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天生諷
著者:天生諷(あもうふう)
極々平凡な会社員。毎日楽しい出来事はないかと、心の中で模索しながら生活をしている。旅行と昼寝をこよなく愛し、読書とゲームが生きる原動力となっている。群馬県在住。
小説/推理

世は並べて事も無し アノ子の理由(15)

[連載 | 完結済 | 全20話] 目次へ
御厨グループのご令嬢、杏子の家を訪ねる真理。杏子が正義にこだわる理由――それは5年前の事件にあった。涙を流しながらポツリポツリと語る杏子に、事件解決を諦めさせようとする真理。そのわけとは?
 六章 私が正義を貫く理由

 四月二十日 日曜日

 御厨杏子の自宅は簡単に見つけられた。と言うよりも、バス停で時刻表を確認した瞬間に分かった。停留所に御厨邸前と書かれた場所があったのだ。
 膝の破れたジーンズに、白いパーカーというラフな私服でバス停に立つ真理は、これから赴く場所を想像してウンザリとした表情を浮かべた。
「御厨が凄い資産家だとは聞いてきたけど……」
 新聞やネットでも度々目にする御厨グループ。戦後の混乱期、御厨英治は持ち前の行動力と知恵を用いて、アメリカとの取引で御厨グループの礎を裸一貫から築き上げた。二代目であり、杏子の曾祖父に当たる平治が更に業績を伸ばし、今の御厨グループを立ち上げた。元々は運輸業を生業とし、外国との商取引で利益を上げていたが、平治の代で金融業にまで手を出した。本来、畑違いの業種に手を出すことは大変大きなリスクを背負うが、持って生まれた才能からか、それとも部下に恵まれたのか、金融業でも大きな利益を上げ、業界に御厨グループの名を知らしめた。
 現在の会長であり、杏子の祖父にあたる御厨守助は、現代でめざましい発展を遂げているIT関係の走りとも言える電子器機の開発研究に力を注ぎ、各種電化製品の内蔵部品を世に送り出した。現在では、アメリカのシリコンバレーに『MIKURIYA』ブランドとして高性能CPUの開発研究に力を注いでいる。御厨グループを日本だけではなく、グローバル企業に押し上げた守助は、世界における御厨のポジションに満足することなく、日々研究を重ね新しい事業を画策しているという。
 現在ではあらゆる分野で成功を収め、その資産は小国の国家予算を上回るとまで言われる御厨家。一見すると順風満帆に思えるかも知れない御厨家だったが、五年前にある大事件が起こった。
 現在の御厨グループの社長であり、杏子の父である御厨知久。その妻である順子。事件は、順子と杏子の人生を大きく変える事となった。
「………」
 御厨邸前という巫山戯た停留所で降りた真理は、眼前に広がる豪邸を見て言葉を失った。豪邸というよりも、此処まで来ると宮殿。鉄柵越しに立っているが、そこからやっと全体像を把握できるというスケールの大きさだ。
 豪奢だが、嫌みのない黄色。青空の下に良く映える宮殿は、若干スケールダウンしているものの、オーストリアのシェーンブルン宮殿によく似ていた。横に広い宮殿に縦長の窓が幾つも付いている。外側からでは、部屋数が幾つあるのか想像も出来ない。シェーンブルン宮殿の居室はおよそ一二〇〇部屋ある。恐らく、御厨邸もそれに近いだけの数を備えているに違いない。
 今も昔も、権威を示す為に巨大な建造物を建てた。こうして目の当たりにすると、権力者の思惑が何となく分かる気がする。人は、権威をこうした形で見せられるだけで萎縮してしまう。人間像や立場、身分を幾ら説明しても、目の前に居るのは同じ人間だ。それだけでは余り効果はない。なら、どうやって自らの力を誇示するか。手っ取り早いのが財力を示すことだろう。財力と権力は、大旨イコールだ。自分では買えないもの、自分で建てられないもの、それを見せることで力を示すことが出来る。こうした巨大な宮殿に招かれた人物は、否応なしにそこに住まう住人との上下関係を認識してしまう。
 もっとも、真理に対してその効果は海に投げ入れた一粒の角砂糖程度に効果は薄い。御厨杏子の父、御厨知久。豪放磊落を地で行く知久と真理は面識があった。過去、幾度かの事件で知久と共に事件に巻き込まれたのだ。
 ファンキーなオッサンだな。容姿ではなく、その性格、生き方から真理は知久をファンキーなオッサンと認識していた。彼の娘が同い年の御厨杏子だとは思っていなかった。というよりも、自己紹介をされた際、杏子が御厨グループの一人娘だと言う事は知ったが、知久が御厨グループの社長だとは思ってもみなかった。金回りは良さそうだったが、なるほど、御厨グループの社長ならばそれも頷ける。
 左手に宮殿を望み、バス停から少し歩いた真理は正門の前に立った。天を突くように建てられた柱に支えられ、巨大な鉄扉が硬く入口を閉ざしている。見ると、柱に監視カメラが設置されており、常にこちらを監視していた。下手な行動を起こしたら、警備員がすぐに飛んでくるのだろう。
 肩に掛けたボディーバックから鉄扇を取り出した真理は、門扉の横に付いているベルを押す。程なくして、インターフォンから機械音声が聞こえてきた。
『ご用件の方は、これから出される三つの質問にお答え下さい。不正解の場合、顔を洗って出直してきて下さい』
「え?」
 真理は面食らって監視カメラを見上げた。カメラは物言わず、こちらを見つめ続けるだけだった。真理の戸惑いをよそに、インターフォンから音声が流れ続ける。
『では第一問。
 暁の子、明けの明星と呼ばれる堕天使は……』
「ルシファー!」
 真理は答える。
『ルシファーですが、そのルシファーが聖書に出てきた回数は何回?』
 がくっと真理はバランスを崩す。これ機械音声だよな? と思いながら、真理は鉄扇でコツコツと頭を叩く。
「ん〜……ミルトンの『失楽園」には沢山出てきたけど、旧約聖書、イザヤの書では明けの明星を意味するルキフェルという単語が一度切り。つまり、答えは一回だ」
『正解です。では、二問。
 魔術の語源を説明せよ?』
 これは簡単な問題だった。一拍おき、前置きじゃないことを確認した真理は、淀みない口調で答える。
「魔術は英語で『magic』、語源は『マギの使うワザ』を意味する。マギというのは、古代中東のメディア王国で祭祀を司っていた人のことを指す。もっと正確に言えば、マゴイ族の人間をマグスと呼び、その複数形が『マギ』となる。俺達に一番なじみ深いマギといえば、キリストの誕生に関わりのある、ガスパール、メルキオール、バルタザールの『東方の三博士』だろう」
『余計な説明が多々ありましたが、正解です』
「……これ、電子音声じゃないだろう? 中に人がいないか?」
『無視して先を続けます。では、最終問題です』
 明らかに人の悪意とイタズラ心が垣間見せる音声を聞きながら、御厨はやっぱり変わりものだと再認識した。
『一昔前、青酸カリの匂いを消す為に用いられた食料品は?』
「ウイスキー、それもホットウイスキーだ」
『……ホットウイスキーですが、では、愚か者の毒薬と言われる薬物は何でしょう?』
 露骨な舌打ちをする真理に、インターフォンの向こうからは小さな笑い声が聞こえた気がした。
「ヒ素だよ、ヒ素。昔から使われてきたけど、すぐに症状に現れ、検査すれば一発で分かってしまう薬物。愚か者の毒薬、それはヒ素だ!」
『パンパカパーン♪ 正解です〜♪ では、横の扉から入って下さい』
 カチャリと音がして、門扉の横にある鉄柵の一部が地面に吸い込まれた。人一人の通行くらいでは、わざわざ鉄扉を開けるようなことはしないのだろう。真理は下がった鉄柵の部分から御厨邸の中に足を踏み入れた。
 広い。鉄柵の中に入った真理は、ガラにもなく感嘆の溜息を漏らした。
 緑色の芝生は短く刈り込まれており、その中をホワイトマーブルの通路が碁盤の目のように走っている。日の光を受けて輝くホワイトマーブルは、御厨邸の黄色い外観とよくマッチしている。正門から真っ直ぐに伸びるアプローチ。噴水の類はなく、屋敷の前に巨大な花壇があり、そこがロータリーとなっていた。
 開放感のある庭を眺めながら、真理は周囲に気を配った。見られているという感覚はあるが、何処から見られているのか、正確な位置も距離も掴めなかった。
 ようやく屋敷の前に辿り着いた真理。彼がノックする前に、オーク材の扉は音も無く開いた。
「当屋敷にどのようなご用件でしょうか?」
 出てきたのはメイド。真理が頭に思い描くメイドを、そのまま現実世界に連れてきたようなメイドだ。黒いメイド服に、フリルのついた白いエプロン。頭には白いカチューシャを着けている。年の頃は、たまに行くメイド喫茶のアルバイト店員より若干上だろうか。笑顔を見せず、警戒の眼差しでこちらを見つめてくる。
「えっと、俺は珠洲真理といいます。杏子の……杏子さんの……、友人、です」
「お嬢様のご友人の方で御座いますか?」
 これでもかという胡乱な眼差しを向けてくる。
「怪しい者じゃないですよ」
 真理は唇を尖らせる。真理の知っているメイドっぽい格好をしている女の子は、常に笑顔で「畏まりました、ご主人様」と応対してくれる。まあ、真理はご主人様ではないから仕方ないかも知れないが、客人である事に変わりはない。客人に対してこの態度、余りにも無礼ではないか?
「オカルトや毒物のことをあそこまで詳しく知っている人に、怪しくない人はいないと思いますが」
「アンタか、あの質問をしていたのは……。兎に角、杏子を呼んでくれ」
「本当に杏子お嬢様のご友人の方なんですか?」
「そうだよ。取り次いでくれれば分かるから!」
「……少々お待ちを」
 そういい、メイドは屋敷の中に消えていった。見ると、広い玄関ホールには若い執事が二人、置物のように立ってこちらを無表情に見つめていた。真理は扉に背を向け、何もない庭を見つめた。
 こういう場所に慣れていないせいか、気疲れしてしまう。遠くに見える鉄柵の向こうは、真理の良く知る世界だが、一歩御厨の敷地に入った瞬間、もうここは別世界だ。全ての基本が御厨の意志によって決定される世界。考えるだけでゾッとしてしまう恐ろしい世界だ。
「……真理か?」
 驚いたような声が背中に聞こえたのは、メイドが消えてから、五分ほど経った頃だった。振り返った真理は、杏子を見て目を細める。
 顔色は驚くほど青白く、頬は見てるこちらが目を背けるほど腫れていた。
「杏子……」
 杏子は白いワンピース姿だった。黒い髪が陽光を受けてキラキラと輝いている。
「……どうした?」
「あっ、いや、大丈夫かと思ってさ。昨日、あんな事があったから」
 杏子は顔を顰めた。
「大丈夫、ではない、かな……。少々キツイのは確かだ」
「……だろうな」
 杏子から顔を背けたまま、真理は相づちを打つ。痛々しい姿をした杏子を見られないのではない。杏子をみると、どうしても自分を責めてしまう。自分がしっかりいしていれば、杏子はこんな事になっていなかったと思ってしまう。たらればの話は好きではないが、胸に打ち込まれた後悔というのは中々消えるものではない。
「少し歩かないか?」
 杏子はゆっくりとした足取りでスロープに降り立った。柔らかなシルクのワンピースを春の風に揺らしながら、杏子は芝生の上を歩いた。
 真理も杏子の後に続く。
「……杏子、悪かった。俺がもっとしっかりしていれば、こんな事にはならなかった」
「……いや、感謝している。お前がいなかったら、私は……どうなっていたか分からない」
「だけど怪我をさせてしまった。怖い思いも。今回は……その、未然に行為は防げたけど、今度は分からない」
 ピタリと杏子は足を止めた。凄い勢いでこちらを振り返る杏子の顔には、微かな笑みが浮かんでいるようだった。
「一つ確認して良いか、私は、ムマにやられたのか……? それとも、あの行為は、本番はなかったのか?」
 杏子の問いに、真理は悟った。杏子は、あの時の記憶の大半が欠落しているのだ。恐怖の余り、自衛反応として記憶を封印したのだろう。
「殴られ、服を破られただけだった。……お前の胸は触られたみたいだけど」
 ワンピースの胸元に目をやった。露わになった杏子の胸元。杏子には悪いが、真理の脳裏には杏子の胸がくっきりと焼き付いていた。
「……そうか。私はまだ純潔のままか」
「以外だな。貞操観念はしっかりしてるんだな」
「当然だ、馬鹿者! 私の処女はどれだけの価値があると思う? 私の処女をもらえる奴は、この世界のあらゆる財を手にできるのだぞ」
「それって、結婚って事?」
「当然だろうが! 褥(しとね)を共にするのだぞ!」
「……今時珍しい、重い女なんだな、お前って」
「何か言ったか?」
「いいや」
 まだショックは残っているようだが、現状を認識して、少し元気が出てきたみたいだ。元気だけが取り柄の奴が、元気をなくしたら救いようがない。
「……すまなかったな。真理、お前には迷惑を掛けっぱなしだ」
「んにゃ、構わないよ」
 杏子は庭の片隅にある東屋へ真理を導いた。杏子が腰を下ろすと、タイミング良く先ほどのメイドが紅茶とケーキを運んできてくれた。
「あと三日だな。真理、事件はどうだ? 正直、私にはさっぱりだ」
 杏子は優雅な仕草で紅茶を口に運ぶ。学校では余り気にならないが、こうして見ると杏子は本当にお嬢様なんだと、再認識してしまう。杏子の一挙手一投足が、とても優雅で美しい。それは生まれ持った物であり、長年の生活で自然と身についた所作なのだろう。
「なあ」
 ケーキを口に入れながら、真理は全く別の質問を杏子に投げかける。
「五年前の事件か? お前が正義貫く理由ってのは?」
 杏子の動きが止まった。真っ直ぐ真理に添えられた眼差しには、驚いた表情は浮かんでいなかった。
「事件の事、知っていたのか?」
「……昨日まで知らなかった。でも、御厨の事は、調べる気になればネットを使えば五分で調べられる」
「……そうか。まあ、お前の言う通りだよ。五年前、私とお母さん……母は誘拐された。連中の目的は、金だったよ。身代金だな」
「うん。そうらしいな。その金額は一〇〇億だっけ? 個人の身代金としては、法外な金額だったらしいな」
「そうだな。まあ、御厨では払えない額じゃない」
「連中は、二十代前半の男五人だったらしいな」
「ああ、獣のような奴等だったよ。アイツ等は人じゃない。人の皮を被った、悪魔だ」
「………」
 杏子の目から銀色の雫が流れた。彼女は、涙が流れていることに気がついていないのだろうか。真っ直ぐに屋敷を見つめながら、ゆっくりと、噛み締めるように続けた。
「私の母は、当時三十代半ばだった。私が言うのも何だがな、綺麗な人だよ。私なんか足元にも及ばないくらい、美しい人だった。監禁されていた時間は、二日となかった。だけど、その間、母は五人に犯され続けた」
 悔しそうに、杏子は唇を噛んだ。ボロボロと零れる涙を拭おうとせず、目に憎しみの炎を宿している。その炎は力強く、杏子自らも飲み込んでしまうほど燃えさかっているようだった。
「母はな、本当にずっと犯されていたんだ。抵抗所か、口答えするだけで、蹴られ、殴られ、あらゆる辱めを受けた。最初は泣き叫んでいた母だったが、次第になんの反応もしなくなった。母は、自ら心を閉ざしたんだ。そうしなければ、耐えられなかったんだろうな。私は、母が犯される姿をずっと見せられていたよ」
「……そっか」
 真理は何も言えなかった。過去の新聞記事などから、話の大筋は分かっていた。杏子の母、順子が誘拐され、無事解放されたと記事には書いてあったが、学校での杏子の言動を見れば、誘拐されていた間、何があったかは大体想像がついた。
 杏子は男性に対して、大きな心的外傷を抱えているのだ。だから、プールサイドに訪れた時、東光に強い恐怖心を抱き、意味不明な行動を取っていた。他にも、思い当たる節は沢山あった。
「私達を救ってくれたのは、まだ若い刑事さんだったよ。彼は優しく微笑んでくれた。あの時の笑顔、私は一生忘れない」
「……だから、正義の味方になりたいのか?」
「ああ、笑ってしまうだろう? あんな事があって、私は学校で孤立してしまった。回りが変わったんじゃない、私が変わってしまったんだな。男の子とまともに話せなくなり、男の子と同じ教室にいるだけで気分が悪くなった。大人子供関係なく、私は男性恐怖症になったんだ」
 「今はだいぶ良くなったがな」杏子は疲れたように笑った。流れる涙を指先で拭い、冷めた紅茶を一口飲んだ。
「私は、私を救ってくれた刑事さんの笑顔を忘れられなかった。人の笑顔が、あれほどまで優しく、力強いとは思わなかった。学校で一人になってしまった私は、現実から逃げる為に、ヒーローになろうとしたんだ。悪を倒し、正義を世に示す。正義を行えば、失った笑顔を取り戻せると思っていたんだ。誰からも愛されるヒーロー。私がヒーローになれば、私はまた以前のようになれると思っていたんだ。正義の味方に憧れる余り、気がついたらヒーローオタク。回りには、本当に誰もいなくなったよ」
「過ぎたるは猶及ばざるが如し、だな」
「そうだな。真理にとって、正義とは何だ? 私は正直分からない。私の目指した正義は何だったのか。私の正義は、所詮独りよがりの妄想でしかなかったのかも知れない。正義の味方は、悪者に負ける。……ようやく、分かったよ。私は、何から何まで子供だった」
 また一滴、涙が頬を伝った。
 真理は背もたれに凭れ掛かりながら、黄金色に輝く屋敷を見つめ、目を細めた。
「……俺の正義か。それは、俺が正義だと思ったこと、かな。俺の正義は、必ずしも世間の正義じゃない。俺には俺の正義がある。東光にも、アサギにも、もちろん、杏子にもな」
「私の正義、か……」
 杏子は膝の上で組んだ手を見つめた。憂いを秘めた表情。それは、学校では見る事の無かった表情だった。杏子も普通の女の子なんだな、この時、真理は初めてそんな事を思った。
 鼻からゆっくりと息を吐き出しながら、真理は静かな、それでいて否定を許さない強い口調で杏子に告げた。
「杏子、俺は事件から手を引く」
 暫く自分の手を見つめていた杏子は、言葉の意味を吟味し、惚けた表情で真理を見た。
「……え? いま、何て……?」
「今回の事件から手を引くよ。杏子、探偵ごっこはおしまいだ」
 真理は立ち上がった。大きく伸びをして、青空に顔を向ける。杏子の顔は見られなかった。見れば、決心が鈍りそうだった。
「どうしてだ……? 今まで頑張ってきたじゃないか?」
 杏子は勢いよく立ち上がった。テーブルに足がぶつかり、ティーカップが落ちて割れた。ホワイトマーブルに、酸化して色の濃くなった紅茶が血痕のように広がる。
「杏子、分かっただろう。お前の手には余る。それに、放っておいた方が良い事件もある」
「……放っておけ、だと……?」
 杏子の気配が変化した。真理は杏子を見る。彼女は拳を握り締め、怒りに燃える瞳をこちらに向けていた。
「ムマを放っておけというのか! アイツを放っておけば、他にも女性が犠牲になる! 見えない犯人だって、またいつ次の犯行をするか分からない!」
「……また怖い思いをしたいのか? お前が襲われた理由、それを考えろ」
「考えたさ! 昨日一晩、ずっと考えた! 考え抜いた! 私には、何もないんだ……! 私には、正義しかないんだ。脆くて、弱くて、自分勝手な正義かも知れない。だけど、私にはそれしかないんだ。お前にまで否定されたら、私の存在意義がなくなってしまう……」
 深い溜息をついた。真理は唇を噛んだ。目を閉じ、一度、二度と深い呼吸をする。
「お前の独りよがりな正義の為に、東光とアサギが怪我をしたんだ。それを忘れるな。もし続けるなら、今度はアサギが杏子と同じ目に遭うかも知れないんだぞ」
「あっ……」
 蹌踉めいた杏子は、東屋の柱に体を預けた。
 これは反則だ。これだけは言いたくなかった。これを言ったら、杏子は引き下がるしかない。何だかんだ言っても、杏子は自分よりも他人を思いやる。自分の意志を曲げてでも、他人を取る。そんな女性だ。真理は、杏子の心根の優しさを逆手に取った。彼女の心を意図的に踏みにじった。
「そういうわけだ。お前の正義は、回りを不幸にする。力のない正義は、逆に回りを不幸にする。お前の成そうとしている正義は、諸刃の剣なんだ」
 杏子は顔を伏せた。小さく肩を振るわせる。
「真理……」
 少々やり過ぎたか。だが、ここまでやらなければ杏子は諦めないだろう。あの事件の落とし所は何処にもない。着地地点のない事件なのだ。このまま放っておき、風化させるのが一番良いのだ。
「お前は……」
 フラリと杏子が動いた。千鳥足のような不安定な足取りで、杏子は真理まで迫った。
「杏子?」
 真理は杏子の伏せた顔を覗き込んだ。杏子は目に涙を溜めていた。
「お前は、大馬鹿野郎だ!」
 バッと顔を上げた杏子。握り締められた彼女の拳が、真理の顔面に炸裂した。
「貴様など消えろ! 二度と私の前に姿を現すな!」
 東屋から転がり落ちた真理を怒鳴りつけ、杏子は屋敷へと戻っていった。杏子と入れ違いに、ガタイの良い黒服がどこからともなく走り寄ってきた。
 真理は無言のまま黒服に立たされ、正門から放り出された。
「………」
 汚れてしまったパーカーを叩きながら、真理は御厨邸を振り返った。
 口の中に血の味が広がっている。見事な右ストレート。避けることも出来たが、甘んじて受けた。それが、せめてもの杏子に対する償いだと思ったからだ。
 寂しそうな表情を浮かべたのも一瞬。真理は踵を返して御厨邸の前から姿を消した。
(つづく)
(初出:2013年09月25日)
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登録日:2013年09月25日 15時21分

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