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紫苑
著者:紫苑(しおん)
日々の出来事を、ふと書き留めておきたい時がある。何の変哲もない風景に、こよなく愛着を感じる時がある。思わず涙ぐんだり、手を合わせてしまうほど感動を覚える時がある。そんな時は目を閉じて、心のキャンバスに、一枚、また一枚と、自分の生きた証に描いてきた。現在は、二人の成人した娘達と、姉妹のように共同生活を楽しんでいる。なにはともあれ、今が幸せならすべてよし、と充実した日々を送っている。
小説/現代

怠惰な時

[読切]
運転手つきの車でゴルフに出かけ、メイドのいる自宅でマッサージをうけながらまどろむ著者。優雅な異国での生活だけれど、なにかが欠けている。真に安らぐことのできない苛立ちが伝わってくるような、気だるさの漂う小説。
 ギンギンに冷えたサンミゲルドラフトをラッパ飲みした。
 汗で化粧は落ちてしまい、毛髪は乱れて四方八方に跳ねていた。
 帰りをどうしようかと、クラブハウスの粗末な椅子に座ってぼんやりと考えた。
 途中のトコブア(果物屋)に寄って、パパイヤとジュルック(柑橘類)を買おう。
 朝、家を出る時に、メイドから頼まれていたことを突然思い出した。

 今日も池越えが出来なかった。そのコースは初心者用の練習コースで、比較的プレイしやすかった。それなのに、結果は散々であった。もう、ゴルフなんか止めよう、私には向かないのだ、今度誘われたら、ちゃんと断ろう、なぜかそんなことが頭を駆け巡っていた。
「この後どうする?」
 ゴルフ仲間の陽子が聞いた。
「パサールに寄ってブア(果物)を買おうかな」
「私はスーパーに寄るから、じゃここでお別れね」
 彼女はさっさと帰って行った。
 いつものキャディが、
「ニョニャ、スダシンパン」(クルマにゴルフバッグをしまったよ)
 チップを貰いにやって来た。
「ヤー、テレマカシ」(そう、どうもありがとう)
 私は、チップを渡しながら
「サヤ、ゴルフニャー、クーランピンタールヤ」(私ってゴルフが下手だねー)
 彼の反応を伺がった。
「サマサジャ」(皆同じだよ)
「ブカンサマ」(同じじゃないわ)
「ナンティ ブラジャールヤー」(練習すれば大丈夫)
「ムングリティ」(そうね、分かったわ)
 私より後から始めた陽子に負けたのが悔しくて気分が悪かった。
ゴルフ歴は私の方がうんと長く、最初は上達が早いとコーチにも誉められた。そのコーチを私が彼女に紹介し、今では随分と腕を上げていた。
 彼女はテニスも上手かった。私には彼女を越えるものが何ひとつなかった。

「ニョニャ、クマナ?」(奥さん、どこ?)
「パサールサンタ、トコブア」(パサールサンタの果物屋)
「ムングリティ」(了解)
 運転手のアルフィンは、来た道を引き返した。余計なおしゃべりをしないのが、彼のいいところだった。私は後部座席にふんぞり返って、先ほどのコースを反芻していた。腕力が強いのか、私のティショットは豪快に飛ぶ。夫も夫の友人達も認めていた。三番の打ち下ろしの池越えで、最初に引っかかった。ボールは池を目指すかのように、弧を描いて落ちて行った。二打目のボールをティアップした。頭の中でスイングをゆっくりと描いた。ヘッドアップに気をつけて思い切り振った。けれども、結果は再び池の中へと落ちて行った。陽子は、軽々とクリアーして私を待っていた。
「今日は調子が悪いのね」
「いつもと同じよ。ちっとも上達がないの」
 内心は、池を越せなかった悔しさで、苛立っていた。
今日は、なんでこんなにいつまでも尾を引くんだろう。自分のことが恨めしくなった。

 クルマが止まってアルフィンが、「パーキル」(駐車料金)と振り向いた。
 小銭を渡して、トコブアの前で降りた。
 ハエがブンブンと果物の上を飛んでいた。いつもの光景である。
 顔見知りのでっぷりとした店の女主人が
「ニョニャ、アダドリアン」
 とトゲトゲの亀裂の入った果物を指した。
「エナックカ?」(美味しいの?)
「ブトゥール バグースヤ」(その通り、いい品だよ)
「マウ イトゥ」(じゃ、それください)
 ドリアン、パパイヤ、ジュルックを買い込んだ。人とバジャイ(三輪車)やベチャ(自転車の前に客を乗せる人力車)で、その道路は溢れていた。運転手がクラクションをうるさく鳴らして、ようやく前に進んだ。

 門扉を開ける音で、心地よいまどろみから覚めた。激しい暑さの中でやったゴルフの疲れと、終わってから飲んだビールのせいかいつのまにか眠っていたようだ。
 ガレージの脇に女性が佇んでいた。
「ニョニャ、アパカバール?」(ご機嫌いかが?)
 マッサージのおばさんだった。
「バイクヤ」(いいよ、とっても)
 私について彼女も家の中に入った。
「サヤ、マンディドュルーヤ ボーレ?」(先にシャワーしたいけどいい?)
「ボーレ シラカン」(どうぞ、どうぞ)
 マッサージのおばさんは、夫がいつも行くマッサージ屋の従業員だった。夫は彼女のマッサージが好きでいつも指名していた。そんな縁でいつしか家にも来るようになり、私も週に一度やってもらっていた。

 運転手に運ばせたドリアンはどうするのか、とメイドが聞きに来た。
 どうせ顔中が汚れるから、それなら今食べよう、と答えてマッサージのおばさんの顔を見たら嬉しそうに肯いた。ドリアンは果物の王様と言われるほど高価で、現地の人々が日常口にできるものではなかった。私は買うと、使用人たちと一緒に食べた。大理石の床の上に、新聞紙を敷き、鉈で半分に割ったものを無造作に転がして、皆で新聞紙を取り囲みベタリと座り込んだ。クリーム状の果肉を鷲掴みし、そのまま頬張る。口の周りにネットリとしたものがついた。甘くて独特の味わいが口中に広がった。大きな種を取り出しながら彼らに聞いた。
「エナックヤ?」(美味しい?)
「ヤー、エナックスカリー」(とっても美味しいよ)
 皆の顔が幸福感でいっぱいになった。
 ドリアンはアルコールと一緒に食してはならないと以前聞いたことを思い出した。
「サヤ ミヌムアルコール、バゲマナ?」(私はアルコールを飲んだけど、大丈夫かしら?)
「バニャックカ?」(たくさんですか?)
「ティダ、チュマンサトゥボトルサジャ」(いいや、一本だけ)
「ムンキン ティダパパヤ」(多分、平気だよ)
 そうは言ってくれたけど、私は用心の為、一口食べて遠慮した。聞いた話によると、お腹の中で醗酵してすごいことになるらしい。本当はそんなことより、美味しそうに頬張る彼らに、少しでも多く食べさせたかったのだ。

「サヤ、マウティドュールヤ ボーレ?」(私は眠いんだけど、寝てていい?)
「ボーレボーレ」(OK、OK)
 急に睡魔が訪れて、ぐっと深い眠りに入って行った。
 それでも時折、話し掛ける彼女に曖昧な返事をした。
「ニョニャ、トアンニャバゲマナ?」(ご主人はどう?)
「バゲマナ アパ?」(どう?って何が?)
「もちろん、あっちの方だよ」
 セックスの所作をした。
「うーん、難しい質問ね。ちょっと物足りないかしら?」
「そうでしょう。でも、私はツボを知ってるんだ。強くなるツボをね。今度店に来た時には、治しといてあげるからね」
「あら、それはどうもね」
「女の方のツボも知ってるけど、奥さんはどうする?」
「それじゃお願いしようかしらん」
 私は、彼女が真面目な顔で言うのがおかしくて、クスクス笑った。
「ねぇ、おばさん」
「何だね?」
「おばさん所のマッサージって如何わしいんじゃないの?」
「何をおっしゃるんですか、奥さん。うちはチャンとしたマッサージ屋だよ。ひどいところもあるけれど」
「それでも、裸でするんでしょ?」
「そりゃ、普通は裸だけどね」
「ついそんな気を起こす男性が居てもおかしくないんじゃないの?」
「そりゃいるさね」
「そんな時はどうするの?」
「そんな男は敏感だから、すぐ出してしまう。危ない時は、バスタオルをかけて飛ばないようにするのさ。店長に怒られるから熱い蒸しタオルで素早く片づけてやるんだけど、臭くてねー。本当に嫌だよ」
 彼女は鼻を摘まんで顔を顰めた。
「内の人もそう?」
「いいや、お宅の旦那はいい人だからそんなことはしないさ」
 夫がそういう場所でいい人でも悪い人でも、私には関係なかったけれど、実態を知りたいと思っただけだった。
 先ほどから私はうつ伏せにさせられて、太股の内側を強く刺激されていた。
「奥さん、ここはどう?」
「とってもいい気持ちだよ」
「ここが女性のツボなんだよ」
 なるほど、そう言われてみるとどこやらもやもやとしてきた。
「私が強くなっても仕方ないからさー」
 正面切って認めたくない気持ちと半分は照れ隠しにそう言った。

 そろそろマッサージの予約時間が切れてきたのか、
「奥さん、次は来週でいいか」
 と聞いてきた。
「ええ、いいわ。なんで?」
「旦那が失業中でお金が欲しいから、もう一度くらいは来れるんだけど」
「じゃ、都合のいい時間を前もって言ってくれればOKよ」
 私は、素肌にバスローブを纏った。
 規定の料金にチップを乗せておばさんを返した。

 熱いお湯でシャワーを浴びた。エアコンがよくきいた寝室に戻り、洗濯仕立てのシーツの中に裸体を滑らせた。
 何もかもが怠惰で贅沢だった。それなのに、私の心は少しも満たされていなかった。ここでの生活は何かが欠けている。ただ日本が恋しかった。
(了)
(初出:1999年09月)
登録日:2010年06月22日 16時15分

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