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北見遼
著者:北見遼(きたみりょう)
夢と現をさまよいながら、文章を連ねるさすらいの文字使い。信州産、現在は神奈川で培養中のもやしっ子。活字と美術と歴史をこよなく愛する。治したいのは積読本をためる癖。
小説/現代

ミドリの錆

[読切]
どこにでもある学校の怪談「ミドリの噂」――ミドリに会うと錆びるという。引っ越してから三ヶ月。群れる気のない森崎碧{もりさきみどり}は教室で浮いていた。学校の小さな裏庭でひとり弁当を広げる碧の前に、小さな男の子が現れ、彼女に告げる。「わかるよ。きみはさびているから」。混乱する碧は……。
ミドリの錆び 土曜日の午前はいつも薔薇色だ。
 少々大げさな表現かもしれないが、碧にとってはまさにそうだった。土曜の午前十時には家庭教師の青木が来る。つまらない平日の五日間を我慢したご褒美のようだと、十一時の休憩に紅茶をすすりながら碧は思った。
「碧ちゃんはあれの噂を聞いたことある?」
 青木はカップを持つ手をふと止めて訊いた。漂う湯気がコーヒーの香りを運んでくる。濃いブラックは、高校生になっても碧には飲めない。酒や煙草とはまた違う大人の香りだ、と碧は思う。
「あれって、何のですか?」
「ミドリの噂」
「……え?」
 一瞬、自分のことかと思ってどきりとする。その表情を読んで、青木が慌てて訂正した。
「あ、碧ちゃんのことじゃないよ。ミドリっていうのは、何て言うのかな、学校の怪談とか七不思議みたいなやつなんだ。結構古くからある言い伝えらしいんだけど」
「いえ、聞いたことはありません。有名なんですか?」
「校外まで広まってはいないと思うけどね。僕は北高のOBだから、何度か耳にしたことがあるんだ」
 青木は地元の国立大学の二年生で、碧の通う北高の卒業生だった。そのため、母校の後輩にあたる碧に何かと情報を与えてくれる。
「見える人にしか見えなくて、ある時忽然と現れる。学校に長年住み着いていて、昔からよく目撃されているらしい」
「座敷童みたいなものですか?」
「それはちょっと違うんじゃないかな。座敷童みたいに幸福をもたらすわけでもないし」
「じゃあ……見ると不幸になったりするんですか?」
 碧の不安げな顔に、青木は小さく苦笑する。
「さあ、どうだろう。僕は詳しく知ってるわけじゃないけどね。ただ、ミドリに会うと錆びるって話は聞いた」
「錆びる?」
 どういうことだろう。意味を図りかねて、碧は困惑する。
「何かの比喩だろうね。心が錆びるんだとも言ってたから。多分――だからミドリなんだろうな」
「何が……ですか?」
「緑は錆の色だ。銅の錆を緑青、もしくは石緑と言うだろう? まあ、もともとは銅特有の色だから錆も緑になるんだけどね。それはともかく、そいつの正体が何かはわからないけど、錆びるものだからミドリと名づけられたのかもしれないな」
 青木は遠くを見やるような目をして呟いた。ちょっとした噂話でさえ、この調子。彼はいつも、何に対しても深く考えようとする。大学では自然哲学を専攻しているというが、彼にはよく似合っていると碧は思う。
「ああ、ごめん。ずいぶん脱線しちゃったね。こんなつまらない話で」
「そんなことありません。青木先生は物知りだから、いろいろな話が聞けて面白いです」
「いやあ、慰めてもらえると嬉しいよ」
「そんなこと、ないですってば」
 碧が剥きになって否定すると、青木は苦笑しながら残りのコーヒーを飲み干して、表情を改めた。
「じゃあ、そろそろ勉強を再開しようか。次は英語だったね」
 それが、後半の授業開始の合図だった。真剣になった青木の横顔を見つめながら、碧は小さく息をつく。
 今日の雑談はこれでおしまい。青木は勉強中に無駄口を挟むことは滅多にない。たった十分間の休憩は、あまりに急ぎ足で通り過ぎてゆく。机の上のデジタル時計は十一時十一分を指している。土曜日の、このゾロ目の瞬間が永遠に来なければいいのにと碧は思う。四つの年齢差が埋められないように、それが決して叶わない願いだと知りながら。


 森崎碧が北高に入学してから三か月が経過した。その間、自分がどのように呼吸し、活動していたのか碧には実感がない。唯一、充実しているのは土曜の午前の二時間だけだ。
 森崎家は今年の三月に隣の県から引っ越してきた。そのため碧の通う北高には同じ中学の出身者がいない。見知った人間が一人もいないというのは、結構こたえるものだと碧は最近になってようやく気づいた。入学当初はみなよそよそしい感じがしていたが、七月ともなれば自ずとクラスに親しい人間ができる。碧は、その自然な流れに乗り損ねてしまった。
 もともと群れることに興味などなかったし、他人に気を遣うぐらいなら一人でいたほうがましだと考えていたせいもある。そして、そんな態度を特に女子は敏感に察知するものだ。
 だから碧はクラスで浮いている。浮いている自分を自覚しているが、いまさらどうしようもなかった。
 ショートホームルームを終えて、碧は教室を出た。他のクラスメートが和気藹々と過ごす中、一人ぽつんと教室の片隅で昼食にする気にはなれないからだ。
 幸い、碧はひっそりとして誰も来ない場所をすでに見つけていた。旧体育館と渡り廊下の間にある、小さな裏庭のようなところだ。
 碧は軒下の隅の埃を払い、腰を下ろした。
 濃い日差しから逃れれば、木陰で弁当を広げるのもそれなりに快適だった。一週間で最も憂鬱な月曜日でも、環境がそれなりに心を慰めてくれる。
 この裏庭は手入れが行き届いていないせいか、草木が繁茂していた。狭い空間を緑が埋める。目にも眩しい、瑞々しい色彩。
(――緑は錆の色だ)
 不意に、青木の声がよぎった。
 彼がそう言った時、碧はびくりと震えた。自分のことを言われたのかと思ったのだ。
 緑。みどり。碧。
 緑が錆なら自分も錆だ。そして、この裏庭を埋め尽くす緑もすべて錆びている。空虚と退屈に酸化されて、自分は日一日と錆びてゆくのだ。
 まるで自分自身を酸化させるような深い溜息をついた時、碧の視界にそれは侵入した。
「ど、どこから来たの?」
 碧は思わずどもってしまった。目の前に突如として現れたのは、六つか七つくらいの小さな男の子だった。いったいどこから入り込んできたのだろうといぶかしんでいると、子供は小さな口をゆっくり開いた。
「きみはみどりだね」
 たどたどしい発音で、抑揚のない喋り方のため、一瞬何を言われたのかわからなかった。そして、理解してからさらに驚く。
「……どうしてわかったの?」
 碧は驚いて、つい胸ポケットの位置を目で探ってしまう。しかし中学を卒業し、私服の高校に入学した碧の胸に、ネームプレートなど存在しない。
 不審も露に凝視する碧の目をのぞき込んで、少年は告げる。さも嬉しそうに。
「わかるよ。きみはさびているから」
「錆びる……?」
「そう。くすんで、さびて、みどりになる」
 雲間が切れる。七月の太陽が照りつける中、碧は背中を冷たいものがつたうのを感じた。
「あなたは……誰?」
 息を呑み、そう訊ねる。すると、少年はくすりと笑った。
「みどり」
 息ができない。眩暈がする。
 裏庭の木々が根こそぎ倒れて渦を巻く。そんなはずはない。これは自分の視界がぐるぐると回っているのだ。
 錆びる。錆びつく。錆びて、
「――森崎、大丈夫か!?」
 力強い声に揺り動かされ、碧は瞼を持ち上げた。目の前には幼児ではなく、同年代の少年の顔があった。
「日射病か? この暑いのに、外で飯なんか食ってたら倒れるぞ。特にこんな湿気のこもったような場所じゃ、不快指数も高いだろうしな。おい、聞いてるのか?」
 その顔には見覚えがある。どこで会っただろう。半ば朦朧とする頭では判別がつかない。
「ええと……あなたは……?」
「もしかしてそれは名前を訊いてるのか?」
 少年の憮然とした声に、碧はおずおずと頷く。すると彼はあからさまに顔をしかめた。
「あのなあ、失礼にもほどがあるぞ。同じクラスの人間の顔と名前ぐらい、七月にもなったらさすがに覚えないか?」
「……ごめんなさい」
 確かにひどく失礼だと碧は恥じ入った。実際、クラスの半分も名前を覚えていない。彼は碧の顔も名前も知っているというのに。
「ま、別にいいけどな。それより早く食ったほうがいいぞ。そろそろ三限始まるからな」
 そう言い置いて、彼はくるりと背を向けた。これ以上、関わる気はないというように。
 ようやく頭がはっきりしてきた碧は、その背に向かって慌てて呼びかけた。
「あ、待って! さっき、ここに小さな男の子がいたんだけど、見なかった?」
 ――みどり。
 あの子供。碧が意識を取り戻した時には消えていた。恐らく、そう時間は経っていないはずなのに。
「いや、俺は見てない。どっかに行ったんじゃないか?」
 そう言って、彼は今度こそ立ち去った。
 一人になった後、碧は恐る恐る辺りを見回した。この裏庭には一方向からしか入れない。彼がやってきた方向から。そして体育館と倉庫とフェンスに挟まれたこの場所に、人が隠れられるような隙間はどこにもない。
(――見える人にしか見えなくて、ある時忽然と現れる)
 忽然と目の前に現れた、あれ。
 あれが――ミドリだ。


 迷惑に違いないと頭では理解していても、自分の衝動を抑えることはできなかった。碧は跳ねる心臓を手で押さえながら、校門をくぐった。青木の通う大学の正門を。
 制服ではないのでひどく目立つということはないが、やはり大学生には見えないだろう。そう思うと構内に踏み込むのも不安になる。ただ浮いているだけの高校とは違い、ここは自分の居場所ではないことを強く実感させられる。だから求めていた人の姿が目に入った時、碧は泣きたくなるほど嬉しかったのだ。
「碧ちゃん、いったい何があったんだ? 今は授業中じゃないのか?」
 青木の質問はもっともだった。碧はあの後、学校を飛び出してまっすぐこの大学に向かい、青木を携帯で呼び出したのだ。
「突然ごめんなさい。あの、先生は講義は?」
「ちょうど空きコマだから、僕のことは心配しなくていい。それより、事情を聞いてもいいかな。こんなところで立ち話も何だから、とりあえず中に入ろう」
 青木に促され、碧は正門近くの附属図書館に入った。閲覧室は学生証をゲートに通さなければ入室できないので、学外者である碧は反対側の自修室に連れられた。
 自修室の中は昼食や談笑に興じている学生が数人いるだけで、勉強の邪魔をする心配はなさそうだった。青木は空いている椅子を碧に勧め、自分も腰を下ろした。
「――私、ミドリに会ったんです」
 碧はそう切り出した。面食らう青木に向かって、さらに続ける。
「青木先生はミドリに会った人を知ってるんでしょう? ミドリを見たらどうなるんですか? 私も錆びてしまうの? 私は、私は、錆びて――」
 緑がぐるぐると回る。眩暈がする。あの瞬間、自分は錆びているのだと感じた。緑は錆の色。――そして碧の色。
「碧ちゃん、落ち着いて。ほら深呼吸して」
 青木に呼ばれて碧は我に返る。いつの間にか肩で息をしていた。青木に言われた通り、碧は大きく吸い込んだ息を吐き出して、何とか呼吸を整える。その様子を見届けると、青木はおもむろに訊ねた。
「錆という字は、どうして金に青と書くんだと思う?」
 今度は碧が面食らう番だった。青木はいきなり何を言い出すのだろう。どういうつもりかは知らないが、碧はとりあえず答えた。
「……金属が錆びて青くなるということじゃないんですか?」
「そう思うだろう? だけど本当は違うんだ」
 すると、青木はバッグからノートとペンを取り出し、「錆」と書いた。
「この『錆』という字はね、もとは澄みきった金属の色を表すんだよ。日本にこの字が入ってきた時に、誤解されたんだそうだ」
 言いながら、青木は次に「銹」と書く。
「金属の酸化を表すのはこの字。これで『さび』と読む。『錆』は錆びてない。青は澄みきった色なんだ。だから、碧ちゃんも錆びてなんかない」
「どうして……ですか?」
 何のことだかわからない。青木は何が言いたいのだろう。そう顔に書いてあったのか、青木は小さく笑って、また一つ字を書いた。
「碧ちゃんの、この『碧』という字はアオとも読むだろう? 碧空、碧天、古語なら『あさみどり』。これは全部澄んだ空のことを指す。碧は緑青の緑とは違う。錆の色じゃない」
 それだけ一気に言うと、青木はペンを置いて自嘲気味に笑った。
「――なんて、こじつけ臭いけどね。でも、そう思えば少しは気が楽になるだろう? 自分は錆の緑じゃないんだって考えれば」
 緑に囲まれ、ミドリに会い、碧は自分が錆びてゆくのを感じた。だが、今は青木の柔らかな声に包まれて、その錆がすべて溶けてゆくような気がした。
 ミドリとは何なのか。
 錆びるとはどういうことか。
 そんなことはもう、どうでもよくなっていた。いつもの土曜の午前とは違う。契約に縛られた先生と生徒ではなく、こうして向かい合うことができる。たとえ、相手はアルバイトの延長の気持ちでいたとしても――
「じゃあ、『銹』の『秀』はどういう意味を持つんですか?」
 碧は生徒らしく質問した。本当は錆のことなどどうでもいい。だが、急に話題を変えるのも不自然だし、何より青木がこのひとときを打ち切ってしまう恐れがある。なるべくこの時間を引き延ばそうと、碧は質問で会話をつないだ。
「え? ええと、どうだったかな――」
 不意に問われて青木は戸惑う。そこへ、
「浮き出るという意味よ」
 突如、背後から声が上がった。碧が振り返ると、いつの間にか背の高い女性がそばに立っていた。
「『秀』は作物の穂が伸びて、細く浮き出るという意味を持つの。だから金属の表面に浮き出るもの、で『銹』というわけ」
 その女性が淀みなく答えると、青木は振り向いてパチパチと拍手した。
「さすがは漢字博士」
「漢検二級程度だけどね。それにしても、どうしてこんなところに学外者を連れ込んでるわけ?」
 青木に軽く揶揄された彼女は、わずかに眉をひそめた。その小さな表情の変化に、彼は肩をすくめる。
「俺がバイトで教えてる生徒さんなんだ」
 青木の答えに、彼女は少なからず驚いたようだった。そして興味深げな顔つきで碧をのぞき込む。
「じゃあ、あなたが森崎碧さん? いつも周平がお世話になってるわね。私は周平と同じゼミの桐原若葉。この先生、理屈っぽくて気難しくて扱いが大変でしょう」
 あまりに唐突な言葉に碧は声も出せず、うつむいた。耳のすぐ後ろでどくどくと音がする。鼓動が激しくなって、息苦しくなる。
 青木を周平と呼び、親しげなこの女は誰だろう。それを思うと血が逆流しそうな錯覚に見舞われる。
「おい、若葉。そりゃないだろう」
 碧の様子にまったく気づかない青木は、おどけたような声で抗議した。だが、若葉は涼しい顔で返す。
「私がさっき教えてあげたことを、さも自分の知識のように語ってたわねえ。そんな調子だから教授に底が浅いって言われるのよ」
 このままではいささか分が悪いと見た青木は若葉の言葉を無視して、黙り込んでいる碧に向き直った。
「そう、この前ミドリの錆の話をした時に気になったから、こいつに聞いたんだよ。実は今の錆の話も全部、受け売りでね。こいつは余計な知識ばかり豊富だから――」
「余計とは聞き捨てならないわね。せめて雑学と言ってよ」
 どうにも形勢は青木のほうが不利だった。誰かにやり込められる青木――碧が一度も想像したことのない姿。
「碧ちゃん、実はこいつ――」
「先生の彼女さん?」
 青木より先回りして、碧は簡潔に訊いた。すると、短い首肯と言葉が返ってくる。
「うん、まあね」
 それで、と言いかけた青木を遮るように碧は立ち上がった。
「先生、ありがとうございます。どうもお邪魔しました」
「碧ちゃん?」
 呼び止める声を無視して、碧は駆け出した。突然押しかけてきて、途中で帰る。自分の身勝手さに吐き気がするが、これ以上この場にとどまっていることはできなかった。
 わかっていた。自分が青木に釣り合わないということぐらい。淡い想いの結末ぐらい、とっくに予想できていた。だが――それでもやはり、桐原若葉という女性の出現はあまりに唐突すぎた。
 来るのではなかった。そうすれば見ずに済んだのに。
 自分の憧れていた青木は、ここにはいない。いつも自分と向かい合う時の、真剣な眼差しは柔和な瞳に変わり、落ち着いた声は明るく弾んでいる。そして、尊敬していたあの博識さも、実のところは彼女の受け売りでしかなかったのだ。
 彼女には決して叶わない。彼の笑顔を知っている彼女には。あの笑顔は、自分のものではないのだから。
 それを今、思い知らされた。


 どこをどう走ってきたのか、気づいた時、碧はなぜかあの裏庭に立っていた。
 傾き始めた太陽が、碧の頬を斜めに差す。三方を囲まれた空間は、じりじりと日に焼かれて蒸し暑さが立ち込めている。伸び放題の草叢。枝の払われない木々。生い茂った緑が視界を占める。碧は目を閉じた。そうしてゆっくり開くと、予想通りそれは現れた。
「きみはさびているね」
 それは小さな子供ではなかった。もっと成長して、少年の域を脱しかけている。その顔には見覚えがあった。
「さびて、みどりになろう」
 微笑みかけられ、碧はゆっくり頷く。その笑顔は碧が何よりも求めていたものだった。
 ――決して手に入れられないはずの笑顔。
 ミドリは今、青木の顔で笑いかける。
「みどりは、みどりになる。くすんで、さびて、みどりになる」
 ――錆びてゆく。
 錆びて、緑になってゆく。
(――青は澄みきった色なんだ)
 不意に、柔らかな声が脳裏をよぎる。
(――だから、碧ちゃんも錆びてなんかない)
 そんなのは嘘だ。だって、自分はこうして錆びているのに。緑は錆の色。そして碧の色。碧は、ミドリになるのだ。
 ミドリが手を差しのべる。
 碧は手を伸ばす。
 ミドリにつかまれた碧の手が緑に染まる。ゆっくりと、ミドリの緑が碧を浸食する。目にも鮮やかな緑。繁茂する緑の色。緑がざわめいて、揺れて、碧を包む。指先から浸透する緑が、皮膚の裏側をなめるように碧の体の奥まで滑り込む。
「さあ、おいで」
 ミドリは青木の顔で、青木の声で、碧を誘う。
 暖かい眼差し。穏やかな声音。そして何より一番欲しかった笑顔が自分に向けられている。嬉しさに、碧も微笑み返す。
 ――錆びている。
 錆びて、碧は緑になる。愛しいミドリと一つになる。
 もうすぐ。もう一息で、ミドリの緑が碧の芯に到達する。ほら、あと少しで、
 ――……き
 何? 何も聞こえない。
 ――…り……き
 誰? 何を言ってるの?
「――森崎!」
 その声は、耳に痛いほど響いた。頭の中で乱反射して眩暈を起こしそうになる。碧が薄く目を開けると、逆光を背負った顔がすぐそばにあった。
「気がついたか。……間に合ってよかった」
 そう言って、彼は安堵の息を漏らした。ぼうっとする頭で、碧はそれが昼にも自分を助け起こしてくれた人物だと思い出した。
「間に合うって……何が?」
 碧がそう問うと、彼は眉をひそめた。
「自分で自覚ないのか? もう少しでミドリに食われるところだったんだぞ」
「……食われる?」
「よく見てみろ。ここには緑なんかない。ここが緑の庭に見えたってことは、もうすでにミドリに見入られてたんだよ」
 言われて、碧は辺りを見回した。そうして愕然とする。あれだけ欝蒼と生い茂っていた木も草も、瞬く間に消え失せていたのだ。木立ちは枯れ、草も丈の低い雑草がまばらに生えているだけ。目に痛いほど鮮やかだった緑は、どこにもない。
 ここは庭などではない。じめじめと湿った、ただの吹き溜まりだ。
「あなたは……誰? どうしてそんなにミドリに詳しいの?」
 碧が恐る恐る訊ねると、あっさりとした答えが返ってきた。
「俺の姉貴が北高出身で、しかもミドリに会ってるんだ。だから、話はいろいろと聞いてる」
 もっと不思議な返答を期待していたわけではないが、現実的な答えに碧は少なからず拍子抜けしてしまった。
「そう……お姉さんがいるの」
 溜息がちにそう呟くと、透はなぜか眉をひそめた。
「……まったく。本当に人の名前を覚える気がないんだな。そんなんだから、クラスに溶け込めないんだよ。誰もシカトなんかしてないのに孤立してるのは、自分が努力不足なせいだ」
 突然、一方的に決めつけられて碧は戸惑う。確かに自ら進んで人の中に入ろうとしなかったことは事実だ。それを指摘されれば返す言葉はない。群れることが苦手でも、それなりの努力をするべきだったのだ。
 しかし、彼の名前を覚える気がないというのは少し違う。彼は昼に会った時に自ら名乗らなかったのだから。それで覚えていないと責められても困る。第一、なぜいきなりそんなことを言われるのかもよくわからない。
 だが、彼のほうは自分の落ち度に気づいていないらしく、仕方がないという顔で改めて名乗った。
「桐原透。森崎がさっき会った桐原若葉の弟だよ」
「え……?」
「姉貴からさっき携帯に連絡があったんだ。森崎を止めてくれってな。森崎が錆びきる前に、目を覚ましてやれって」
 予想外の言葉に、碧は目を見開いた。
 桐原若葉――青木の隣で悠然と構えていたあの女性。今、目の前にいる彼が、決して叶わないと思い知らされた人の弟だと聞いて、碧は驚いた。しかも彼女は自分を救おうとしてくれたのだという。いったいなぜ、自分がミドリに捕われているとわかったのだろう。
「ミドリは……あれは何なの? 錆びるってどういうことなの?」
 碧はようやくの思いでそう問いかける。すると、透は首を左右に振った。
「俺にもよくわからない。ただ姉貴は、ミドリは人の心の隙間に入り込むものだって言ってたな。人の弱みにつけ込んで、姿を変えて近づいてくる。見入られた奴はあいつに食われるらしいけど――そこまで本当かどうかは知らない。よくある怪談みたいな話だしな」
 ――錆びてゆく。
 あの感覚。あれが何なのか、反芻しても理解できない。自分の全身がミドリを求め、ミドリと一体化しようとしていた。伸ばした指先から緑に染まり、周りを囲む幻の緑に溶け込むところだった。
 あれこそが、まさに「食われる」ということなのだ。そう気づいて、碧は身震いした。
 本当に、間一髪だった。あと少し遅ければ、自分はミドリに食われていただろう。ミドリに食われた人間がどうなるか知りようもないが、今ある自分を失っていたに違いないということはわかる。そうならなくてよかったと心から思う。そう思える自分を意識できることが、こんなにもありがたい。
 そして、自分を現実に引き戻してくれた救いの手も。
「だけど、姿を変えるってのは本当みたいだな。森崎は小さな男の子だって言ってたけど、姉貴の時は女だったんだ。自分と同じくらいの歳の」
 碧は瞬きを繰り返した。
 そういえば――確かに、初めは小さな男の子だったミドリは、今度は別の姿で現れた。なぜか自分のよく知る顔――青木の顔で笑いかけてきたのだ。
「姉貴は口が悪いし性格もきついから、入学したばかりの頃、友達ができなかったんだ。だから、そこにつけ込まれたんだろうな」
 ぶっきらぼうに放った透の言葉に、碧はかすかに笑った。完璧に見えていたあの人にも、そんな一面があるのかと思ったら、無性におかしくなったのだ。
 そして、そんな彼女と同じように、自分もまた手に入らないものを欲しがっていたのだと碧は気づいた。若葉は同世代の女友達を求めていた。碧はただ一人の、自分にだけ向けられる笑顔が欲しかったのだ。もちろん、それはミドリの見せる幻。本物は決して手に入れることはできない。
「でも、お姉さんはミドリにならずに済んだのね」
「森崎だってそうだろ。もう目が覚めただろうが」
 碧は小さく頷いた。目が覚めた――今のこの状況を説明するには、その表現がぴったりだろう。透に呼び起こされ、ミドリが消え失せた今、碧の意識は何かから醒めたように鮮明だった。
 二人の間にわずかな沈黙が降りた。それを先に破ったのは、透のほうだった。
「まあそれにしても、失恋したぐらいで自暴自棄になるなよな。まったく」
「なっ、何よ!」
 あまりの言いように、碧は面食らった。言い返そうにも言葉が続かない。まさか、ほとんど面識のない人間からそんなことを言われるとは思いも寄らなかったのだ。
「だいたい、あの二人は誰が見たってお似合いなんだから、入り込む隙間なんてないぞ。さっさとあきらめろ」
 透は聞き分けのない子供に言い含めるように告げる。だが、どこか不自然なくらいぶっきらぼうな口ぶりに、碧は少々怪しんだ。
 もしかして、彼は――
「……もしかして、シスコン?」
「―――!! おまえ、それが恩人に対する言い草か!?」
 一瞬の空白。透はわずかに言い淀んでから叫んだ。それを見て、碧はくすくすと笑う。
 本当は感謝の気持ちを伝えるべきなのだろうが、今の碧にはまだできなかった。だからまるで子供のように、照れ隠しに相手をからかってしまう。だが、いつかは素直に心から礼を言わなくてはならないだろう。ミドリの幻から目を醒ましてくれた人に。
 にわかに顔を紅潮させる透に笑いかけ、碧は立ち上がった。そうして枯れた緑の庭に背を向ける。
 ――バイバイ、ミドリ。私はもうミドリになんかならない。
 「銹」から「錆」へ。酸化された心は還元されて、澄みきった色になる。
 碧はまっすぐ背中をのばし、天を見上げた。決して錆びつくことのない、碧い空を。
(了)
(初出:2002年01月)
登録日:2010年07月20日 15時40分

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