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北見遼
著者:北見遼(きたみりょう)
夢と現をさまよいながら、文章を連ねるさすらいの文字使い。信州産、現在は神奈川で培養中のもやしっ子。活字と美術と歴史をこよなく愛する。治したいのは積読本をためる癖。
小説/現代

園生に咲く花(5)

[連載 | 完結済 | 全7話] 目次へ
誘拐犯と思わしき晴美――姉の旦那がかつてつき合っていた女性のアパートに雪崩れ込むがすでに空っぽだった。取り乱す姉に愕然とする小紅だったが、事態はそれどころではない。
  5

 私たちはその後、ただちに春美の家に急行した。指一本触れていないと公言する隆也は、やはり合鍵を持っていなかったので、大家を半ば脅して私たちは春美の部屋に押し入ることにした。「中の住人が自殺しているかもしれないから鍵を開けてくれと頼んだら、あっさり承諾してくれましたよ」と隆也は涼しい顔でのたまった。いくら非常時とはいえ、惚れていたはずの女を自殺者に仕立て上げるとは、実に恐ろしい男である。
 しかし隆也の機転も虚しく、室内には春美も海もいなかった。
「くそ、逃げられたか」
 無人の室内で、七樹は舌打ちと同時に地団駄を踏んだ。その傍ら、優夫さんは床の上に視線を落とすと、眉をひそめて落胆した表情を見せた。カーペットには、慌てて脱いだらしい着物が、たたみもせずに放置されていたのだ。薄藍に雪模様――写真の女性と一致するその柄は、春美が間違いなく犯人であることを示す。冷たい現実を目の前に突きつけられ、優夫さんは言葉を失っていた。その隣で唇を噛みしめる妻の表情にも気づかずに。
「ちょっと出かけてるだけかもしれないよ。誰かここに残って、帰ってくるのを待つ?」
 何とか場を取り繕おうと私はそう言ってみたが、七樹は首を左右に振った。
「いや、しばらくは戻ってこないと思うぞ。こいつを見ろ、きれいさっぱり空っぽになってるだろ」
 七樹が指差したのは、小さな冷蔵庫だった。知らないうちに、七樹は勝手に家捜しを始めていたらしい。とはいえ、そこに赤ん坊が入っているはずもないだろうに、何でいきなり冷蔵庫なんだと思ったが、中をのぞくといくつかの調味料と脱臭剤があるだけで、食材と呼べるものは一つもなかった。しかし。
「……単に料理しない人なんじゃないのか」
 ちなみに母も姉もいっさい料理はしたことがない。そういう人なら、冷蔵庫は常に空っぽだろう。
「料理しない女の台所に、こんな道具がそろってるわけねえだろ」
 七樹はそう反論すると、流し台の下を開けて堂々と言い放つ。そこには、いかにも使い込んでいる鍋やフライパンと一緒に、電動泡立て器やハンドマッシャー、キッチンスケール、麺棒などが収まっていた。まったく、いったいどこまで観察しているのだ、この男は。驚くよりも先に呆れてしまう。
「春美さんの車がありませんね……やはりもう戻ってこないんでしょうか」
 窓から駐車場を見下ろしながら、隆也がつぶやいた。
「……そういうことは早く言え。大家を脅す手間が省けただろうが」
「そうは言いますけどね、小紅さん。もし共犯でもいれば、ここに誰か残っているかもしれないじゃないですか。念には念を、ですよ」
 私の嫌味にも隆也は冷静に返す。こいつ、本当に春美さんとやらに惚れてたのか?
 私が疑問の目を隆也に向けていると、横から再び七樹の舌打ちが聞こえた。
「ちっ、早く動いたな。追うとなったら、今度こそ本当に警察の出番だぞ」
 それには私も頷かないわけにはいかなかった。素人の捜索活動には当然、限界がある。行方をくらました犯人を追跡するのは、やはり警察の役目だ。遅ればせながら通報しようと七樹が携帯電話を取り出した、その時。
「いや……待ってくれないか。行き先は恐らく春美の実家だと思う」
 そう言い出したのは、それまでじっと黙っていた優夫さんだった。
「どうしてそんなことがわかるんですか? 実家なんて、真っ先に足がつきそうなところじゃないですか」
 不満げな声で返すのは隆也である。指一本触れないうちにふられてしまった哀れな少年は、「元彼」に少なからず対抗意識を燃やしているようだった。だが、優夫さんは少年の意地になどまったく気づく様子はなかった。
「でも、春美は自分が疑われているとは知らないわけだろう? それならまず向かうのは実家だ。もともと春美は友達もあまり多くないから、頼れるところは他にないだろう」
 優夫さんは、いつの間にか落ち着きを取り戻していた。彼にとって、誘拐犯が春美であることはすでに自明の理なのだろう。かつて付き合っていた相手だからこそ、その行動にも予想がつくのかもしれない。
 淡々とした口調で優夫さんが語り終えたその時、不意に寒風のように冷たい声が響いた。
「……そこに『夫』も加われば完璧ね」
 その場にいた誰もが、思わずぎょっとした。
 夫を責める声の主は、もちろん姉だった。
「どういう意味だ、それは」
 聞き返す優夫さんの声音は、珍しくきついものになっていた。だが、姉もそれに劣らず、いっそう厳しい口調と眼差しを向ける。
「わからない……あたしにはわからないわ。たとえまーくんが、その女と初めっから計画を立てて、海ちゃんを連れ出したとしてもね!」
 姉がそう口走った瞬間、優夫さんの顔色が一瞬で変わった。
「小百合! 何を言い出す気だ!?」
「だってそうでしょ! まーくんはずっとあの人のことが好きだったんだもの。あたしを置いて、海ちゃんと一緒に出て行く気になったって不思議じゃないわ!」
 私は夢でも見ているのではないかと思った。それも、とびきりタチの悪い夢を。
 姉が――あの姉が、これほどまでに取り乱すなんて。そして、こんな言葉で夫を責め立てるなんて。目の前の光景を、にわかに信じることはできなかった。
 しんと静まりかえった室内に、落ち着き払った声が響いたのは、次の瞬間だった。
「――小百合さん、それは違う」
 姉は、虚を突かれたような顔で振り返った。優夫さんも私も隆也さえも、意外さを隠しきれなかった。夫婦喧嘩の間に割って入ったのは、第三者である七樹だったのだから。
「……え?」
 思わず聞き返す姉に向かって、七樹は小さく笑った。
「優夫さんはそんなことしないよ。少なくとも海ちゃんが生まれてから、一度も彼女と会ったことはないはずだ」
「何で七樹君にわかるのよ!」
「彼女が海ちゃんのことを『可愛い女の子』って言ってたからだよ」
 七樹の言葉は、姉の理解を超えていた。瞬きを繰り返し、姉は呆然とつぶやくことしかできなかった。
「……どう、いうこと……?」
 七樹は一つ息をついて説明を始めた。
 そう――確かに、春美は海のことを「女の子」と言っていた。別れ話の際に、彼女は隆也に向かってそう告げたのだ。もちろんそれは、春美があらかじめ海を攫うつもりで言っていた場合の話だが、ここまで来ればもう犯人は彼女に間違いないだろう。ということは。
「もし事前に優夫さんが彼女と計画を立てていたなら、海ちゃんを女の子だなんて言うはずがない。どんなに可愛くても、海ちゃんはれっきとした男の子だからね。きっと、道端で見かけたんじゃないかな。幸せそうに可愛い赤ん坊を連れて歩く、優夫さんたちの姿を」
 海はいつも姉の趣味で、赤やピンクの派手な服を着せられていた。それなら女の子と間違える可能性も高い。
 一通り説明を終えると、七樹は力強く宣言した。
「優夫さんは小百合さんを裏切ったりしないよ、絶対に」
 その一言で、あれだけ取り乱していた姉は、急にうつむいたまま黙り込んでしまった。
 一方の優夫さんも、複雑な表情で立ち尽くしている。まあ、無理もないだろう。何しろよく知らない男子高生から自分に大して太鼓判を押されても、どう反応すればいいのか悩むところだ。
 ひとまず騒ぎが収まったところで、おずおずと頼りなさげな声が背後から上がった。
「あのう……それで、自殺した人はいたんでしょうか……?」
 はっと振り返ると、気味の悪そうな表情を浮かべた大家がたたずんでいた。いつからそこに立っていたのだろう。寒さのために、指先も鼻も赤くなっている。正直なところ、すっかり大家の存在を忘れていた。そして、ここが逃げた誘拐犯の住居だということも忘れかけていた。私たちが咄嗟に反応できないでいると、横から隆也がささっと割り込んでにこやかに応対した。
「ああ、すみません。どうも死にきれなくて川に身投げしに出て行ったようです。これから川をさらいに行きますので、僕たちはそろそろ失礼します。はいこれ鍵」
 ……笑顔で話すことではないだろう。
 こういう性格だから指一本触れさせてもらえなかったのではないか、という疑念が湧いたが、口に出すのは憚られた。複雑な表情を浮かべたままの大家を後に残して、私たちはそそくさと春美のアパートを立ち去った。

 じっと黙っていた姉が、アパートの駐車場に下りてきて真っ先に言葉をかけたのは意外な相手だった。
「隆也君、だっけ。それで、彼女の実家はどこなの?」
「え? は、はい、ええと確か千葉だったはずですけど……」
 急に話しかけられ、隆也もさすがに面食らっている。何しろ七樹と違い、隆也は姉と初対面なのだ。そして本来ならこの会話は、当事者である夫婦同士で交わされるべきだろう。それを姉はわざとらしく避けたのだ。
「ふうん。で、乗ってる車は?」
「黒のミニクーパーです」
「そう。わかったわ、行きましょう」
 吐き捨てるようにそう言うと、姉は耳障りなほど力いっぱい音を立てて運転席のドアを閉めた。
「小百合……」
 優夫さんはまだおろおろとしていた。本当に、この非常時にうろたえてばかりいないで、もっとしっかりしてもらいたいものだ。まあ、だからこそ妻に養われる入り婿の「主夫」なんぞやっているのだろうけど――と、私はつい溜息をついてしまう。
 たとえ七樹が優夫の潔白を訴えたところで、姉もすぐに納得はできないのだろう。そのため、二人の間に流れる空気はいつになく張りつめている。無言のまま、私たちは姉の車に乗り込んだ。優夫さんがあてにならないことは、あえてワゴンの助手席を私に譲った一点でも充分にわかった。
 これでは、たとえ海が戻ってきても今まで通りの生活に戻れるのか――激しく不安だ。
(つづく)
(初出:2016年05月12日)
登録日:2016年05月12日 14時06分
タグ : 誘拐 主夫

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