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寺尾豊
著者:寺尾豊(てらおゆたか)
1958年東京生まれ。千葉大学工学部画像工学科卒。子供の時からの夢は作家だったが、文学部に進学することを父親に反対され理系の道へ。卒業後、結局エンジニアにはならず、文章を書く仕事につくため日経マグロウヒル社(現・日経BP社)に入社。日経パソコン、日経デザインなどの雑誌で記者や副編集長を務める。映像部に異動後も、日経ビジネスアソシエでエッセーを連載していた。2009年末に退社してからはフリーの映像制作者。
小説/現代

ハザードランプはつけたままで(20)

[連載 | 完結済 | 全33話] 目次へ
奈津美はつきあっていた彼氏の部屋にいた。別れ話を切り出すが、男の態度に感じるのは後悔しかなかった。
 昼過ぎに降り出した雨は夕方から強くなり、夜には傘を差していても濡れるほどになった。内村の車は中目黒の路上でハザードを点灯していた。リコを客のマンションまで送っていき、そのまま彼女の仕事が終わるのを待っている。退屈ではあるものの、悪くない時間だった。エリック・サティを再生してみたが、雨音に邪魔されて、はっきり聴こえない。仕方なく、カーステレオのスイッチを切る。
 腕時計に目をやると、21時半を回ったところだ。あと20分間は待機する必要がある。リコはこれで上がりだが、内村のドライバーとしての仕事は明朝までの約束だった。
 奈津美のことが急に気になる。もうマンションに戻っただろうか。電話をしようとして止めた。60分のプレイ時間を早めに客が切り上げることがあり、いつリコが車に戻ってきてもおかしくなかったからだ。奈津美との会話をリコが中断するような状況にしたくない。それでも一度、気になり始めると、奈津美のことばかりが頭の中を占める。
 平穏な時間に一滴のシミがついた。雨から遮断されているはずの車の中で、窓ガラスの端からしみこむ漏れに気づいたような気持ちになった。

 その頃、奈津美は渡辺祐太郎の部屋にいた。
「なっちゃん、がっかりだよ。話し合いをしようと言ったはずだぜ。それなのに、荷物がすっかり片付いているなんてさ」
 祐太郎がいない昼間のうちに、奈津美は祐太郎の部屋に置いてあった自分の荷物のほとんどを、内村のマンションに移動させていた。八王子の実家や、大学から近い稲毛に借りている部屋で過ごすことも多く、改めて確かめてみれば、祐太郎の部屋に置いてある私物はスーツケース1つと大きめのボストンバック1つ分しかなかった。
「ゆうちゃん、ごめんね。でも、もう一緒に暮らすのは無理だと思う。お互いにすれ違いだったじゃない?」
「そうかな。確かに俺は3年だから、学部のゼミ活動やなんかで忙しかったけれどね」
「それだけじゃないよ。私は翌日、朝一番の授業だから稲毛に戻りたかったのに、ゆうちゃんが早く帰るから一緒にご飯食べようって言ったことがあったのを覚えている? でも朝まで戻らなかった。後で花歩から聞いたけれど、渋谷の円山町でショートカットの女の子と2人で歩いていたって……」
「はあっ、何を言い出したかと思えば」
 祐太郎の顔面が紅潮している。不意を突かれて、それでも言い訳をしようと必死になっている。
「見間違えだよ。俺みたいに薄い顔って暗いところで見ると他人に見えるからさ。あの日は、急にバイトの先輩に呼び出されて、なかなか連絡できなかっただけだよ」
 奈津美は祐太郎の口が動くのをじっと見つめていた。自分の唇を舌で何度もなめながら話している。嘘をつくときの彼の癖だった。まさか、ここまで別れ話がこじれると奈津美は想像していなかった。もっと、あっさりと「じゃあ、お互いに元気でいよう」とでも言って、すぐに部屋を後にできると考えていた。
『どこで計算を間違えたのだろう』
 奈津美は心の中で同じセリフを繰り返していた。
 大学入試センター試験のとき、数学の問題でミスに気づき、急いで直そうとしたときのことを思い出す。結局、あわててしまい他の問題も間違える。数学で満点を取っていれば、東大に出願するつもりだった。めでたく合格していれば、祐太郎との出会いもなかったに違いない。ほんのちょっとした間違いが、その後の人生を狂わせてしまう。
「なっちゃんこそさ、ほかに好きな男ができたってことだろ?」
 奈津美は素直にうなずいた。ここで隠しても仕方がない。自分の浮気を棚に上げて「なっちゃんこそ」と話す祐太郎が気に喰わなかったが、言い争いは時間を無駄にするばかりだ。
「やっぱりね。そうだと思ったよ。人の気持ちは変えられないから別れてあげるよ。でも、俺のことが恋しくなって戻ってきても、新しい彼女がいたら受け入れられないからね」
 奈津美はがっかりしていた。祐太郎がここまで幼い男だったとは知らなかった。ますます気持ちが覚める。
「俺には当然、尋ねる権利があると思うけどさ、なっちゃんが好きになったのは、どんな男? 千葉大の同級生かな」
「答えたくない。ゆうちゃんと別れるなら関係ないでしょ」
「1年近く、一緒に暮らしていたんだぜ。教えてくれたっていいじゃない」
「いやだ。それに聞いてどうするの?」
「その男が奈津美を大切にしなかったら殴りに行く」
 もはや完全に論理は破たんしている。祐太郎が不誠実であるために、奈津美は内村が好きになったのだ。自分の至らなさを反省せずに、奈津美の新しい彼氏に対して上から目線で何か語ろうという祐太郎の神経が分からない。計算ミスどころではない。なぜ、こんな男に処女を与えてしまったのか。奈津美の人生に、もう一つ、後悔が加わった。
「もう、いいよ。遅いし帰る」
「待てよ」
 祐太郎は声を荒げて、奈津美の前に立ちふさがる。奈津美は恐怖を感じていた。祐太郎の目は怒気に満ち充血している。この場を去らなければ傷つけられるかもしれない。だが、どうすればいいかが分からない。
 奈津美がおとなしくなったのを見計らって、祐太郎がいきなり抱きついてきた。いつもよりはるかに強い力で逃げられない。そのままベッドに押し倒される。
「ちょっと、やめて」
 必死になって奈津美は声を出したが、祐太郎は無言だった。ここしばらくはセックスをしていない。自分の体に無関心だったはずの男が、急に欲望のままに関係を結ぼうとしている。性欲ではなく、征服欲に突き動かされているのだろう。奈津美は悲しかった。だが、これで別れてくれるなら、我慢をするしかないと判断した。
「お願い。やさしくして」
 祐太郎の動きが落ち着いた。奈津美の髪を撫ぜ、唇を寄せる。味のないキスだった。相手が内村だと自分を錯覚させようとしても、祐太郎と内村では口づけの仕方が違う。もし、自分があのままデリヘルに勤めていたとしたら、こんな味のないキスを何百回と繰り返さなければならなかったのかと考えるとぞっとした。人間が相手ではなく、ロボットとしているような悲しさがあった。
 しばらくして、奈津美は胸に痛みを覚える。祐太郎は奈津美の白い胸に、いくつものキスマークをつけようとしている。奈津美が別の男に抱かれることを想像して、自分の知らないその男に「お前は俺のお古を手にしたんだよ」とメッセージを残すつもりだ。
 奈津美はシャワーを浴びに行くまで、祐太郎の愚行に気づかなかった。ベッドに祐太郎を残し、洗面所で自分の姿を見たときにはっとする。左右合わせて5つ。少し紫色を帯びた内出血が、奈津美の胸に赤いシミとなって残されている。しばらくは内村に胸を見せられない。祐太郎のひどい仕打ちに抗議する元気もない。彼の唾液でべとべとになった体を早く洗い流したかった。無駄を承知で熱いシャワーを胸へ当ててこすってみたが、赤いシミは消えなかった。涙が止まらない。
 祐太郎はいびきをかいて寝ていた。服装を整えて、奈津美はマンションを後にする。いくつかはあったはずの祐太郎との楽しい思い出も、洗い流されて排水溝の奥に消えた。
 奈津美は麻布十番の内村のマンションまで、歩いて帰ることにした。ネオンがにじんでいる。雨のせいか、涙のせいかは分からない。普段ならすぐに寄ってくる水商売のスカウトたちも、奈津美のただならぬ雰囲気を察して遠巻きにしている。
「リョータ、早く会いたいよぉ……」
 いつのまにか奈津美は声を出して泣いていた。
(つづく)
(初出:2014年03月06日)
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登録日:2014年03月06日 12時24分
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