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浅川こうすけ
著者:浅川こうすけ(あさかわこうすけ)
猫が好き。毛がつやつやの黒猫が特に好き。自分で飼ってるわけではなくて人様の猫相手に猫じゃらしを振ったりしています。でも本心では、自分自身が猫じゃらしにじゃれつきたいのです。時間やしがらみを忘れて一心不乱にじゃれつきたいのです。猫じゃらしを振っているのが美しい奥方ならなお嬉しい。――と、こんなことを真顔でいう30代の未婚男子でございます。
小説/現代

女神の微笑

[読切]
イルカといわれて思いつくのはひとつだけだった。水族館に遊びに行ったときに買ったお皿――真ん中に大きなイルカの絵か書かれたお皿しかない。食器洗い機のせいで消えてしまったイルカの絵を復活させようと、梶並は奮闘する。しかし、出来上がった絵は……。
 石川小枝子《いしかわさえこ》が声をあげて泣いていた。
 毛足の長いじゅうたんに、足をくずして座りこみ、涙を流して泣いていた。天井からの明かりが、泣きじゃくる彼女を照らし、まるでスポットライトのようだった。
「さ、小枝子!?」
 梶並弦《かじなみげん》は靴をはね飛ばし、リビングへと駆けこんだ。小枝子の肩を抱き、
「どうした!?」
 むせぶ小枝子が首をふった。長い黒髪がゆれ、涙がじゅうたんに降りちる。
 梶並は、まずは自分が落ちつくべきだと、息をすいこみ唇をなめた。
「どうしたんだ、小枝子」
 梶並本人すら、びっくりするくらいのやさしい声がでた。
 小枝子が震える指先をキッチンのほうへむけた。目で追うと、そこにあったのは、
「食器洗い機?」
 梶並は首をかしげた。
 小枝子が笑うと、視界いっぱいに花畑がひろがるのだった。良家の長女で、ずっと箱入りで育てられたからだろうか、その無垢な笑顔は、何物をも吹き飛ばすほど輝くのだ。その無敵の笑みを泣き顔にかえたのが、食器洗い機だとは。梶並はわけがわからず眉をひそめた。
「お、お皿、が……」
 多少、落ちついたのだろう。小枝子がしゃくりあげながら、涙をぬぐった。
「イ、イルカが、消え……」
「は?」
「イルカが消えちゃったのよお」


 イルカといわれて思いつくのは、ひとつだけだった。
 数日前、大学も試験休みにはいったので、ふたりで水族館に遊びにいったのだ。イルカのショーを見て、「かわいい、かわいい」と小枝子は少女のようにはしゃいでいた。出口近くにある売店でも、彼女はイルカの描かれた皿を買っておおいにはしゃいだ。
 小枝子の嬉しがりようを見ると、梶並はその皿が安物だとはいえなかった。真ん中に、デフォルメされたイルカがおおきく描かれている。たったそれだけで、彼女は上機嫌なのだ。部屋に帰ってくるまで、ずっと胸に抱きかかえるほどに。
「イルカさんが消えちゃったよお」
 グラスの水を一口飲んだあと、小枝子がしなだれかかってきた。
 テーブルのうえには、水のはいったグラスと、白磁の皿が一枚のっていた。この白磁の皿、ほんとうなら真ん中に、おおきくイルカが跳ねているはずだった。
「あのね、このお皿使ってみたかったの。フレンチトースト食べたのね。汚れたから、食器洗い機にできれいにしようと思ったの。そしたらね……」
 食器洗いの洗浄能力が予想以上で、汚れだけでなくイルカさえも落としてしまったということだった。
 食器洗い機は、専用洗剤と熱湯の水流で汚れを落とす。人間が手で洗うよりも、よっぽど強力な洗浄能力である。安物の皿の絵柄など、ひとたまりもなかったのだろう。
 ずっと娘を箱入りで育てた彼女の両親が、娘のひとり暮らしをあんじて、大学入学のときに買いあたえたものだそうだが、今回限りはあだになった。
「大丈夫だよ。また買ってくるから」
「だめ!」
 小枝子がほおをふくらませた。
「このお皿じゃなきゃいやなの!」
 あまりの剣幕に、梶並は上半身をのけぞらせた。
「ち、ちょっと落ちつけって」
「だって……このお皿はげんちゃんとの思い出だもの」
 さっきの剣幕はどこへやら、小枝子がまた涙ぐんだ。
 梶並も鼻の奥がツーンとした。皿じゃない。皿じゃなかった。大事なのは自分との思い出なのだったのだ、と。胸がきゅっきゅっとしめつけられた。
「よし、まかせろ! この皿にイルカを復活させる」
「ありがとう、げんちゃん」
 小枝子が笑った。花畑にいるほうがにあっている。いや、彼女の笑顔こそが一輪の花であった。


 梶並は一心不乱にこめかみを押さえた。まるでそこに、見えないボタンがあるかのように。
 いつもと同じ自分の部屋だが、テーブルの上にはあの皿と、絵具セットがつまれていた。壁にかかった時計を見上げると、すでに深夜をすぎている。
 小枝子にイルカの復活を誓ってから、すぐに彼女の部屋をでた。もうそのときは、皿を元にもどすことで頭がいっぱいだった。ちょうど隣室のおばちゃんがでてきて、
「あら、こんにちは。若い人たちはいいわねえ、おほほ」
 というようなニュアンスのことをしゃべっていたと思うが、ほとんど記憶にないほどだ。なんと受け答えしたか覚えてないのは不安だが、次にあったときにでもあやまればいいだろう。
 帰途、大手の文房具屋により、イルカを描く道具は調達済みだ。店員に事情を説明すると、アクリル絵具をすすめられた。素人にはおすすめできないといわれたが、たりない腕は愛でカバーだ。
 そのアクリル絵具、まだ開封されてはいなかった。
「うむむむむ。あともう少し」
 すでに三時間近く、梶並はこめかみを押さえつづけていた。皿がどんなデザインだったのか、思いだせないのだった。おぼろげながらは覚えているが、それでは足りない。目のまえに、そのイルカの姿が見えるくらいでなければならない。
「この梶並弦、小枝子のためならどんなことでも実現する」
 いままで以上の力で、こめかみを圧迫した。記憶を呼びおこす独特の手法だった。指の力と愛の力が、究極の指圧を生み、次の刹那、
「でた!」
 と、梶並は快哉を叫んだ。電光石火で絵筆を用意し、白磁の皿へと走らせる。一心不乱に手を動かし、死に物狂いで絵具をのせる。網膜からイルカの姿が消えようとすると、こめかみに究極の指圧をほどこす。そのくりかえしは、まさに奇妙奇天烈摩訶不思議。
 だが、もっとも不思議なのは……。
「なんじゃこりゃ」
 梶並は皿の上のイルカ――のようなものを見て頭をかかえた。
 もっとも不思議なのは……。
「どうしよう……」
 梶並はあお向けに寝ころがった。窓から朝日がさしこみ、朝のおとずれをつげていた。
 不思議なのは……。
「こまったぞ」
 梶並のまぶたがゆっくり落ちた。徹夜作業のあと、集中力が切れたころを襲ってきた睡魔。抵抗できようはずがなかった。部屋を支配するのは、静かな寝息だけになった。
 机の上にある皿には、不思議なことに、ブタの顔をもつイルカが描かれていた。


 梶並弦は腹のすいた熊のように、ドアの前をいったりきたりしていた。ドアにはられたプレートには、石川小枝子と書かれている。もうそろそろ十分がたとうとしていた。左手にさげた紙袋の中には、例の皿がいれられているのであった。そりゃ、躊躇もしようというものだ。
「あら、こんにちは」
 ふいに声をかけられ、梶並はまがった背をピンとのばした。ふりむくと、隣室のおばちゃんが立っていた。
「あ、昨日はどうもすいませんでした」
 梶並は頭をさげた。昨日は皿のことで頭がいっぱいで、記憶が曖昧模糊としていたのだ。なにか失礼があったかもしれない。
「あら、いいのよお。おほほ。それより」
 おばちゃんが声をひそめた。
「昨日、あなたが帰ったあと、石川さんの部屋ですごい音がしてたわよ」
「音、ですか?」
「うん、そうなの。あなたたちのことだから、ケンカしたとかじゃないんでしょ?」
「ええ、まあ、はい。ケンカはしてません」
「そうなの。よかったわ。石川さんの部屋で聞こえたっていうのは、わたしの気のせいかもしれないし」
 じゃあ、わたしは卵の特売があるから。そういっておばちゃんは、回れ右して去っていった。
 梶並はひとつおおきなため息をつくと、呼び鈴を押した。タイミングよく、おばちゃんが話しかけてくれたのは僥倖だった。
「は〜い」
 ドアのなかから、そう声が聞こえ、
「げんちゃん?」
「うん、そう」
 ドアがすんなりあいた。小枝子が満面に笑みを浮かべてむかえてくれた。天上の女神も、きっとこんな笑みなのだろう。
 梶並は部屋にはあがらず、紙袋から皿をとりだした。
「これ、一応、描いたんだけど……」
 おそるおそる、皿をさしだす。真ん中で跳ねているのは、ブタイルカ。
「ありがとう!」
 小枝子が皿を胸にだき、極上の笑みを浮かべた。
「え? でも、こんな絵で……」
「でも、げんちゃんが描いてくれた絵だもん。思い出のお皿に、げんちゃんが描いてくれた絵。最高よ〜」
 梶並は天井をむいた。あふれる涙を流れさせないためだった。格好が悪いとか、不恰好とか関係ないのだった。思い出、そう思い出が大事なのだった。
「小枝子!」
 梶並は小枝子を抱きしめた。思いのたけをすべてこめて、力のかぎりだきしめた。
「痛いよ。げんちゃん」
「ご、ごめん」
 梶並ははじかれたように小枝子をはなした。ふたりの目があい、どちらからともなく苦笑がうかぶ。
「さ、はいって。お茶でもいれるから」
 小枝子にさそわれ、梶並は室内にはいった。おやっ、と思ったのはいつもの位置に座ったあとだった。食器洗い機が見えなかったのだ。
 小枝子に聞こうと声をだしかけたとき、シンクの影になにかがあるのが目のはしにとまった。無視してもよかったのだが、なにかがざわついた。横目で盗み見ると、小枝子はポットにむかっていた。
 梶並は席を立った。シンクのそばまでよっていく。
「あ」
 小さく声がもれた。シンクの影に隠れていたのは、ぐちゃぐちゃにつぶれた食器洗い機であった。
「それね」
 小枝子の声が背中にあたった。まがうことない戦慄が、実感をともなって背筋をつらぬく。
「げんちゃんが買ってくれたお皿なのに、だいなしになっちゃったでしょ。わたしとげんちゃんの思い出を壊すようなことするものは、ゆるせなくっておしおきしちゃった」
 梶並は機械仕掛けのようにふりむいた。
 小枝子の無垢な笑みが、何物をも吹き飛ばすほど輝いていた。
(了)
(初出:2003年08月)
登録日:2010年06月14日 23時03分

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