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天生諷
著者:天生諷(あもうふう)
極々平凡な会社員。毎日楽しい出来事はないかと、心の中で模索しながら生活をしている。旅行と昼寝をこよなく愛し、読書とゲームが生きる原動力となっている。群馬県在住。
小説/推理

世は並べて事も無し アノ子の理由(8)

[連載 | 完結済 | 全20話] 目次へ
東光とアサギは美術部の真壁教師、真理と杏子は用務員の高嶺に聞き込みを行う。その最中にまたも事件が! そして杏子の危うい一面が明らかになる。
「失礼します」
 東光の、低く良く通るが職員室に響く。
 莫大な生徒を抱える御陵高校の職員室は、教職員の数に比例して、桁違いに広かった。東西に長い職員室は、大きなデスクが一人一つ割り当てられており、向かい合うように並べられていた。
 入口付近にいた教師がチラリとこちらを見るが、その教師は「ああ、また東光か」という表情を浮かべると、席を立ちこちらに歩いてきた。
「遠藤、どうした? また松下先生に呼び出されたのか? ん? 今日は真理ではなく、時雨さんと一緒か?」
 異色の組み合わせに、教師は目を丸くした。
 アサギは緊張しているのか、小さな体を更に縮め、東光の背中に隠れるようにしていた。正面から見れば、東光の体に隠れ、アサギの姿は見えないだろう。
「竹中先生、今日は違う用件です。真壁先生はいますか?」
 教師、竹中は振り返ると、「えっと……」と、一旦戻って職員室の座席表を見た。教師の数も多いいし、部活動のみを教えている教師も沢山いる。ザッと見渡しただけで、一〇〇人近くの教師が詰めている。同僚を知らないというのも無理はないだろう。
「ああ、向こう側だね。三列目の、一番端の方。今、女子生徒がいる辺りじゃないかな」
 東光は指さされた方を見る。遠くに見える女子生徒には見覚えがあった。
「有り難う御座います」
 一礼した東光は、迷いのない足取りで美保の元へと向かう。途中、教師達が声を掛けてくるが、東光は黙礼をするだけで横を通り過ぎていく。
「東光、お主は有名人じゃな」
 袖を掴んだアサギは、囁く。黒いローブを身につけた彼女は、否が応でも目立ってしまう。そのくせ、目立つのは苦手らしく、廊下を歩く時も顔を伏せ東光の影に隠れるようにしていた。
 そんなに嫌なら普通の格好をすればいいのにと東光は思うが、真理のように口が達者ではない為、アサギとまともに会話をする事すら出来ない。
「真理と色々してきたからな」
 良い評価、悪い評価問わず、真理と東光を知らぬ教師はいないだろう。彼らも人間だ。東光の一人歩きしている噂を信じてしまえば、彼らの見る目はガラリと変わるだろう。もしかすると、ちょっとした問題を起こしただけで停学、ヘタをすれば退学にまで追い込まれるかも知れない。逆に言えば、学園で流れている噂話が偽りだと、教師達は分かっている。だから、東光はこうして普通の学園生活を送れていた。学校の備品や校舎の一部を破壊しても、「あの二人なら仕方ない」と言った見方で大体の事が片付いてしまう。
 真壁美保がこちらに気がついた。彼女は東光の姿を認めても驚きもせず、静かに席を立った。美保の前にいた女子生徒、橘ヒカルが振り返る。橘は美保と対照的に、先ほどまで浮かべていた笑顔を引っ込めた。
「やっぱり来たのね。今日は遠藤君一人かしら?」
「いや、アサギもいる」
 美保の前に立った東光。東光に促され、背中からアサギがヒョイッと飛び出した。
「先生、話を聞きたいのだが」
「良いわよ、此処じゃ話しにくいし。応接室を使いましょう。……橘さんも一緒で良いかしら?」
 東光は言葉に詰まり、アサギを見下ろす。アサギはタブレットを立ち上げている最中だったが、「構わぬ。むしろ、その女子にも聞きたいことがある」と告げた。
 東光とアサギは、美保に先導されて職員室から出ると、廊下を挟んで向かいにある応接室の一室に通された。細長い小さな部屋。部屋の中央にはガラステーブルが置かれ、その脇に三人掛けのソファーが向かい合う様に置かれている。
 美保と橘が並んで座り、美保と向かい合うようにして東光、橘の正面にアサギが腰を下ろした。
「それで、何を聞きたいの?」
 足を組んだ美保は小首を傾げて東光に尋ねる。
 東光はポケットから一枚のメモを取り出す。メモには、箇条書きで質問の内容が走り書きしてある。部室を出る直前、真理が東光に手渡した物だ。
「俺は真理のように弁が立たない。単刀直入に聞きます。志保が自殺する直前、先生と口論していたという噂がある。本当ですか?」
「……ええ、本当よ」
 ルージュの引かれた唇の片方を持ち上げるが、その表情は緊張で強ばっているように思えた。東光は膝の上に組まれた美保の親指が忙しなく動いてくることに注目した。
「何故?」
「あの子が、美術をやめたいといったの。私は反対したわ。だって、あの子には才能があるんですもの。もったいないじゃない。志保だったら世界の注目を一身に浴びられる。父さんだって越えることができるかもしれない」
「それで口論になった? その事は、警察には?」
「もちろん言ったわよ。それがどうかしたの?」
「儂たちは、志保の自殺を疑っている」
 何の前触れもなくアサギが話に割って入った。東光は真理から貰ったメモに目を落とし、すぐにアサギを見る。こんな事は、予定に入っていなかった。
「志保は、自殺じゃないって言うの? 誰かに、殺されたって言うの?」
 美保の声が震えていた。声だけではない。指先も、唇も、瞳も震えているようだった。
「可能性がある、そう真理は言っていた」
「珠洲君が……?」
 これは嘘だ。確かに真理は何かを考えている風だったが、志保が自殺ではないかも知れない、などとは一言も言っていない。だが、真理の名前を口にした途端、明らかに美保は動揺していた。
「先生、何を真に受けているんですか! 彼らは、遊び半分でやっているんですよ!」
 真っ先に非難の声を上げたのは橘だ。彼女は親の敵を見るかのような眼差しで、こちらを睨み付けてくる。東光は居たたまれない気持ちになりながらも、手にしたメモに視線を落とした。汚い字の走り書きだったが、これがあれば真理の真似事ができる。心に鉄の仮面を被り、調査を継続する。
「志保が入っていたS−NETを先生は知りませんか? プライバシー保護で、一切情報がない。知っていたら教えて欲しい」
「そちらのヒステリックな女子でも良いぞ。親友を自負する程だ、何のS−NETに属していたか、それくらいは知っておろう」
 挑戦的なアサギの言葉だ。奥歯を噛み締めた橘は、怒鳴りたいのを必至に堪えているようだった。
「……知らないわよ! 悪い?」
「そうか、親友ならその位知っていると思ったのだが、すまない。儂の勘違いだったようじゃ」
 橘に聞こえるように鼻で笑ったアサギは、タブレットに先ほどの情報を打ち込んだ。
「悪かったわね! でもね、志保とは本当に親友だったのよ! あの子があんな事にならなければ、私は、私は……!」
 ボロボロと橘の目から涙が零れた。
 こうなってしまうと、東光は何も出来ない。真理と違い、女性の裸と涙にはめっぽう弱いのだ。彼女は何も知らない、断定するのはいけない事だとは分かっているが、そう思ってしまう。そう思い込み、橘を救ってやりたいと思う自分がいる。
「こんな事にもならなかった、そう言いたいのか? ……悪いが、儂も東光も、お前に同情するような心は持ち合わせておらん。特に、横に居る東光は、女の涙が何よりも嫌いな悪鬼のような奴じゃ」
 東光は体を振るわせる。アサギの言葉を真っ先に否定したかったが、この場に相応しい言葉を思い浮かばない。東光が戸惑っているうちに、言葉を発するタイミングを逸してしまった。話は東光を置いて進んでいく。
「何よ、アンタなんて、何も分からないくせに……! 才能のない人の気持ちなんて! 幾ら望んでも手に入らない、努力なんて言葉は、才能のない奴の慰みでしかないのよ! 何の意味の無いことなの!」
「それは、自分のことを言っているのか?」
 息を飲んで二人のやり取り見守っていた東光は、アサギの手元にあるタブレットを見て目を見張った。橘を責め立てながらも、アサギの指は流れるように動き、これまでの事を一言一句漏らさず全て筆記していた。そして、画面の傍らには橘のプロフィールが浮かんでいた。
「貴様は嘘をついているな、先日、コンクールで賞を取ったばかりではないか。才能がないなどと、言わせないぞ」
 橘は悔しそうに唇を噛み締めた。肩が小刻みに震え、途切れ途切れの声が、口から絞り出された。
「……志保がいなかったからよ。彼女がいたら、私の絵なんて……!」
「そんな事はないわよ、橘さん。貴方にも才能はある。誰にも負けない才能がある。貴方は胸を張って良いのよ」
 美保に慰められ、橘は糸の切れた操り人形のように美保に抱きついた。噎び泣く橘を、美保は聖母のような優しい笑みを浮かべ慰める。
「アサギ……」
 東光の言葉に、アサギは不満そうな表情を浮かべる。彼女は、まだ橘を苛めたりないみたいだ。胸中で溜息をついた東光は、美保に頭を下げると立ち上がった。仕方なさそうに、アサギも東光に習う。
「待って、遠藤君。私も志保がなんのS−NETに入っていたか分からないけど、志保は結社の主催者をやっていたみたいなの」
「……感謝します」
 腰を折って礼をした東光は、アサギを伴って逃げるように応接室を出た。
 真理から手渡されたメモの半分以上聞くことが出来なかった。真理は怒らないだろうが、聞き込み一つ出来ない自分に、東光は複雑な気持ちを覚える。暴走とも言えるアサギの行為を止めることも出来ず、橘に無用な涙を流させてしまった。
「上々じゃな。志保がS−NETの主催者だと言う事も分かったし、橘についても色々と分かった」
「どのS−NETに在籍していたか、分かるのか?」
「ウム、大体絞り込むことは出来る。それに、橘の態度、あれは少し気に掛かる」
「そうなのか?」
「……なんじゃ、お前は何も分かっていないのか! 女子(おなご)を見かけで判断すると、痛い目を見るぞ。……まあよい。アン子と真理が帰ってきてから、話をしよう」
 スタスタと歩いていくアサギ。彼女も、真理と同じく天から与えられた才を持つ一人のようだ。東光は頭二つ低いアサギの後ろ姿を見ながら、探偵倶楽部の部室へと向かった。


 用務員室は、北校舎の北側にある林の中にポツンと存在していた。プレハブ小屋というよりも、一軒の長屋といった風情だ。校舎を構築するゴシック・リヴァイヴァル建築と対比してしまえば、余りにも貧相な佇まいだったが、住むとなればこちらの方がまだ落ち着けると杏子は内心思った。
 ロングコートのように長い上着をはためかせた真理は、手にした扇子をパチパチと開閉させながら「じゃ、行こうか」と唇の端を持ち上げた。
「ああ」
 正直な所、杏子も用務員である高嶺健治に対して、余り良い印象を抱いてはいなかった。貧相で猫背の老人。そのくせ、ぎらつく瞳だけは異様な生気に満ち溢れていた。去年のミスコンで舞台裏にいる時、舞台の管理をしていた高嶺のイヤらしい視線に晒されたのは、杏子だけではなかった。他のミスコン参加者も、露骨に高嶺の視線を嫌っていたのを良く覚えている。
 見かけで人は判断できない。年を取ったからと言っても、高嶺だって男性だ。目の前に際どい服装の美女が揃っていたら、見てしまうことだってあるだろう。そもそも、ミスコンは人に見られる大会だ。見られるのがイヤなら、出なければ良いのだ。
(そう、ミスコンなんて出なければ良かった……)
 真理に気づかれない様に、小さな溜息を吐きだした。忘れもしないミスコン当日。あの日の杏子は、今でも笑いの種になっているほどだ。
 ミスコンの本番。杏子は人々の視線に絶えられず、ヒーローのコスチュームを着て出場した。水を打ったように静まりかえった会場。波紋のように広がる笑い声が、最終的には怒濤の笑いとなって会場を笑いの渦へと巻き込んだ。
 結果的に、杏子は落選。一人ぽつりと、盛り上がるミスコンをグランドの片隅で眺めていた。
「……」
 昔の事を思い出していた杏子は、頭を振りミスコンの失敗を頭の隅に追いやる。今はそんな事よりも、高嶺への聞き取りが重要だ。
 杏子は足を止め、真理の後ろ姿を見つめた。彼は足音も無く窓に歩み寄ると、そっと中の様子を伺う。
「真理、ちょっといいか。お前は何をやっている?」
「いや、高嶺さんがいるかなって思ってさ。隣の部屋にいるのかな、ここからじゃよく見えない」
 真理は窓枠に手を掛けると、それを開けようとした。が、窓には当然の如く鍵が掛かっていて開かない。
「仕方ない……壊すか」
 鉄扇を掲げた真理の腕を、杏子は慌てて掴んだ。
「待てぃ! 何やってるんだ!」
「いや、中に入っているかどうか確かめようかと」
「どう見ても空き巣の手口だぞ! それも、酷く破壊的な手口だ! 何故素直にノックをしない! ドアから行ったらどうだ!」
「……ああ! その手があったか!」
 パシッと扇子で自分の頭を叩く真理。
「激しくズレているな、お前は」
 一瞬、本気で肝を冷やした。
 なるほど。真理がこれでは、いくら東光がカバーしたとしても、毎日のように罰則を受けても仕方がないだろう。
「ズレてるかな? 良く東光と朝輝にも言われるんだよな。俺にはみんなが几帳面すぎるように思えるけどね。もっとさ、気楽に生きようよ」
「気楽に生きるのと、窓を破壊するのは全くの別だろうが。正義の味方だと言う事を、念頭に置いて行動してくれ!」
「正義の味方の行動ってなんだよ、模範的な事、良く分からないんだよな」
「ならば、私がお気に入りのDVDを貸そう。戦隊物なら全て揃っているぞ。現在放送中の五聖ジャーを見本にすると良い」
「五聖ジャー?」
「なんだ、知らないのか? 朱雀レッドに青龍ブルー、白虎ホワイトに玄武ブラック、そして黄龍イエローの五人の戦隊者だ」
「へぇ、なんか、中央の黄龍がダントツ弱そうだけど?」
「黄龍イエローか、あれはダメだな。カレーばかり食っているから、ブクブクと太っている。動くとすぐに大量の汗を流す、ヒーローといえど、少々見苦しい」
「ああ、それはダメだな。子供のヒーロー像を壊すぞ。」
「だろう? 流れ出る汗をシャワーのように出して敵を倒すのだが、その名前がイマイチなんだ。スパイシーシャワーだぞ? もう少しまともなネームを付けられなかったのだろうか」
「目を覚ませ杏子、名前は問題じゃない! もっと他に問題になる所があるだろう」
「フフ、食いついてきたな。気になるなら、一話から全て録画してあるから、貸してやるぞ。もちろん、CMをカットしてある」
「……いや、遠慮しておくよ」
「遠慮する必要など無い。なんなら、私が編集した各種ヒーローの必殺技集と決め台詞集も貸してやろう」
「いや、マジで良い! 遠慮とかそう言うのじゃ無いから! ヒーローは良く分からないけど、常識人っぽくちゃんとやるから大丈夫だ!」
 首の代わりに扇子を振る真理。遠慮などせず、素直に借りれば良いのに。あれを見れば、きっと真理もヒーローのなんたるかを理解するだろう。
「大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ、俺を信用しろよ」
 溜息をつきながら、真理はドアノブを握り、ガチャガチャと動かす。
「ノックをしろ! ノックを!」
「え? あ、そっか」
 小さく舌を出す真理を押し退け、杏子がドアをノックする。
「私達は正義を執行する為にいるんだ。犯罪を犯す為にいるんじゃないんだぞ」
 声を潜める杏子に、「分かったよ」と真理は唇を尖らせた。この調子では、何処まで分かっているのか、知れた物ではない。いつも東光が先頭に立って動くのには、こうした真理のずぼらさ、いや、非常識さがあるからだろう。推理力は凄いのかも知れないが、真理に全てを任せていたら無用な混乱を起こしかねない。
 暫くすると、物音共に「はい」と声が聞こえ、鍵が開いた。
 半分開いたドアから顔を覗かせたのは、相変わらず卑屈な笑みを浮かべた高嶺健治だった。高嶺は、杏子を見て目を広げると、次いで真理を見てゲンナリとした表情を浮かべた。
 溜息をついた高嶺は、ボリボリとふけだらけの髪を掻く。フワッと宙を舞うふけに、杏子は呼吸を止めた。
「……また何かを壊したのか?」
 齢六十を過ぎているとは思えない、高いハスキーな声が高嶺の口から出た。
「いや、鍵が掛かっていたので、危うく用務員室の窓をぶち破る所でした」
「すまないね、ノックの音が聞こえなかった」
「仕方ないですよ、年ですものね」
 一切悪びれる風もなく、真理は嘘をつく。
「真壁志保、知ってますよね? 志保のことで、少し話を聞きたいんです」
 志保の名前を口にした途端、高嶺の雰囲気が変わった。見かけは変わっていないのだが、表情が僅かに強ばった。真一文字に結んだ顎が、強く噛み締められているようで強ばっている。
「S−NETに書き込みがあった。高嶺庶務は、先月亡くなった志保と仲が良かったようだな」
「……入ってくれ。お茶くらいだそう」
 少し落胆したように、高嶺は用務員室に入っていった。
 六畳二間の用務員室。決して広くはないが、用務員室としては広い方だろう。色褪せ、元が何色だか分からない安物の絨毯には、様々なシミが付着していた。食べ物の汁が飛び散ったままのテーブルの上には、タバコの吸い殻が山となった灰皿が置かれている。壁際には小さなテレビが一つ、その横には小さな本棚があった。お湯を沸かすことしか出来そうにない流しの横には、小さな茶箪笥が一棹あるだけ。大した物は置かれていないのだが、部屋はそれだけで一杯だった。隣の部屋は、本来仮眠室になっているのだが、高嶺は御陵高校に寝泊まりしているので、実質ここは高嶺の家と同義だった。
「お邪魔します!」
 靴を脱いだ真理は、何の躊躇いもなく部屋の中へ入っていく。杏子は靴を脱ぐ勇気がなかった。男性特有の油臭い匂いと、シンクに置いたままになっている食器類から漂う異臭が混じり合い、吐き気を催す匂いを構成している。絨毯には、名前を思い浮かべたくもない縮れた毛が絡みついており、いつ掃除したのか問い質したくなる。
「杏子、入れよ」
 すでにテーブルの前に座っている真理は、玄関で突っ立っているこちらを不思議そうに見つめてくる。
「汚い所だけど」
 そう言って、高嶺はお茶を入れながら笑っていた。
「……邪魔をする」
 口で呼吸をしながら、杏子は爪先で絨毯を踏む。チョコチョコと歩きながら杏子は意を決して真理の横に腰を下ろした。
(正義を貫く為、我慢しろ、私!)
 高嶺が来客用の湯飲みを持ってきた所で、真理が口を開いた。
「高嶺さんと志保は、どういった関係だったんですか? 出来れば、詳しく聞きたいんですけどね」
「警察の次は、君が調べているのか? 彼女は、志保さんは自殺なんだろう? 今更何を調べる必要がある」
 お茶を啜りながら、高嶺は西側の窓の外を見る。真理もそちらに目をやる。仕方なく、杏子もそちらを見る。傾いた太陽がオレンジ色の鮮やかな光を投げかける。此処まではグランドの喧噪も、校内のざわめきも聞こえてこない。西の空に沈む夕日を見ていると、此処が学校だと言う事を思わず忘れてしまう。
「う〜ん、どうだろう。警察は自殺って言ってますけど、俺は何か怪しいと思っている。この間の、時計塔に血文字が書かた次の日、高嶺さんは時計塔の壁を洗っていましたよね?」
「見ていたのか?」
「吸血鬼を探しに行く途中で後ろ姿を拝見しました」
 真理はお茶を一口飲む。
「吸血鬼というのは良く分からんが、確かに掃除はしていた」
「あの血文字、どうやら志保さんが死んだ際、書かれた物と同じ内容らしいんですよ。だとすると、あれを書いたのが誰かって話になります」
「なら、志保さんの事は……」
「関係あるんですよ」
 真理はピシャリと言い放つ。
 杏子は高嶺を見つめていた。貧相な老人の様でありながら、瞳に宿る色はやけに若々しい。時折、こちらに向ける眼差しには、熱っぽさが込められていたが、ミスコンの時と比べると遙かにマシだった。
 パシッと左手に扇子を打ち据えた真理は、こちらに逸れていた高嶺の注意を引きつけた。
「ぶっちゃけ言いますけど、あのイタズラ、いや、探偵らしく犯行と言いましょうかね。あの犯行は、志保の事を良く知っている人物が書いた物だと思います。そして、同時に起こった、見えない犯人による殴打事件。殴打事件の被害者は、志保の親友であり、同じ美術部員だった」
「全て、真壁志保の関係者と言う事だ」
 杏子は真理の言葉尻をとらえ、話を結んだ。
「別に、高嶺さんを疑っているわけではありません。ただ、俺達には事件の真実に導く為の要因(ファクター)が不足しているんです。俺は、真壁志保のことを何一つ知りません。ですから、親しかった高嶺さんに話を聞こうと思ったんですよ。話して下しますよね?」
 真理の言葉には、拒否できない強い響きが込められていた。彼が何をしているわけでもない。ただ、彼の紡ぐ言葉には、不思議な力があるのは確かだった。『言霊(ことだま)』とでも呼べばいいのだろうか。真理の言葉に、高嶺は絡め取られ、頷くことしかできない様子だった。
 彼は僅かに顔を伏せると、卑屈な視線をこちらと真理の両方に注いでくる。
「良い子だった、彼女は、本当に良い子だった」
 すっかり冷めたお茶を一口啜った高嶺は、長い溜息をついた。
「毎日遅くまで残って絵を描いていた。儂はね、絵のことは全く分からない、だけど、彼女の絵には力があった。人を引きつける力のような物がね。他の人は、志保さんを才能があると持て囃(はやす)すが、儂は、済まないね、素人が言うのは憚れるが、彼女にはそれほど才能があるとは思えなかった」
「努力の人だった、そう言うことか?」
 美保は全く違う意見だ。それとも、単純に素人とプロとの見識の違いだろうか。隣に座る真理は、扇子を顎に当てながら、黙って高嶺の話を聞いていた。杏子も、高嶺の話に意識を戻した。
「高嶺庶務から見て、志保女史はどんな生徒だった?」
「良く笑い、良く泣く子だった。何処にでもいる生徒と同じだ。彼女を天才だと言う人は沢山いたが、私にしてみれば、他の生徒と同じ、可愛い生徒だった」
「彼女とは、どんな話をしましたか?」
「……よく覚え取らん」
 高嶺は笑った。白い歯が夕日を受けてキラリと輝いた。
 胸がざわついた。何故かは説明は出来ないが、高嶺を見てると胸の奥に苛々が渦巻き、目の奥がチリチリとしてくる。彼が何をしたわけではない。ただ、高嶺の存在自体が杏子には合わない。個人の好き嫌いはあるが、こんなことは初めてだった。
「志保女史に、男の影は、あ、カレシと言うのか? そんな事を聞いたことはあるか?」
「彼氏? どうだろうな。綺麗な子だったから、人気はあると思うけどね……。そうだ、珠洲君、知っているかい? この学校に、セックスサークルがあることを」
「何のことですか?」
「数年前から、この学校にはフリーセックスを目的とした結社があるらしいんだよ」
「フリーセックスだと!」
 杏子は声を荒げた。その声に驚いたかのように、堆く積まれた灰皿から、口紅の付いた細いタバコの吸い殻が転がり落ちた。
「此処は学舎だぞ! そんな不届き者がいて良いのか!」
「ま、良いんじゃない? 好き同士でやってるんだから」
「淫行は違法だ!」
「ああ、淫行条例って奴ね。あれって、青少年同士の淫行でも対象になるんだっけ?」
「その通りだ! 彼らは条例違反だ! 罰せられて然るべきだろう! それに、フリーとは何だ、フリーとは!」
「フリーは、自由って意味だろう?」
 ダンッと杏子はテーブルを叩く。杏子の湯飲みが倒れる所を、真理の扇子が絶妙なバランスとタイミングで支えた。
「言葉の意味を問うているのではない! 此処は法治国家の日本だ! 女子はもっと大和撫子としての自覚と貞操観念を持った方が良い!」
「御厨さん、昔の人は、もっと性に対して自由だんったんですよ。貞操観念っていうのは、恐らく戦後からの観念でしょう」
「なっ、そんな事は……! 大和撫子は、楚々として、気高く処女を重んじていたのではないのか?」
 真理に意見を求める。彼は扇子をこめかみに当てて、首を横に振った。
「高嶺さんの言う通りだよ。昔の日本は、もっと性に対してフリーだった。実を言うとね、貞操観念なんてものは、キリスト教が入ってくるまで日本には無かったと言って良い。宣教師が初めて日本に来た時、貞操観念のなさを驚いていたくらいだしな。
 『夜這い』という言葉があるだろう? 今でこそ、夜這いは余り良い感じで使われないが、昔は夜這いが普通だった」
「嫌がる女性を無理矢理押し倒すのが、普通なのか?」
 怒気を含んだ杏子の声に、真理は「そう怒るなよ」と、笑みを浮かべる。真理はフラリと立ち上がると、窓際へ歩み寄った。窓の外を眺め、その横にある本棚に目を留める。
「夜這いと言っても、女性を無理矢理犯す訳じゃない。その逆に、女性は夜這いに来る男性を選べたんだな。主導権は男性じゃなく、女性の方にあったわけだ。もし、強引に関係を結んでしまえば、その人は村八分にされたり、それなりの制裁を受けるわけだ。だから、女性が拒んだ時は、男性は何もせずに引き下がる、それがルールだったんだ。
 農村などでは、人口の増減というのは死活問題だ。だから、生理が来た女性は、村の年長者と一夜を共にする所もあった。逆もそうだ。思春期を迎えた男性は、村の女性から性の手ほどきを受け、初めて一人前と認められた」
「そんなにも乱れていたのか? ……子供が出来たらどうするのだ?」
「その時は、その女性を娶るしかない。だけど、男性としては怖いことこの上ない。男達は皆夜這いをしているから、自分の子かどうかも分からない。だけど、女性は誰の種であろうと、自分の子であることに代わりはないわけだな。農村部に行けば行くほど、女性の力というのは強かったんだよ。今ではあまりないけど、昔は婿養子というのは珍しくなかった。
 今でこそ、男尊女卑だ、男女平等だと叫ばれているけど、実はそれは、戦時中に立場が逆転したんだ。お国の為に死んでいく、そんな男性の為に、国は男子の価値を上げたんだ。それが、戦後から今になっても悪習として続いている。昔から男子が上だなんて言ってる奴がいるけど、大きな間違い。生物として、子を産めるのは女性だけなんだ。女性の地位が高かったのは、当たり前と言えば当たり前なんだ。
 と、話は逸れたけどね。たぶん、杏子の思っている大和撫子は、物語の中にしか存在しないよ」
 ショックだった。自分の知識のなさもそうだったが、性に対して昔の人がそれだけフリーだとは思ってもいなかった。フリーではなく、おおらかち言った方が良いか。
「昔は娯楽が少なかったからね」
 そう言って話を締めた真理。彼は手を伸ばし、本棚から一冊の本を手にした。装丁のしっかりとした、随分と古そうな本だった。
「で、そのS−NETなんですが、よく高嶺さんが知ってましたね。俺は初めて聞きましたよ」
「私もだ。学校の情報に精通しているとは言えないが、聞いた事はない」
 アサギや東光は知っているのだろうか? 後で、確認する必要があるだろう。
「ン? ああ、実は、パソコンが趣味で。良くS−NETを覗いているんだ」
 急須を持ってきた高嶺は、カラになった真理の湯飲みにお茶を注ぐ。お湯に限りなく近い、透明度の高いお茶だった。
 見ると、茶箪笥の上に真新しいノートパソコンが置いてあった。年寄りにしては、ハイカラな趣味といえた。
「それで、偶然見つけたと? 何て名前です?」
 本を手に、振り返る真理。彼のことだ、良からぬ事を考えているに違いない。
「真理! 話が逸れているぞ!」
 杏子は真理を睨み付ける。
「そうだったね。それは後でアサギに聞くとして、高嶺さん、志保が自殺する心当たりってありませんか?」
「警察にも話したが、特に何も。ただ」
「ただ?」
「これは、真理君だから言うんだが、志保さんが死んだ日、彼女は儂に言ったんだ。全てをやり終えた、と」
「死んだ日に合ったのか?」
 今度は杏子は身を乗り出した。これは初耳だった。
「その事、警察には?」
「もちろん言った。だけど、姉である真壁先生や他の人にはいっとらん。儂にも立場があるから」
 こうして警察から解放されていると言う事は、志保の自殺に高嶺は関係がないのだろう。
「前後に、不審な人物を見ませんでしたか? 知っていると思いますが、野木政志と呼ばれる犯罪者が、この学校に侵入していた形跡があります」
「警察と一緒に探したがね、誰もいなかった。不審な人物を見た事もなかった、誓うよ」
 高嶺は、神に宣告するように左手を挙げた。
「そうか。やはり、野木政志の後は追えないか……」
 杏子は唇を噛んだ。真理は一冊の本を手に、杏子の隣に戻ってきた。彼はフッとテーブルの上に散っているタバコの灰を飛ばすと、綺麗になった場所に本を広げた。それは、ミミズが這ったような文字で書かれている随分と古い本だ。英語で書かれたその本は、少し下手な力を入れるとページが取れてしまう良そうな程ボロボロだった。恥ずかしいが、何て書かれているのか、杏子にはさっぱり分からない。
「これ、どうしたんですか?」
 真理は面白そうにパラパラとページを捲る。
「ああ、それかね……」
 高嶺は真理の手元を覗き込む。
「それは、確か……、生徒から没収したのだよ。学校の勉強に関係のないものは、基本持ってきてはいけないからね。先生に見つかると不味いから、私が少しの間預かっている。少ししたら、反省した生徒が取りに来るんだよ」
 杏子は本棚を見る。本棚には、漫画本や小説、週刊誌などが置かれていた。その中には、真理が持ってきたような古めかしい本も数冊置かれていた。
「真理、その本が気になるのか?」
「ん? まあ、気になるっちゃ気になるな」
 真理はパタンと本を閉じる。間近で見る本は、今まで杏子が見たどの本よりも古そうだった。背表紙には鋲が打たれており、その鋲は綺麗な細工の施された薔薇の形をしていた。残念ながら、タイトルは掠れて読むことが出来ない。少なくとも、これは日本で書かれた物で無い事だけは確かだ。
 もう、これ以上此処にいる必要は無いだろう。必要な情報を得た杏子は、横で二杯目のお茶を美味しそうに飲む真理を見つめる、彼は杏子の視線に気がつくと、取り繕ったような笑みを浮かべて高嶺に頭を下げた。
「高嶺さん、有り難う御座います」
「高嶺庶務、馳走になったな」
 こんな汚い部屋には一秒と居たくない。そそくさと立ち上がった杏子だったが、それを邪魔するように携帯電話の音が響き渡った。音源は、腰を浮かべた状態で動きを止めている真理の胸ポケットからだった。
「ん? 東光からだ……」
 小さく頭を下げ、真理は電話に出た。杏子は高嶺から見えないように足の裏をパッパと払うと、革靴を履いた。
「えそれって、陸上部の? 何処で? ……うん、うん、分かった。良いかい東光。いつものように、現場をよく見ておいてくれ。細部まで見逃すなよ」
 猫の額のように狭い玄関に立ったまま、真理を振り返ると、電話を耳に当てた顔から余裕が消えていた。電話に応答している声にも緊張感が漂っている。自然と、杏子も緊張に身を固くした。
「真理、どうした?」
 携帯を切った真理は、先ほどまでとは対照的に、暗く暗鬱とした表情をしていた。目には憂いが浮かんでおり、深い陰りが見える。
「また事件だ。陸上部の伊藤先輩が、部活中に何者かに殴られた。体育倉庫に行った際、殴打されたみたいだ」
「死んだのか?」
「いや、死ではいない。ただ、頭から出血しているみたいだ。もう救急車も来ているらしい」
「救急車が来ていたのか」
 此処は正門と真逆に位置している。ここからでは、グランドで何が起ころうとも話し声一つ聞こえてこない。
「珠洲君、また、事件なのか」
 テーブルの前に腰を下ろし、固まったままでいる高嶺。真理は頷くと、「外の体育倉庫だそうです。高嶺さんも行った方が良い」と事務的に告げると、靴を履いてサッサと外へ出てしまった。
 太陽は西の空に沈み、冷たい風が校舎の北側にある林から吹き込んでくる。
「真理、行かないのか?」
「東光とアサギが現場を見てくた。それに、今から行っても、近づけやしないよ」
 真理は溜息をついた。彼の後ろを、高嶺が駆け足で走り抜けていく。定年後の余生を過ごしている老人とは思えない機敏さだ。
「連続殺人事件か……」
「おい! 勝手に人を殺すんじゃない! 今、伊藤学徒は死んでないと言ったばかりだろう」
「あ、そうだった。つい、いつもの癖で」
 鉄扇でポリポリと頭を掻く真理。
 連続殺人事件という言葉がいつもの癖で出てくるとは、彼は普段どのような生活を送っているのだろう。
「とりあえず、部室に戻ろう。詳しい話を東光達から聞かなきゃ」
「そうだな。アサギがいたのなら、現場の映像を録画しているかも知れない」
 杏子と真理は足早に探偵倶楽部の部室へと戻った。すでに、部室には東光とアサギが定位置に腰を下ろしており、アサギはタブレットを食い入るように見つめていた。
 予想した通り、アサギは伊藤の事件現場の動画を撮っていた。杏子と真理は、アサギの後ろに回り込むと、東光の説明を聞きながら十分ほどの動画を見た。


 御厨杏子の考察

 長い髪をブラシで梳きながら、鏡を見つめる。
 白いパジャマを着たいつもの私が、いつものように鏡に映っている。学校では色々な事が起きたが、この家ではあの時から時間は止まったままだ。時間が止まると言っても、もちろんそれは表現の話。実際に私はこうして年を取り、素敵なレディーに変貌を遂げたわけだし。だけど、やっぱりこの家の時間は止まったままだと思う。
 鏡に映る私の姿。その背後に見える扉を一歩出れば、停滞した時が漂っている。
 あの時から、お母さんは虚空を見つめたままだ。私が何を話しても聞いてくれない。死んだ魚の目のように光を無くした瞳に、私の姿が映ることはない。
 お母さんが人らしいと思えるのは、寝る時だけだと思う。食事は自分で取る事が出来ず、私か使用人が食べさせてあげている。下の世話も、私か使用人で分担して行っていた。自分の意志を表に出すことはなく、話す事も、歩くこともない。ただ起きて、ボンヤリと壁を眺め、食事を取り、排泄をして、寝る。そんな生活を五年近く続けているが、母の心が戻ってくる兆しはない。
 家に帰ると、イヤでも現実を突きつけられる。この世の不条理と残酷さを、毎日目の当たりにする。いつのまにか、それが私の生活、人生の一部となっていた。
 心が折れそうな時、私は部屋の一角にあるガラスケースを見つめる。一昨年、クリスマスプレゼントに買って貰った、フィギュアなどを飾るコレクションケースだ。高さは二メートル、幅は四メートルの特別製だ。
 私自慢の一品が数多く展示されているが、コレクションを披露すべき友人も、同じ趣味を持つ知人もいない。ただ、一人でコレクションを眺め、頭の中で夢想する。満足とは言えないけれど、それで元気を貰うことが出来る。
 私にとって、ヒーローはやはりヒーローだ。どんな苦境にも負けず、敵にも負けない。何よりも、自分に負けない。私は、ヒーローにならなければいけない。そうすれば、きっと、お母さんも光を取り戻してくれる。悪によって奪われた、光を取り戻す事が出来るはずだ。
 だから、私は探偵の真似事を、いや、探偵をしている。
 鏡の前から立った私は、身を投げ出すようにしてベットに横たわった。枕元に置いてある携帯を手にして、電話帳を呼び出す。仲間とタイトルの付けられたフォルダを選ぶと、三名の名前が浮かび上がった。

 遠藤東光
 時雨アサギ
 珠洲真理

 私の仲間だ。来週の水曜日までに、この三名で事件を解決するのだ。学園の平和の為、部活存続の為、自分の為、何よりもお母さんの為に。
 私は携帯を置くと、目を閉じた。
 何度か深呼吸をして頭をクリアにする。
 四月十七日 木曜日。良く晴れた穏やかに日に、第二の事件が起きた。
 タイトルとを付けるとするなら、『御陵高校連続殴打事件・第二の被害者は陸上部の補欠、伊藤空太! 彼に日の当たる日は来るのか!』。こんな所だろうか。
 殴打事件のあらましはこうだ。
 部活の道具を取りに体育倉庫に向かった伊藤。彼が体育倉庫の中で道具を探していると、突然何者かに頭を殴られた。倒れる際、コンクリートの壁に頭をぶつけてしまい、出血をしてしまったようだ。
 出血はしたが、大した傷ではなかったようだ。意識はハッキリしていた為、近くにあったポールを手にして立ち上がったが、誰もいない。しかし、今度は横顔を見えない何かで叩かれ、転倒した。
 見えない何かが凶器を指すのだろうが、それ以前に、また見えない犯人が出てきた。伊藤は助けを呼びながら、体育倉庫の中を転げ回ったという。だが、執拗に伊藤は体を叩かれた。その証拠に、体中が痣だらけだった。幸いなことに、殴られたのは背中が多かった為、救急車は来たが伊藤は乗車を拒否。困る救急隊員を横目に、帰ってしまったようだ。
 精密検査を受けない伊藤も伊藤だが、帰してしまう教師も教師だ。真理の言う通り、学校として余り事を大げさにしたくないのだろう。
 アサギの映した動画には、中がグチャグチャになった体育倉庫が映し出されていた。竜巻が発生したかのような惨状は、伊藤が逃げる為に暴れた証拠だ。それほど、見えない何かを恐怖したのだろう。
 カメラは動き、周囲のギャラリーを映し出す。その中には、美術部の矢上雄平と、科学部の三木歌音の姿もあった。
「皆さ〜ん! こちらにお願いします! 一枚頂きます〜!」
 場違いな程明るい声を出しているのは、写真部の井上御津だ。運び出された跳び箱の上に乗った彼女は、集まった人達に向けてシャッターを切っていた。
「頂きました〜!」
 と言うお馴染みの声と、松下教諭の罵声が飛ぶのがほぼ同時。
「ウザイ」
 心の底から出たと思われるアサギの呟きを最後に、動画は終わっていた。
「見えない犯人って、そんなのアリか〜」
 私は溜息をつく。ミステリ小説などでは、きっと奇抜なトリックを使っているのだろうが、現実はそれほど甘くはない。どんな人間だろうが、見えない何かに殴られ続けるわけはないだろう。
 圧縮された空気を飛ばすにしても、あれほどの威力は出ないだろうし、そんな機材を誰かが見たという話も聞かない。なにより、傷は棒状のような物で殴打された打撲痕だという。
 幽霊、妖怪、それとも呪い? 色々な事が思い浮かぶが、どれも却下。きっと、私には分からない何かがあるのだ。
 真理は何も語らず、黙って動画を見て、東光の話を聞いていた。彼は自分なりの考えを持っているのだろうか。だとしたら、是非とも話を聞きたいものである。
 気がつくと、時刻は午前一時を回っていた。睡眠不足は美容の天敵だ。
「ライト、消えて!」
 私が叫ぶと、部屋中の明かりが消える。
 私はベットの中に潜り込むと目を閉じた。
 寝なければいけないのに、頭は冴えていた。
 寝れない、寝れない、そう思っているうちに、気がつくと私は眠っていたようだ。
 夢の中でお母さんが笑っていた。「杏子」と、呼ぶ声が聞こえたが、その声がどんな声だったか、覚えていない。
 お母さんがどんな声だったのか、私は忘れてしまった。
(つづく)
(初出:2012年11月)
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登録日:2012年11月29日 15時07分

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