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樹都
著者:樹都(いつきのみやこ)
書棚に文学全集を並べていた母と、階段裏に自作ラジコン飛行機をずらりと並べていた父。学研のまんがひみつシリーズと水木しげるの妖怪百科。地元の図書館の児童向けホラー/SFの全集。こっそり買った古いアメリカのヌード写真集と、推理小説のカバーをかけた官能小説。90年代のライトノベルと花と夢。これらを混ぜると樹都になる。
小説/現代

落ちた

[読切]
落ちたのは私の顔だった。しかし、誰もそのことに気が付かない。どこに置き忘れようかと考えた私は…。現実の顔と社会の中で作り上げてきた顔。男は何を捨てたのだろう。
 顔が落ちた。

 通勤のために駅の階段を上っていた時のことだ。
 ぱさり、と、これから踏み出すべき段にパンの皮のようなかさついたものが落ちた。なにかと目を凝らしてみると、それは私の顔だった。
 動揺した。
 しかし後ろからも大勢の人が階段を上っているから、そこでいつまでも動悸を抱えているわけにはいかなかった。私は顔を拾い上げると、鞄と一緒に胸に抱え込んだ。そして極力なにごともなかったかのように人の流れに乗って階段を上りきり、ホームに出た。
 顔は手にすると実に軽く、乾いていて質感に乏しい。こんなものが私の顔なのかとがっかりする心持ちが湧きあがった。
 電車が来て人々が乗り込んで行く。満員電車にぎゅうぎゅうと詰め込まれて行く。一緒に乗り込もうとして、私の足は止まった。顔が落ちたままで人の隙間に入る気には、どうしてもなれないのだった。
 会社に行かなくてはならない。けれどそれはこの電車でなくても間に合う筈だった。

 鞄と顔を抱えて洗面所に行った。
 鏡で見る私は茫洋としていて、じっと眺めてみてもなに一つ印象に上ることがない。顔がないのだから当然と言えば当然だろう。人影、という言葉がしっくりくる。影なのだ。人ではなく。
 それから手にした顔をじっと見た。かさついて薄っぺらい顔の向こうに、鞄の皮の色が透けている。だからそれは余計に顔色が悪く見える。
 のっぺりとしていて、そのくせくしゃくしゃで、一言でいってくたびれきっている顔だ。
 こんなものが私の顔なのかとがっかりする心持ちが再び湧きあがった。しかし同時に納得もしていた。なるほど、これが私の顔なのだ。
 生活も、仕事も、上手くいっているとは言い難かった。
 上手くいっているとは言い難いというのは実のところ遠回しで不足した表現で、本当のところこのごろの私は疲れきり、焦りきり、限界であった。
 だからだろうか。
 不思議なことに、顔のない私と落ちた顔が有っても、再びそれを一つにしようという気にはならなかった。どうすればくっつけられるのかということも考えなかった。
 代わりに考えたのは、どうすればこの顔をさりげなく、他人に気取られず、置き忘れることができるかということだった。
 私は左右を見、少しの間待ち、バリアフリーの広い便所に入った。大きなボタンを押して扉を閉めると、深呼吸をしながら胸の中で百数えた。
 それから洗面台の奥の段になったところに、ふか、と私の顔を置いて、個室を出た。

 再びホームに出ると、新たな電車に新たな人々がすし詰めになっているところだった。
 やはりそこに加わる気にはなれなくて、ベンチに座り込んだ。
 一時間ほどだろうか。人がホームに溜まり、電車に乗り込み、運び去られて行くのをただ眺めた。すると電車は急にすいて、空席が見つかるようになった。そうなって初めて私は電車に乗り、席に着き、ぼうっと向かいの窓を見やりながら揺られていった。

 会社がある駅で立ちあがったのは身にしみついた習慣だろう。だがそこで降りてどうなるというのだろうか。顔は置いて来たのだ。私は吊革につかまり、さらに二駅分、吊り広告を眺めながら電車に揺られ続けた。

 たった二駅先に行っただけで、そこは未知の場所だった。
 降り立ったホームからして、私が電車に乗り込む駅とも毎日降りる駅とも勝手が違っていた。
 左右をうろうろ見ながらホームを出て、ポケットの小銭で切符を清算して、駅をあとに知らない街に漂い出した。
 鞄を電車の中に置いて来たのに気づいた。舌打ちはしなかった。そもそも舌どころか顔がない。舌打ちするような心持ちにもならなかった。ただ、ああ、忘れていたな、と思っただけだった。顔がないと人の心はいちいち起伏しなくなるのかもしれない。

 駅前のデパートに入った。すれ違う人々はだれ一人私の顔がないのに気が付かない。あるいは私というものはもういないことになっているのかもしれない。
 あてどなく、しかしあてがないことに焦りも感じず、ただ歩きまわる。
 歩き回りながら私が考えていることと言えば、次は携帯電話をどこに置き忘れようかということだった。
 デパートの空調はぬくく、暖かい水の底を遊泳しているような心持ちにさせられる。
 胸中はただ穏やかだ。
(了)
(初出:2012年03月)
登録日:2012年05月15日 15時19分
タグ : 不条理

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