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北岡万季
著者:北岡万季(きたおかまき)
猫科ホモサピエンス。富士山の麓で生まれ、瀬戸内海沿岸に生息中。頼まれると嫌と言えない外面の良さがありながら、好きじゃない相手に一歩踏み込まれると、一見さんお断りの冷たい眼差しを、身長165センチの高さから見下ろす冷酷な一面も持ち合わせる。これまで就いた職業は多種多様。現在は娘の通う私立小学校の役員をしつつ、静かに猫をかぶって専業主婦として生活している。
小説/現代

緑の日々

[読切]
結婚に恋していた郁子は、恋人だった克彦とともに憧れの新婚生活をスタートさせる。しかし、現実は郁子の思い描いていた生活とは天地ほども差があった。絶望した郁子は、自分も好きに生活を始める。そして彼女が辿った道とは……。
「本当にいいの?」
 小野が、玄関でためらいがちに聞いている。
「うん、いいの。あがって……あーあ、結構散らかってるな」
 郁子は振り向かずにそう言うと、脱ぎ散らかしてある服を足で蹴飛ばした。
 脱ぎにくそうな靴を、立ったまま両足でもそもそとしている小野の後ろから、少し背の低い肥後も顔を出した。
「どうぞあがって。彼は出かけてるの。夕方までは大丈夫だから」
 今度はしっかりと二人の方にふり向いてそう言うと、郁子はすたすたと奥の台所へ入って行ってしまった。
「それじゃ、やりますか。時間はあるから、あわてることないから。ね」
 どうしたらいいのか戸惑っている男たちの顔を見て、郁子は「なに緊張してるのよ」と悪戯っぽく笑いながら言うと、布団が入っている襖の戸を開けた。

 郁子が、克彦との暮らしに違和感を覚え始めたのは、いつごろだっただろうか。望んでした結婚なのに、それはあっという間に色褪せていった。夫婦とは名ばかりで……いや、郁子は二十歳だから、夫婦がどういうものなのかも本当は分かっていなかったのかもしれない。ほんのわずかな違和感は、あっという間に若い郁子の心を虫食んでいった。
 結婚してからというもの、克彦の放蕩ぶりは郁子を悩ませ続けた。まるで子供が駄菓子屋でアメ玉を買うように、次々と高価な品物を買ってきては郁子を困らせるのであった。若いふたりの収入を合わせたところで、そんなに余裕はない。余分な買い物をすれば、すぐに銀行の残高はわずかになる。
 ときおり、郁子は会社帰りに実家に顔を見せによった。郁子の母が、乾物だの、缶詰だの、石鹸だのを持たせてくれるのが目当てだったかもしれない。
「これで服でも買いなさい。だめよ、食費とは別にするのよ」
 母は、小さくたたんだ一万円札をそっと郁子に手渡すのだが、そのお金も銀行へ預けてしまえば、知らない間に消えてなくなる。
 いつだったか郁子は、テレビを見ながらご飯をかきこんでいる克彦に、アルバイトをしようか、と相談したことがある。いくら郁子が頼んでも、克彦の浪費はとどまることがない。だったらたとえ数時間でも、ふたりでバイトをして収入を増やし、ローン返済の足しにしなくてはと思ってのことだった。
「バイトなんかしねぇよ。知らねぇのかよ、公務員はバイトはダメなの」
 克彦は郁子の顔も見ずにそういうと、箸を置いて「でかけてくる」とだけ言い残し、車のキーを握って、いつものように遊びにいってしまった。

 郁子は、駅前の路地を入ったところある、小さなショットバーでアルバイトを始めた。克彦がバイトをしないなら、自分ひとりででもしなくては先が見えている。同級生のだれよりも一番に結婚した郁子は、「ほらね、やっぱり」と陰口をたたかれることだけは嫌だと思っていた。
 しかし、昼も夜もない無茶な生活は、長く続くわけもなく、ある日の夕方、身支度を整えていた郁子は、猛烈な吐き気と痛みに襲われ、血を吐いた。
  ――もうやめよう。
 郁子はそのとき初めてそう思った。その日の深夜、バイトを終た郁子は、車に乗り込むと、西に帰るはずの交差点を、迷わず北へとハンドルをきった。

「僕は、別れるつもりなんてこれっぽっちもないんですよ。コイツ、いや郁子が勝手に家を出ていったんです。僕は何がなんだかもう……」
 久しぶりに郁子が克彦に会ったのは、地方裁判所の調停室だった。郁子の実家に、裁判所から呼び出しの通知が来たのだ。郁子名義のカードで買ったスーツを着込んだ克彦は、今まで見たこともないような困りはてた顔をしている。
 郁子は、自分が実家にいることを知っていながら、一度も連絡をよこさないでいきなりり調停か、と小さくため息をついた。
 その後、数回おこなわれた調停は、お互い会わずに話し合いが進んでいき、二人がもう一度顔を合わせたのは、調停離婚成立のときだけだった。

「……いくちゃん。ここ、いい?」
 はっと我に返ると、真っ赤な顔をした肥後が郁子を覗きこんでいた。
「しかしさぁ、いくちゃんも大胆だよね、こんなことしちゃうんだもんなぁ」
 肥後は「なあ」と、後ろにいる小野に向ってそう言った。
「だって、彼がいたら、みんなだってやりにくいでしょう?」
「そりゃそうだ。しかし、まるで夜逃げだなぁ。あ、昼間だから昼逃げかぁ」
 小野は、腕で額の汗をぬぐいながら豪快に笑った。
 ――離婚を承知してくれるのでしたら、慰謝料は一切いりません。ただ、両親が揃えてくれた家具一式は持ってかえらせていただきたい――それが、調停室で郁子が言った最後の言葉だった。
 たしかに自分が暮らしていた場所なのに、ちっとも自分の匂いがしない部屋。今となっては、ここで暮らした郁子の全てが嘘のように思えた。
 狭く暗い玄関から、荷物を運びはじめると、階下の駐車場に郁子の父が2トントラックに乗って到着したとろこだった。引越し慣れをしている同僚を選りすぐっただけあって、小野たち二人はあっという間に荷物をトラックへ着けてしまった。
「いくちゃんは、オレの車に乗ってけばいいよ」
 小野がそう言うと、郁子は「ちょっと待ってて」と言い残して、階段を駆け登っていった。一度しめたドアを開けると、郁子はまっすぐベランダへ出た。手すりまでのびた木の枝を指で弾きながら、タバコをくわえ、少し先の高速道路を見ていた。
 さてと……と背伸びをし、振り向いた郁子は、思わず息をのんだ。
「ふーん。ずいぶんと早いな。もう終わったんだ」
 そこには、いるはずのない克彦が立っていた。
「本当に全部持っていっちまうんだな。あ、冷蔵庫もかよ。ひでぇヤツだな」
 まさか、最後の最後に克彦に会うとは思ってもみなかったのだ。会わずに出て行くつもりだったし、克彦も「そうしろ」と言ったはずだった。郁子は手に持っていたタバコを消すと、吸い殻を持ったまま玄関で靴を履いた。
「おい、忘れてるぞ」
 振り返ると克彦がタバコの箱を差し出していた。郁子は、音をたててそれを取り、なにも言わずにドアを開け放った。
「おい、なあ……オレ」
 克彦が何かを言い終わるとき、ドアは大きな音をたてて二人を遮った。

 ヒグラシの声が聞こえる。
 あおむけに寝転がっていると、目尻から涙がこぼれそうになる。そっと身体を横向きにすると、涙はもう一度瞳の中に戻っていった。いつのまにか、足元まで西陽が差し込んでいる。
 郁子は、ゆっくりと起き上がって手ぐしで髪を整えた。瞳に戻ったはずの涙が、丸い玉になって焼けた床の上に落ちた。

 ――おい、なあ……オレたち本当に終わりなのか。

 郁子は、Tシャツの袖で頬をぬぐった。何度もぬぐった。
 窓の外には、あのベランダと同じ緑が揺れていた。
(了)
(初出:1999年09月)
登録日:2010年06月21日 17時55分
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