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天野雅
著者:天野雅(あまのみやび)
埼玉県生まれ、千葉県育ちの関東人だった。結婚を機に関西の人間になる。現在は関西とも東海ともいえる近畿地方に在住。10年経って方言にも慣れた。血液型はマイペースで知られるB型。住めば都を地で行く性質。ネット作家歴20年。同人作家歴はプラス5年。趣味は映像鑑賞。写真撮影。歌唱。創作料理。好物は自然万物一般。美術芸能一般。パソコン。ゲーム。漫画。文章。
小説/現代

愛していたひと

[読切]
傘を貸してもらった縁で、お茶をするようになった聖人と菜摘。いつものように家に入ると、菜摘の嗚咽が聞こえた。あわてて室内に入ると、そこは夫婦の寝室だった。甘やかな恋情の行方は?
  1.

 白い息を機関車みたいに荒く吐きながらバス停までたどりついた丁度そのとき、大粒の水滴が聖人(まさと)のひたいを叩いた。
 ――くそっ。
 舌打ちして、誰もいない道端で中途半端に長い前髪をかきあげる。
 バス停は坂の頂上にある。聖人は今、裾にある自宅から登ってきたところだ。
 バスは頂上の手前の角からあらわれて坂をほんの数メートル登り、あとは反対側の斜面をまっすぐ下っていく。誰がそんなコースにしたのだろうか。坂の下から登る人間にとって、途中でバスを目にしたときには走っても既に手遅れ。あるいは坂を登りきってバス停にたどりつき、反対側の坂を下っていく後姿を見て初めて行かれてしまったと分かる。朝っぱらから気分はサイテーだ。腹立たしさを誰にぶつければいいのか? 自分しかいない。
 もちろん出発時刻前に停留所に並んで普通に乗りこめばいいのだ。
 聖人は肩を落として再び派手に息をつき、腕時計と目の前に貼りつけられた時刻表を見比べた。しかし次の便までたとえ30分以上あったとしても、家に戻り、また登ってここまで来る気力はない。
 通勤ラッシュを過ぎ、昼前の主婦の買い出しには早い、エアポケットのようなこの時間。市道はひとも車もまばらだ。ふりむいて曲がり角をにらむがバスは見えてこない。
 玄関のドアを開けたらもう、空は暗くねずみいろに濁っていたのだ。だが時間はギリギリ、予備校に遅刻しそうで傘を取りに戻る間も惜しかった。
 予備校は私鉄線最寄駅の隣駅前にあり、直行バスで50分かかる。30分乗って駅で降りて電車に乗り換えても行けるが、連絡が悪いためバス1本の方が早く着く。平日は午前中の1コマと午後の3コマ、土曜日は午後の4コマ、それ以外の時間はもっぱら図書館で過ごすのがこの冬に入ってからの日課だった。
 どうしよう、このままバスが来なければ、行ってしまった直後だってことだ。
 ほかにバスを待つ利用客の姿もない。
 聖人が焦り思考をめぐらせる間も、雨は休みなく降り続き、だんだん大粒になってきた。
 雨よけは何もない。せめて帽子をかぶってくればよかった。
 落ち着かない視線でぐるりと一周、首をめぐらすと、後ろの家の門の向こうに人影を見つけ、誰もいないと思っていた聖人は慌てた。
 見通しの良い鉄柵の門扉を隔てて、白いガウン姿の女のひとが、家の方を向いて立っている。こちらから顔は見えない。
 背中まで垂れたストレートの黒髪が、じっと動かずにいるので聖人はなるべく気配を殺すようにして安堵したが、雨粒が大きくなるにつれて動かない後ろ姿が気になってきた。
 彼女の位置から、家の庇まではざっと2メートルもある。それなのに雨に降られているのに気づいていないかのようだ。
 濡れますよ、のひとことが聖人の頭の中でぐるぐるまわりだした。
 門柱の表札は中河原。聖人はいったん視線を外し、もう1度時刻を確認した。次のバスまでは20分以上もある。今この場にいるのは自分と彼女のふたりきりだ。
「あのう、」
 彼女の髪が一束、冷たい風に揺れたのだ。それに誘われるように、聖人は声を発してしまった。
「中河原(なかがわら)さん、濡れますよ」
 名前を呼ばれて、相手は反射的にふりかえった。聖人が息をのんでしまうほど、肌の白い、黒目がちの鼻筋の整った顔立ちをした二十歳前後の若い女性だった。化粧していなくても充分いける。子供が2、3人いそうな主婦を想像していた聖人は二の句が継げず、まじまじと大きくみひらかれた瞳を凝視してしまう。
 お互い、数秒そうしていた。
 先に我に返ったのは女の方だった。
 うつろにも見えていた白い頬にすっと赤みがさし、くちもとがぎこちなくほころぶ。
「あ、えっと、うちに何か?」
 用があって訪ねてきた、と思われて当然だった。聖人は急いで顔の前で手を振った。
「いや、ただ、雨が降ってきたから、その」
 声をかけたことを後悔した。不審に思われそうだ。
「バ、バスを待ってるんです、オレ。それでその」
「ああ」
 しどろもどろで言い訳していると、言い終わらないうちに勝手に納得して彼女は頷いた。
「ちょっと待っててください」
 今度はつくり笑いでなく自然な表情になり、石畳にサンダルのかかとを鳴らして数歩、玄関ドアを開けて中に消える、かと思うと扉は閉まらず、半身になってすぐに出てきた。
「お困りでしょう。1本でいいのかしら?」
 雨の中また戻ってきて、門を引き、聖人へ白いビニル傘を差し出す。自分の分は持っていない。
「やんだら捨てて構いませんから」
「と、とんでもない」
 そんなつもりで話しかけたわけじゃないのだ。
 聖人は今度は両手を振りながら遠慮しようとした。
 そうするうちにも雨は勢いを増してくる。暖かい日ならともかく、吐く息が目に見えるほどだ。風も強く、身にしみる。聖人は彼女が寒いだろうと気づいてコンクリートの段をひとつ上がり、傘を受けとった。
 ふたりの距離がぐっと近づいたので、聖人は少し緊張した。
「すみません、必ず返します。オレ、坂の下の8番町の鹿狩(かがり)です、鹿狩聖人」
「中河原です。って、ご存知だわね」
 澄んだ目をほそめてふっくらと柔らかく笑い、
「菜摘(なつみ)です。いつも大抵、家におりますから」
 聖人は自分と同じ年くらいと見当をつけていたが、身のこなしや話し方からしてもう少し上かもしれないと考え直した。大学卒業後、自宅で家事手伝いをしている箱入り娘。そんなところだろうか。予備校に通う女の子達とは、どこか違う。
 聖人は傘を持つとすぐに開き、腕をのばして家の敷地から出ない彼女を入れてやった。背中に雨粒が当たるのは気にしない。遠慮がちに彼女が数センチ寄ってきた。
「いつも、こんなふうに」
 言いかけると、
「え?」
 思いがけず目の前で笑顔を向けられて、聖人は妙な親しみを覚えた。高校のとき、片想いしていたクラスの女子生徒と雑談しているみたいな。
「誰かに貸してんの?」
 気分が口調に出てしまった。
 雰囲気がほぐれたことで、菜摘も気が楽になったようだ。
「ないわ。初めて。滅多に外に出ないし。今日は……」
 そこで視線をそらした。さっきじっと立っていた場所を片手で示し、
「あれを」
 聖人に説明を続けたときには、明るい顔になっていた。
「クリスマスからつけてたイルミネーション、お正月も終わったし、もう外さないとね」
 聖人も目をやった。玄関ポーチの右側、おとなの背丈ほどのヒイラギの木に、黒い実がなっている。ぎざぎざの緑の葉をつけた枝にいくつか小さな電球が垣間見えた。
「雨が降ってきちゃったし、また今度にしようかしら。結構大変なの、蜘蛛がいたりして」
「ああ、それでさっき、困ってたわけか」
 聖人は相槌のつもりで言ったのだが、
「え、ええ、まあね」
 菜摘の返事は曖昧に誤魔化すような響きを帯びていた。
「あ。バス来た」
 ふたりは同時に気がついた。どうやら遅れていたらしい。

  2.

 物事はタイミングが肝心だと、聖人は過去19年の人生で確信していた。
 たとえば学校行事の最初の全体会議などで、隣の席の女の子と初めて会った気がしないくらい話が合うとする。それで次の会議のとき話しかけようとすると、「雑談は禁止」などと議長に注意されカッコ悪くて2度と声がかけられない。
 卒業のときは予餞会の準備で違うクラスの女の子と親しくなり、電話番号まで教えてもらったのに、大学入試で落ちてそれどころではなくなった。
 知らない者同士のほうが最初は盛りあがりやすい、ような気がする。だが次だ。きっかけを逃してしまうのだ。次へのステップにどうにも進めない。
 そんなこんなで彼女いない歴19年。
 菜摘との数分間のやりとりで、聖人は彼女となら、という印象を抱いた。借りた傘を捨てるなんてもったいない。礼儀正しく返して、その場で次へのとっかかりをつかむ。デートに誘うのは唐突すぎてムリとしても、お礼に何がいいか聞くとか、彼女がまた会いたいと感じてくれるような、そう、そんな話をするのだ。
 一浪の身でも、彼女は欲しい。むしろ、二浪しないためにも、励ましてくれる彼女が欲しかった。受験日当日まで、あと1ヶ月あまり。
 翌日も翌々日も、雨も雪も降りそうになかったが聖人は白いビニル傘を手に予備校へ通った。
 とはいえ恋愛よりは勉強が優先なのは仕方がない。朝はゆっくりしている時間もないし、その足で図書館へ行ってしまうと、閉館するころには陽が暮れてしまう。
 中河原家の前でバスを降りると、なぜか門灯をともす家は少なく、街灯の真下以外はほとんど真っ暗である。時刻はともかくそんななか訪ねるのも非常識なようで気がひける。かといって土日は出掛けているかもしれない。平日のほうが確実に会えるのではないか。
 予備校に遅刻するか、図書館をパスするか、ぐたぐたと決めかねているうちに3日目の朝がきた。
 聖人は傘を手にバスを待ちながら、改めてまじまじと中河原家の玄関先を眺めた。時間を置いたことで心にゆとりができたのかもしれない。珍しく発着時刻まで余裕があって、バス停の周囲には見咎める人間もいなかった。
 このあたり一帯、海と山に挟まれた田舎町で、最も近い地方都市へも快速電車で1時間かかる。切り開かれた山の斜面に戸建の家ばかりがひしめく分譲地だ。
 聖人も2階建の木造家屋に住んでいる。ちなみに両親とOLの姉がひとりいて、猫も飼っている。さすがに小さな子供のいる家ほどではないが、始終なにかとかまびすしい。玄関ポーチには牛乳の空き瓶が置いてあったりするし、ガレージには乗用車と原付バイクと数年置きっぱなしの自転車がぎちぎちに詰めこまれている。
 中河原の家にも、門柱から左手にアコーディオン式のシャッターがつながっていた。今はからっぽだ。車は持ち主が乗っていっているのだろう。けれど、それ以外の何も置かれていない。バイクも自転車も、園芸道具とか、洗車用品ですら。
 気がついて、家に目を戻した。道路に面しては玄関と、右横に一対の雨戸が閉まっている。玄関には曇り硝子がはまっていて、内側に傘立てが置かれているらしい。黒い色。黒い傘が立ててあるようだ。2階はバルコニーが庇代わりに出っ張っていて、見える限り洗濯物も物干竿も出ていない。
 他には先日菜摘が気にしていたヒイラギが1本。電飾は外されている。門から玄関まで敷かれた石畳。
 それだけ。
 家の反対側には、庭があるのだろう。ガレージともつながっているかもしれない。
 それにしても簡素だ。
 聖人は不思議に思った。
 壁は綺麗だし、新築なのだろうか。引っ越してきたばかりなのかも。
 高校時代には別ルートで自転車を走らせていたから分からない。
 この家には菜摘以外に誰か住んでいるのだろうか。
 独り暮らし……なわけ、ない、よな。
 心のなかでつぶやいた。なんというか、ひっそりと、この家は息を殺して建っているようだ。
 首をひねっていると、突然、
「おはよう、ございます」
 上から声がして、見ると、菜摘がバルコニーの手すりからこちらを覗きこむようにして微笑みかけてきた。
 聖人がびっくりして挨拶も忘れていると、菜摘は傘に気づき、ちょっと待っててください、と言って家の中に引っ込んだ。聖人はそろそろ他の客も集まりだすバス停のそばから中河原の家の門前まで歩いていった。コンクリの段を上がり、試しに銀色のバーを握ってまわしてみると、鉄の門は静かに開いた。玄関から菜摘が出てくるのと同じタイミングで、聖人は石畳へ踏み出した。
「えっと、先日は、どうも」
 一礼して言う。足は止めない。人前で彼女を口説くのはどうかと思ったので、なるべく停留所から離れたかった。菜摘は笑みを崩さずに、ポーチに立って聖人が近づくのを待っていてくれた。
「いいえ。わざわざこんな天気のいい日に持ってきていただいて、すいません」
 そうそう。傘を返すのが先だった。聖人はさりげなく握りしめていた手をゆるめ、なんでもないふうに傘を彼女へさしだした。
「こっちこそ、助かりました、ほんと」
 渡してしまったら、終わりだ。背を向けて、停留所に戻り、やってきたバスに乗りこむしかない。折り良く背後にエンジンの音が聞こえてきた。
「あの? バス、来たみたいですよ」
 動こうとしない聖人に、菜摘が言う。聖人はきっぱり、首を横に振った。
「まだ時間、あるんで。大丈夫」
「あ、そうなの?」
 そういえば傘を借りたとき、成り行き上たまたま乗りこんだ時間は今より少し遅かった。菜摘は単純に納得してくれたようで、ひとつ頷いたあと、
「じゃあ、お茶でも、いかがですか?」
 聖人が次の言葉を考える間もないうちに、菜摘のほうから誘いの言葉が出た。反射的に聖人は喜びいっぱい顔を輝かせて、ドアを開く菜摘の後ろに続いた。
「ちょうど良かった。昨日ね、フルーツケーキ、焼いたところだったの」
 菜摘は玄関でスリッパを聖人に勧めたあと、まっすぐにのびる廊下をつきあたりまで案内した。途中、右手に階段があったり、左手にドアがあったりした。フローリングの床はワックスの施された木目地、壁紙はパステルカラーの柄で明るく、天井の白熱灯に照らされてなんとも人工的で簡潔な感じがした。空気に塗料と糊の匂いが混じっている。
「もしかして、この家、新しい?」
 無難そうな言葉を選んで聖人は質問した。立ち入ったことを聞くようなまねはしたくない。
 廊下のつきあたりにはスリカット硝子を8枚はめこんだインテリアドアがあり、菜摘が手前に開くと、打って変わって明るい自然光が目に飛びこんできた。そこは10畳以上もあるリビングルームで、横に長い室内の、正面南側に白いレースのカーテンを引いた4枚開きのリビングサッシがはめこまれていた。
 右手に応接用のソファとテーブル、サイドボードとオーディオシステムが隙のないTVドラマのセットみたいに置かれ、続き間への扉がある。左はカフェ仕様の椅子がふたつ並んだオーク材のカウンターを隔ててダイニングスペースになっている。
「そう。素敵でしょ。去年引っ越してきたばっかり」
 菜摘の答えは想像どおりで簡単なものだった。できればそれ以上の説明を聖人は期待したが、なかった。
 調理棚にしつらえた出窓から射しこむ朝日で、磨かれたシンクがカウンター越しに銀色の輝きを放つ。
「あの、他に誰か、いないの」
 思わず聖人は質問していた。菜摘は聖人に応接セットのソファを示して、自分はキッチンに立った。
「この時間は誰もいないわ」
 菜摘の声が一瞬、カウンターの奥でくぐもって聞こえた。冷蔵庫のモーター音。扉を開けて、閉める音。
 聖人はサイドボードを背にしてキッチンが見える位置に坐った。けれど菜摘はカウンターの向こうで調理棚にあるストッカーを開けていて顔が見えない。
「正直言うとね、私、こっちに来てから日が浅くてまだ友達がいないの。ケーキなんか作っちゃったけど、どうしようって思ってたのよ。独りじゃ食べきれないし」
「そっか。あ、オレ、ケーキ大好き。どっちかっていうと和菓子より洋菓子派」
「とっておきのリーフティ出しちゃうね。おくちに合うか分かりませんけど」
 切り分けたケーキと紅茶をトレーに載せて、菜摘は向かいのソファについた。
 聖人は時間を気にしつつも、午前中いっぱい、話を弾ませてしまったのだった。
 そうして、聖人は勉強のスケジュールになるべく差し支えのない月曜日と木曜日の週2回、定期的に午前のお茶に招かれるようになったのである。
 なんの疑問も持たずに。

  3.

 2月14日、聖人にとって、いやおそらく日本中の男たち皆にとって運命の月曜日。
 菜摘はチョコレートケーキを約束してくれている。
 大学入試は数日後、合格発表は3月はじめ。受かったら、ホワイトデーにデートしよう。
 聖人は心のなかでそう決めていた。
 まだ、お互いに告白もしていないし、そんな雰囲気でもない。ただ、ご近所の顔見知りという仲よりは親しくしている。と思う。
 週2回のお茶友達からそろそろ脱したい。バレンタインデーは次のステップに進みたいと願う聖人にとって絶好のチャンスだった。
「菜摘さん、おはよう……」
 バス停に人の来ない早めの時間に中河原の家を訪れ、慣れた足どりで門を抜け、鍵の開いたドアを引く。声をかけると、いつもはリビングの扉を開けて「いらっしゃい」とにこやかに迎える菜摘が、今日は出てこないので、聖人は背中でドアを閉めて靴を脱ぎながら待った。
「菜摘さん?」
 廊下には微かにチョコレートの甘い香りが漂っている。
 驚かせようと何か仕掛けでもして、リビングで待っているのだろうか。
 いつものスリッパを履いて、廊下を歩きかけたとき、上階で物音がした。階段の下に立って、見上げる。天井近くの明かり採りの窓が白く光っている。動く影は見えない。
「菜摘さんー、いるの?」
 もしかして彼女以外の家族の誰かがいるのだろうか。
 ずっとふたりきりで会っていたので、他の住人の存在を今まですっかり失念していた。
 考えられる同居人といったら親か? 姉妹は?
 聖人は改めて自分が彼女の何も知らないことに気づいた。週に2度も彼女の手作りケーキをご馳走になりながら、趣味や思い出について、聖人の身の周りの話をするばかりで、この家に他に誰が住んでいるのかさえ、菜摘は聖人に話してくれていない。
 もし何かあって菜摘は留守で、代わりに母親がいたりしたら?
 他人のくせに許可もなくあがりこんでいる自分は、泥棒みたいではないか。
 聖人は玄関に戻ろうとした。が、人の気配を感じて聖人は足を止めた。
「……鹿狩くん?」
 菜摘の声だ。いつもならスッキリとほがらかに通るはずの声が、どこか押し殺したように低く響いてきた。
 聖人はためらいがちに階段の手すりをつかみ、踊り場へのびあがるようにして返事をした。
「うん、菜摘さん、2階? どうしたの? そっちに行こうか?」
「……」
 返事はない。代わりに、低い音が長くのびて耳に届いた。菜摘の声だ。聖人は焦った。
「泣いてるの?」
 今度はこらえきれなくなったのか、はっきりと菜摘の嗚咽が聞こえはじめた。
「待って、泣かないで、大丈夫」
 バッグを足元に置き、急いで階段を上がる。艶やかな光沢のある板張りの階段は途中の踊り場で90度方向を変え、聖人を2階のフロアに誘導した。窓を背にしてL字のフローリング。つきあたりに花瓶の乗った本棚、両端に同じような木製の室内ドアがあるのみだった。
 右のドアが細く開いていて、菜摘の泣き声はそこから漏れていた。
「入るよ、菜摘さん……」
 肩で押し開き、踏み込んで、聖人は立ちすくんだ。菜摘が駆け寄ってきた。両腕で抱きとめる。しかし彼の目は室内に釘付けのまま、今の自分の状況すら頭に入っていなかった。
 8畳ほどの洋間。入り口と反対側に、床まで垂れた白いレースのカーテン、アルミサッシの向こうにバルコニー。
 そこはひとめ見れば誰にでも分かる。
 中央に立派なダブルベッドの置かれた、新婚夫婦の寝室だった。
「まさか、あの」
 言ったつもりだが、菜摘の泣き声が胸に響き、本当に自分が喋ったのか実感がない。聖人は菜摘の肩をつかんで目を合わせるようにして少し上体を離し、自分にも確認しながら再び口を動かした。
「菜摘さん、あの」
 結婚してるの? のひとことが、聖人ののどに貼りついて出てこない。まさか? ここは菜摘の両親の部屋なのだ、きっとそうに違いない。
 あの飾り棚に行儀よく並ぶアンティークドールのコレクションも、ブックエンドに立てかけられたお菓子のカタログみたいな雑誌どもも、みんな彼女の母親のものなのだ。
 聖人の必死の思考も、泣きながら紡がれる菜摘のせりふで水泡に帰した。
「もうだめ。助けて、夫とはもうだめなの、鹿狩くん、助けて」
 焦点の合っていない、涙のあふれる眼が聖人を呑みこもうとする。彼の鼻腔を甘い香りがくすぐった。菜摘の体臭だろうか? バニラエッセンスの匂い。それともチョコレート?
 再び菜摘の身体が強く押しつけられ、腕が引かれてなにがなんだか分からなくなって、気がつくとふたりはベッドに倒れこんでいた。
「お願い、……助けて。私のこと、嫌いじゃなかったら、……お願い」
 すすり泣く菜摘は繰り返し、細い指で聖人の顔に触れると唇をふさいだ。フリースのベストと薄手のセーターを通して、柔らかい感触が彼を押し包む。長い髪が指にからんだ。
 聖人の目の奥に白い光が一瞬はじけ、理性が吹き飛びそうになる寸前のところで、彼は踏ん張った。
「ま、待った。菜摘さん、しっかりしてくれ。待って」
 もしも。
 今日がバレンタインデーではなく、ここが夫婦の寝室でなく、聖人が菜摘を好きじゃなかったら。そのまま、抱いたかもしれない。
 聖人はしがみついてくる菜摘の腕をひきはがし、泣き続ける両肩をしっかり抱きしめた。耳もとに、強く囁く。
「落ち着いて。頼むから。話して。どうしたの」
 菜摘は泣きながら体をよじり、聖人の問いを無視して慰めを得ようと体当たりをしてきたが、ベッドに仰向けのまま聖人はもう動じなかった。
「僕は菜摘さんが好きです。本当だよ。嫌いじゃない。だから好きなひとには、浮気とかしてほしくないんだ」
 激しい息遣いのなかで菜摘の嗚咽がやんだ。
「菜摘さんは? 誰が好きなの」
 追い討ちのひとことで彼女の全身からぐったりと力が抜けた。長いこと、聖人の腕のなかでしゃくりあげていた。何度目かのバスのエンジン音が近づいて遠ざかる。そのうちやがて落ち着いたのか聖人にもたれていた上体を起こし、うつむいたまま顔を拭った。
「階下(した)に行こうか」
 聖人が言うと、菜摘は頷いた。
「顔を洗ってくるから……、ソファで待っててくれる?」
「うん」
 聖人は先に立ち、ゆっくりとベッドから離れた。部屋から出るとき、小さく菜摘が言った。
「ごめんなさい……」
「うん」
 聖人は微笑みを返そうとしたが、うまくいかなかった。
 そのまま階段を降りると、少し遅れて菜摘もついてきた。洗面所は1階のトイレとバスルームに挟まれている。床の荷物を拾い、リビングのドアを開けたとき、水音がした。聖人はそのまま部屋をつっきって、庭から帰りたい衝動にかられた。
 冷たいスイートホーム。なんて場違いなところに自分はいるんだろう。
 このあと、菜摘のどんな話を聞けというのか。どっちにしても、バレンタインの告白どころじゃない。菜摘を恋人にすることなんかできない。夫とうまくいってなくて、相談できる友達も誰もいなくて、ちょうど寂しく感じていた時に聖人と知り合った。友達づきあいしてきたけれど、今日、一線を越えてしまおうと考えさせる何かがあった。または、計画的に今朝、聖人を誘惑しようとした。そんなところなのだ。いくら恋愛経験に乏しい聖人でも、想像はつく。
 そして、そんな説明は聞きたくなかった。
「紅茶、いれるね……」
 菜摘が入ってきた。聖人はやるせない気分でソファに腰かけた。食器の触れ合う音以外、何も聞こえない。静かだった。
 ふと、聖人はテーブルの上に目をやった。下げ忘れたかのようにカップの受け皿がひとつ残され、小さな紙きれが1枚乗っている。
「いつ結婚したの?」
 沈黙を破った聖人の言葉に、後ろ向きの菜摘はぴくりと肩を震わせ、諦めに似た感情のにじむ弱々しい声で答えた。
「2年前。結婚して、去年の秋にこの家を買って、引っ越してきたの」
 そのまま聖人が黙っているせいで静寂に耐えられなかったのか、菜摘は説明を始めた。
「彼は、私が入社してすぐに知り合った会社の先輩で。それなりの収入があったから、私には働かなくてもいいって。2年で辞めちゃったからキャリアもないし、再就職なんかムリで。ここに来てから、ずっと、何していいか分からないの。毎日毎日、だんだん、なんか、仕事で忙しい彼の家政婦みたいになってきちゃって」
 菜摘はとっくに紅茶をいれていて良いはずだったが、キッチンに立ったまま、聖人のそばへ来ようとしなかった。
「帰り、遅いの。マンションにいたころはそうじゃなかった。今は休日の土日も、出勤ばっかり。彼の収入が頼りだから、仕方がないの。でも……分かってるんだけど、なんだか。私じゃなくても、良かったんじゃないかって。ただ世話してくれるひとがいれば、あのひとは満足みたいで。私が何を考えているのか、毎日どう過ごしているのか、きっとどうでもいいの。家がここにあって、誰にも邪魔されないような」
 菜摘はだんだん饒舌になり、いらだちにまかせた大きな声で、胸に溜めていた澱を吐き出し続けた。
「ねえ見たでしょう、玄関のヒイラギよ、彼があれだけは植えたいって最初に。どうしてか、ずっと分からなかった。この前初めて気づいたの、あれって魔よけでしょう? バカみたいよね。あのひと、あんなもので家と私が守れると思ってるの」
 菜摘ののどが乾いた笑い声をたてた。聖人は黙っていた。
「家の掃除して、お洗濯して、料理して、お菓子つくって、そんなことばっかり。もしこのまま……ありえないけど、子供ができたらなんて思うと、ぞっとする。鹿狩くんが来てくれるようになって、嬉しかった……」
 菜摘の声は徐々にトーンを落とし、黙りこんだ。呼吸が乱れ、溜め息が震える。聖人はたまらなくなって言った。
「ケーキ」
「……え?」
「チョコレートケーキ、作ってくれた?」
「あ、うん、ごめんなさい。今切るね。紅茶と一緒に持っていくから待っ」
 聖人はうつむいて、テーブルの上の紙きれを見つめた。冷蔵庫の扉が開く音。あ、と菜摘が息を呑む。
「姉貴がさ」
 聖人は話しはじめた。冷蔵庫の扉を閉める音が聞こえない。
「地元の会社に勤めてるんだけど。バツイチなんだよ。旦那が浮気相手と子供つくっちゃって、離婚したんだ」
 だからね……聖人は長い息をついて、話を変えた。
「早く気づけばよかったよ。菜摘さんがケーキを焼くのは、ずっと旦那さんのためだったんだね」
 僕はただの旦那さんの代役。
 つぶやく。菜摘の返事はない。
「オレさあ、姉貴の時に思ったんだよ。どうしてそうなる前に、ちゃんと夫婦で話し合わないのかなって。不平や不満なんていつも一緒にいるんだから、出て当たりまえだよ。話して解決しなきゃ、伝わらないまますれ違って、やっていけないさ。ずっとそばにいたかったら、失いたくなかったら、勇気出して心を開かなきゃ。みっともなくたって必死に恋愛できなかったら、永遠の愛なんか誓えないだろ」
 紙きれを取って、立ちあがる。
「そのチョコレートケーキは、もらえない。もしオレが大学に受かったら、菜摘さんも頑張って。ちゃんと話し合ってごらんよ」
 分かっている。それとこれとは、本当は別の話だ。だけど聖人は意地を張った。どうしても少しくらい何かで関わっていると思いたかった。
 戸惑いの表情で菜摘がふりむいた。見えるようにカウンターの端に紙きれをのせて、リビングを出る。
 それは伝言だった。
『よく寝てたから起こさなかった。日付が変わるまで帰れないから、食べておく。おいしかった』

  4.

 沈丁花の香りが混じる風のなか。
 早朝の停留所で、到着したバスに乗りこむ客の列の最後尾から、さりげなくひとりが離れてすぐそばの家の郵便受けに白い封筒を落とした。そして駆け戻り、ステップへ飛び乗る。

 サクラサク

 手紙には一行だけ、そう書かれていた。
(了)
(初出:2002年02月)
登録日:2011年06月07日 14時59分
タグ : 恋愛

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    騒人編集部お勧め作品を掲載! 青島龍鳴氏『ファーストキスは鉄の味(前編)』は、退治屋不足のため狐の女王と取引をする帝家。眠太郎懺悔録シリーズ。樹都氏『ヤミネコ』。猫にまつわるあらぬ話。阿川大樹氏『作家の日常』では、お金にまつわる話しを赤裸々に告白。宇佐美ダイ氏『LeLeLa』。美智子は朋子に“気”を扱うための栓を抜かれるが……。綺羅星沙々羅氏『太陽は君に輝く』はククルの森に入った一行の前に難敵が出現。南川純平氏『ポトゲラヒ』。下田にやってきた久之助は写真術を学ぶ機会を得る。いちばゆみ氏『ゆうきゃんの人生迷走案内』。電車で見たポスターに思い出したのはカオルくんのことだった。あのとき、何が出来たろうか? (小説現代
  • 投稿WEB小説『Sohzine.jp』Vol.8  (2015年08月20日 17時24分)
    騒人編集部お勧め作品を掲載! 浅川こうすけ氏『恋人ボックス』。モニターに映し出された恋人、デアルを独り占めしたい村木は作戦を練る。天野雅氏『永遠の海』。中学三年の千彩子。案内された崖の上。彼女の計画とは? 阿川大樹氏『作家の日常』は編集者との出会いについて。宇佐美ダイ氏『LeLeLa』は逃げ出した美智子の前に“新人類”を称する吸血鬼が現れる。綺羅星沙々羅氏『太陽は君に輝く』では、貴族と一般人の混合チームで試験に挑むことに。新連載、南川純平氏『ポトゲラヒ』は日本における写真の開祖、下岡蓮杖の青春を描く。おおみち礼治氏『宣う躰 キンタマチェック』は当時十六歳だった著者の入院録。今号も面白いに決まってる! (小説現代

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