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紫苑
著者:紫苑(しおん)
日々の出来事を、ふと書き留めておきたい時がある。何の変哲もない風景に、こよなく愛着を感じる時がある。思わず涙ぐんだり、手を合わせてしまうほど感動を覚える時がある。そんな時は目を閉じて、心のキャンバスに、一枚、また一枚と、自分の生きた証に描いてきた。現在は、二人の成人した娘達と、姉妹のように共同生活を楽しんでいる。なにはともあれ、今が幸せならすべてよし、と充実した日々を送っている。
小説/現代

指定席

[読切]
どうしても会いたかった。宣告された病名は、彼女を絶望の淵にたたき落とす。懐かしい彼は黙って話を聞いてくれた。それだけでよかった。彼女はスカートを翻し、ふたたび歩みだす。
 これで良かったのね、言葉に出さないでつぶやいた。
 彼が呼び止める声がしたけれど、もう決めていた。
 絶対に振り向かないって。


 ドライマティーニのダブルをおかわりしたところだった。適度な酔いが心地よい。ライトアップされたベイブリッジがきれいだ。

 最後にどうしても邦彦に会いたかった。あたしはどこか開き直っている。今日、病院で告知されたばかりだった。誰かに告げよう、告げなければ、気ばかり焦って答えが見えない。取りあえず、高い所に登りたかった。気がついたら、いつか彼と来たホテルの最上階のラウンジに一人でポツンと座っていた。

「何になさいますか?」
 ボーイの声で我に返った。
「ドライマティーニをダブルで」
「はい、かしこまりました」

 ワイドに広がった窓外には、ベイブリッジがあの日と同じように闇に浮かんでいた。清んだ冬の夜空を背景にシャープで繊細な姿を誇示している。
 ベイブリッジが徐々に徐々に霞み始めた。止めどなく後から、後から涙があふれ出た。あたしの心とは裏腹に、そこら中がクリスマスのイルミネーションで煌いていた。滂沱の涙が鳴咽に変わった。気付いたのか気付かない振りをしたのか、静かにグラスを置くとボーイは去った。

 あたしはまるで劇薬を喉に流し込むように、ドライマティーニを呷った。強い酒に少しむせた。身体中をその液体が駆け巡る。顔が火照った。少し気が緩んだ。酔いが中心部へとすごい勢いで向かって来た。 そう言えば、昼飯も食べないで歩き回っていた事を思い出した。アルコールがすきっ腹にきゅーっと効いてきた。

「おかわり」
 あたしの足元にかしずいたボーイの前にグラスをぬっと差し出した。行儀の悪いやり方だと自覚しながら、もうどうでも良いと思った。誰がどう思おうと関係ないわ、そう思うと身体中の箍(たが)がゆっくりと外されていくようで、とても気持ちが楽になった。

 あたしは今日まで真剣に生きてきた。でも、神が下したことは罰を与えることだった。一体どんな罪を犯したというのだろうか。激しく神を怨んだ。

 何か贅沢をしたのだろうか。他人に意地悪をしたり、他人をおとしめるような事をしたのだろうか。どんなに考えても思い当たらなかった。平凡な日常には感謝していたし、今まで病気もしないで健康で生きて来られたことを、何よりありがたいと思っていた。誰を怨んでも憎んでもいなかった。それでもひとつだけあるとしたら――邦彦と出会ったことだった。


「子宮癌?」
「そうです。手術が必要ですので、家族の方と相談の上、明日入院してください。
 癌と言っても子宮内でおさまっていればそれほど悲観なさることはありませんから」
 勤務先の健康診断で要再検査の結果をもらい、紹介された病院で検査を受けた。
 悲観的にはとらえていなかった。
 きっと『異常なし』のゴム印をぽんと押されるに違いない――根拠はないけれども、なんとなくそう思っていた。

「うーん、結果は良くないですね」
 カルテを引っくり返しながら医師に告げられた瞬間、頭から冷水を浴びせられたようないやな気がした。それと同時にとても他人事のようだった。気持ちが現実にはなくて、うんと引いてしまっていた。

 ふらりと立ち上がった。どこをどう歩いたのか全く記憶がなかった。
 気がついたらラウンジのソファーに身をもたせ掛けて、外をぼんやりと眺めていた。


「どうしたの?」
 窓に向けた目を声の方へと移した。そこには懐かしい邦彦が立っていた。彼がコートを脱ぐとボーイがすっと寄って来た。
「驚いたよ。急にあなたから電話が来るなんて珍しいし、その上声がひどかった。
 まるで地の底からうめいているようだったからね」
 その言葉に煽られたように、あたしは黙って二杯目のマティーニを一気にそそぎ込んだ。

 彼は側に座りながら聞いた。
「一体、何があったの?」
 あたしは俯いたままで、それにも答えなかった。
「僕に言えないこと?なんでも良いから話してごらん。何ができるか分からないけど、僕が力になれることだったらなんでもするからさ」
 彼は右手をあげた。さっきのボーイが音もなく近づいた。
「僕にも同じものをください」
「ドラィマティーニをダブルでですね?」
「ええ、それで良いです」
「あたしもおかわり」
 側で大きな声を上げた。彼はどんどん酔いが深くなるあたしを黙って眺めていた。でも何も言わなかった。ただ慈悲深く見詰めるだけだった。

「宣告されちゃったぁ」
 舌がもつれてうまく話せない。酔いが相当まわっている。
「癌だって、癌。あたしが癌だって!ねぇ、信じられる?このあたしがよ。嘘じゃないのよ、今日病院で検査の結果、子宮癌だって、はっきり告知されたのよ」
 それだけ言うと涙がぼわーっと堰を切ったようにあふれて落ちた。下を向いて手の甲で何度も涙を拭った。ボタボタとスカートの上に落ちてはしみ込んだ。拭っても拭っても溢れ出た。はなと涙で顔がグジャグジャになった。彼の顔をまともに見ることができない。そのままずっと俯き続けた。

 彼は、ポケットからハンカチを取り出して、あたしの手に持たせてくれた。右手で抱き寄せて、ぎゅっと強く力を入れた。抱きしめたままで何も言わなかった。懐かしいブルガリの匂いがした。

 あたしは悲しみがわずかずつ緩んでいくのを感じた。命が惜しい訳ではない。もしかしたら、もう二度と彼と会えなくなるかもしれない。そのことがただ悲しかった。無念だった。

 ボーイが静かにドライマティーニをテーブルに置いた。
 涙で霞んだ視野の片隅に、それが映った。

「乾杯しようか?」
 身体を離しながら彼が言った。
「なにに?」
 はなをすすり上げながらあたしは聞いた。
「こうして再会できたことにだよ」
 彼の言う通りだった。
 もう二度と会わない約束をして別れた恋人にまた会えた。
 それはとても嬉しいことだった。


「邦彦さん、もう会わないわね。それがお互いのためだと思うの」
 ずっと胸の中でくすぶっていたことを吐いた。
「そうだね、あなたにはずっと辛い思いをさせたものね。嘘もいっぱい付かせたし」
 驚きもしないで、覚悟をしていたように言葉をつないだ。
「あたしには子供を産んだ責任があるの。ただ出会うのが遅すぎたのよ。自分の勝手で子供や夫を不幸にはできないもの、分かるでしょう?」
「ああ、分かるさ」
 彼はいつも冷静だった。あたしの大切なものを決して壊そうとはしなかった。
 泣きもわめきもしなかった。出会ったバーのカウンターで、笑いながらさよならのグラスをカチンとあわせた。

「あなたの人生で一番辛いと感じた時、絶対に僕のことを思い出して欲しい。できる限り力になるからね」
 別れの握手に力を込めて言った。


 彼は来てくれるのだろうか、半信半疑だった。彼と連絡が取れる大義名分がこんなことだなんて、なんて星の下の巡り合わせだろう。
 神様なんて本当は存在しないのだ。元々あたしだって信じてはいなかった。
 だから賭けてみた。たとえ来なくても怨むつもりはなかった。

「癌だってもう不治の病じゃないんだ。そんなに悲観的になるなよ」
「だって、子宮を摘出しちゃうんだもの、あたしはもうオンナじゃなくなるのよ」
「身体の一部がどう変わっても、あなたはオンナだよ。心配しないで。僕の中ではあなたは永遠にオンナ。それも素晴らしいオンナだ」
「お願いがあるの」
「なに?」
「子宮を摘出する前に、オンナだと思うならあたしを抱いて」
 彼は頭を横に振った。
「それはできないな」
「だって何でも聞いてくれるって言ったじゃない」
「僕とあなたはそんな関係じゃないだろ? もっと深いところで繋がっているんだ。あなたもそれが分かったから、三年前に別れた、そうだろ?」
 あたしは何を言い出しているのだろう。
 こうして会えた。彼は約束通り飛んで来てくれた。それだけで充分じゃないか。
「ごめんなさい。そうだったわね。あたしが間違っていたわ」

 いつの間にかBGMは、バラードから軽快なジングル・ベルに変わっていた。

「だけど、来年のクリスマス・イヴはここで会おうよ。来年は21世紀、記念すべき最初のクリスマスだ。だからイヴには、あなたの為にこのホテルのスィートルームを予約しておくよ。あなたが来るまでずっと待ってる。ドライマティーニを飲みながらね。何があっても僕はここで待ってるよ。僕の隣があなたの指定席だからね」

 そう言ってもう一度強く抱きしめてくれた。
 目には涙が滲んでいた。
 今、彼があたしの唯一の希望だった。
 目の前で、絶望を見事に希望と取り替えてくれた。

「ありがとう。本当にありがとうね。明日、入院するの。家族にその話をしなきゃいけないから、あたし帰るわ」

 涙はすっかり乾いていた。
 ライトアップされたベイブリッジがくっきりと清んだ夜空に浮かんでいた。
 今夜の光景を脳裏に刻み付けておこう、一度目を閉じた。
 あたしはそのまま立ち上がってスカートを翻した。
(了)
(初出:2000年12月)
登録日:2010年06月22日 16時12分

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