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寺尾豊
著者:寺尾豊(てらおゆたか)
1958年東京生まれ。千葉大学工学部画像工学科卒。子供の時からの夢は作家だったが、文学部に進学することを父親に反対され理系の道へ。卒業後、結局エンジニアにはならず、文章を書く仕事につくため日経マグロウヒル社(現・日経BP社)に入社。日経パソコン、日経デザインなどの雑誌で記者や副編集長を務める。映像部に異動後も、日経ビジネスアソシエでエッセーを連載していた。2009年末に退社してからはフリーの映像制作者。
小説/現代

ハザードランプはつけたままで(18)

[連載 | 完結済 | 全33話] 目次へ
やさしくリコに話しかける内村を思い出しジェラシーを感じる奈津美。そのころ内村は仕事でリコを送るところだった。
 奈津美が再び目を覚ましたのは午後2時過ぎだった。頭痛はかなり楽になっていた。すでに内村の姿はない。ドライバーの仕事に出かけたらしい。リビングのテーブルの上にメモが置いてあった。
「冷蔵庫の中のものを好きに食べてください。今晩は深夜1時過ぎには戻れると思います。良太」
 キッチンの奥に小さめの冷蔵庫があり、ドアを開けると、ヨーグルト、チーズ、レタス、トマト、ベーコン、卵がきれいに並んでいた。冷凍庫も同様に、食パンを1枚ずつラップして整列させている。きっと内村はA型に違いない。奈津美は思わず声を出して笑ってしまう。
 勘を働かせて流しの上の収納棚を開けてみると、パスタが見つかった。すでに封を切ったものがあり、端を丁寧に折り畳み、洗濯バサミで止めている。その脇にはスパッゲティー用のレトルトソースのパッケージがあり、5種類を2つずつそろえている。あまりの几帳面さに、あきれるばかりだ。その中からボロネーゼを選んで、奈津美は食べることにした。冷蔵庫の中のものではないが文句を言われることはないだろう。
 テレビのスイッチを入れる。ドラマの再放送にチャンネルを合わせる。パスタの茹で時間を気にしながら、ぼんやりと眺めている。いきなり、若い女性がナイフで刺されるシーンになる。犯人はストーカーらしい。「男をその気にさせておいて、急に冷たい態度を取るから自業自得じゃない」と誰に聞かせるわけでもなく奈津美はつぶやく。その瞬間、鍋からお湯が吹きこぼれ、あわててガスの火を小さくした。はねた熱湯で右手の甲に火傷をする。大ざっぱで不注意な自分。内村はこの先も受け入れてくれるだろうか。小さな不安が胸の奥で生まれた。
 つい後ろ向きな気持ちに奈津美がなるのには、もう一つの理由があった。内村とリコが、いまごろ仲良く話しているのではないかと想像してしまうからだ。昨日から何度も、内村と奈津美はお互いの体を確かめ合ったが、心の距離は縮まった気がしない。自分に見せたことのないような笑顔で、やさしくリコに語りかける内村の姿が頭の中に浮かぶ。これほどのジェラシーを感じたのは初めてのことだった。いまの恋人の祐太郎が、どうやら別の女の子とデートをしたらしいと分かっても、気づかないふりをしていた。実際に腹立たしくもなかったのだ。こんな苦しい気持ちになるぐらいなら、内村と出会わなければ良かったとさえ思う。

 奈津美が内村のマンションで悶々としている頃、内村の車にリコの姿があった。六本木のマンションに住む客から指名の電話が入り、内村が送迎する車に乗り込んだところだった。
「あれ、リョータ。本当にドライバーしているんだね」
「昨晩はつき合えなくてごめんな。そうそうあれから銀座線で君のことを見かけたよ」
「うそでしょ。知らないよ」
 リコは見え透いた嘘をついた。本当は内村と目が合ったことも覚えている。
「おいおい、いくら何でも見間違わないよ。俺はカメラマンなんだぜ」
「じゃあきっとドッペルゲンガーだね」
 同じ人物が同時に複数の場所に姿を見せるという専門用語を、リコが使ったのが意外で内村は目を丸くする。
「ずいぶんと難しい言葉を知っているじゃないか」
「バカにしないで。それとも流行りのバイロケーションとでも言えば良かった?」
「まあ、とにかく、あくまでも君は銀座線の中にいなかったと言い張りたいんだな」
「言い張る? 実際にいなかったもん。竹川さんに聞いてみて、あの時間、お客さんのマンションに行っていたんだから……」
 内村は次第に自信がなくなってくる。もしかしたら本当に他人の空似だったのか。それとも銀座線の中で自分を睨んでいたリコが、自分の幻視の産物だったとしたら恐ろしい。奈津美という30も年下の女性と仲良くなること自体、本来はあり得ないことなのだ。頭の回路がどうかなっていて、妄想の波に自分が溺れていることに気づかないでいたとしたら、こんな不幸はない。何が現実で何が妄想か。この世のあやうい淵をたどっているような気がして背筋が寒くなる。
「道が混んでいるね」
 リコが沈黙を破る。道玄坂でハザードランプをつけたままリコと話をしていたが、そろそろ出発しないと遅れてしまう。
「いま車を出すよ。後でゆっくりと話そうか」
「このまま、お客さんのところに行くのを止めてリョータのマンションで話してもいいよ」
「そうはいかないよ。リコは店にいられなくなるぜ。おれだってドライバーの仕事がなくなる」
「そうだね。それに、昨日の彼女が家にいるんでしょ?」
 内村はまた無言になる。分かりやすい反応にリコは笑いをかみ殺している。
「信じられないねえ。こんな初老の男に、だれもが振り返るような若い女の子がくっついているなんてさ。きっと、セックスを覚えたての若者みたいに、何度も彼女とエッチしたんだろうね」
 図星だった。自分にまだ、あんなに性欲が残っていたとは思ってもいなかった。それも大人の魅力にあふれた成熟した肉体ではなく、まだ色づく気配さえ見せない青い果実を、飽きることなく何度も味わった。もしかすると若さに対する嫉妬が、自分の中でくすぶっていた本能に火をつけたのかもしれない。過去には戻れないが、現実をごまかすことはできる。偽りの愛であったとしても、いまの内村に力を与えてくれるのは確かだった。
 車は六本木の交差点にさしかかる。リコは内村を怒らせてしまったと思っていた。先ほどから一言も口をきかなくなったからだ。
「ごめん、リョータ。少し言い過ぎたよ」
「えっ?」
「だって、ずっと黙っているしさ、怒っているんでしょ?」
「いいや、ちょっと考えごとをしていたんだ。リコは何も悪くないよ」
「そう? だったらいいけれど……。私、やっぱり今日は早めに上がるから、リョータと真面目な話をしたい」
「それはまずいと思うよ。竹川さんの話では、夜まで予約で一杯だっていうし、おれだって、こうやって送迎しなくてはならないんだからさ」
「ああもうやだな。私がいけないんだよ。あの日、素直にリョータのマンションに帰らなかったからさ……」
 リコが途中から声を詰まらせる。内村がルームミラーを確かめると、リコは上を向いて泣いていた。
「おいおい、これからお客さんのところへ行くのに泣いていたらだめじゃないか」
「冷たいな、私にもやさしくしてよ」
 それだけ言い放つと、リコは声を出して泣き始めた。後ろから涙を拭くのに使ったハンカチを投げつけられる。あわてて内村は車を道の端に寄せる。
「困ったな。お客さんのところへ行ける状態じゃないね。おれから竹川さんに電話をしようか?」
 リコはうなずいた。気が重いが仕方がない。ワンコールで電話はつながった。
「もしもし良ちゃん、いずみは客のところへ行ったの?」
「それがどうも具合が悪くなったらしくて、行ける状態じゃないみたいで」
「ああ、そう。分かった。お客さんにはこちらから電話をして謝っておく。悪いけれど、良ちゃんの車で休ませてあげて。出勤したときから様子が変だったのよ。精神的なものかもしれないわね。面倒かけるけれど、彼女の相談に乗ってあげて。あなたなら安心だからさ」
「はあ、構いませんけれど、ドライバーの仕事はどうしましょうか?」
「ほかのキャストは渋谷周辺にしか派遣しないから大丈夫。いずみに辞められると、こちらも困るからお願いね。送迎の仕事じゃないけれど、ギャラも考えておくから」
「分かりました。しばらく、六本木で待機しています」
 内村は車のエンジンを切ると、リコが座る後席へ移動した。スモークを貼っているので外から見えることはない。駐車違反の係が来たら、車を移動させればいいと考えていた。リコは内村のほうを見ようともせず、車窓に寄りかかり目をつぶっていた。
 内村はリコが口を開くまで、辛抱強く待つことにした。だが、沈黙は1時間近く続いた。ハザードランプをつけたままだったので、バッテリーがあがらないように再びエンジンをかけることにする。
 運転席に座り直して、ふと前を見ると、目の前の歩道橋を降りてくる奈津美の姿があった。本当は声をかけたかったが、リコの手前そうはいかない。奈津美は歩道橋の前に立つマンションのエントランスに消えた。おそらく、いま一緒に住んでいる彼の部屋へ向かったのだろう。内村の胸が少しだけきしんだ。
「ねえ、いまマンションに入って行った女の子、リョータの彼女だよね」
 リコはしっかり目撃していた。
(つづく)
(初出:2014年02月27日)
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登録日:2014年02月27日 17時05分

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