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天野雅
著者:天野雅(あまのみやび)
埼玉県生まれ、千葉県育ちの関東人だった。結婚を機に関西の人間になる。現在は関西とも東海ともいえる近畿地方に在住。10年経って方言にも慣れた。血液型はマイペースで知られるB型。住めば都を地で行く性質。ネット作家歴20年。同人作家歴はプラス5年。趣味は映像鑑賞。写真撮影。歌唱。創作料理。好物は自然万物一般。美術芸能一般。パソコン。ゲーム。漫画。文章。
小説/現代

もう夢は、みない

[読切]
最初から警戒心は薄かったし酔っていたのだと思う。自ら住所と電話番号を渡した男には、美人の奥さんがいるという噂が……。一方、妹の冬美は妊娠9ヶ月をむかえていた。できちゃった婚だった。不安を押し隠し生きる姉妹のそれぞれの人生。
 もうずっと、夢をみている。


   1.秋恵


 マンションの扉を引き開けると、照明をつける前の暗い室内から、高周波みたいな電子音が細く長く聞こえてきて消えた。
 間取りは1LKだ。社会人5年目になった去年、キリよく越してきたばかり。
 壁のスイッチを手さぐりで入れ、靴を脱ぎ、秋恵は黄色っぽい電灯の下を歩いて、キッチンとは呼べないほど狭い、板張りの流しとバスルームのドアの間を抜ける。
 手にしていた鍵は無造作にショルダーバッグのポケットに落とし、すぐに絨毯敷きのリビングに踏み入ると同時に天井の電器をつける。
 軽く眉をひそめ、入って左側のカラーボックスの上に視線を投げた。
 思ったとおり、赤いランプが明滅していた。
 その手前を横切って最奥のベッドルーム入口にバッグを置き、ジャケットの袖を抜いて壁際のハンガーに掛ける。
 再びカラーボックスに近づいて指先をのばしたまま、ためらう。思い当たる相手は……ひとり……いや、ふたり。
 ふる、と頭を軽く一振りして、赤いランプを押した。感情の読み取れない電子音声が静かな室内へ這うように流れ出る。

『11月20日、水曜日、留守番メッセージ、5件です』

 背中で聞きつつ、ドアを開け放ったまま、ユニットバス脇の洗面所で軽くうがいと手洗いをして、数歩戻り、調理台のタオルで手を拭いてマグカップにインスタントコーヒーをいれた。光量は玄関とリビングからで足りている。

『午後6時30分、1件です』
 ピー。
 プツ。
 ツーツーツー。
『午後6時50分、1件です』
 ピー。
 プツ。
 ツーツーツー。
『午後7時10分、1件です』

 律儀に20分置きにかかっている無言電話。秋恵は微かな溜め息をつく。5件全部だろうか。7時30分……7時50分……、それから。
 今は何時だろうと腕時計に目を落とした時、最後の伝言が流れた。

『午後8時4分、1件です』
 ピー。
『あ、俺。思ったより早く上がれた。一緒に出られたのかもな、意外と書類が少なくて。まだ帰ってないだろうけどさ、もう駅に着くんだ。どうする? すれ違うとまずいだろ。改札で待ってるからな。秋恵も携帯持てばいいんだ。じゃあ』

 手にした熱いカップを慌ててポットの横に置き、室内に戻る。
 留守電はいじらずに、ジャケットとショルダーバッグを取った。ベッドサイドの鏡台の引き出しからジルコニアのイヤリングだけを拾い上げ、明かりを消しながら玄関へ取って返す。
 靴を履くのももどかしく外に出た。
 腕時計は8時10分。ドアを閉める直前、中から電話の呼び出し音が聞こえた。相手は……たぶん。
 わざと音を立てて鍵をかけ、靴音を鳴らしてコンクリートの廊下から小走りに、逃げるように階段を降りる。
 彼に、了解の電話をかけ返す余裕がなかった。
 駅まで走れば7分で着く。
 しかしたまに足を緩め、片方ずつ慎重にイヤリングをつけることを忘れない。
 改札で会ったあとは、県道沿いのファミリーレストランで食事して、終電まで秋恵の部屋で過ごす。一緒に帰ってきた時も、秋恵が腕をふるうことはほとんどない。初めて案内することになったきっかけは手料理だったのに、だいたいそれが平日のパターンとなってからは休日にスーパーで買う量も減ってしまった。平日は出勤なので秋恵もそのほうが楽だ。
 交差点にさしかかり、駅から続く人波に逆行しながら、改札のほうへ近寄っていく。
 仕事先は私鉄線1本で15分ほど。交際が長引くにつれ、自然と彼が忙しい時は会社帰りに秋恵の部屋に落ち着くようになった。月末締めの前後とか、年度末決算の前後とか、年末年始シーズン、ほかには、あらゆる口実のつく時に。
 今日も食事をしたら当然のように部屋に来るのだろう。
 その時、無言電話はかかってくるだろうか?
 悪質なイタズラ電話だと言えば、彼が出てくれるだろう。……そして、どうなるか。
 いやきっと、自分はそこまで残酷になれない。
 非常識な時間の電話なんか無視して、ふたり寄り添い続けよう。
 無言の留守電記録を聞かせたら、彼はどう思うだろうか。
 もちろんそんなことはしない。
 試す必要なんかない。
 信じたい。愛しているから。
 ……繰り返される、無言のメッセージ。
 いつまで?
 不安にならないわけじゃない。
 昔は、……何も知らなかった頃は。
 世界中のひとすべて、助けてあげたいって。根拠もなく思っていた。本気だった。
 ひとりで全部を支えるのには弱かったから、強くなりたくて。
 いつも強くなりたかったのに。
 でも今は、こんな近くにいるひとのことすら足蹴にして。
 知ってしまったなら、同罪だ、という自責の念にかられながらも。
 自分優先で。
 振り払えないエゴイズムに、吐きそうになる。

 自分で笑ってしまうくらい簡単な話だ。去年の春。
 大阪の支局から、経理課長が転属してきた。
 秋恵の部署は営業事務で、売上計上の業務で経理と関係があるため、歓迎会に呼ばれていった。
 営業部と違って事務系だから参加メンバーの大半が女の子で、最初から警戒心など薄らいでいたかもしれない。
 勤めて5年目といえば見知った顔ばかりだし、周囲も気安い。
 ビールを注ぎ注がれ、雑談で盛り上がり、2次会のカラオケボックスで、それまで遠巻きにしていた経理課長と隣り合わせになった。
 ミラーボールの輝きが満たす室内で、篠塚課長の家ってどこですか、と確か誰かが聞いたのだ。
「この辺て丁度いい物件がないよね。辞令が出てから焦りまくって探したけど結局、和歌山県に住むしかなくてさ」
 30代半ばらしい、新入りの課長は初対面ばかりを相手に適度な距離を保ちながら、ややくだけた口調で軽く答えた。「それまでは神戸のほうにいたんだけどね」
 聞いていた両隣の女の子が……つまり秋恵も耳をかたむけていた……驚きの声をあげて、反対側の彼女が聞いた。
「そんな遠くから通勤してるんですか?」
「和歌山っていってもねぇ、神戸よりは遥かにましだよ、乗り継いで30分くらいかな」
 酔っていたのだと思う。
「私、こないだ引っ越したばっかりなんですよ」
 秋恵は気がつくとそう話しかけていた。
 電車で1本、15分ですよ。値段も手頃だし、うちのマンション、見に来ます?
 反対側の女の子は歌の順番がまわってきていて、その言葉はたまたま他の誰も聞いていなかった。
 それで……さっそく、というわけではなかったが、彼のことを何もよく知りもしないうちに、自宅の住所と電話番号まで渡してしまっていたのだ。
 当然というべきか、男は女の誘いととって、ことはとんとん拍子に進行してしまった。
 彼氏のいなかった秋恵にとって、それは思いがけず歓迎すべき流れに見えた。
 ただひとつの事実を除けば。

「なんだ、」
 ふと耳元で囁かれ、我に返った。
 ベッドサイドの薄いランプが逆光になって男の表情を見せない。
 金色に縁取られた秋恵の肩先に、男がそっと口づける。
「感じない?」
 とぼけたような口調には、自嘲気味な笑いと、秋恵に対する軽い苛立ちが混じっている。どこかうわのそらの様子を気づかうのではなく責めているのだ。すねたように。
「……ううん、そんなことないわよ」
「それなら、いいんだ。愛してる、アキ」
 秋恵の柔らかい髪を片手でかきあげて、わざとうなじの産毛を揺らすように息をかけながら耳朶を噛み、今度は素直に反応した彼女に安心したように、整った指先を鎖骨から胸へと滑らせていく。
 職場では有能な10歳も年上の男は、ベッドの中でだけ子供のような性格を見せる。秋恵の前でだけ、心からくつろげると言う。
 それが愛しくて、肌を重ねて一晩中、過ごしてたこともあったのだけれど。
 何も知らず、心から向かい合っていると信じていたのは最初の数ヶ月のみだ。
 出張だと嘘をついての泊まり……だったと知ってからは、どこに行きたいとねだることもしなくなった。
 同僚の噂話で美人の奥さんがいると聞いて、もちろん問い詰めた。
 その時に聞く耳を持たず強引にでも終わらせていれば良かったのかもしれない。
 だが男は、心からの愛を囁ける女は秋恵だけだ、と告白するのだ。
 信じてしまったのは、愛しているから。
 しかし秋恵が信じているのは自分の愛なのだ。
 彼の愛は?
 遠くない過去、確実に神の前で誓った一生分の愛は、秋恵に向けられたものではなかったというのに。
 秋恵は自分を賢くない女だとは思いたくない。
 けれど、なんでだろう今は。
 何が確かな愛だと呼べるのかよく判らないまま、思考停止で過ごしている。
 薄暗いベッドの上でそれだけは確かな男の温もりに身をゆだねながら、秋恵は目を閉じる。
 ベッドサイドの鏡台の上に、外し置かれたイヤリングの宝石がふたつ、虹色の光を反射している。誕生日のプレゼント。宝石店で勧められ、秋恵はふたつ返事で受け取った。ダイヤモンドの偽物。なんてお似合い。
 コールが鳴り響くことはなかった。


   2.冬実


 手に白紙の婚姻届を持ったまま、冬実は俯きがちに市庁舎を出た。小走りに駐車場へ急ぎ、買い換えたばかりの真新しい愛車の運転席へと身を滑り込ませる。
 ハッチバック式のミニワゴン。ドアを開けるとただの半ドア防止音ではなくてキンコロ……とオルゴールメロディが流れる特別仕様だ。これはこれで耳うるさいと、使ってから知ったが後の祭り。
 苛々しながら助手席に用紙を置き、しっかりドアロックすると、外から見えないことを祈りつつ長いスカートをたくしあげる。
 運転席にはドーナツ型クッション。更に下に、マタニティ用のシートベルトを固定するための座布団みたいなものが敷いてある。肩から斜めにベルトを下ろすところを、股の間でいったん留め、大きなおなかに負担をかけないようにする代物で、国内では一社でしか販売されていないし、世界中でこんな物しかない。
 翻って、マタニティのズボンというのは、ほとんど見かけない。たいがいはジャンパースカートだ。それもストッキングを履かないため足首くらいまでを隠せるようにロングスカート。
 それを腿の付け根まで捲くり上げて、腹帯を留め具に巻き込まないように注意しながら、シートベルトを通さなければならない。人には見せられない姿にいつも羞恥心が頬をかすめる。
 車に乗らなければ済む話だが、交通の便の悪い郊外から京都大阪間を毎日のように往復するためにはそうもいかない。それにバイクや自転車よりは車の方がまだ安全だ。
 おなかの赤ちゃんのため、これはプレママの義務。母親の資格を試されている、ような気がして冬実は黙って耐えている。
 ダッシュボードから大判のスカーフを取り出し、二つ折りにして腰から下を覆う。これで一応、不本意に白くのびた両足を隠せる。一見、膝丈スカートにごまかせる。けれど、薄い布切れの感触はなんとも頼り無い。ガソリンスタンドで店員に覗き込まれるたびに、ひやりとする。うっかり窓を閉めておくとドアを開けようとまでされる。冗談じゃない。
 妊娠9ヶ月目だ。そろそろ入院の準備をしておくようにと、医師から指示されている。
 胎児の成長は常に標準のペースで、10ヶ月で生めると冬実は思っているが、もういつ出てきてもおかしくないのだと、看護師や親は言う。出産予定日は12月6日。
 開いたままのダッシュボードに婚姻届を放り込む前に、入れてある母子手帳が見えた。記名は『長谷川冬実』。婚姻届を提出したら、すぐに書き換えよう。綺麗に、可愛いシールを使ったりして。
 戸籍謄本は取り寄せている。おなかの子の父親、友博のぶんも。
 今夜書類を書けば明日には姓が変えられる。籍を移し、住民票を移し、病院に報告して、保険証も通帳や免許証も変更して、親しい友達に連絡して。
 ……こんなふうに慌ただしく、入籍する予定じゃなかった。
 もちろん、彼と結婚の約束はしていたし、結納はまだだったけど、お互いの両親とも挨拶は済んでいた。
 ただ、冬実だって人並みに夢は持っていたから、宝石店でエンゲージリングをとっかえひっかえ選んでみたかったし、純白のウエディングドレスも着たかったし、新婚旅行は海外へ行きたいと思っていた。
 それがあの一夜、彼のほんの悪戯心ですべて崩された。
 いいよなって……完全に事後承諾で。
 別に大丈夫だろって、それにこのほうが気持ちいい、と悪びれもせず笑いながら。
 寒かったのだ。雪が降っていた。友博の部屋で、さらに悪いことにはお互い少し酔っていた。いつもなら枕元に準備万端で始めるのに、気がつけば冬実も男も肌があらわで、最後まで布団から出ずに済ませようと、彼は手抜きをした。
 言われるまで彼女も頓着していなかった。慌ててバスルームに走って、祈る思いでシャワーを使ったことを、覚えている。
 覚えている……それが冬実の胸に苦い。
 何事もなければ、きっと忘れてしまっていただろう。
 もともと冬実は生理不順なほうで、妊娠に気がついたのは5ヶ月に入った頃だった。噂に聞いていたつわりも、そうと判らないほどに軽かった。体調不良で友博と過ごす時間は減らしたけれども、内科に行けば貧血の診断で済んでしまい、正常値に戻って健康に戻ったと思った。そうこうするうちにバストとウエストがキツくなってきて不安になり、外科に行って、内視鏡で新しい命の存在を初めて目のあたりにした。
 他人に言うと、笑い話になってしまう。
 泡を食って問い詰めてきたのは親くらいだ。
 本当なのか、ちゃんと確かめたのか。結婚はどうするんだ、結納は。親戚への挨拶は。そもそも住居の見通しすら立っていない。
 関西の大学で知り合ったふたりだが、今、冬実は京都で両親と共におり、友博は明石の実家を出て大阪の独身社員専用マンションに住んでいる。
 お互いの両親をふたりの都合に了承させなければならず、それだけでかなりの時間がかかった。
 婚約指輪は妊娠中のためサイズが怪しいので作れなかった。それでまた揉めて、やっとのことで結納し、出産前に入籍だけは済ませることに決まった。
 親戚はとりあえず親に任せるとして、新婚家庭には家賃補助の出る大阪市内に手頃なマンションを探し、引っ越し手続きをした。子供が生まれたらいつでも新居を使えるようにして、車もスポーツタイプからファミリーカーにした。あとは後部座席にベビーシートを据え付けるだけだ。
 結婚生活は入籍後、と厳しく言われた。冬実の両親からすれば、ただでさえ普通の体ではないのに、新しい環境に、昼間はひとりになってしまう冬実が心配だし、出産後には慣れない育児が待っているから、まだ1年くらいは娘を手元に置いておきたいのだ。もちろんそんなことは不自然極まりない。おなかに自分の子がいる、と知った時点で同居を始めたいくらいだった友博は、しかし仕事で忙しく、身重の冬実に全部任せていたから、口を開けば「まだか」。
 冬実は1年以上も続いたアルバイト先を辞めたくて辞めたわけじゃないのに。
「オレあれやっておきたいよ、話しかけたりとか。そばにいて声を覚えさせておかないと、父親が判らないんじゃないか」
 休日の土曜、保健センターのパパママ教室で見たビデオが印象的だったらしい。
 人の気も知らないで!
 しかし無関心な男よりはずっといい。
 結局、妊娠初期の検査をすべてすっ飛ばし、周囲を呆れさせつつも、おなかの子は健康優良児だった。順調に生まれてこようとしている。
 順調に……冬実の意識がついていけなくても。
 友博はどう思うだろう? 一抹の不安。
 妊娠9ヶ月だ。既に元の体型など跡形もない。胸は2サイズ大きくなった。ウエストはいわずもがな。臀部から腿にかけて、目立たないけれど、肉付きが良くなっている。体重は10キロ増えた。出産までの10ヶ月のあいだに10キロが目安で、冬実は合格の域だが、胎児や胎盤など差し引いて5キロは太った計算になる。産めば、あとは空っぽになって弛んだ腹をガードルなどで締めて元に戻さなければならない。失敗して隙間に肉がつけば、中年女の体型へ一目散。タンスの中身は全部着られなくなる。
 現在、身長158センチに対して、体重は60キロ。腹圧が無理にかかるせいで、冬実はほとんどの妊婦がそうなるように便秘がちになり、出痔になった。24時間だるく、肩こり、腰痛もちらほら、足はむくみがち。静脈瘤ができ始めている。秋になってもクーラーをかけて全然効いていないように感じるほど暑く、なにしろ腹にひとり乗っかっているのだ、毎晩寝苦しい。
 一緒に住めば嫌でもバレてしまうだろうが、友博にはまだ何も教えていない。
 スムーズに産めればいい。が、万一、異常分娩にでもなったら母子ともに命まで危なくなる。
 冬実は漠然とした恐怖をずっと感じていた。
 気づかないふりで、やりすごそうとしていた。
 女は。
 母親は、みんな越えてきて幸せそうに笑って我が子を胸に抱く。
 だが毎年、数パーセントの確率で母親になりきれず、命を失う女性もいるのだ。
 この医療機関の発達した日本国内でさえも。
 そういうことを、解っているのだろうか、あの男は?
 マリッジブルーとマタニティブルーの両方を抱えて、冬実はうらめしく思わずにいられない。
 できちゃった結婚なんて、舌を出しながら肯定するような、安易な響きを連日のように公共の媒体に垂れ流す、無責任なマスコミ。
 婚前交渉……なんて死語か。冬実だって、それを悪いことだとは思えない。愛し合っていれば当然の成り行きだ。幸せな温もりに抱かれたいと思うし、抱きたいと思う。
 しかし当然の成り行きで、こうして非日常的な不安にさらされている自分は、それを無理矢理背負わされている気がして到底納得できる気分じゃない。
 男は、解っているのか?
 姓が変わる不安を。
 過去積み上げてきた自分史から切り離され、生活の基盤が昨日と今日とではまるで変わってしまう状況を。
 身体が変化する不安を。
 刻々とどうしようもなく、明日はどうなっているか自分にすら予測のつけようがない、状態を。
 愛している、そのたった一点で乗り越えなければならないのだ。
 あたしは彼を愛している。偽りない気持ちで、だから。
 彼と一生涯添い遂げるため、すべての困難を甘受しよう。
 誰に誓うともなくそう決めた。けれど。
 ダッシュボードを閉めようとして、ふと中の赤い冊子が目にとまる。
『おめでとう。いいわねぇ、女の幸せいっぺんに味わえて』
 不意に、電話越しの声が耳に蘇る。
 同じ女なのに、あっけらかんと、そんなこと言うか!
 しかも母親の次に近しい存在のくせに。
 発作的に唇を噛み、冬実は地図を助手席の上に乱暴に引っ張りだした。
 エンジンをかけ、やや緊張の面持ちで左右を確認してから、車を発進させる。
 まだ運転して行ったことはない。ここから……1時間もあれば行けるだろう。車内の時計は2時半になろうとしている。
 心にわだかまる沈鬱な思いとは裏腹な、午後の穏やかで明るい陽の光に促されるように、冬実は一路、奈良へ向かった。


   3.姉妹


 受付からの内線電話で、面会人、と告げられ、秋恵は軽い胸騒ぎを感じた。
 壁の時計は5時30分過ぎ。月末業務の忙しさも一区切りつき、インスタントコーヒーの香りで気分転換する社員の姿も見える。定時は6時だが、残業前提でもうひと頑張り、という雰囲気だ。
 当然のことながら、内勤事務の女子社員にとって外部からの訪問客など日頃、皆無に等しい。今日の秋恵にも他社からアポイントはない。
 まさか? 無言電話に飽きて、直接乗り込んできたのだろうか、という思いは、相手の名前を聞いて別の意味の驚きに変わった。
 急いでエレベーター脇の階段を駆け降り、ロビーに入る。
 出入り口付近の一角に、ガラステーブルに両肘をついて気だるげな表情をした妊婦が坐っていた。
 受付嬢に黙礼をして、
「冬実!」
 つい咎めるような口調で、呼びかけながら近づく。
「お姉ちゃん」
 妊婦が顔を上げた。ほっとした表情で笑む。両腕を体の左右に付いて、もぞもぞと腰を浮かせる。立ち上がる気はないらしい。
「おなかが重いんじゃないの、なんなの一体、どうしたの? ひとり?」
 混乱するまま、正面の椅子に腰掛けて訊く。ガラスのテーブルに来客用の茶托が乗っている。
「うん……ちょっと遊びに来ちゃった」
 いたずらを見つかった子供のようにごまかし笑いを浮かべ、目をそらしながら続ける。
「ホントはもっと早く着くはずだったんだけど、道は混んでるし、迷っちゃったし……そういえば今日は平日だったなーと思って、またこの近くで迷って」
 ようようマンションに辿り着いてから、気づき、親に電話して秋恵の会社の住所を聞き出し、また地図を頼りに。
 つらつら説明する妹を、呆れ顔で見やりながら秋恵は溜め息をついた。
「危ないじゃない。途中で何かあったらどうするつもり」
「そうだよね」
 しゅん、と肩が落ちる。
 出発した時には相手にケンカを売る勢いでいたことなど、毛先ほども見えない。
「遊びにって……」
 言葉どおり真に受けて真意を計りかねている姉に、冬実は急いで付け足した。
「ホントは顔見てすぐ帰るつもりだったの。だけど遅くなっちゃって……真っ暗な道怖いし、今夜、泊まってってもいい?」
「え、そりゃあ」
 いいけど。
 と、続けられず、口をつぐんでしまう。
 その様子に先回りして冬実がとっさに謝った。
「ゴメン、彼氏来る?」
 途端、はじかれたように目を上げた秋恵は射るような強い視線を向けてしまい。
 びっくりした冬実が見返してくる。
「う、ううん、まさか。そんなこと、気にしなさんな」
 今度は秋恵がことさら明るい口調でごまかして言い、目をそらす。
 ……なんだろう。
 冬実があからさまに疑問符を表情に出してまじまじと観察してくるので、秋恵はいたたまれずにまくしたてた。
「うーん、しょうがないわね、じゃあ6時に上がるから、それまでここで待っててくれる? 30分もひとりで居られるかしら。近所のどっか、見てまわるわけにもいかないわよね」
 その体じゃあ。
 言外に気遣いを含ませて、尋ねると、冬実はすまなそうな顔に戻った。
「うん。ごめん。あたしは平気」
「それじゃあ、終わったらすぐ来るからここにいてね」
 秋恵はひとこと残して、椅子から立った。
 心細げに見送りながらも、軽く手を振る冬実を返り見ることもせずに。
 受付を通りすぎ、角を曲がると人のいない廊下を2階へと駆けだす。
 経理課は階段からいちばん遠い、奥まったブースにある。電算室の隣で、他の課とは一線を画し、入り口にドアがついている。
 普段は開いていることが多いので歩調を緩めながら窺うと、やはり光が差していて、秋恵はさりげなく中を覗いた。
 机がななつ、班になっている。両側の壁沿いに端末と大型のドットプリンタが並んでおり、定時前のこの時間、今日の処理リストがけたたましい音と共に吐き出されているところだった。
 パイプ椅子に斜めに腰掛けて、手元の伝票とプリンタが送ってくるロール紙の様子とを交互に眺めていた男性社員が、秋恵に気づいて顔を上げる。見知った間柄だし、特にどうという顔もしない。
「あっ、あのう篠塚課長、は……」
 言いながら、正面のひとまわり大きなデスクを目で示す。今、室内には彼と、反対側に位置する自分の机で電卓を叩いている女性社員のふたりしかいなかった。
「会議中。11月から新しいソフトを導入するとかで、お偉いさんに呼ばれていったんで、当分帰ってこないよ」
「そう……ありがとう」
 それ以上、何か聞かれるより早く秋恵は踵を返してそこを出た。
 そういえばいつか、そんな話を聞いたかもしれない。
 だけどよりによって今日……。
 自分の席に戻りながら、ロビーで待っている妹を思い、溜め息をついた。
 6時に退社しなければならない自分は、会議が終わるまで待っていられない。
 仕事は、実は月初のほうが忙しい彼女にとって、月末の今日1日くらい残業しなくてもどうということはない。
 携帯電話を持っていれば、メールを打って彼に今夜の事情を知らせることができたかもしれない。
 せめて、自宅にかかってくる電話を冬実に知られることなくタイミング良く取って、話すことができれば。
 しかし無言電話を取りたくはない……。
 デスクで淡々と仕事をこなしながら、考えあぐねているうちに6時になった。
 同僚に挨拶をして席を立ち、無駄と知りつつ、もう1度経理課を覗くが、やはり課長の姿はなかった。伝言も同僚に知られたらと思うと怖くて残せない。
 内心の動揺とは裏腹に、どこか開き直ったような足どりで更衣室に向かい、手早く制服を通勤用の私服に着替えた。新人の頃はスーツを着用していたが、勤続3年、4年と経つうちに見栄えのするものならなんでも構わず着てくるようになった。
 今日はツィードの前開きワンピースを着ていた。それ一枚でも着られるし、中にブラウスを着て襟をはだければ大人びた印象のジャケットスカートになるという服だ。本革のベルトがアクセントで洒落ている。去年、彼からプレゼントされたもの。色はチャコールブラウンで、秋に着るのにちょうどいい。
 デートのあるなしに関わらず着ている、秋恵のお気に入りだった。今日は、姉の趣味を知っている妹には、実は見せたくないのだが。
「いいカッコしてるじゃない、珍しくセンスいいね」
 案の定。1階に降りていくと、秋恵の姿を見とめた冬実は、ゆっくりと立ち上がりながら微笑して言った。
「ナマイキ言わないの。それよりなんか、平気? 足が痛いの?」
 軽く眉をひそめながら、出入り口へと視線で促す。自動扉から外へ出て、左手に駐車場がある。
「足……もまあ、ちょっとアレだけど、痛いのは別のとこ」
 冬実が言いづらそうに、口ごもる。椅子から立ち上がる動作はこわごわといった感じで、今も、この短い距離でスムーズに足を運んでいるとは言い難い。
 妊婦さん歩き、という格好がある。おなかが重いため、無意識にバランスを取ろうとして肩が後ろに反っていくのだ。腰に悪い体型。だが冬実の場合はそれだけではなくて……足は心持ちガニ股だし……いうなれば、ペンギンのような歩きかた。
「おなかが重い? としても、痛いわけじゃないよね」
 妊娠経験のない秋恵には、想像できるほどの知識もない。
 冬実は嘆息し、新車へ案内しながら、小さい声で訥々と答えた。
「おなかの皮も痛むよ。たまにひきつれる。無理矢理大きく伸ばすわけだから」
 秋恵は軽く目を剥いて、大きくなりかける声を抑える。
「大丈夫なの? こんなとこまで車で来たりして。山粕くん知ってるの? 私が運転しようか」
 ロックを解除し運転席のドアを引き開けた冬実の隣に立って、心配そうに中を覗き込んだ。
「ここ数年運転してないけど、オートマなら大丈夫。一応、今、免許も持ってるわ」
「ううん、いいよ、さっきマンションまで行ったから道は分かってるし。この座布団、シートに括り付けだから、取り外すの面倒だし」
 ロビーで待ってる間に、この場面を想定して、やっておこうかと思ったのだ。が、長時間運転してきて、さすがに持病が痛かった。あまり動きたくなかったので、ロビーでじっとしていた。
「あと10分かそこら運転するくらい、平気だから」
「そう?」
 見慣れない『座布団』を目にして、秋恵はあっさり引き下がった。助手席にまわる。
 ドアを閉めて慎重にロックし、シートベルトをかける、妹の動作にまた秋恵は目を丸くする。
「何やってんの?」
「……見れば分かるでしょ」
 ただでさえ頬に血がのぼるのに、これ以上説明したくなかった。
 やや乱暴に車が発進する。振動に身を任せながら、秋恵はどこか呆れたような、諦めたような口調で言葉を返す。
「なんだか全然知らなかったけど、大変みたいね、妊婦さんて。モデルさんは体型が崩れるとか言うけど、一般人だって体は変化するんだわね」
「うん。あたしだってちゃんと考えたことなかったけど、もうしょうがないから」
 度胸決めたよ、って冗談半分に笑ってみせる。
 そんな妹の気持ちを感じ取り、秋恵は前方へ目をやるふりをして、黙った。

 マンションに入ると秋恵は妹に洗面所を使わせ、電話へ急いだ。時刻は6時20分。留守電にはまだなんの伝言も入っておらず、一瞬ためらって、電話線を抜く。これで余計な電話は鳴らない。……肝心な電話も鳴らない。
 今日、会議が長引くなら、どっちにしろ彼はここへ来ないだろう、と思う。電話に誰も出なくても明日には会社で会えるのだし、その時に呼び出し音が故障してたとか言い訳すればいい。実際、呼び出し音が鳴らないうちに留守電が出てしまって、しばらくメッセージに気づかなかった、ということが以前にあった。留守電も今夜は出ないけれど、まあなんとかなるだろう。
 さりげなく電話から離れ、寝室に入って服をラフな室内着に替えかける。
「そうだ、冬実、パジャマどうする?」
 布団は……狭いけれども、ベッドにふたり並んで眠れないことはない。昼間、天気がよかったおかげで室温も暖かい。寒い思いはせずに済むだろう。
 冬実は引っ越しの時に手伝っただけで、生活感の漂う室内は初めてだった。興味深く見回しながら寝室に入ってくる。
 秋恵が盆休みに実家へ帰っているため、会うこと自体はそう久しぶりでもない。
「いいなあ、独り暮らし。あたしもしたかったなあ」
 地元の高校を出て、地元の専門学校へ行き、地元でアルバイトしていた冬実は家を出る口実が見つからず、実家から結婚生活へと突入するのだ。
「うーん。そうだねぇ。気楽ばっかりでもないけど、主婦業の訓練にはなったかもね」
 秋恵は笑いながら、壁に備えつけのクローゼットを開けて見せた。
「どうする? 上はトレーナーでいいとして、下は、……ていうか、あんたサイズいくつなの」
「あっ」
 初めて考え至り、冬実は声を上げ、うろたえて秋恵を見た。
「どうしよう、あたし、スリーLだよ」
「は?」
 スリーエルっていくつだっけ……口の中で間抜けな問いが消える。
「スリーLでもキツいかも。お姉ちゃん持ってるわけないよ、ウエスト100ぐらいあるんだから。バストもサイズ大きいんだよ。どうしよう、着替え持ってくれば良かった」
「えー。待ちなさい」
 1メートルのウエスト、と聞いてくらくらしつつ、秋恵は長女の責任感でもって思考を切り換え、部屋を出ていく。身長は秋恵とたいして変わらない冬実は頼もしげにその後を追った。洗面所で手を洗ってうがいして、化粧を直し、髪を整えて。
「買えば済む話でしょ。まだ時間早いから、車で行けば。出産祝いに買ってあげるわ」
「いいの? マタニティってそんなに安くないよ?」
「マタニティでも大きいサイズでも、いいわよなんでも。ベビー用品なんて私にはよく分からないし、赤ちゃんにはクリスマスプレゼントを贈ってあげる。出産で大変そうなのは冬実だからね」
 えーと駅前の商店街は論外で……秋恵は呟きながら、リビングに戻って床に置いたショルダーバッグを拾い上げた。
「確かさっき途中に郊外型の大きなショッピングセンターがあったわね」
 軽く言って、冬実に笑みを向けて安心させるように、それから。
「時間があったら毛布も見ましょう」
 着替える前で良かった。
 1度はまっすぐ帰宅してしまったが、落ち着いてみれば夕飯もまだで、買い物ついでにどこかで食事も、ということになった。
 冬実は献立に気を遣う必要があったのだが、メニューを選べば大丈夫、と思って同意した。


   4.夢は、みない


 秋恵はデートで1度だけ訪れたことのあった、雰囲気の落ち着いたレストランに冬実を連れていった。そこで妊婦の食事制限の話を触り程度に聞かされて、またしても驚いてしまう。
 心配しているかもしれないので、夜の早い実家へは公衆電話から冬実の無事を伝えておいた。
 友博には、電話がかかってくれば親が話してくれると思うから、わざわざかけなくていい、とどこか沈んだ声で冬実に言われ、困惑するが問いただすこともできず。
 マンションに戻った時、時計は既に10時を回っていた。
 いつもはシャワーだけで、滅多に入らないバスタブに湯を満たしてやると、冬実は満足そうにほっこりとした体にバスタオルを巻いて出てきた。
「お姉ちゃんも、冷めないうちに入っておいでよ。いいお湯だよ」
「うん。行くけど、ちゃんと早く服を着ないと、冷えるわよ」
「そうだね」
 短く答えて、買ってきた荷物を前に坐りこむが、冬実は背中を向けてタオルをはだけたまま、何かやっている。
「……いいよお風呂入ってきて」
 気配に気づいて、決まり悪そうに冬実が振り向いて言う。
「まあいいか」
 諦めたように一息ついて、両腕を動かし始めた。
「これねぇ、母乳がちゃんと出るように、毎晩マッサージ。義務なの」
 秋恵は自分の相槌を、ぼんやりとどこか遠くに聞いていた。
「終わったら、妊娠線防止のボディクリームでマッサージ。それから腹筋強化のストレッチ。お産て大変だよね」
 言いながら、少しずつ服を身につけて、仰向けに絨毯に転がり、両足を動かし始めた。
 秋恵は黙って立ち去ることもできず、なんとも表現のしようがない想いで溜め息をつく。
「できちゃった結婚なんてさあ、言うほどいいもんじゃないよ、ホント」
「ひょっとして、冬実、山粕くんに怒ってる?」
 あてつけの家出? と訊けば。
「もう臨月なんだけどね」
 否定しない、妹の答え。
「それ、ちゃんと話し合っておいたほうがいいんじゃないの、これからもっと大変でしょう、夫婦になるんだし、子育てとか」
「どう話し合えばいいの?」
 不意に、冬実が唇を噛んで、横向きに寝そべった。楽な姿勢に吐息がもれる。
 ケンカもしていないのだ、と遅ればせながら秋恵は気づいた。
「産みたくないの?」
 だからって堕ろせない。いや、そうじゃない。違う。たとえ月齢が可能だったとしても、そんな選択は初めからしていない。筈だ。そうまで考え及んでしまう今の自分が、冬実には赦せない。
 振り払うように冬実は否定のしぐさを強くして、ひとりごとのように言う。
「新しい命は、大事」
「じゃあ、山粕くんのことが嫌いになった?」
「そんなわけない」
 いつか嫌いになる想いは、愛じゃない。愛してなかったら、抱き合ったりできない。冬実はそう考える。
「ちゃんと結婚したくて決めてる? そこんとこ曖昧だと、そのうち浮気したくなったり、離婚なんてことになってしまうでしょう」
 秋恵は少し顔を顰めたが、冬実は気がつかなかった。
「サイテーじゃない? 言えないよ、おなかの中で赤ちゃんが聞いてるのに、」
『まだ子供なんて欲しくなかった、なんて……』
 あの夜。
 ちゃんと避妊しておいてくれさえすれば、こんな想いはしなくて済んだ。
 そんなふうには言いたくない。
 何も――、本当に何も知らないで、ただ自分の子ができた事実と結婚が決まったことを手放しで喜んでいる彼。
 妻になる覚悟もまだなのに、否応もなく母親にならざるをえない現実。
 冬実にとっては、もうどうしようもなく決まっている道。
「育てる自信もなんにもない、なんて……」
 冬実は震える唇でそれだけを言葉にした。血を分けた姉にも、すべては言えない。
 嗚咽にすべてを流してしまう。言わなくても済むから、今までずっと堪えてきたものを解き放つように、泣きじゃくった。
 そうして自覚する。自分はまだ、オトナになりきれていなかった、コドモだ。
「冬実……」
 なんの経験もない姉は何も言うことができず、ただ、膝をついて優しく頭をなでつづけた。
 内心、彼の奥さんもそうだったのだろうか、と思う。
 知っている。彼は隠しているつもりかもしれないけれど、家庭には子供がいるのだ。
 社内の噂が正確ならば、今年で結婚6年目、2歳になる女の子がひとり。自分と知り合った時、既に彼は子供がいたのだ。
 愛されている、と思っていた。彼の奥さんよりも、自分のほうが。彼の子供よりも、自分のほうが。だから彼はここに来て、アキを離さないと必死で訴えて、心から安らげる相手はきみしかいないんだ、と。
 私は彼を愛しているから、許した。
 私を誰が愛してくれる?
 男が他の誰から愛されていようとも。
 私にこそ、彼しかいないのだ。
 昏い思考に落ちていく。
 他人の幸せなんて……知らない。

 泣いて泣いて、ようよう落ち着いて、ベッドに沈むように寝入ってから、どのくらいが経ったのか。
 隣の温もりが規則正しい寝息を立てて緩やかな振動を伝えてくる。
 涙のせいで多少、腫れの残っている目元をやんわりと押さえながら、冬実は首をもたげ、枕元に浮かぶ蛍光の文字盤に焦点を合わせた。
 午前2時。
 室内には壁の低い位置にホタルランプが灯っている。
 冬実は夢も見ずに眠った時のように、妙に冴えた気分で体を起こすと、緩慢な動作でベッドを下りた。静かにリビングを抜けて、トイレに向かう。
 壁のスイッチを入れる。ドアを開けると白々とした光の中に滑り込んだ。
 温水洗浄器つき便座だったことに感謝する。
 妊婦にとっては切実な問題だ。
 それにしても、去年の今頃とはまったく変わってしまった身体が、来年の今頃にはまた違っているなんて、信じられない気がする。
 少し熱っぽい額に自分の冷たい掌を当てて大きく息をつくと、用を足して立ち上がった。
 ぬるり、と……股下に流れ滴る液体の感触に、冬実はぞくりとした。
 初めて異変に気づく。
 ……寒い。
 ずっと、気候に反して暑さを感じていた体が、今、肌を粟立てている。
 焦って下を覗き込んだ。ただの残尿なら、いい。ただの思い過ごし、なら。
 粘りけのある液体はうっすらと赤く。女性ならば見慣れた、血の色。普通のおりものとは色も量も少し異なる。
 冬実は短く悲鳴を上げた。
 ドアの向こうで、姉が起き出してくる気配がする。
 冬実はもう1度便器に腰掛け、震えながら拭きとると後ろ手に水を流し、ストックケースから取り出した夜用のナプキンで押さえて立ち上がった。習慣でおざなりに手を洗う。
「どうしたの? なんか今……」
 ドアを開けると、少々寝ぼけ顔の姉が、首を傾げて立っている。
「助けて、お姉ちゃん助けて」
 それ以外に言葉が出てこない。だがそれだけで、姉の瞳に鋭い光が射した。
 母子手帳なら、ダッシュボードに入っている。診察券も、保険証も。
 秋恵は冬実の話を聞いて車まで走り、部屋に戻ってくると電話線を元に戻した。
 冬実が視線で訊ねてくるが、気づかないふりをして、かかりつけの産婦人科に電話をかけさせる。
 冬実にも本で読んだ知識しかないのだが。
 おそらく破水か、おしるし。出産の兆候にちがいない。
 陣痛よりも先に来る場合がある。ここが奈良県であることを考えると急ぐ必要があった。
 秋恵は髪だけ梳かして手早く着替えると、冷静に冬実の服を空いていたバッグに詰めた。厚めの毛布を1枚掴んで、自分のショルダーバッグも手にする。マンションのキーを電話中の冬実に渡した。来れたらあとから来なさいと。車のキーは握ったままだ。
 車に走って、助手席に荷物を乗せ、後部座席に毛布を敷いた。冬実がくるまって横になれるように。運転席からドーナツ型の座布団を外す。マタニティ用のシートベルト固定具は背もたれにベルトが回されていて、納得、外すのが面倒だ。秋恵はその上に坐ることに決めた。
 羊水が流れ過ぎれば胎内が干からびて胎児が危険にさらされる。
 冬実の感覚ではそこまで深刻ではなくて、まだ時間はありそう、とのことだが。
 救急車は呼ばないと言い張る。そんなものかと思う。お産はかかりつけの病院で。大阪まで今から行かなければならない。
 死にたいのか、あんたは。
 喉から出かかる声を抑え込んで、秋恵は冬実の言うことを聞いた。
 自分はどうあがいても何も知らないドシロウトだ。
 そもそも命を失うことは冬実本人がいちばん恐れている。
 または……秋恵はついつい考えてしまう。赤ん坊は、死んでもいい?
 車内でとんでもない思いつきに呆然としていると、必要な物だけ持って後部座席に冬実が乗り込んできた。
「ごめんねお姉ちゃん、よろしくね。鍵、これ返す」
「道、教えてもらうわよ」
 エンジンをかけた。
 秋恵が運転に数年のブランクがあったことを思い出すのに、時間はかからなかった。
 3人分の命を、乗せて。
 なるようになれ。
 前方には黒いアスファルト、秋恵をリードするように白く延びるセンターライン。
 マンションでは気丈な様子の冬実だったが、ハンドルを切るたびに、すすり泣くような声が漏れ聞こえてきた。
「しっかりしなさい、明日にはお母さんなんでしょう?」
「どうしよう、お姉ちゃん、あたしがさっきあんなこと言ったから? バチが当たったのかな。それとも赤ちゃんが生まれてきたくなくなっちゃったのかな」
 その言葉に、秋恵はひとまず安堵する。無事に産みたいと思っているのだ。未熟かもしれないが母親なのだ。当たり前だ。
「長時間の慣れない道の運転と、環境の変化、感情の変化、そこら辺じゃないのかしら。よく分からないけど」
 ふと、フロントガラスの上部を横切る白い光に気づいてぎょっとした。すぐ正体を確認して胸をなで下ろす。満月だ。街灯のほとんどない、国道へ向かう街路。真っ暗な中を、疾走するヘッドライトと月光だけが周囲を照らす。他に並び走る物の姿はない。昼間でなくて良かった。視覚情報が多すぎれば、事故ってしまうかもしれない。
「台風や満月の日は出産が多いって読んだことがあるわ……生まれるべくして、生まれてくるのかも」
 あんたはよくやってたわよ。
 秋恵はハンドルを握る手が汗ばむのを感じながら、声だけは努めて冷静に響くように、励ますように背後へとこぼした。
 そしてこれは声に出さずに、誓う。
 助けてあげる。
 せめて、自分に関わったひとのことくらいは。
 助けてあげるよ。
 何がどうしてこうなったのか。
 そんなことは分からない。
 胸が、熱く、なった。捨てかけていた、情熱を取り戻す。
「あの時……」
 後ろから冬実の掠れた声が言う。
「友博が言った意味、分かってた。子供ができても大丈夫だよな、って言ったの」
 子供はできないっていう大丈夫、じゃなくて。できてもちゃんとふたりで育てていけるって……そういう意味。
「友博の子だもん、絶対、産む」
 秋恵はしばらく黙っていたが、それきり何も聞こえてこなかった。
「ちょっと順番は違っちゃったと思うけれどね。山粕くんだってお父さんになるんだもの。大丈夫。頑張ってよ」
 そして、真夜中の名阪自動車道を経由し、大阪へとひた走る。


   5.朝焼け


 夜更けの道は車の流れがスムーズだったことも幸いした。
 冬実が3時間かけてきた道を、正味80分というスピードで病院に到着した。入院手続きと親への連絡、分娩監視装置をつけられてベッドに横たわる冬実に付き添い、気がつけば夜が明けていた。飛んできた母親に後を任せたのが、午前7時。
 友博も通勤前に様子を見にくるらしい。大阪の病院にしたのは、それも理由で。
 秋恵も会社がある。電車で間に合うだろう。
 初産は半日前後かかるだろうという話。母体と胎児共に健康、正常分娩でいけると医師は言った。
 そろそろ陣痛が始まっているらしい冬実に、背中をさすって励ましてから、秋恵は病院をあとにした。
 環状線のホームに立ち、ビル群の向こうに垣間見える黄金色の輝きに目を細める。浮かぶ薄い雲の縁が赤い。
 冬の訪れを匂わせる透明な空気を深く吸う。
 今日もいい天気になる。
 乗り換え駅のスタンドで朝食を済ませ、化粧室で顔を洗った。最低限のコスメはちゃんとバッグに入っている。毎朝利用している駅に反対側から滑り込んだ電車を降りると、いつもの時間だった。
 通勤の波に身を任せながら、唇の端で苦笑する。
 なんて非現実的な一晩だったことか。
 でも、現実。
 今日か明日には、新しい命が誕生する。
 ほとんど寝ていないのに軽い足どりで会社に着くと、業務開始時間にかなり余裕があった。制服に着替え、更衣室から出たところで呼びとめられた。給湯室に引っ張り込まれる。
「課長……おはようございます」
 笑みを湛えた瞳を向けて、小首を傾げる。どうしたの?
 対する篠塚の表情は、正反対の苦渋に満ちていた。
「ゆうべ」
 噛みしめた歯の隙間から押し殺したような声が低く流れる。ああ、と秋恵は表情を変えずに相槌で応えた。
「電話つながらなかったでしょう。ごめんなさい、気がつ……」
 両肩に鈍い痛みを感じて、言葉を切る。男の手で強く掴まれていた。
「嘘は言うなよ」
「ちょっと、痛い……別に、私は」
「俺が何も知らないと思ってるだろう。ゆうべ、駅まで行ったんだ。交差点で、見慣れた服を着たアキが車の助手席に乗ってた。ちらっとだったからな。運転席は見えなかった。他人の空似だと言うか? そのあとマンションに行ったら空っぽだった。電話には誰も出ない。一晩、どこにいた?」
 覗き込んでくる、焦燥に怒気を含ませた男の眼。秋恵は肩の痛みに身を捩りながら、言葉を紡ぐ。
「どこにって、昨夜は妹が来て」
 マンションから大阪に……と言ったら、信じるだろうか?
 一瞬の躊躇いを、篠塚は見逃さなかった。激しく誤解を交えた結論に達する。
「妹? 京都にいるっていう? 妹と夜中まで何するっていうんだ? 夜中まで……一晩中……くそっ」
 乱暴に手を放す。狭い給湯室のドアに背を向けて、力任せに壁を蹴った。びくり、と秋恵の表情が凍る。こんな相手は見たことがない。
「さっき、見てたぞ、昨日と同じ服なんか着てきて……偶然か? 昨夜見た服だったよ。今朝、アキの留守電に俺がなんて入れたか、言えるか?」
 待って、それは。
 秋恵の口の中で言葉が声にならない。
「もしかして、あいつか? 噂になってた。アキのことが、――」
 誰の話?
「俺よりは、いいか」
 なんのこと?
「後ろめたさが邪魔しなければ、集中できるもんな」
 不意に節くれだった指が止める隙もなく襟元へのばされ、耳を掠めてうなじを滑り、秋恵は怯えた瞳で首をすくめた。その指が、喉にかかる。親指に力がこもる。一歩後ろへ退くと背広の胸が迫ってくる。思わず両腕を前に突き出すと、下へねじこまれ抱きすくめられた。
「やめて……」
 怖さを紛らすつもりで、言う。
「私のこと、信じてくれないの?」
 嘘? どっちが。子供がいること、知ってるわ。奥さんから毎日無言電話がかかってくる。共犯者だから仕方がないって我慢して。電話まで外すはめになった。私が他の誰かと、何をしてたと思うの。
 ふっと肩の力が抜ける。笑う気配に篠塚は秋恵を離した。
「アキ?」
 勝手に想像して、怒り、今は傷ついた眼に秋恵を映して、しばたく。
 助けてあげる。せめて自分に関わったひとたちのことくらいは。
 苦しめるすべてのものからの、解放。
「別れましょう? もう限界だわ、お互い」
 じゃあね、って、愕然とする篠塚の横を通りすぎ、ドアへ。
「俺のこと……、平気なのか」
「大丈夫、奥さんにちゃんと愛されてるから、」
 ありがとうとは言わない。ふたりの間に流れた時間に、お礼を言う気になんてなれない。
 ごめんなさいも。言うべき相手はここにいない。
「私がいなくても、あなたは死なない」
 男もきっととっくに悟っていたのだ。こういう終わり方をするしかないことを。だから、あれだけ取り乱した。
 それも秋恵のためでなく。
 初めから、愛なんてそこにはなかったのかも。
 なんてあっけない別れだと思った。こんなにも、カンタン。
 さようなら。
 ドアが、そう囁きを残して閉まった。
(了)
(初出:2011年01月)
登録日:2011年01月08日 12時31分
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