと想像する。直樹の存在を主張して断ることもできると自分に言い訳をしていた。
(アドレナリンは分泌されていたとしても、セロトニン濃度が低くなっていないはず)と生物学科出身らしい理屈で、恵利は自分を納得させる。脳内神経伝達物質であるセロトニンが不足すると、理性的な判断ができなくなる。恋愛初期の興奮状態では、セロトニン濃度が低くなるという研究報告がある。恵利は心理学的ではなく、恋愛を生物学的に考える傾向にあった。
 8分ほどして到着したのは大岡川にかかる都橋だった。右側に都橋商店街が並び、川面にも飲食店の灯りが連なって映っている。横浜は何度も来ていたが、初めて見る夜景だった。直樹と何度も出かけたみなとみらいの夜景とは全然違う。生活の息づかいがあり、本来はあちらこちらにあるはずのほころびが、闇にまぎれて美化されている。
 いや人工的な夜景のほうが、さまざまなたくらみを誤摩化して、都合の悪いことに蓋をして美しく見せようとしているのではないだろうか。計算されていない都橋からの夜景には癒しがある。(傷を持たない人間はいない。これからも傷つくかもしれない。それでも構わないよ)と、自分にやさしく問いかけているように思えた。
「手は温まったかな」
 と言って陽介がポケットからつないだ手を出して、いきなり恵利の人差し指に唇を押し付けた。ずんとした快感が彼女の身を貫く。心拍数が再び上昇する。
(だめだ。セロトニン濃度が低くなっている)
 陽介は左手を恵利の顎の下に添えて、唇を寄せて来た。あらがえなかった。彼の唇が軟着陸する。まだ9時過ぎで人通りは多いはずだったが、気にならない。強い快感が恵利を包む。
(やばい、ドーパミンが出てるわ)
 いつのまにか陽介の柔らかく大きな舌を、自分の小さな舌でまさぐっている。再びスマホの振動を感じながらも、キスを止められなかった。
 5分ほど経っただろうか。ようやく二人の唇は離れる。気付くとサラリーマン風の二人組が振り返りながら自分たちを見ている。
「俺と付き合って欲しい」
 ストレートな告白だった。すでに唇を許しているのだから返事をしなくてもいいような気がしたが、恵利は小さくうなずいた。陽介が恵利を強く抱きしめる。

「直樹、さっきからどこへ連絡取ろうとしているの?」
 横手川理沙はキッチンから、テーブルに座ってスマホをいじっている直樹に声をかけた。一緒に取った夕食の後片付け中だった。
「別に……」と言いながら、理沙には聞こえないくらいに直樹は舌打ちをする。
(これだけ連絡が取れないなんて、恵利は何をしているんだろう)
 恵利はまったく気付いていなかったが、直樹には5年前から付き合っている理沙がいた。百貨店勤めの彼女と、平日の夜は一緒に過ごすことが多く、恵利との時間は理沙が忙しい土日が中心だった。
「なんだか最近、冷たい気がするんだよね」
 理沙は手を拭きながらキッチンから出てくる。直樹は咄嗟にスマホをテーブルの上に置く。
「別に好きな人が出来たなら言ってよね。私、二股かけられるのは慣れているけどさ……」
 理沙がすべてを言い終える前に、直樹は彼女を抱き寄せ唇を合わせる。いつものような濃厚なキス。そのままベッドルームへと移動する。
 直樹は理沙を抱きながら、恵利とのセックスを思い返していた。
(理沙とはそろそろ潮時かもしれないな)
 頭で考えるのとは裏腹に、体だけは強く理沙を求めていることに逆らえない。テーブルの上には飲みかけのロックグラス。氷が溶けて、カランと音を立てる。複雑なパズルの箱が開けられた瞬間だった。
(つづく)
(初出:2020年01月)
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登録日:2020年01月07日 12時00分
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