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天野雅
著者:天野雅(あまのみやび)
埼玉県生まれ、千葉県育ちの関東人だった。結婚を機に関西の人間になる。現在は関西とも東海ともいえる近畿地方に在住。10年経って方言にも慣れた。血液型はマイペースで知られるB型。住めば都を地で行く性質。ネット作家歴20年。同人作家歴はプラス5年。趣味は映像鑑賞。写真撮影。歌唱。創作料理。好物は自然万物一般。美術芸能一般。パソコン。ゲーム。漫画。文章。
小説/現代

うちのチビいりませんか 番外編 ミレニアムイノセント

[読切]
20世紀最後のクリスマスを前に、聡美たちは彼氏の話で盛り上がる。そこへ企画の安堂が訪れつぶやいた。「――上手なのね、嘘が」。…そうかもしれない。でも、なにが?
 11月の末に、大規模な社屋の改築が完了した。包装材(パッケージング)印刷部門のビルの1階が丸ごとショールームになり、建装材(ハウジング)印刷の粋を集めたカウンターバーまで作られた。
 12月1日の落成式には得意先を招待してレセプションがひらかれ、私たち建装材印刷部門の女子社員は全て、貸衣装着用の接待係に借りだされたりした。
 でも、私に直接関係があったのはそれだけで、特に事務系の社員には商品見本なんて縁のない存在だったし、展示内容もよく判らない始末だった。
 それより私たちが歓迎したのは、対外の体裁目的に建装材印刷部門のビルに作られた、(タバコ臭い空気のなかでひたすら水割りをつくり運んだ1日には見合う程度の)豪奢な化粧室だった。
 それまでは本当にただの『御手洗』しか、この職場にはなかった。ベニア板が模造大理石になってしまったわけだ。
「ねー忘年会どうするー?」
 ふたりぶんの洗面台は両脇に化粧スペースをゆったりとって壁一面鏡張り、ランプもどきのムード照明と、床は模造御影石のタイルでピカピカの化粧室に、間伸びしたセリフが響き渡る。分厚い扉に遮られ外までは聞こえない。私は声のエコーを楽しみながら答えた。
「出るしかないでしょ」
「だけどさー、友達と約束もあるし、クリスマスプレゼントも買わなきゃだし、ボーナスなくなっちゃうよ。綾ちゃんいくらだった?」
 水を流す音が2回。私は簡単にピーチピンクの口紅をぬった。背後の個室から同期の笹山恵子が出てきて横に並ぶ。ふたりとも私服だ。もう定時の6時をとっくに過ぎて、先輩方の一陣は去っている。
「おんなじだよ」
 あたりまえでしょ、と鏡のなかで笑い返す。もちろん彼女がいくらだったかなんて知らない。でも入社2年目の冬、そう額に差のあるわけがない。
「そうだよねえ」
 恵子はハンカチをリーフレットに持ち替えてファンデーションから直し始めた。
 私はスミレ色をしたマーブル模様の化粧台に寄りかかって待つ。これで椅子があったら完璧だ。
 この場所ができてから、女子たちが綺麗になったと言われている。会社も喜んでいるだろう。会議に訪れる外部の人間にお茶出しするのも私たちの仕事なのだから。
「あーあ。せめて大沢さん来ないかなあ」
 恵子が手もとに目を落としたまま、溜め息をつく。
 私はあいまいに相槌をうった。
 会社の規模が大きいので、毎年の行事は忘年会でも旅行でも課ごとに企画される。人数の少ないところは合同でやったりする。
 ちなみに私は大所帯の業務部で、恵子は少人数の管理部にいる。部長同士が仲良しで、たまに一緒になる。今回もそうだ。
「呼んじゃえば? でなきゃ呼んでもらう」
 私は当然のアドバイスをした。飛び入り越境個人参加も自由なのだ。
「ケイちゃんだったら誘えば来るんじゃないの?」
 私は軽く続けた。
「えーそうかなー。ずうずうしくない?」
 まんざらでもなさそうな、返事。
 正直なところ、私は大沢さんの顔すらよく覚えていなかったりする。営業外勤の独身男性で、狙っている女のコは結構いるらしい。
 貴重な若い男性社員は、社内外問わず皆誰かに狙われている。もちろん純真な恋や憧れなんかじゃない。
 去年は総務部の人物の名前があがっていたが、夏に社外のコと結婚してしまった。大抵の結末はそんなものだ。
 営業外勤なんて昼間は顔を見る機会もなし、業務部は営業と二人三脚で仕事していてフロアは同じでも組んでいる人以外は関係なし。私が補佐している主任の相手は、4課の人間だ。
 恵子のいる管理部は違う。営業全体、経理部、企画部にも仕事がつながっている。人数は少なくてもつきあいは広い。
 いつもフロアを横切りまくり、20歳で笑い皺のある恵子ならなおさら、同席するくらい可能だろうと思っただけなのだ。
「日程は3課のほうが遅いから、来てもらって、お返しに誘ってもらっちゃおうかなー。それでロマンチックなミレニアムイヴを過ごすのよ。来年は大沢恵子って呼んでネ」
 恵子は勘違いしたまま調子に乗っている。営業のスケジュールを把握しているあたり、さすがだ。
「ついでに同期の男のひと、紹介してもらおっか。Wデートとかしたら楽しくない?」
 想定外なことを言い出した。
「え、いいよ私は」
「なんでー?」
 浮かれ声がひときわ高まったとき、私の斜め前方にあるドアがわずかに動いてドキリとした。
 エントランスから細く差しこむ白い光に、髪の長いスカート姿の影が見え、瞬間、目があったと感じた途端、ドアは勢いよく押されて恵子の声がぴたりと途切れた。
「びっくりしたー、安堂さん」
 一転、そつなく恵子が普通に話しかける。
 薄黄色い明かりの下でも映えるパールブルーのアイシャドウをつけた、印象的な瞳はまっすぐ私に向けられていた。
「お疲れ様です」
 決まり文句がローズレッドの唇からこぼれる。意外なほど感情が含まれていない。
「あ……お疲れ様です」
 気おされながら私は返した。私より背が高い。射るような視線だ。私は気まずい心持ちのまま、ぎこちなく微笑で応じてみせる。
 目の端では恵子が無言で化粧品をしまっている。彼女の愛想のよさは定評があるのだが、結構ひとの好き嫌いが激しいのだ。たぶんもう自分を無視した安堂さんは『キライ』に分類している。
「お先に失礼します」
 安堂さんが個室にすぐ入らないので、私は言葉を継いで軽く会釈した。
「行こ、綾ちゃん」
 恵子が私と安堂さんの間をすり抜けて出て行く。体つきは小柄なので迫力はない。ふわっと風が巻いただけだった。
 そんなあからさまな態度にも安堂さんは動じる気配がない。どっちもどっちだ。
「綾野聡美さん?」
 追って出ようとしたら、安堂さんが私のフルネームをつぶやいたので驚いた。呼び止められたのか確認されたのか、不明瞭なアクセントだった。
 閉まろうとするドアに半身のまま私は振り返った。シルクっぽいブラウスの長袖が透けてみえ、金のブレスレットが輝いた。口もとに手をやって、安堂さんが初めて戸惑いの表情を浮かべていた。私に用はなかったのかと、こっちも困惑して立ち去ろうとした。
「――上手なのね、嘘が」
 閉まるドアの向こうで床を打つヒールの音が、こちらのリアクションを拒否して小さくなる。
 私は不機嫌そうな恵子に腕をつかまれ、守衛室前のタイムリコーダーまで引かれていった。
「ちょっと綾ちゃん、あんなひとに構うことないわよ、なんか話してたの?」
 あの短時間で何ができたと思うのだろう。
「挨拶しただけ」
 それより彼女は何者、と訊くと、恵子は私の腕を解放して隣に並んだ。
 彼女は寮生活、私は自宅通勤で途中の駅まで一緒に帰れる。
 会社の場所は都心に近く、主要幹線道路が隅田川を隔てて向こう側を走っている。幅の広い歩行者用の舗装道は並木で守られていて、この時間、コートの裾をひらめかせて急ぐサラリーマンやOLの姿も多い。
 私はようやくバッグから手袋を出してはめた。
 恵子はマフラーをして、ふう、と言った。かすかに白い息が街灯に光り、藍色の空気へ溶けていった。
「やっぱりね。綾ちゃんのことだから知らないと思った」
 おおげさに眉根を寄せる。あきれたポーズのつもりだろう。
「あのひとは企画デザインの安堂京華。今年の新人よ、大卒で紅一点」
「企画か」
 どうりで見たことのない顔だった。恵子が知っているなら包装材ではないと思ったが、同じ建装材でもフロアが違う。
「デザインよ、デザイン。判る? 事務系じゃないのよ。だから制服もないし、更衣室であたしたちと会うこともないの」
「あれ、じゃあ」
「いいわよねえ、大卒で給料はいいし、オシャレし放題だし、営業なみにフレックスだし。あんな格好で仕事してるなんて、信じられないー」
「『お疲れ様』なんて言っちゃったよ。『残業ご苦労様』だったんじゃん」
「……綾ちゃーん」
「ああ、荷物を持ってなかったっけ。うっかりしちゃった。そういえば上着も――」
 脱力ぅ、と恵子が肩をすくめて首を斜め前に倒した。
「論点がズレてるでしょー? 失礼なヤツ、立ち聞きしてたのよきっと。それでこっちのことバカにしてたんだわ。高卒だし、彼氏いないし。なによねー、自分のほうがスタイルいいからって。靴の踵でごまかしてるだけじゃない。ビシバシにメイクしちゃってさ。企画なんてイイ男いないんだから。きっと友達もいないのよ。あそこ女のコいないし」
 そうだろうか。むしろ、睨まれていたのは私じゃなかったか? そんなに間違えた挨拶が気に障ったのかな。忙しく仕事してるのに、帰るところと一緒くたにされたら……。
 考えながら、私は恵子にうなずく。
「立ち聞きはしてたかも……」
「でっしょー? 今度シカトしやがったらタダじゃおかねーわ。綾ちゃん、仇は討つから。気にすることないんだからね」
「……ありがとう……」
 それはいいとして、安堂さんの捨て台詞は、なんだったんだろう。
『嘘が上手』。私が?
 ……そうかもしれない。

   ◆ ◆ ◆

 主任が「コーヒー」とタバコのヤニで黒く染まった指を4本立てたあと、キャメルの吸殻あふるる銀色の浅い灰皿を手に、
「5階のD会議室」
 と言って向かい合わせのデスクからエレベーターへと去ろうとしたので私は慌てた。
「3階じゃないんですか?」
 とっさに立ちあがってフロアを見回す。いつもの会議相手である営業の姿はどこにもない。3階のAかBが普段の会議場所だし、今日は来客もなかったはずだった。
「おう。ちょっとな、色柄変更の打ち合わせすっから。綾ちゃん頼むな、30分後に熱くて旨いやつ4人前、デー会議室な」
「澄田さんー……」
 追いすがる私の声は虚しく宙に取り残された。左右を同じ課のひとのデスクに挟まれて、背後はコンクリートの柱。通路の狭さも手伝って、いつもサッサと主任に逃げられてしまうのだ。
「……問い合わせの山が減りません……」
 私は主任の卓上、ラバーシートの脇にびっしりと並ぶ大きめのポストイットを眺めて落ちこみかけた。
 私の担当は建具、大概は新築する一軒屋に必要なだけの屋内ドアを管理している。安価な板材を立派に見せる木目は皆、印刷だ。
 納品先の取引会社からも納品元の契約会社からも、電話やファックスが毎日ひっきりなし。仕様や納期や出荷の確認、売上仕入に関する部分は、ほとんど私が調べているけれど、主任が説明しないと納得しないひともいるから頭が痛い。
 待たされ焦れた相手が叱るのは、最初に電話口に出た人間(9割は私だ)である。
「綾ちゃん、大丈夫? 時間なかったら代わってあげようか」
 右の席から2年先輩の城崎さんが声をかけてくれた。
 そういう彼女の卓上だって、未整理の出力伝票が山になっているのだ。話はしても手は休んでいない。
「すみません、あとをお願いします」
 申し訳なく思いながら、これも楽じゃない電話番だけ頼んで、席を離れた。
 時計を見ると2時半だった。

 入社2年目、私は3階の給湯室しかコーヒードリッパーのある場所を知らない。
 なにしろ他のフロアなど、新人1週間目の研修でざっと見てまわったきりなのだ。
 3時少し前、盆に4客分の飲み物をのせてエレベーターで5階を目指した。
 が、エレベーターホールに下りたってすぐに私は途方に暮れた。
 D会議室の場所が判らないのだ。そもそもDなんてあったのかっていうくらいなのに、行けば判ると思った私が甘かった。
「どっどうしよう」
 ビル内は改築や改装の繰り返しでフロアごとの間取りがまるで違う。営業・業務部のある2階はぶちぬきでエレベーターホールなんていうスペースはない。3階は会議室と給湯室。4階はクリーム色のパネル板でパーテーションが切ってあり、総務部と経理部と管理部が入っていて更衣室や仮眠室がある。
 そして未踏の5階は赤い絨毯が敷きつめられていた。リラクゼーション用の音楽まで聞こえる。
 左右にそんな廊下が長々とのびていて、数メートルごとに内壁の材が違う。カタログを兼ねたとおぼしき各種クリスタルカットガラスのはまったパネルとか、偏光ガラスのグラデーションとか、あるいはカラーのアクリル板でモザイクとか、統一感もまるでなし。一体どれが入り口で、一体どこが会議室なのか、ぜんぜん見当もつかないのだ。
 2階の戦場のような有り様と、見本市みたいな5階、同じビル内の同じ会社なのかと疑うほどのギャップに愕然としていると、盆を支える腕がつらくなってきた。
 暖房も効いていて、コーヒーは冷めにくいと思うが、早くなんとかしたほうがいい。
 とりあえず透明なカットガラスの壁に近づいてみる。中に誰かいないか見えないか。
「……」
 そばまでいくと、ガラスの向こうはポスターやカレンダーが貼られていて覗けなかったが、ちゃんとライトオークの扉があって内側に半分ひらいているのが判った。
 しかしコンピューターとプリンターの置かれた妙に細長い部屋だと見えただけで、誰もいない。
「無用心だなあ」
「盗まれるような物ないもの」
 いきなり後ろから答えられ、飛び上がった私の腕のなかで盆の上のカップがスプーンに当たり、派手な音を立てた。
「ああっ、あのう、D会議室は……」
 コーヒーがこぼれないよう視線に念力をこめながら慎重に振り向く。
「……どこに……」
 今度こそカップが激しく揺れてコーヒーがこぼれた。相手の顔を見て私が思わず一歩退いたからだ。
「あら……。それなら反対側の奥だけど、会議室の前に淹れ直したほうがいいんじゃない? 給湯室がこっちにあるから」
 今度は笑みが浮かんだ。印象的なパールブルーに縁取られた瞳。
 安堂京華が、おかっぱ頭の私にストレートなロングヘアを見せつけるかのようにターンしながら、手招きして歩きだした。
 警戒して離れてついていく私を1度も見ないで、彼女はエレベーター横の通路に入り、無地の黄色いドアを引き開けて中へと進む。
「ここのコーヒーメーカー、優秀なんだけどほとんど使わないのよ。セットしなきゃ」
 新婚家具みたいな装飾枠つきスリカット、3枚ガラス扉の食器棚が壁際に置かれ、中の棚にドリップ式の大きな機械がおさまっている。電源コードがまとめてあってプラグが差さっていない。ビーカーも洗ったほうがいいのだろう。
 安堂さんと背中合わせに立ち、私は高級感のあるダークオークのサイドボードの上に盆を置いて、窓側の独身用のシンクに向かって制服であるブラウスの袖をまくった。
 ビーカーに手を伸ばした私に、安堂さんが要領のいい説明をくれる。
「えっとね、洗うならこれ使ってね。布きんはここ。タンクは水抜きしてあるから大丈夫、綺麗よ。カートリッジ式でフィルターはないの。4客なら10分くらいかしら。もったいないから、これ飲んじゃおう」
 ええっ、と思う間に彼女は食器棚からマグカップをみっつ出して、無事だったカップまで器用に中身をあけ替えてしまった。
 横にあった電子レンジで温め直す。
「あのー、すいません。あとはやりますんで、どうもありがとうございました」
 急いで器具と汚れた食器を洗いながら言うと、安堂京華はこちらを一瞥し、マグカップを両手に持って行ってしまった。
 ……ひとつ残っている。
 また取りにくるのかなあと廊下のほうを気にしつつ10分経ったが、彼女は戻ってこなかった。
 若干の遅れに主任からは何も言われず、ほっとしてコーヒーを配り終わった。
 借りた器具の後片付けに給湯室に戻ると、すっかり何もかも元通りになっていた。シンクのステンレスに、見覚えのある金のブレスレットが置き忘れられている。
「ありゃま」
 お礼も言ったほうがいいし、盆だけ持って廊下を端から端まで歩いてみたが、安堂さんの姿はない。
 冷静に判断するに、給湯室に私は必ず戻ってくるわけだから、失くなっていれば安堂さんは私が持っていったと考えるはずだ。
 あんまり気が進まないが預かることにして3階の給湯室に戻ると、水音がしていた。
「お帰りなさい。いま終わっちゃった」
 蛇口が鳴って水が止まった。
「安堂さん……何してんですか?」
 上等そうな刺繍入りのブラウスに、水撥ねしている。洗剤の泡のあと。
「お手伝いを少々。私のせいでこぼしちゃったみたいだし、ちょうどヒマだったし」
 私はわけが判らず、盆を戻してブレスレットを差し出した。
「忘れ物。……いろいろどうもありがとございました」
「ふふ」
 なぜか笑って、安堂さんは私服だろうカーテンの生地みたいなスカートを掌でひと払いして水をはたき落としてから、金の鎖を受け取って細い手首を飾った。
「こちらこそゴメンなさい」
 あっさりと一礼して、出て行こうとする。
「そうだ」
 ドアの前で立ち止まり、
「それ綾野さんのぶんなの。ここ電子レンジないのね。よかったら、もう1回5階に来ない? それとも忙しい?」
 はっきり言うと忙しい。D会議室から回収してこなきゃならない時間すら惜しい。
 なんとも言えず、
「安堂さんの部屋ってどこなんですか」
 逆に質問してしまった。
「色とりどりの部屋。でも他のひともいるわよ。じゃあね」
 安堂さんはいなくなった。
 チープな塗装板で組み立てられたカラー棚の上に、コーヒー入りのマグカップが置いてある。
 私はそれを眺めて考えてみたが、砂糖だけ入れて一気に飲み干し、洗うと、手ぶらで席に戻った。

 肩の凝りをほぐしながら、水滴したたる空っぽの灰皿と共に澄田さんが座席へ復帰したのは、定時近い5時半を過ぎたころだった。
「悪りィな、片付けてくれっか」
 はいー、と私は快く引き受けて盆とマグカップを手に5階に上がる。
 D会議室は巨大なガラス板をのせた円卓のある絨毯敷きの部屋で、つけようと思えば天井にはスポットライトもあった。
 円卓に置かれた灰皿はメーカー各種の吸殻で山盛りだった。クリスタルガラスのずっしりと重くて丸いやつだ。
 盆に汚れ物を全部のせて、入り口へ向かうと勝手にドアが引かれた。
「マグが置いてあったから来てみたの。大変そうねー。わたしも洗うわ」
 安堂さんだった。
「どうして?」
 不思議でたまらない。
「実を言うと」
 安堂さんは盆から灰皿をそっと持ち上げた。盆がすうっと軽くなる。
「おたくの主任さんと会議してたのがルームメイトなの。それなのに雑用がこっちには回ってこない。不公平だと思わない? ショールームデビューの接待だって免除よ」
「はあ」
「納得できないって顔してる」
「そりゃあ……」
 照明を消して給湯室を目指す安堂さんに私も続いた。
「嘘つきよばわりされたし?」
 先に言われて返事に困る。
「やっぱり聞こえちゃったわよね、聞こえるように言ってしまったんだから」
 安堂さんは灰皿に水をかけてサイドボードの上に置くと、手首の飾りを外してスカートのポケットに落としこんだ。素早く腕まくりして、蓋付きポリバケツにタバコを捨てる。ちらりと見ると、こんもりとしたキャメルの残骸があった。
「喫煙者なんてニコチン中毒で全員死んでしまえばいいのにー」
 ぎょっとして私は食器を洗いかけていた手を止めた。安堂さんは私の視線をとらえて、邪気のない笑顔になる。
「そう思いません? この臭い」
「……死んでほしくないひともいるから」
「そうか」
 安堂さんは短くうなずき、
「やっと笑ってくれたね」
 と、くだけた口調で言った。灰皿をシンクに置いて、私の右側に立ち、泡のついた食器をすすぎにかかる。手際のいいひとだ。
「正直に話すわね。こないだの会話、聞いてたの。楽しそうで入っていけなくて。だけど綾野さんがクールで、ほかの女のコは必死に結婚相手を探してるっていうのに、なにこのコ、って最後に思っちゃったのよ」
「……なるほど」
「それから綾野聡美さんだと判って、とっくに彼氏がいるのに黙ってるんだねっていうのがイヤミの言葉になっちゃった」
 ……は。
「えっとそれは」
「完全なやつあたりでした。だから『ゴメンなさい』嫌な女で」
 濡れたままの手を下ろして、頭をさげる。私が何か言おうとすると、顔を上げてくれた。穏やかな表情だったので安心した。
「いえ、いいですけど、あのう……どうしてそのことを」
 社内恋愛なんて結婚前にバレたらロクなことにならない。せめて婚約できるまでは秘密なのだ。恵子にも話していない。誰にも。
「わたし、社内片想いしてたの。ふられちゃった恋敵が綾野さん」
「そっそうだったんですか。でも私――」
 事情が呑みこめた。あっちが喋ったのだ。そういうひとだった。
「すぐ自己嫌悪しちゃった、独りで抱えこんでるとダメね。なかなかいいひと見つからないし、相談できるひとが近くにいなくって」
 そういえば恵子が言っていた。安堂さんは紅一点だと。
「心配しないでね、気持ちはとっくに冷めてるの。それに綾野さんの人柄、判ったから」
 洗い物は瞬く間になくなった。今度は布きんを取りながら、私は黙って聞いていた。あの忘れ物は私を試したのかもしれない。さっきのことも。別に腹は立たなかった。
「ひとつだけ忠告させてくれるかしら。海外担当の営業マンて、計算高いところがあると思うの。気をつけたほうがいいわよ。説得力ないかもしれないけど」
 言葉を選んでくれているのが判る。
 私は本当の嘘つきになりたくなかったので、思いきって言うことにした。ひとこと。
「別れました」
 数秒、沈黙が流れた。
「……フラれちゃった?」
 遠慮がちに、安堂さん。
「フっちゃった」
「あはは。そっか。オトコに幻滅しちゃったら、恋愛なんか当分いらないわよね」
「まあ、そういうことです」
 傷口に塩みたいに図星だったのに、私は素直に笑っていた。
「なんだか、よかったわあ、綾野さんと知り合えて。クリスマスのケーキ、一緒に食べない? ダメかしら女同士で」
「いいですよ。ディナーつきでも」
「やった。だけどさすがに夜までは無理よね。20世紀最後だっていうのにね……」
 きわどい冗談をしみじみ言うので、私はおかしくなって冗談をうわのせした。
「うちのチビ貸しましょうか、オスです犬ですけど」
「へえ、なにイヌ?」
「雑種でテリアか何か、マルチーズとか。黒いんですけど」
「うわー暖かそう」
 定時のチャイムが響いた。濡れた食器もなくなった。
「あの、ねえ」
 綺麗になった食器を盆にのせて給湯室を出ようとすると、安堂さんが改まって言った。
「わたしも綾ちゃんて呼んでいい? 敬語つかわなくていいから、後輩なんだし」
 私は苦笑してうなずいた。
 そして心のなかでサンタクロースにおねだりしてみる。
 私たちに素敵な21世紀をください……と。
(了)
(初出:2012年05月)
登録日:2012年05月02日 11時39分
タグ : クリスマス OL

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