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天野雅
著者:天野雅(あまのみやび)
埼玉県生まれ、千葉県育ちの関東人だった。結婚を機に関西の人間になる。現在は関西とも東海ともいえる近畿地方に在住。10年経って方言にも慣れた。血液型はマイペースで知られるB型。住めば都を地で行く性質。ネット作家歴20年。同人作家歴はプラス5年。趣味は映像鑑賞。写真撮影。歌唱。創作料理。好物は自然万物一般。美術芸能一般。パソコン。ゲーム。漫画。文章。
小説/現代

黒い河

[読切]
静かで清らかな町に生まれ育った私が、都会の散歩道で出会った黒い影。彼は言いました。「久々の獲物だと喜んだのに、つまらねー。女、尻こ玉の代わりくらい持ってこいよ」驚きつつも彼の話しにつきあった私の視界は涙に霞むのでした。
 私は清流のそばで生まれ育ちました。
 小川には丸太の一本橋がかかり、鏡のような水田に春は蛙の鳴き声が、秋は赤とんぼの群れが季節の風物詩を添えるような、そんなのどかな場所です。
 渓谷をくだると古びたダムがそびえています。透明な三日月のような湖は町いちばんの観光スポットで、夏は都会から観光客がたくさん訪れては、蛍の乱舞に驚喜するのです。
 年頃の私は、そのうちのひとりの青年と出会い、結婚して、都会へと移ることになりました。
 町から出るのは初めての経験でした。見る物聞く物すべてが珍しく、そんな私をおもしろがって、夫も私が毎日のように近所を散歩することを勧めてくれました。夜、仕事から帰ってきた彼に発見したことを話すのが日課です。晴れた日は自転車で風をきりながら、雨の日は傘をさしてゆったりと家の周辺を歩き、私は少しずつ、せわしなく車の行き交う都会の空気に慣れていきました。
 私達の新居は、公団住宅の立ち並ぶ灰色の壁に囲まれた一角です。自転車で10分ほどのところにモノレールの駅があり、夫は毎朝そこから会社へと出勤していきます。私は小さな部屋の中をひととおり綺麗にします。天気のいい日は洗濯を済ませたあと、ベランダで布団を干して、夫のシャツにアイロンをかけ、たいていは夕方から外へ出かけます。
 夫の話では、都会といってもこの辺りは都心からだいぶ離れた市街なのだそうです。けれども私の見なれた田畑や雑木林や原っぱはありません。花が咲くのは手入れの行き届いた四角い花壇のなかか、団地の真ん中にある狭い公園の周囲だけです。
 最初はどれも似たような箱型の建物の整列した風景に、迷子になったりしましたが、やがて道を覚え、ある時は通りがかりの老人に尋ねられて手を引き案内したりもできるようになりました。
 敷地から大通りへ出て、東へ行けばモノレールのガード下に連なる商店街、西へ行けば大型トラックがひっきりなしに走っている高速道路へのバイパスです。
 その日、私は初めてバイパスの歩道橋を越えて、向こう側へと足をのばすことにしました。そろそろ梅雨も明けるかという、小雨のぱらつく木曜日。午前中から暇になってしまって時間はたっぷりありましたし、特売をしている店もなく、急いで買い物する必要もなかったのです。
 昼間だというのに厚く翳る雲の下で景色は薄暗く、車道へと続く道を歩いているのは私くらいです。道端に残る水溜りを蹴散らして走り去る地方ナンバーのトレーラーや、タイヤをいくつもつけたタンクローリーが次々と流れていく様子をのんびりと見下ろし、しばらくのち眺め飽きてバイパスを渡りきると、信号もない、うっかりすると見落としてしまいそうな細い路地へと自然に足が向きました。
 いつしか舗装も途切れ、左右に破れかけた板塀ばかりが延々とのびる砂利道は、私ひとりの広げた傘でいっぱいになってしまうほどの幅しかありません。
 板塀の向こう側は草原でしょうか? でも雨に濡れた草の匂いはしません。立ち止まって背伸びしても、私の身長では上から覗くことはムリでした。なんとなく途切れている隙間を探しながら歩いていくうちに、塀も道もなくなり、唐突に下草のびっしり生える広場のような場所に出ました。初夏の草木が発する独特の匂いがかすかに漂っています。
 遠く、いくつもの煙突が空へ競うように天を突く赤茶けた色の建物がたくさん建っています。
 やみそうでやまない雨のなか、左右を見渡すと、塀の向こう側には鉄骨の剥き出しになったコンクリートブロックの瓦礫の山と、焦げたような砕けたセメントの散乱する空き地が見えました。
 私は途切れた道から、目の前の荒れ地へと歩き出そうとして、足を止めました。何か変です。ゆるやかに傾斜のかかった地面に視線を這わせると、下草の隙間に鈍く光る水面が見えました。
「おい、桃色の蛇の目の女。何しに来た?」
 驚く隙もありません。不意に右手のほうから声がしたかと思うと、雨粒の簾の向こうに、黒い影がゆらりと立ちあがったのです。
 声は子供のように甲高く、けれども語尾が気味悪くしゃがれていました。黒い影は小柄な私の胸ほどの高さしかありません。こちらを透かし見るように立ったまま、それ以上近づいてこようとはしませんでした。声だけが続けて私に呼びかけてきます。
「久々の獲物だと喜んだのに、つまらねー。女、尻こ玉の代わりくらい持ってこいよ」
「ご、ごめんなさい。ここに川があったなんて、知らなかったものだから……」
 私はつかえながら、ようやくのことで言いました。影は、河童だったのです。河童の好物といえば、人間の尻の穴からとれる肝か、新鮮な胡瓜と相場が決まっています。
「知らなかっただあ? 女、ボケてるんじゃねえぞ」
 声は不穏な響きを帯びましたが、河童はすぐに「しゃあねーな」と呟き、足もとの草をかきわけるようにして濡れた地面に坐りこんだのです。
「ま、いいや。最近、人間の姿も遠のいちまって、退屈してたのさ。女、少し喋っていけよ」
「ええ」
 私は軽く頷きました。でも河童のように坐りこむわけにもいかず、立ったままでいました。
「女、見ない顔だが、どこから来た?」
 私は村の名前を答えました。けれどこの場所を棲家にしている河童が知るはずもない遠い場所です。私は「たぶん、この川の上流です」とつけ加えました。
「ほーん」
 河童は感心したように相槌を打ちました。
「上流からは、釣り人の棄てたテグスがたくさん流れてきてよお、おいらの指は、ほれ、この通りさ」
 河童は片腕を持ち上げたようでした。目を凝らすと、どうやら大きな指の間にあるはずの水かきが破けてしまって、ところどころ細い光の筋が見えます。
「痛そう……」
「こんなとこ痛かねーよ、ただ稚魚を掬いづらいんだな」
 河童はつまらなそうに言いました。
「だけどなんだな、そんなふうだから上はさぞかし酷い有り様だろうと思っていたが、そうか、まだ綺麗なのか」
 私はなんとも答えられませんでした。ここに流れているのは、汚泥に澱んだ黒い川です。いったい、どこでこんなふうに汚れてしまったのか、私には見当もつきません。私の村では、確かに深い底の石まで見える澄んだ川なのです。
「ここから引っ越さないのですか?」
 私が遠慮がちに訊くと、河童はひきつったような声で笑い出しました。
「そうさなあ、今はここにいるのはおいらだけ、こんな水には未練もないが、もうダメなのさ。体が汚れ水に馴染んじまってよお、今日みたくちっとでも水が薄まると、却って苦しくなって潜っていられねえ」
 体、というところで、河童はぐいっと腹のあたりを突き出しました。私はびっくりして無言のまま目をみはりました。河童の体は、目の前の川と同じ、真っ黒になっていたのです。
 黒い河童は絶句している私にガラス玉みたいな瞳を向け、片手を振って、私の同情の視線を拒みました。どんな感情も洩らすまいとするかのように。
「もうずっとこうさ。なんとも思っちゃいねえよ。別にな」
 痩せた腕を頭の皿に持っていき、ぴたぴたと地面から水溜りの水で満たしながら、ただな、と顔を遠い煙突の林立するほうへ向け、
「これ以上は、何も変わらねーといいなと思うけどよ」
 結構静かで快適なんだよ、と河童はひきつれた声で言いました。笑っていたのかもしれません。
「それにこれからは、たまにあんたが来てくれりゃ、そうそう退屈にもならねえってものさ」
 私は返事ができませんでした。真っ黒な河童にしょっちゅう平気で会いに来られるかどうか、自信がなかったのです。
「ま、いいさ」
 河童は私の言葉を待たず、あっけらかんと言うのです。
「おまえさんの邪魔はしねーよ。お互い、自分の好きなように過ごすさ」
 それが河童の生きる道ぃ、と妙な節をつけて口ずさむと、河童はぱしゃんという水音を残して姿を消しました。一瞬のことでした。
「こ、今度は、おみやげ持ってきますから」
 私は黒い川に向かって慌てて声を張り上げました。もう、河童は底まで潜ってしまったでしょうか?
 すると、抑揚を消した声だけが、辺りに響きわたりました。
「女、ここに居続けるなら、いずれおまえも黒くなる。嫌なら故郷に帰るんだ」
 それは忠告だったのか、脅しだったのか、私には分かりません。
 私は夫を愛していますし、もとより、都会で暮らすことのリスクは覚悟のうえで、ここまで来たのです。今さら郷里へ戻って何になるでしょう。
 けれども黒い河童の姿が目に焼きついて離れません。
 たまらなくなって傘を下ろし、涙でかすむ視界を雨のせいにしようとしました。
 嗚咽をこらえながら歩く私の頭上から、自然の恵みと呼ばれるはずの雨粒が降りそそぎます。ほこりと煤煙と排気ガスの混じった水を、まだ汚れていない頭の皿に受けながら、私は家までの道を戻りはじめました。
(了)
(初出:2001年06月)
登録日:2010年08月13日 15時41分

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