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天野雅
著者:天野雅(あまのみやび)
埼玉県生まれ、千葉県育ちの関東人だった。結婚を機に関西の人間になる。現在は関西とも東海ともいえる近畿地方に在住。10年経って方言にも慣れた。血液型はマイペースで知られるB型。住めば都を地で行く性質。ネット作家歴20年。同人作家歴はプラス5年。趣味は映像鑑賞。写真撮影。歌唱。創作料理。好物は自然万物一般。美術芸能一般。パソコン。ゲーム。漫画。文章。
小説/現代

潮騒の伝言

[読切]
9年ぶりに会ったテルエは相変わらずだった。平日の昼間、「つきあわへん?」というテルエにフミやんはうなずいた。水族館で中学の思い出話に花を咲かせるふたり。そして、数日後、テルエから手紙が届いた。はかない恋心の行方。
     1.再会


 暖かい、とはお世辞にも言えないが、朝起きた時から水色にひろがる空が高く、風のない穏やかな日だった。
 坂の途中、上からやって来たバスが数メートル先の停留場に止まろうとしていた。
 僕はうつむき加減に歩道をのぼり、開いたバスの出口を横目に通り過ぎた。何人か降りたらしく背後でパタパタと足音が聞こえた。
「フミちゃん!?」
 のどかな空気を破って、後ろから。
 ケタ外れに甲高いその声は、ハッキリと僕の耳に届いた。
 でもまさか自分のはずがないと思って振り向かずに歩き続けた。
 僕をそう呼ぶ女の子が身近にいたのは高校くらいまでの事だ。
 その声に聞き覚えもなかった。たぶん若い女性のものだ。
「あン待って、マスガワフミヤくんっ!?」
「えっ?」
 はじかれたように振り返る、びっくりしすぎて立ち止まるのを忘れてしまい、もう少しで前から来た人とぶつかるところだった。
 僕はようやく停止して、声の主を探した。バスの背中が走り去っていく。行き交う人の中から、笑顔を僕に向けて小走りにやってくる女性がひとりだけいた。
「……やっぱり、フミちゃんやったね」
 僕の前で立ち止まると、彼女は破顔して声を弾ませた。カラメル色のハーフコートのポケットに片手をつっこんで、同色のロングブーツの踵を鳴らしながら。もう片方の手は肩から提げた小さなショルダーバッグを押さえている。
「相変わらず細身やねえ。黒いコートに白いマフラーなんかして。すぐ分かったわ」
 ふっくらした唇には赤い口紅。軽くパーマをかけた髪はセミ・ロングで無造作に下ろし、綺麗な紅色の宝石がついたピアスがのぞいていた。背は坂の上と下でよく分からないが、170を少し超える僕の鼻先くらいだから女性としては高いほうだろう。以前同じ学校だった誰かだろうか。
 きらきら輝いた瞳で僕をのぞき込む。僕はそれをまじまじと見返してから、ハッとした。
「テルエ? えっと……、ハタテルエ、さん」
 ぴんぽ〜ん、と彼女、羽田瑛恵は嬉しそうに笑った。
「さんはいらへんわ、テルエでええよ、以前(まえ)のままで」
「うわーっ、久しぶりやないか」
「おおきにありがとぉ、覚えててくれて嬉しいわぁ」
 中学の時の同級生。2〜3年と同じクラスだった。でもそれだけだったら忘れてたと思う。3年の1〜2学期と立て続けに僕が学級委員長をやった時、彼女がやっぱり立て続けに副をやったんだ。
「何年ぶり? ええと」
「9年ぶりやない?」
 メガネの縁に指をかけて考えかけた僕に、テルエが即答して笑った。
「ええっ、そんなになるんかもう。それにしちゃ全然変わっとらんな」
「やあねぇ。女の子には美人になったなくらい言うもんよ。ま、フミちゃんも変わっとらんてことか……少ぅし、背伸びた?」
 そうだ思い出した。
「テルエは東京の大学に行ったんやろ?」
 高校卒業前に同窓会があった。欠席したテルエは試験の下見で上京していると、誰か話していた。
「え? ああ、短大よ。英文科。卒業して、今は……貿易商社で、OLやってん」
「おお。カッコいいやんか。けど東京におったにしちゃ口調も何も変わってないなー。ほんまに関東首都におったんか?」
「いいでしょぉ。変わらん方がええやん」
 照れ笑いする目元に、化粧にも隠れない中学の頃の面影があった。
「フミちゃんは今何しとん?」
「僕……は、まだ大学」
「はン?」
 テルエの目が不思議そうに細まった。
「院?」
 院ていうのは大学院のことだ。
 僕は首を振って、
「電気通信やってて、まだ3年。院は受けないと思う。来年卒業して、就職の予定」
「あはっ、じゃ、あたしが社会人3年生やから『同期』やね」
「なんじゃそりゃ」
 僕は刷毛ではいたような薄雲を仰いでから、気が付いて言った。
「今日はなんでこんなとこまで? 家どこ?」
「家? 今はね、こっち」
「あ、じゃ会社もこっちなんか」
 テルエの家は確か海側にある僕の家とは正反対の山側、離宮公園の向こうだと思った。歩けば軽く1時間はかかるかもしれない。
「それで今日は? 火曜の午前中なんて……仕事あるんやろ?」
 訊くと、ふいっとテルエは僕の顔から視線を外した。だから僕は声をひそめて、
 「まさか……エスケープとか」
 途端に起きたのはテルエの大爆笑。
「やだあ、そんなんするわけないやん。フミちゃんとちゃうもん」
「ちぇっ。そんな笑わんでもええやろ。これでも今は真面目に勉強……しとらんか」
 僕を馬鹿にするというよりは、ただ単にウケた笑いみたいだった。おかしそうに軽くまつげをしばたたかせて、
「今日は会社の創立記念日で休みなんよ。それで水族館でも行こかなあ思って」
「ああ。なんや、1人であれ見に?」
「うんそう。フミちゃんは? ここにおるってことはまだ自宅なんやね」
「そーいうこと。大学までは片道2時間以上かけて通ってる」
「そらすごいわ。今日の授業は午後から?」
 テルエはそこで初めて腕時計に目をやった。僕はついでに訊いた。
「今何時?」
「10時半……フミちゃん、腕時計は?」
「持たない主義なもんで」
「ふうん? そんなんで生活できるんか?」
「まあね。駅にも大学にも食堂にも、時計あるし」
「ええなあ、学生は気楽で」
 大袈裟に溜め息をついてみせて、それからテルエはいたずらっぽく笑った。
「気楽なとこで今日これからあたしにつきあわへん?」
「えっと……まあ、確かに今日は暇やけど」
 僕はメガネに指をかけて考えるフリをした。今日はこれから大学に行くつもりだったけど、別に行かなくてもいいんだ。単位さえとっていれば、とりあえず自由なのだった。
 テルエはちょっと真摯な表情で僕のコートの袖を引いた。
「ええやん、ここで会ったのも何かの縁よ?」
「そんなこと言うてテルエ、1人で行くんが嫌なんやろ」
「ここまで来て、そんなん思うわけないでしょう」
 調子にのって『なら1人で行けば』、の一言が口をついて出そうになったけど……
「水族館、嫌い?」
 少し寂しそうな目をしてテルエが僕を見る。ふむ。
「ほな、条件がひとつだけ」
「なぁに?」
 警戒と期待と不安の入り混じった瞳に、僕は笑いかけた。
「今は僕、フミやんて呼ばれとる」
「あ、そう」
 拍子抜けしたように一瞬呆けてから、わかった、とテルエは頷いた。
「オッケ、では、行きまっか」
 多少オーバーにおどけてみせると、途端にテルエの顔がぱっと輝いた。
「そしたら今日はあたしがおごるわ。案内よろしくね?」
「よしよし。任せなさい」
 僕らは並んで坂を下った。

     2.水族園

 国道2号線を渡って細い並木通りを突っ切ると、もう海だ。
 沿岸の風はさすがに強く冷たく、飛ばされる息もかすかに白かった。
 空気は霞掛かっていて白く、弱い陽射しの中に淡路島は見えなかった。水平線に降りてくるほど空は灰色になり、海も鼠色だ。ミニチュアのようなタンカーや貨物船が水面をゆっくりと左から右へ……大阪や神戸の港から瀬戸内、外洋へと滑っていく。
 ここは須磨の浦――防波堤が多いせいか、波はまったくない。今日は特に穏やかに見えた。
「なんやのんこれ。『浜での花火等禁止』って、遊んだらあかんの?」
 テルエが立て看板を見て驚いている。
「あそこに病院があるから。夜は静かにせんと」
 僕は海風にコートの襟をかき合わせながら、建物を目で示して答えた。
「ふうん。楽しくないねえ」
 僕はただ苦笑を返した。病院がそばにあるっていうのはホントは口実かもしれない。
 神戸市は常に観光地だと意識して、外観に気を遣っている。この浜はもう何年も前から公共化されて、綺麗に整備された公園になっていた。波が届かない浜辺にはオレンジ色の遊歩道が敷かれている。
「水族館はこの近く?」
「そう。この道をあっちに行けばすぐ」
 テルエの言う水族館は神戸市が建てたもので、正確には海浜水族園という名前だ。
 僕らは海を右に見ながら、ゴミひとつない綺麗なその道を歩いた。
 地面から飛び立った鳩が低く時計塔の周りを旋回している。バスケットを提げてベビーカーを押す若い夫婦を追い抜いた。くたびれた作業服をはおった痩せた男がベンチに横たわって海を見ている。松並木の隙間から、銀色の建物が現れてきた。
「あれがそう?」
 テルエは平たくとがった銀色の屋根を指さして僕を振り返った。
「そう。あれは本館。奥に別館がいくつかあって、児童向けの遊園地もある。昔はプールもあったような」
「ええなあ、こんな近くて。海側って、なんか遠い気してあんまり馴染み薄いのよねえ」
「あれ、泳ぎにも来んの?」
「そうねえ、子供の頃は親と来たけど、大阪に友達が多いからあっちのプールに行くんよね」
「そっかあ。僕もまあ似たようなもんやな」
 えーと。
「昔はよく来たかな。でもここ数年は忙しくて、泳いだなんて……大学の友達を案内した時だけ……昨年に2回かな。夏と……あ違う、一昨年の夏と昨年の春の2回やったかな」
 ぶつぶつ説明していると、テルエが
「春ぅ?」
 といぶかしげに声をあげてからパッと顔をこっちへ向けた。
「そういえば、あたしら行ったわよねえ、水族館に。中学の時」
「え? そんなことあったか」
「やだあ、忘れた? でっかいマンボウが泳いでてさあ。あれはどこやったっけ……そうそう、東京行ったでしょ、修学旅行の時や」
「修学旅行ー? えらく昔の話やな」
 その時バサバサと鳩の群れが目の前を横切った。僕はそれを目で追いながら、頭の中で9年前の記憶のページをめくった。
「うーん、そんな気もするけどなあ。物覚え悪いからな、忘れた」
 僕が開き直ると、鳩を追って海の方へ視線を流したテルエから短い言葉が返ってきた。
「……昔の話やもんね」

 園内は平日の昼間だというのに結構お客が入っていた。会社をサボッて来たような背広&ミニスーツ姿のカップル、大学をサボッて来たような私服姿の男女連れとか(僕らもそうなるか)、家事の息抜きに来たようなおばさん達。たまに幼稚園未満の幼児もいるが、ほぼ大人のための楽園だ。さすがに学服姿は見えない。
 ここは昨年の春に来てそれきりだ。内容を忘れているから、僕も楽しめるだろうと思った。
 券売機で入場券を買って、駅の自動改札そっくりの入場ゲートをくぐると、カメレオンのポスターを貼った通路から薄暗く広いホールに出た。
 ホール正面はまるで海の一角を切りとってきたかのような大きさの『波の大水槽』だ。壁全面が水槽のアクリル硝子になっていて、透き通った青い光が水面の揺れをリノリウムの床に映している。悠々と泳ぐサメとイワシの群れが同居し、他の魚も一緒にいる。目の前にいきなりエイの白い腹が出現して、テルエがきゃっと硝子から飛びのいた。
 そこから順路に従って、両側に水槽がはめ込まれた回廊へと続く。
 サンゴ礁の中を泳ぐ熱帯魚達は蛍光色が鮮やかで思わず見とれてしまったし、何もしないで『のてっ』と沈んでいるだけの肺魚は忙しく学生をやってる身の僕としてはちょっとうらやましかった。
 全長が3メートルを越えると説明のついたタカアシガニは床から天井まである水槽ひとつの中に4匹いて、うち2匹が水の抵抗にスローモーな足蹴りを交わしてケンカしていた。決着がつくまで見届けるつもりだったが、途中で和解したのかおとなしくなった。つまらん――
「なんやこのカニ、意気地のない。ガッカリやわ」
 お。テルエも同じことを思ってたのか。
「何笑ってるのん?」
「あ、いや、……」
 別に、と答えようとして、考え直して僕は別のことを言った。
「9年ぶりに会った気がせんな思って」
 またハツラツとした声が返ってくるとばかり思って見ていたら、なぜかテルエの顔からすっと笑みが消えた。
「あ、えっと、久しぶりに中学の頃のコト思い出したし」
 慌てて継ぐと、そう、と一呼吸置いてから僕を見た。彼女は笑顔を取り戻していた。
「さっきは修学旅行、忘れた言うてなかった?」
「あ……、つまり雰囲気をやな」
「まあええわ。その分ちゃんとあたしが覚えとるもん」
 それから別の水槽(ボラがいた)に移ったあとも、テルエは東京へ行った時の記憶を自慢するかのように、楽しげに話し続けた。国会議事堂を出たら雨が降っていて、そのあと東京湾へ行く予定がNHKスタジオの見学になったこと。翌日はビル内のプラネタリウムを観て、水族館に入ったこと。
「ああ、そうかそうか。それで誰かはぐれて先生に怒られとったっけ?」
「あははっそうそう、カワダがね。あたしら探すの手伝わされたよねぇ。思い出した?」
 誰もいないミノカサゴの水槽の前で、テルエは手を叩いて喜んだ。そういえば中学でも、彼女は教室で同じようにはしゃいでいた……。
 さっきの表情はなんだったんだろう。それとも僕の見間違いだったのかもしれない。

   3.潮騒

 3階建ての本館、屋上は展望広場だった。
「寒いよ」
「いいじゃない、せっかく来たんだから」
「どうせ船しか見えないって」
 些細なコトでもめてる男女連れを横目に、僕達はさっさとガラス戸を押し開けた。途端に身を切るような風が僕らを襲い、テルエが悲鳴を洩らした。僕も首をすくめた。
 見回すと壁によせて貯水タンクや何かの制御室などがあって、そんなに広くなかった。
 海側のフェンスの手前には望遠鏡が何台か。ひとつはペアジャケットを着込んだ若いカップルがのぞいていたが、それ以外は冷たい風に耐えて突っ立っていた。少し離れた場所で小さな男の子の手をひいた夫婦が、フェンスにへばりつくように下に広がっているはずの海を眺めている。僕の位置からは、まだ海は見えない。
 出てすぐ右側に岩で囲んだ池があった。フードつきの赤いコートを着た、サンタクロースの親戚みたいな女の子が父親に抱えられて水面を見ている。隣に立った母親らしい女性はキャリアウーマンみたいなスラックスにコートをひっかけ、チョコレート色のマニキュアをしていた。
「かめぇ?」
 舌足らずな言葉が風に乗って聞こえてきた。
「マキも背中に乗せてもらって龍宮城のお姫様に会ってくるかー」
 僕は彼らから少し離れた右側に立ち、胸まである手すりから下をのぞき込んだ。かなりでかい、子供1人くらい本当に乗せられそうな甲羅を背負ったウミガメが5〜6匹、きっと凍りそうなほどの水の中をぐいぐいと泳いでいる。
「フミちゃんも乙姫様に会いたい?」
 僕の後ろから耳に口を近付けてテルエがそっと笑った。それからふいっと離れると、
「ねえ、望遠鏡見てもええ?」
 普通よりも大きな声を出して、僕がなんとも答えないうちにくるりと背中を向けて軽快にスキップしていく。まるでピクニックに来た子供みたいに。僕は少し呆れながら、遅れてついていった。

 海は銀灰色だった。世界一の水面鏡。太陽の光が白く反射している。黒いタンカーが少しずつ左へ動いていく。どこの港へ行くのだろう。
「あっそういえば、」
 望遠鏡に百円玉を払ってのぞくテルエに、思い出して僕は話しかけた。
「飯岡から手紙来た?」
 僕とは中学から高校まで一緒だった男だ。テルエとのつきあいは2年間だったはずの。
「いいおかぁ? そんな人おったっけ」
 タンカーの方へレンズを向ける彼女の姿は潜水艦のクルーに似ていた。
「僕を覚えてたのにヤツは忘れたか。飯岡――下は忘れた、1回同じ班やったろ?」
「うんとー」
 しばらく唸ってから、ああ、とテルエは派手に声をあげた。
「あの背の高い野球部っ!?」
 そうそう、と僕は笑って頷く。この調子じゃ何も知らんな。
「結婚したんやて。昨年の春だか夏だかに、葉書が来てさ」
「へ……え」
 咳払いのついでのような短い笑い声が響いて、
「意外やなあ。ちょっと驚いたわ。フミちゃんも披露宴とかに出たんか?」
「ううん。招待状でなくて、あいつハネムーン先から絵葉書よこした。エアメール」
「へー、粋なコトするねえ。奥さんの考えやねきっと」
「ははは、そうかもしれんな。なんか大学で知り合ったらしい。就職決めてメドが立ったから結婚したんやて。なんか同じ歳なんて信じられん、しっかりしちゃってさあ。どーせオレは恋愛音痴……愛だの恋だの、そもそも自分の気持ちすら理解できんし……」
 テルエが何か言うかと思ったが、黙っているので僕は訊いた。
「他に誰か結婚しとるかな?」
「さあ。でもいてもおかしくない歳よねえ、イヤやわなんか時間ばっかり早くって」
 溜め息と共にテルエは望遠鏡から顔をあげ、じっと僕を見た。髪が風になぶられても気にとめるでもなく。
 なんだかその黒目がちのでかい瞳に吸い込まれそうになって、僕は焦ってしまった。
「なっなんや、言いたいことがあるんなら言うてみ」
「んー……」
 テルエの目は、斜めに動いて海へ落ちた。
「時間切れや。フミやんも見る?」
「え……寒いから遠慮しとく」
「ほなら、中入ろっか」
 僕が頷くより早く、冷たい風と競争するようにテルエはドアへと走っていってしまった。

 本館を出ていくつかの別館はすっ飛ばし、芝生の敷かれた庭と海に面したレストランで昼食を済ませた。その後、廻り直した順路と時間がちょうど良かったらしい。野外のステージでおこなわれたイルカショーと、テーマごとに分かれた小さな別館のラッコやピラニアの餌やりショーを見ることができた。
 全て廻り終える頃にはすっかり陽が傾いて、閉館時間の5時も近いらしかった。
「結構かかったなぁ。こんなに時間かかるとは思っとらんかった」
 僕は最後の『ラッコ館』を振り返りながら、大きく伸びをした。
 そうして僕らはそのまま、レンガ色の通路を歩いて芝生の庭から『南出口』の門を抜けた。
 オレンジ色の遊歩道。階段を降りたところに広がる砂浜では、犬を連れた人や部活の途中らしいジャージ姿の学生達が身体を動かしている。
「わー、綺麗な夕日やねえ」
 テルエが西の空を見て歓声をあげた。
 海を左に見て、太陽は朱に輝くビー玉となって陸(おか)の山の向こうへ沈んでいくところだった。雲は紗のカーテンとなり、濃いピンク色に染まる空に幕を降ろそうとしている。暗くなるのはもうあっという間だろう。
「……フミやん、お願いがあるんやけど」
 テルエは改まった口調で言うと、肩から提げていた小さなバッグを手に持った……あ。
「カメラやったんか、それ。ずっとただ持ってなかった? 撮ればよかったのに」
 テルエは黒い皮のカバーをポケットに入れると、下を向いてフィルムの残量を確認した。
「うん、せやから今撮りたいんやけど」
「あ、そっかそっか。貸してみ。僕が撮ってあげよう」
「そう? したら……全自動やから。ファインダーの真ん中にピントが合うの、あとはシャッター押せば撮れるから」
 少しためらいがちに、僕にカメラを渡す。
「オッケ。記念に何枚かいくぞ」
 本館を背に1枚、海と船とで1枚、夕焼けで1枚。1回ごとにフラッシュが光り、僕の目にもテルエの姿が焼き付いた。微笑は緊張か光の加減のせいでか、どこか苦しげに見えた……
「ありがとう。……ほなら、これで、あたし、帰るわ」
 僕からカメラを受け取って、うつむきがちにカバーをする。
「バス停まで送るよ。どうせ帰り道やし」
「本当? おおきに」
 なんとなく、その笑顔にシャッターを切ってやりたかったなと思った。
 耳元で風が、ゴウッとやけにうるさく鳴った。

   4.写真

 数日後、手紙が届いた。
「女の子からよ。珍しいね?」
 千葉育ちの母は怪しいイントネーションでそう言い、渡された封筒を裏返して僕は少し慌てた。
 差出人の名前……『大内 瑛恵』? テルエの苗字は羽田じゃなかったっけ……?
 中には薄い便箋が2枚、それと写真が1枚。夕焼け空が背景の、確かに僕が撮ったやつが入っていた。
 たたまれた便箋を開くと、文面はこうだった。

『前略 先日はつきあってくれて、どうもありがとうございました。
 史也くんの家が海側にあるのは覚えていましたが、まさか会えるとは思ってませんでした。偶然に感謝しています。
 黙っていたけれど、本当はわたしは短大を卒業したあと東京の貿易商社に就職して、そこで知り合った男性と昨年の秋に結婚しました。会社を辞めてからも、ずっと東京に住んでいました。でも夫が今度シアトルの支店に転勤することになったので、出発前の少しだけ家に帰っていました。大阪弁を使うのは久しぶりでした。
 たくさん嘘ついてごめんなさい。何度も正直に話そうと思ったけれど、どうしても言えなかったのです。
 あの日水族館に行ったのは、史也くんが前にあそこの話をしてたことを覚えていたからです。今までどうしても行けなくて、最後だと思って行ったら史也くんにも会えたので、うれしかったです。
 本当は史也くんの写真も欲しかったけど、撮られるのが嫌いでしたよね。記念になるか分からないけどわたしの写真を送るので、よかったら持っていて欲しいと思います。いらなかったら捨ててください。

 史ちゃんに、最後にお願いがあります。
 もしかこれから好きな人ができたら、絶対に愛してあげてな。
 あたしも自分で決めた相手に一生ついていくから。

 お返事はいりません。この手紙が届く頃、わたしは日本にいないと思います。
 それでは、くれぐれもお元気で。
 さようなら。

増川 史也 様
          二月二十九日
             大内 瑛恵』

 テルエらしい、しっかりとしたペン書きの文字は、すんなりと行内におさまっていた。
 写真に目を移す。ピンク色に染まった背景に、少し翳りのあるテルエの顔。それが不意に泣く寸前のように見えて、僕はドキッとした。
 僕の中に残っているテルエから目を逸らすように手紙を見つめると、1行がやけに目についた。
『たくさん嘘ついてごめんなさい』
「まったくや……」
 僕は溜め息混じりに呟いた。結婚おめでとうさえ言わせてもらえないのか。もっと注意していれば、気付くことができたのか……。
 僕の耳に、あの時鳴っていた海風の音がよみがえる。なぜ分からなかったんだろう、9年の歳月は確実に僕とテルエを隔てていたのだ。それが彼女の口を重くした。告げたい言葉も言えない程に……。
 僕は潮騒の中にテルエの声を探しながら、もう1度始めから手紙を読んだ。
 最後まで。
 それから写真を眺めると、その表情はさっきよりも柔らかく見えた。僕に向けられた精一杯の笑顔。僕には恋愛なんてよく分からないけれど、彼女の瞳は告げていた。
 彼女は自分で選んだのか。潮騒の中で独り、黙ってただ微笑むことを。
 僕は便箋と写真を丁寧に封筒に戻し、机の引き出しにしまった。
 テルエへの言葉は、海風に託して……
(了)
(初出:2012年03月)
登録日:2012年03月06日 14時22分
タグ : 恋愛

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