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天生諷
著者:天生諷(あもうふう)
極々平凡な会社員。毎日楽しい出来事はないかと、心の中で模索しながら生活をしている。旅行と昼寝をこよなく愛し、読書とゲームが生きる原動力となっている。群馬県在住。
小説/推理

世は並べて事も無し アノ子の理由(14)

[連載 | 完結済 | 全20話] 目次へ
すべての謎は解けた。だが、問題はどうやって事件をしめるかだ。一方、美術室の鍵を取りに行った杏子はムマの襲撃を受ける。古傷をえぐられ、いやおうにも自分自身を突きつけられる杏子だった。
 すでに美術室の周りには誰もいなかった。やはりと言うべきか、学校は警察に連絡していないのだろう。生徒の安全よりも、学校の評判、保護者からの非難回避。それらに躍起になり、学校本来の目的を忘れつつある。御陵高校に限ったことではないが、現在の学校教育の意識は、若干本質からずれているように思える。
「ま、今回はそれで助かったけどね」
 鉄扇からナイフを取り出した真理は、鍵穴に差し込もうとして手を止めた。杏子にも東光にも、まずはノックしろと教わった。そして、鍵開けをする前に、鍵が掛かっているかどうかも確認しろと言われた。
 真理は姿勢を正すとノックをする。返事はない。扉を開けようとするが、鍵が掛かっている為開かない。
「ほらな、たまには俺の勘が当たるんだよ」
 クルクルと指先でナイフを回した真理は、両手に持ったナイフを鍵穴に差し込む。指先に伝わってくる微かな感触を頼りに、真理は一分も経たず鍵を開けた。
 近年、学校のセキュリティーが高められているとはいっても、それは外から校内へ侵入した時のことで、各教室の扉は未だに簡易的な鍵が取り付けられている所が多い。鍵開けに卓越した者なら、この程度の鍵の存在は無きに等しい。
 ナイフを扇子にしまった真理は、左右に伸びる廊下に誰もいないことを確認し、美術室へ入った。
 割れた窓ガラスには、ブルーシートが取り付けられており、バチバチと激しい雨がシートを叩いていた。ブルーシートのお陰で室内は暗かったが、明かりを点けるほどではなかった。
 人気の無い美術室。やはり杏子はいない。真面目な杏子のことだ、鍵を取りに職員室にでも向かったのだろう。
 昨日までここにあったカンバスは、すでに取り外されていた。宙ぶらりんのワイヤーに、カンバスの切れ端が無残に引っ掛かっていた。
 東光の話では、ガラスが割れたのとほぼ同時にカンバスに血文字が書かれたと言っていた。時間にしてほんの数秒。いくら一同の注目を集める出来事が起きたからと言って、あれほど大きなカンバスが全員の視界から完全に消えることなど考えられない。
 なら、誰が一体どのようにして文字を書いたのか。真理はワイヤーに付いているカンバスの切れ端を手に取った。
「………」
 裏面はカンバス特有のごわごわした感触だったが、表面は油を塗ったかのようなツルツルとした感触だ。真理はカンバスを照らす為に設けられたスポットライトを見上げた。
 事件当時、このスポットライトが点灯していたと言っていた。記憶の確かな東光が間違いないと言ったのだ、窓ガラスが割れるまで、スポットライトは消えていたのだろう。
「なるほどね」
 やはり、これは呪いなどではない。美保は慌てふためき、カンバスを破り捨ててしまったようだが、この事件には歴とした犯人がいる。あと少し、あと少しで真理の牙が犯人の喉元に届く。
 カンバスの切れ端をポケットに押し込んだ真理は、カンバスがあった壁の反対側、志保の作品が並ぶ壁を見つめた。
 整然と並ぶ志保の作品。真理は絵心がないから良く分からないが、志保の作品からは切実な想い、願いが染みだしてくるかのようだ。
 橘は志保に才能がないと言っていた。志保も自分には才能が無いと思っていた様だが、果たしてそうだろうか。真理は思う。才能のあるなしは、確かに重要だ。特に、音楽や絵画、芸術関係に至っては、才能の差というものは如実に表れるのかも知れない。だが、絶え間ない努力を続けると言う事も、立派な才能だと思う。その証拠に、数々のコンクールで志保は受賞しているのだ。
 それでも、志保は生きることを諦めた。絵に青春全てを注ぎ込んだ人生。だとしたら、この絵に何かしらのヒントが隠されているかもしれない。真理がそう思う根拠は、志保が絵を描き上げたその日に自殺したと言う事だ。それに、S−NETの書き込みでRISは、志保は確かに言っていた、私のメッセージは全て残せたと。
「志保の残したメッセージ。これが分かれば……」
 志保の残した私物は数多くあるだろうが、彼女がこの世に残せた自分自身の分身と呼べるのは、これら絵画を置いて他にないだろう。だとすると、この絵に隠されたメッセージがあるのだ。志保は、誰かに分かって貰いたくて、死ぬ間際にメッセージを残しているのだ。
 真理は俯瞰した眼差しで、壁に並ぶ作品を見つめる。
「絵の並び、作風、絵の具、描写、タイトル……」
 それぞれを口にしながら、何度も何度も絵を見返す。
 バチバチと、ブルーシートに当たる雨音が再び強くなった。一際強い風が、ブルーシートの端を巻き上がらせる。曇天から降り注ぐ濁った光が、絵画を照らし出した。その光は、『我が春』の左半分を占める、雪に埋もれた椿を照らし出した。
「あっ……」
 真理はもう一度左から順に絵を見ていく。志保の描いた絵には一つの共通項があった。それは、花だ。
 以前から感じていた違和感が氷解していく。やはり、この絵にはメッセージが込められていた。真理は壁に掛かっている小冊子を捲り、美術館に展示されている志保の絵を見た。やはり、真理の思った通りのメッセージが二つの作品にも見て取れた。
「やはり、この世には真実しか存在しない」
 懐から鉄扇を取り出した真理は、大きく腕を振って扇子を開いた。
 謎は全て解けた。しかし、ここからが問題だった。今回の事件は謎を解いて終わりではない。一番大きな問題は、どうやって事件を締めるか、それが最後の難題だった。


「あの禿げちゃ瓶。私の正義の邪魔をするなんて」
 美術室の鍵は結局借りられなかった。松下と真壁が激しく反対したのだ。確かに、危ないかも知れないが、調べなくては肝心な事件が解決できない。杏子の胸に秘める熱い想いをぶつけても、松下と真壁は頑として首を縦に振らなかった。
「貴様等! 後で後悔するがいい!」
 二人を怒鳴りつけて、杏子は職員室を後にした。
 こうなったら、力尽くで美術室に忍び込む、いや、踏み込むしかないだろう。認めたくはないが、真理は事件の核心に迫りつつあるように思える。先ほどの橘との会話でも、彼は何かを掴んだようだった。
 南校舎から北校舎へ通じる渡り廊下を通り、北校舎に入った。雨が降っているからだろうか、ヒンヤリとした空気が満ちていた。
 あんな騒ぎがあった事もあり、人の気配はしない。きっと、気を利かせた教師が生徒達を帰宅させたのだろう。これならば、多少大きな音を立てても誰も気付かないはずだ。真理を見習い、窓や扉を破壊する必要も出てくるかも知れない。
 杏子は一階から二階、三階へと上がった。ちょうど杏子が三階の踊り場に差し掛かった所で、異質な物音が聞こえていた。

 コンッ……カラカラカラ……

 それは、空き缶が高い所から落ち、転がる音のように聞こえた。人気の無い校舎で不審な物音。杏子の足は四階の美術室ではなく、三階のフロアに向いていた。
 杏子は廊下の東端に立ち、真っ直ぐ西へ伸びる廊下を見つめた。やはり、人の気配はない。最初は気のせいかと思ったが、よく見ると薄暗い廊下に空き缶が所在許なく転がっていた。
「明らかに不自然……」
 美術室が爆発したのとほぼ同時に、学校で複数のムマが目撃されていた。真理は事件とムマについて断定していなかったが、杏子は今まで目撃されなかったムマが一斉に目撃されたことに、何か重要な意味があるのではないかと思っていた。
 杏子は歩き出していた。もしかすると、この先にムマがいるかも知れない。もしムマを捕らえることが出来たなら、強姦事件も含め全ての事件が解決できるかも知れない。
 危険ではないのか。一抹の不安が杏子の胸を過ぎったが、現状、頼れる人物は真理しかいない。携帯を見た杏子は、ディスプレイに真理の携帯番号を表示させたが、結局通話ボタンを押すことが出来なかった。
 短く息を吐き出し、携帯をスカートのポケットに入れる。
 先ほどまで真理に強く当たっていた。それがどの面下げて助けを求められるというのだ。それに、この先にムマがいると決まったわけではない。もしかすると、風で空き缶が転がっただけかも知れないのだ。
 唾を飲み込み、杏子は足を速める。周囲に気を張り、僅かな物音さえ聞き逃さない。全く無音の校舎。人の気配は感じられない。
 空き缶は、音楽室の隣にある地学室の前に転がっていた。飲み干されたジュースの空き缶だ。杏子は空き缶を拾うと、振り返った。目の前と背後には、先ほどと同じように真っ直ぐ廊下が伸びているだけだ。
 地学室の扉は閉まっているし、ここから来る途中の特別教室も全て扉が閉まっていた。
 やはり、ただの気のせいだったようだ。東光とアサギの血を見たせいか、少し意識が昂ぶっているようだ。
 ヒンヤリと冷たい空き缶を手に、杏子は北の窓から見える用務員室を見下ろした。用務員室の灯りは灯っていない。高嶺は校内の何処かにいるのだろうか。美術室の割れたガラスも、カンバスも、高嶺が片付けをしていた。美術室に行って何も手がかりが得られなかったら、ゴミを漁る必要があるかも知れない。
 雨の降る中、ゴミ捨て場でゴミを漁る自分を想像して、ゾッと身震いがした。
「これも正義の為、か」
 杏子は空き缶を手に歩き出した。正義を執行する。悪を駆逐する為なら、雨に濡れることも、ゴミを漁る事だって厭わない。それが杏子の決意。杏子がこの世界に存在する理由だ。

 チャッ……

 背後で微かな音がした。振り返る間もなく、杏子の頭に衝撃が走った。視界がブレ、真っ直ぐだったはずの廊下が熱せられた飴細工のようにグニャリと歪む。
 力が抜けた体が、背後から伸びた手に羽交い締めにされた。手から空き缶が零れ落ちる。
「な、なに……?」
 ぐらぐらと歪む視界。激しく痛み出した頭。考えが一向に纏まらないうちに、杏子は近くの部屋に連れ込まれた。
 投げ捨てるように床に放り出された杏子は、床に口を打ち付けて唇を切ってしまった。血の味と共に口に広がる鮮明な痛みが、薄れ掛けた意識をハッキリさせる。
 杏子が連れ込まれた場所は、音楽室だった。振り返る杏子。まず目に研ぎ混んできたのは、白い顔だった。顔を覆い尽くす白い面は、目元だけが赤く染められていた。赤いラインの入った制服を身につけたムマが、杏子に襲い掛かろうとした。
「やめ……!」
 言葉を発しようとした瞬間、ムマの爪先が杏子の鳩尾に食い込んだ。杏子は息を飲み込み、その場に崩れ落ちた。激しい痛みが全身を貫く。呼吸が止まり、思考も止まる。酸素を失った体は動くこともままならず、振り下ろされた拳が杏子の頬を叩いた。杏子は吹き飛び、床に転がる。
 顔だけをもたげ、ムマを見る。仮面を被ったムマの表情は読み取れないが、発する気配はギラギラと尖っており、最大限の危険を杏子に伝えていた。
 痛い、怖い。
 五年前の記憶が蘇る。あの時、杏子は何も出来なかった。あれから長い年月が過ぎた。小学生だった杏子は高校生になり、こうして正義を執行しようとしている。あの時から、杏子は成長したはずだった。
「やめて……」
 岩のように身を固くした杏子は、掠れた声を出すのがやっとだった。顔は涙と鼻水でグショグショに濡れ、叩かれた頬は赤く晴れていた。
 ムマの手が胸元に伸び、無造作に制服を引っ張る。ジャケットのボタンが弾け飛び、白いブラウスがさらけ出される。更にムマはブラウスを引き千切る。杏子の白い肌と、胸元を隠す白いブラジャーが露わになった。
「助けて、助けて……」
 結局あの時と同じだ。時が経っただけで、杏子は何一つ成長していなかった。泣き叫び、助けを求めるだけ。
 ムマの平手が杏子の頬を打った。激しい痛みと、恐怖が杏子の心を砕いた。杏子は力なく転がり、ムマは杏子に馬乗りになる。
 目を閉じ、唇を噛み締めた杏子は、涙を流しながら耐えることしか出来なかった。
 ブラジャーをはぎ取られ、スカートが捲り上げられた。ムマの冷たい手が、胸を揉みしだき、下腹部に触れた。
「杏子!」
 壊れた杏子の心に、真理の声が響き渡った。
「お前! 杏子から離れろ!」
 驚いたようにムマが杏子から離れると、躊躇うことなく駆けだした。真理が入ってきたのとは反対側の扉へ向かうムマに、真理の手からナイフが放たれた。ナイフはムマの肩に吸い込まれたが、ムマは怯むことなく廊下を駆けていった。
「杏子! 大丈夫か……?」
 涙で霞んだ目に真理が飛び込んできた。真理は杏子の元に走り寄ると、倒れた杏子の様子を伺った。
「真理……」
 それ以上言葉が続かなかった。杏子は涙を流しながら、真理の胸に飛び込んでいた。
 それから、何があったか覚えていない。気がつくと、杏子は真理のジャケットを着せられ、保健室のベットに座っていた。保健室には、保険医の高木奈央と、生徒指導の松下、それに真理がいた。
 ハッキリしない意識の中で、杏子は真理を見つめていた。彼は唇を噛み締め、俯いていた。
「馬鹿者! お前がいながら、何て様だ!」
 保健室に松下の怒声が響き渡った。


 弁解の余地はなかったし、する気も無かった。松下の叱責は当然であり、これは明らかに真理の失態だった。
 杏子が狙われる。考えなくても分かることだった。杏子を一人で行かせてしまったことが悔やまれた。ギスギスした空気だったが、そんな物は無視して付いていくべきだったのだ。
「……先生、申し訳ありません」
 どんな理由を付けたとしても、それは言い訳にしかならない。結局、真理は事件解決だけに目が向いてしまい、杏子やアサギ、東光の安全にまで目を向けていなかった。自分がもっとしっかりしていれば、こんな事態にならずに済んだのだ。
「……外で話をしよう」
 松下は禿頭を叩きながらベッドに腰を下ろす杏子を見た。彼女は、視点の定まらない瞳でこちらを見ていた。
 真理は杏子を見ていられなかった。あれほど快活だった杏子が、今は見る影もない。彼女の心のように、真っ直ぐで乱れることのない髪は千々に乱れ、頬には叩かれた後が痛々しく残っている。光溢れていた表情は虚ろで、出来の悪い蝋人形を見せられているかのようだ。
 松下に連れられ廊下に出た真理は、何度目かの溜息をついた。幸い、廊下に人はいないようだ。ここに来る途中も、誰ともすれ違わなかった。出来る事なら、この事件は誰にも知られたくなかった。
「まあ、強く言って悪かったな。お前はボディーガードをしているわけじゃない。それは分かっていたんだが……」
 松下は言い難そうに言葉を止めた。
「いいですよ、先生。俺がもっと気を配るべきだった。目の前で俺達がチョロチョロされたら、色々邪魔みたいだから」
「正直な所、犯人はどうなんだ?」
 松下はポケットからビニール袋を取り出した。透明なビニール袋には、真理のナイフが入っていた。尖端には僅かな血痕が残っている。
「………現状で刺せないこともありません。裏を取る必要はあるけど」
 保健室のドアを見つめた真理。複雑な思いが胸に渦巻く。
「そうか。しかし、大事になったな。落書きの犯人捜しのはずったのにな」
「大事にはなったけど、全ては繋がっている」
「どういうことだ?」
「落書きの事件も、見えない犯人も、窓ガラスが割れたのも、ムマによる強姦事件も、全ては同じ大樹の枝葉って事です。この事件を解決するには、大本を絶たなきゃダメって事ですよ」
 真理はもう一度溜息をついて、保健室のドアに背中を預けた。東光と二人ならば、こんな気苦労をする必要も無かっただろう。巻き込まれた真理だったが、杏子とアサギとのやり取りは楽しかった。その油断が、今回の事件を招いた。
 自責の念に囚われながら、真理は窓の外を見た。いつの間にか、雨は上がっていた。雲の間から覗く青空から、幾筋もの光が降り注いでいた。
 真理は、胸中で一つの決断を下した。それは、この事件のもっとも簡単で、痛みの少ない落としどころだった。


 御厨杏子の考察

「真理、このことは、みんなには内緒にしてくれ……」
 誰もいない保健室で、私は真理の顔を見た瞬間、そんな言葉を口にしてしまった。
 賢しい彼はこの言葉を予見していたのだろう、何も言わずに頷いてくれた。
「……まだ続けるのか?」
 真理の問いに、私は一瞬キョトンとしてしまった。
 彼の言葉がよく分からない。心と体か乖離してしまったかのような感覚。私は自分が置かれている状況が把握できていなかった。
 彼は、真理は私の状況を見て悟ったのだろうか。もう一度同じ質問をしてきた。
「事件、まだ続けるのか?」
 事件? 事件…事件……?
 視界が揺れた。ここは船の中だっけ? 違う、ここは保健室。揺れているのは保健室じゃなくて、私。
 真理は無言で私の肩を掴んで支えてくれた。
「事件、もちろん、まだ続ける。だって、それが私の正義、だから……。正義を執行することが、私の存在意義だから」
 なんだろう、この違和感。私は何を言っているのだろうか。正義ってなんだ? 私の正義って、ナニ? いつも口にしていたはずの言葉が、こんなにも軽く、フワフワと宙に漂うとは思わなかった。
 真理は何も言わず、頷いてくれた。
 保健室のドアがノックされた。現れたのは、見慣れた執事だった。真理は、二、三言、彼に何かを言った。執事は目を見開く。ハハハ……、常に無表情でいる執事のあんな顔初めて見た。
 私は迎えに来た執事の車に乗せられ、家に帰ってきた。
 熱いシャワーを浴び、湯船に浸かる。血行が良くなったからだろうか、後頭部がズキズキと痛み、殴られた頬が真っ赤に腫れ上がった。
 私はお湯で顔を拭った。
 何が起きたのだろう。思い返してみても、断片的にしか記憶にない。あれほど痛く、恐ろしかったというのに、全くと言って良いほど思い出せない。記憶があるのは、真理が音楽室に飛び込んできたからだった。
 お湯から上がった私は、鏡の前に立つ。涙で目元は赤く腫れ上がったていた。視線を僅かに下げると、鷲掴みにされた右胸が鬱血している。
「うっ……う……ウウッ……!」
 何故だろう。涙が溢れてきた。心は虚のようにポッカリと穴が開いており、何の感情も宿していないというのに、焼けるように熱い雫が目から零れ落ちた。
 穢れてしまった? ムマに、どこまでやられてしまった?
 聞くのも怖いし、私自身が調べるのはもっと怖い。真理ならば答えてくれるだろうか。だが、今は真理と話す気分ではない。
 結局私は無力だった。五年前と何一つ変わっていない。ただ、身長が伸びて体が女性らしくなっただけだ。悪を挫き、正義を執行するなど夢のまた夢。これが現実なのか。こんな現実が、私の追い求めてきた真実なのだろうか。
 何もかもが分からなくなった。私がやっていることの正しさ、いや、整合性。私の考えは破綻している。この世界は善悪で二分できるような単純な図式ではない。人の私念が複雑に絡み合い、更に善意や悪意、愛情や恨み、嫉妬や妬みなど様々な感情がより世界を複雑怪奇にしている。
 私のしていることも、所詮はただの独りよがりでしかないのよね。私の行為が、他の人を傷つけることだってある。部活の存続だけで、正義を執行するってだけで、私を邪魔だと思う人は沢山いるもの。
 どうにもならない倦怠感。私はノズルを捻り、熱いシャワーを出した。お湯に打たれながら、私は自分の体を抱きしめた。
 怖かった。断片的な絵が、脳裏にこびり付いて離れない。
 何処にでも売っていそうな、安っぽいムマの仮面。あの仮面の下で、ムマはどんな顔をしていたのか。
 考えようとしたが、頭が拒否した。もう無理。今は何も考えたくないし、考えられない。私の目指した正義の味方って、なんだっけ?
 どうしてこの世はこんなにも複雑なんだろう。男と女、いるのはその二つだけだというのに、私には理解できない感情が溢れ混じり合っている。
 ヒーローアニメのように、明確な悪役がいてくれたらどれだけ助かるだろう。一目で分かる悪役。それを追いかけ、捕まえるヒーロー。みんなから尊敬され、親しまれるヒーロー。
 だけど、それはテレビの中の話。世間じゃ事件なんて溢れていないし、見た目で善悪の判断なんて出来ない。私だって、強くない。どんな逆境でも必ず逆転できるヒーローじゃない。正義は必ず勝つなんて、こっちの世界じゃ口が裂けても言えない。
 もう事件なんかどうでもいい。正義部なんてなくなったっていい。学校になんか行きたくないし、誰とも話したくない。
 なんで、私は正義を貫くといってしまったのだろう。強がり? 見栄? それもあっただろう。だけど、今の私から正義を取ったら、何が残る? 何も残らない。この汚れてしまった体しか残らない。だから、私はあんな強がりを言ってしまった。そして、後悔した。
 真理は見透かしているはずだ。私はもう無理だと。使い物にならないと。
 だけど仕方ないじゃない。私は、必死に頑張ったんだし、男の人の腕力で勝てるわけないんだから。
 だって、しょうがないじゃない……。
 私は何度も何度も、体を洗った。だけど、いつになっても汚れは落ちなかった。
(つづく)
(初出:2013年08月07日)
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登録日:2013年08月07日 12時38分

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