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北見遼
著者:北見遼(きたみりょう)
夢と現をさまよいながら、文章を連ねるさすらいの文字使い。信州産、現在は神奈川で培養中のもやしっ子。活字と美術と歴史をこよなく愛する。治したいのは積読本をためる癖。
小説/SF

葬送のフーガ(1)

[連載 | 連載中 | 全17話] 目次へ
近未来。遺伝子異常のある子どもが生まれてくる確率は3割。大人のエゴによって抉られた心の傷。過去にとらわれた人々が綴る希望と再生の物語、第一話。
 レイ(一)

「ここに何て書いてあるか、読めますか?」
 精一杯冷静なふりをして、僕はその通知を突きつけた。
「うーん、難しくて読めないなあ」
 返ってきた答えには、誠実さや申し訳なさというものが完全に欠落していた。
「この国の識字率は百パーセントですよ! 読めないのは現実を直視する気力が欠けているからでしょう!」
 しかし、いくら僕が怒鳴ってみたところで効果はなかった。セリトさんはぼさぼさの頭を掻きむしりながら、起き出したばかりのベッドの上であくびをした。
「識字率なんて嫌な言葉を持ち出して人を問いつめるとは、ずいぶんヒネた子供になったものだな」
 ヒネたのは誰のせいですか、セリトさん。そう言い返したいところだったけれど、相手のペースにハマったら肝心の本題を忘れてしまう。そうならないよう気を引きしめ、僕は再び通知書をセリトさんの眼前にさらした。
「口座振替不能通知書ですよ! 通信費の! これで何回目だと思ってるんですか? 放っておいたら、また通信止められますよ!」
 先月はギリギリで銀行へ納めに行ったので間に合ったけれど、これまでに実際に通信を止められたことは何度もある。口座振替の契約をしていても、通帳に残高がなければ当然引き落としはできない。契約者であるセリトさんの預金残高は常に浮動していて、引き落とし日に残金が足りないことがしばしばなのだ。
「おかしい」
 通知書を眠そうな目でぼんやりと見つめながら、セリトさんは首を傾げた。
「今月はそんなに使った覚えはないぞ」
「……今月はそうでしょうよ。でも先月分のカードの引き落としが三日前にあったんです。それで残高が足りなくなったんですよ」
「そんな罠が!」
「何が罠ですか! だからあれほど口座にお金を移しておいてくださいと言ったじゃないですか!」
「うかつだったなあ」
「その通りです」
 僕がばっさりと切り捨てると、セリトさんは実に困った顔をした。
「いや、まあ、その通りなんだけど……しかし移そうにも懐が寒くてね」
「そう言うと思って、僕のアルバイト代から捻出してあります。残り半分はセリトさんが持ってくださいよ」
 僕は小さく溜息をつく。それが聞こえているのかどうか、セリトさんはぼさぼさの頭をさらにくしゃくしゃにしながら、苦笑いを浮かべた。
「相変わらずよく気がきくなあ。それならいい婿さんにも嫁さんにもなれるよ」
「どっちにもなりませんよ! そんなことより早く顔を洗って着替えてください。出かける前に洗濯と布団干しを済ませたいですから」
「ああ、愛しの布団と永の別れをしなければならないなんて。悲しみで胸が張り裂けそうだ」
「どうせ半日もすれば感動の再会ができますよ」
 そんなことよりさっさとベッドから降りろとばかりに、僕はセリトさんを半ば強引に洗面所へ押しやった。
 頭を掻きむしりながらよろよろと歩く後ろ姿を見送って、僕は今度こそ盛大な溜息を吐き出した。
 まったく、いい年をした大人がこんなことでいいのだろうか。セリトさんは今年で三十四歳になる。自ら明言したことはないけれど、何度か正式な書類で生年月日を目撃したので、間違いはない。それでも「四捨五入すれば三十歳」などと子供じみた発言をするのだから、呆れてしまう。きっと三十五歳になれば、「切り捨てれば三十歳」と言い張るに違いない。
 そんな中年間際の独身男、セリトさんの職業は自営業。実に小さな喫茶店を経営しているのだけど、その台所事情はご覧のありさま。通信費すらまともに払えないのだから、どうしようもない。通信が使えなくなったら営業なんてできないという常識が、セリトさんにはないのだろうか。
 いい年をして自活能力が限りなくゼロに近いセリトさんと同居しているのが、この僕である。両親を相次いで亡くした僕は、児童施設に入る代わりに遠縁の叔父にあたるセリトさんのところに引き取られた。
 というのも、どこの施設もいっぱいで、空きがないせいだった。近頃は育児を放棄する親も多く、全員を収容できる能力がないのだという。それに、身寄りがなくなった当時の僕はすでに十五歳で、庇護の必要な残り年数が少ないことも入所を断られた一因となった。
 それで何とか探し出して見つかった親戚が、セリトさんただ一人だったというわけだ。
 そして現在、僕は保護者の世話役を務めて――いや、努めているのである。
「ところでセリトさん、今日は休日ですよ」
 顔を洗って戻ってきたセリトさんに、僕はそう告げた。
「そうか、それはうかつだった。今からでも二度寝入りしてこないと」
 タオルに顔をうずめながら、いそいそと寝室に戻ろうとするセリトさんを僕は慌てて呼び止める。
「違いますよ! 何で自分の都合のいい方に解釈するんですか。今日は世間が休日だから稼ぎ時だってことですよ」
「どうして世間が休みなのに、汗水流して働かなくちゃいけないんだ」
「それがサービス業ってものでしょう! だいたいセリトさんが汗水なんて、いつ流しましたか!?」
「冷汗なら毎日かいてるけどなあ」
「それは経営がずさんだからです!」
 僕がきっぱり言いきると、セリトさんは嫌そうな顔でブーイングをしてみせた。いい年の癖に、本当に「ぶうぶう」と口にする人がどこにいるのだ。まったく、ダメ大人の典型と言えるだろう。
 何とかセリトさんのパジャマを剥ぎ取り、着替えさせ、朝食を食べさせたところで、ようやく店の一日が始まる。実に壮大で、無駄な労力の多い前奏曲だ。
 この店の名前は「白夜亭」という。しかし名前とは裏腹に、経費削減のため夕方には店を閉め、明かりを落とさなければならないのが現状である。それほど客入りが少ないのだ。時々学校をサボりに来る学生が、一番安い焙じ茶で何時間も粘ることはあるけれど、料理もなく、本当にお茶しか出さない茶屋では今後も増える見込みはないだろう。
 店内にぼんやりとした照明をつけ――もちろんこれも節約のためだが――カウンターとテーブルを拭き終わったところで、僕はおもむろに本を開いた。どうせ十時に開店したところで客が入るはずもないので、この程度のことは許されるはずだ。
 すると、いくらもしない内に、歯ブラシをくわえたままのセリトさんが後ろから僕の手元をひょいとのぞき込んできた。
「何だい、それは。学校のテキストか? 家庭科のテストでもあるのかい」
 本を読んでいるのを怠慢と咎められたわけではない。何しろ本人は歯みがき中という、この上なくだらしないスタイルなのだ。歯ブラシ片手に店へ出てくるなといつも言っているのに、もう。
「……料理の勉強ですよ」
 写真満載の本の中身を見られてしまっては、下手な言い訳もできない。漠然とした答えを返すと、セリトさんは眉をひそめた。
「これ以上、上達するつもりなのか? 私を太らせてどうする気なんだか……あ、まさか丸々肥えたところで食べようっていうんじゃないだろうな?」
「何で悪い魔女のようなことをしなくちゃならないんですか! これは専門学校の入試問題ですよ!」
「やっぱりそうか」
 気づいた時にはもう遅い。ハッと口をつぐんだ僕に、セリトさんはニヤリと笑ってみせた。でもそれは勝ち誇った笑みではなく、どこか寂しげな苦い笑みだった。
「担任の先生からこの前、話があったんだよ。レイ君は成績優秀だし、推薦も奨学金も充分に受ける資格がある。だから大学進学をもう一度考えてみないかってね」
 まったく、これだから大人は油断ができない。担任にしても、いったいいつの間にそんな話をセリトさんにしていたのだろう。僕の意思も無視して。
「僕がやりたいことは、何も大学へ行かなくても学べますよ。無駄なことに四年間も時間を費やすなんて、もったいないでしょう」
 専門学校なら、一年も通えば資格が取れる。そうすれば成人前に一人前になれるのだ。わざわざ奨学金をもらってまで四年も無駄にしたくない。僕はそう思っているのだが、
「レイ」
 至極まじめな顔で、セリトさんは僕の名を呼んだ。
「店のことは気にしなくていいと、いつも言ってるだろう。こんなもののために、おまえが進む道を曲げたりする必要はないんだ」
「曲げてなんていませんよ! だいたい、軽食一つも出せない喫茶店なんて、明日つぶれたっておかしくないんですよ? リラックスティーなんて、わざわざ飲みに来る人がどれだけいると思うんですか? 調理師を雇えないなら、僕がなれば済むじゃないですか。僕はこの店を閉めたくないんです。だから自分の思う通りに進路を決めてるのに、それがいけないんですか?」
 僕がそう言い返すと、セリトさんは大きく息を吐き出した。
「それがおまえの夢なのか」
「そうです」
 これ以上有無を言わせないよう、僕はきっぱりと答える。すると、セリトさんは伏し目がちに言葉をつむいだ。
「レイ。おまえはまだ世間に出たことがない。このまま高校を出て、すぐに資格を取って店を続けて――それでこの小さな世界にとどまり続けるのか? 私は感心できないね」
 その時、僕はさぞムッとした顔をしていただろう。いつだってダメ大人のダメダメ人生を謳歌しているくせに、こんな時だけまともな保護者ぶるなんて、ずるすぎる。
 ――どんな顔をすればいいか、わからなくなるじゃないか。
「外に出るばかりが人生でもないでしょう。地元に残って家業を継ぐ同級生だっていますよ。そういう人の選択も、セリトさんは否定するつもりなんですか?」
「い、いや、別にそういうわけじゃないが――……」
 切り返されて、セリトさんは明らかにうろたえた。中途半端な攻撃はできても防御は苦手なのだ、セリトさんは。
 本当は、こんな言い方をして困らせるつもりはなかった。だけど、こうして相手の反撃を封じたのは、本当の理由を悟られたくなかったからだ。
 僕はたとえ「小さな世界」と言われても、ここから離れたくないのだ。この辺には大学がないので、進学するとなれば今の家を出なければならない。しかし調理学校は通える範囲にあるので、家を離れなくても済む。
 今のままセリトさんを一人にすれば、休暇に里帰りした時には一体のミイラと遭遇することになるだろう。生活能力が根本的に欠けているので、その前に店ごと燃やして灰にしてしまっているかもしれない。
 たとえ完璧ではないにしろ三年間も保護者を務めてくれたのだから、その後の面倒を見るのは子の務めというものだろう。僕はそう思っているのだが、さすがにこんなことは当の本人や担任教師に話すわけにはいかない。そのせいで妙な誤解が生じ、「奨学金で大学へ」などという話が持ち上がるのだ。
 もちろん、料理の他にも興味を持っていることはあるけれど、ではその間の生活費をどうするのかという現実的な問題だってある。奨学金でまかなえるのは学費分だけだ。今でも僕のアルバイト代を合わせて食いつないでいるのに、大学どころの話ではないだろう。
「だがな、レイ。進路を決めるにはもう少し時間があるだろう? 焦って決めずにゆっくり考えたらどうなんだ」
 セリトさんはまだ食い下がる。いつになくしつこいな。普段は、ちょっと前に食べた食事の内容すら忘れてしまうのに。
「それに……おまえは進路より先に決めるべきことがあるだろう?」
 それは、できれば聞きたくない言葉だった。でも、たとえ目を背けていたとしても、必ずその日は訪れる――もう間近に迫っているのだ。僕の人生を決定する、十八歳の誕生日が。
「大事なことから目をそらすなよ、レイ」
 うつむいたままの僕の頭に、セリトさんはポンと手を置いた。
 ――この人は、どうしてこうなんだろう。
 最も言われたくない言葉を、最も温かな表情で告げるなんて。
 お蔭で僕は顔を上げることができなくなってしまう。どんな顔をして、何と言えばいいのかわからなくなる。
「……まさかとは思うが、提出用紙をなくしたなんてことは――」
「はあ?」
 セリトさんが妙な台詞を言いかけたその時、カランカランとドアベルが鳴った。センサーが反応する電子式ではなく、ドアの上にぶら下げたベルが鳴る、旧時代的なアナログ式だ。アンティーク趣味というより、経費削減という悲しい現実が、今日もベルを鳴らしている。
「い、いらっしゃいませ!」
 開店直後にお客様が入るなんて、何か月ぶりのことだろう。不意を突かれて、僕は一瞬どもってしまった。まったく、僕らしくもない失態だ。
「あ、あれ、ユノ?」
 急いで水とおしぼりを用意しようとしたところで、僕は動きを止めた。腰まで届く、長くまっすぐな黒髪は、紛れもなく見知った少女のものだった。
「失礼ね、あれじゃなくてお客様よ。あ、セリトさん、こんにちは。今日もおいしいお茶をよろしくね」
「なっ、何でおまえ、こんな朝っぱらからお茶なんて飲みに来てるんだよ?」
 腹を立てて言い返す僕を完全に無視して、ユノはセリトさんのほうに視線を向ける。そして注目を浴びたセリトさんはと言えば、
「ひらっひゃい、ユノひゃん」
 ダメ大人っぷりを充分に発揮していた。
「セリトさん、いつまで歯ブラシくわえてるんですか! 早く奥に引っ込んでくださいよ!」
 歯ブラシをくわえたままのセリトさんは、明瞭な言語を発することができなかった。まじめな話を終えたところで、再び歯みがきに取りかかったのだろう。しかも歯みがき粉をたっぷりつけすぎる癖のせいで、口の端から垂れそうになっている。子供か、まったく。
 みっともない大人の背中をぐいぐいと押してスタッフルームに追いやると、僕は水とおしぼりをつかんでユノの座るテーブルに向かった。
「いったい今日はどうしたんだ? 休日はいつも三時頃に来るだろう」
「営業中なら別にいつ来たっていいでしょう? 特に混んでるわけでもないんだし」
 しれっと答えるユノに、僕はおしぼりを投げつけたい衝動を理性で抑えた。どうせこの店はいつだってガラ空きだよ。
「……で、注文は?」
「白茶に少しハチミツを入れて」
「はいはい」
 どうにも客と店員の会話らしくないが、それも致し方ない。ユノは僕の同級生で、この店の数少ない常連なのだ。しかも僕のことはその辺の雑役夫くらいにしか思っておらず、セリトさん手ずから淹れるお茶しか飲む気がないと来ている。これでは温かな営業スマイルなど、振りまくだけ損というものだ。
 スタッフルームの洗面台でうがいをするセリトさんに注文を伝えると、口の周りに飛んだ歯みがき粉を拭いながら、セリトさんはようやく今日の営業活動を始めた。
「今日は白牡丹のお茶にしよう。ほんのり甘いから、ハチミツはちょっぴり少なめでね」
 この店はお茶の専門店だ。そして本当にお茶しか出さない。セリトさんの趣味により、コーヒーの類は一切閉め出されているのだ。その代わり、お茶なら結構な種類が取りそろえてある。そして売り文句である「リラックスティー」の名の通り、お客様を心身ともに癒せるようなお茶を店主が手ずから淹れるのだ。
 そんな店を訪れる物好きは滅多にいないが、ユノはその変わり者の一人である。
「わたしね、セリトさんがお茶を淹れるところを見るのが好きなの」
 ユノはテーブルに頬杖をついて、下からのぞき込むようにセリトさんの動作を見つめる。
 温めたポットからお茶を注ぐ手を少し止めて、セリトさんはかすかに笑んだ。
「ありがとう、張り合いがあるよ」
 確かに、ユノの気持ちはよくわかる。僕もセリトさんがお茶を淹れる姿だけは、普段のダメ大人っぷりも忘れて、思わず見入ってしまうほどなのだ。
 ブラインドの隙間から差し込む陽光が、セリトさんに幾筋も降り注ぐ。子供のようにつややかな髪は白銀に染まり、ガラスのポットを持つ手は血の色まで透けて見えそうなほど白く映える。
 実のところ、セリトさんには色素というものが欠落している。いわゆる白子(アルビノ)という種類の人間なのだ。だから白銀に輝く手から黄金色の液体を注ぐ姿は、まるでこの世のものとは思えないような、異様な空気をかもし出すのだ。
 そのことをよく知っているからこそ、ユノはたいてい三時頃に現れる。この店にわずかに入る陽光が最も濃くなる時を見て、最も綺麗に差し込む角度を選んでテーブルにつく。
 アルビノにとって、陽光は毒になる。だから常にブラインドと遮光シールで窓からの紫外線をカットしているのだが、それでも光は洩れてくる。その「おこぼれ」が降り注ぐのを狙って、ユノは現れるのだ。
 光に付き従う影のように。白い姿のセリトさんの元へ、長い黒髪を揺らしてユノはふらりとやってくる。
 そのはずなのに、今日のユノはなぜ早い時刻に訪れたのだろうか。やや西向きのこの店には、まだ陽光は薄くしか入ってこない。
「今日のお茶も本当においしいわ、セリトさん。あとね、何かこれに合うお茶菓子があれば最高なんだけど」
 カップの中身を半分ほど空けたところで、ユノはやや上目遣いにおねだりをした。
「わかったよ。ユノちゃんのお願いだから、聞かないわけにはいかないからね。今、探してくるからちょっと待っててね」
 ものぐさなセリトさんでも、常連のユノの頼みとあっては働かざるを得ない。すぐに踵を返して、セリトさんはお茶菓子を探す旅に出た。戸棚の奥にしまわれたクッキーでも出すつもりなのだろう。
 確か、茶葉と一緒に専門店から先日仕入れた、アールグレイで風味をつけたクッキーがあったはずだ。セリトさんがつまみ食いをしていなければ、まだ残っているだろう。
 セリトさんがカウンターの奥へ姿を消すのを見送ると、ユノは僕のほうに向き直った。
「ねえ、レイ。あなた、大学の推薦の話を断ったって本当?」
 唐突な質問に、僕は思わずのけぞってしまった。いったいどういう風の吹き回しなのだろう。ユノが僕に興味を示したことは一度だってなかったはずなのに。
「ど、どうしたんだよ、いきなり」
「だって、先生がわたしに言ってくるんだもの。レイが推薦を蹴ったのはなぜか、訊いてみてくれって」
 担任はどういうつもりなのだろう。保護者のセリトさんはまだいい。だけど無関係なユノにまで僕の進路を尋ねさせるのは、ちょっと度を越している。
「理由ならもう説明してあるよ。僕がユノに改めて言うようなことは特にない」
「じゃあそう言っておくわよ。でも、先生はあきらめる様子じゃなかったけどね」
「あきらめてくれないかなあ」
 僕が自分の進路を決めることに対し、担任はどうしてそこまで干渉してくるのだろうか。
 いや、正直に言うと思い当たる節は一つある。僕が進路希望を提出する前、まだ受験生と呼ばれない頃に、ある専門分野について質問をしたことがあったのだ。それを研究するにはどこで学べば良いのかと。恐らく担任はそのことをしつこく覚えていて、僕が研究とは無関係な調理学校に進むことを、何とか阻止しようとしているのだろう。はた迷惑な人だ。
「お待たせ、ユノちゃん。こんなのでお口に合うかな」
 「こんなの」はないでしょう、セリトさん。戻ってきたセリトさんに、僕は心の中で抗議をする。
 やはりセリトさんが持ってきたのは、先日のアールグレイクッキーだった。もともと本当にお茶しか出さない店なので、売り物のお菓子というものは普段から用意していないのだ。ユノに対するサービスは特別である。ちなみに、このクッキーは結構高かった。
 セリトさんの白い手で差し出された皿から、ユノはゆるやかな動作でクッキーをつまんだ。本当に、口さえきかなければ本物のお嬢様らしいと思うのだけど。深窓の令嬢にしては、ずけずけと物を言うところがユノの特性なのである。
「ところでユノちゃん、これから旅行にでも行くつもりかい? ただのお出かけにしてはだいぶ大荷物のようだけど」
 セリトさんの指摘で、僕はようやく気がついた。ユノの隣の椅子には、なぜかボストンバッグが置かれていたのだ。やや小ぶりだが、市内の買い物程度では絶対に持ち歩かないようなサイズである。こげ茶の椅子と同系色だったせいで、うっかり見落としてしまったらしい。
「いいえ、旅行じゃないわ」
 ユノはきっぱりと答え、そして付け足した。
「わたし、家出してきたの。ひとまずここに置いてもらえないかしら」
 どこから突っ込むべきなのだろうかと、僕はしばし考えた。
 なぜ家出なんかしたのか?
 なぜここを家出先に選んだのか?
 確かにユノとは同級生だけど、他にもっと親しい友達だっているんじゃないだろうか。
「ご両親にはちゃんと話してあるのかい?」
「ちょっとセリトさん! 話したら家出じゃないでしょう!」
 これには即座に突っ込まざるを得なかった。セリトさんの感覚は時折ずれていて、突拍子もないことを言い出したりするのだ。
「いきなり勝手なことを言ってるのはわかってるわ……だけどわたし、他に行くところがないの」
 じゃあ帰ればいいじゃないか。
 そう言いたかったけれど、言えるような雰囲気ではなかった。セリトさんは、いつになく真剣な表情で聞き入っている。
「ご両親のことはわかったけど……じゃあ、君の婚約者には伝えなくてもいいのかい?」
「――絶対に言わないで」
 お願い、とユノは念を押した。そして押し切られたセリトさんは、結局首を縦に振ることになったのだ。
「ありがとう、セリトさん」
 安堵の息をついて、ユノはようやく表情をほころばせた。緊張のほぐれた笑顔を、惜しみもなくセリトさんに向ける。
 僕にとっては何だか面白くない展開だ。僕だってこの家の住人なのに、ユノは完全に僕の存在を無視している。お願いをするなら、僕にも一言くらい意見を求めるべきではないだろうか。……いや、確かに僕も居候の身ではあるのだけれど。
「なあユノ。おまえさ、婚約者と喧嘩したんだろう」
 僕は悔しまぎれの台詞をぶつけてみた。てっきり怒声が返ってくるだろうと予想していたが、結果は違った。
「喧嘩できればまだ良かったんだけどね」
 それだけ言うと、ユノはボストンバッグを抱え、セリトさんに教えられた客間のほうへ向かっていった。
(つづく)
(初出:2015年06月11日)
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登録日:2015年06月11日 20時37分
タグ : 近未来 遺伝子

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